連載エッセイ247:設楽知靖『DID DE COLON』から『DIA DEL ENCUENTRO』へ - 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

連載エッセイ247:設楽知靖『DID DE COLON』から『DIA DEL ENCUENTRO』へ


連載エッセイ244

『DIA DE COLON』から『DIA DEL ENCUENTRO』へ

=イベリア半島にも『共生』があり、アンデスにも『互酬の精神』が、何故それが継続できなかったか=(歴史の正しい認識と教訓)

>執筆者:設楽知靖(元千代田化工建設、元ユニコインターナショナル)

G7とG20が5月21日に終了した。広島の平和公園には、“過ちは繰り返しませぬから〟の碑がある。イベリア半島から新世界(アメリカ大陸)へ進出したスペインやポルトガルは『世界史』の中で、その歴史を語るうえで、イベリア半島側(旧世界)から、ほぼ一方的に記録されていた。従って、1492年にスペインのカトリック両王{イサベル女王とフェルナンド王}とクリストバル・コロン(コロンブス)との間の協定によって、コロンブスは〟西への遠征航海に出て,今日のバハマ諸島のグアファニー島(サン・サルバドール島)に到達し、その後、エスパニョーラ島のサント・ドミンゴに拠点を設置したのが1492年10月12日と言われている。

そして、この日が『新大陸発見記念日(コロンブス・デー)と旧世界側の歴史に記録された。すなわち、『DIA DE COLON 』とされ、新大陸の主な国にはコロンブスの像が設置されていた。それから長い時間を経過して、新大陸側の研究者が育つことにより、イベリア半島からの侵入者(征服者:コンキㇲタドール)が『何をしたか』、そのときに『新世界の先住民はどうしたか』と言う歴史上の事実が、徐々に明らかにされてきた結果、その一部として、イベリア半島のスペイン社会と新世界のアンデスのインカ社会について、その社会制度を検証し、変化に歴史から、本当は両世界(大陸)の出会い『ENCUENTRO』はどのように展開していったのかを、その特異な制度の言葉を交えて、検証してみたい。

西暦711年のイベリア半島の動向

セファラ―ドと呼ばれていたイベリア半島とユダヤ人との関係は古い。彼らは半島の最初の移住者とされている。紀元後、ローマ帝国によるイベリアのほとんどが統治下におかれ、ラテン的世界の中、ユダヤ人としての自己認識は確立されていた。

やがて、ゲルマン民族である西トーゴ族の支配がはじまると、ユダヤ人に対する抑圧的政策が強化されるとキリスト教徒との交流が制限され、7世紀に入ると、キリスト教への強制的な改宗が強いられた。そして、彼らは解放者として東方世界のイスラム勢力に期待するようになる。やがて、711年、イスラム教徒がイベリア半島に侵入し北西部山岳以外の広大な土地を領域として制圧した。1391年には『ボクロム』と称するキリスト教民衆によるユダヤ人居住区への破壊活動も起きた。

イベリア半島空間の『共生』

イスラム勢力は軍事的には過激であったが、原則として異宗教を排除することはなかった。その後、7世紀以上に及ぶキリスト教、ユダヤ教、イスラム教という『三大宗教』に奉ずる人々がイベリア半島と言う,ひとつの空間と『共生』という特異な形態が生み出された。

共生できたのは、アブラハムの一神教を奉じ,聖書を持つ『啓典の民』として庇護される

『ズイミー』と規定されたことによる。イスラム王朝はコルドバに首都を置く体制を確立。これに対して、西ゴート支配の抑圧から自由を享受したユダヤ人はバクダードから流入した文化を吸収する触媒の役割となって、トレドはアラビア語文献をカステリャーノ語に翻訳するセンターの役を果たし、キリスト教徒がラテン語に訳すことで、12世紀のルネサンス運動へ、やがて、レコンキスタ運動(Reconquista)が強化される13世紀へと結びつくこととなる。

レコンキスタ(再征服)運動の進展の結果として

キリスト教世界に包摂されたユダヤ人;ムスレムの置かれた状況を伝える『七部法典』24条にユダヤ人については、”モーゼの律法“を守る存在として定義され、神の民として栄誉を与えられていたが、キリストを死に追いやったとして、名誉と特権を失い流浪の民とな

ったとされ、レコンキスタが宗教戦争の様相を強くするとイスラム教~キリスト教~ユダヤ教の間を『改宗』を通して行き来することが起きた。14世紀,セビ―リャの、“ポグロム”を契機として、異文化とのかかわり方は『対話』から『強制力の行使』へと向かい、多くのユダヤ人がキリスト教に改宗し、『コンベルソ』と呼ばれるようになった、そして、ユダヤ人社会に亀裂が持たらした。

コンベルソは国家、都市、教会などの公職に進出して、目覚ましい活躍をするようになった。その後、旧キリスト教指導者は『判決法規』という制度を設けて、『宗教』から『血統』へと変質させ、公職からコンベルソを排除して、『血の純潔』という概念で、異文化排除の思想はイベリア半島を被ってくることとなり、『共生』は終焉を迎えることとなった。また、『フザイサンテ』と言う、隠れユダヤ教徒という言葉も生まれた。

1492年1月、カトリック両王、グラナダ無血入城、レコンキスタ完了

1469年、イサベル女王(カスティーリャ王国)とフェルナンド王{アラゴン王国)が結婚し、カトリック両王として14世紀後半以降進められてきた王権強化政策のひとつの到達点となった。そして、イスラム最後の王,ボアブティルから、アルハンブラ宮殿の鍵をわたされ、レコンキスタ(再征服運動)は終えた、やがて、アンダルシアを中心に宗教的に“浄化派”の勢いが増して、ユダヤ人の追放がなされるようになった。そして、コロンブスがスペイン王室との協定により、西への航海を実現して新世界を目指すこととなった。

~~~~“いよいよ新世界への探訪が進行~~~~~~

1400年、アンデス社会:インカ帝国、アンデス全域に拡大

インカ王朝は第13代アタワルパ王まで続いたとされるが、第1代マンコ・カパックから第7代ヤワル・ワカックまでは疑問視されている。資料や学説では、第8代ビラコチヤ、第9代パチャクティ、第10代トツパック・インカ・ユパンキ、第11代ワイナ・カパック、

第12代ワスカル、そして、アタワルパまでは実在とされている。インカ帝国、正式には、タワンティイン・スーユ(東西南北を表す)と言われ,今日のエクアドルからチリ―の北三分の一までの7000キロメートルに及ぶアンデス山脈を領有していたとされ、周辺民族を平定したが、今の主要な民族はケチュア族とアイマラ族のようである。

生態的・地理的アンデス社会

高低差、0~5000メートルの地形を垂直型と水平型に区分して生産物、家畜の飼育を適正化して基本的には『互酬精神』により帝国組織を作り上げていた。インカ王は、『太陽神』を崇拝することを基本として、同時に『祖先神』として遺骸崇拝を重んじていた。王家(パナカ)とその従僕(ヤナコーナ)がその任に当たり、祖先神(ミイラ:ケチュア語でマルキ)を館に祭った。

インカ社会における各種組織の名称

多様な生態系形式で、同等の労働を交換することを基本とするアンデス社会では、独特の言葉が使われていた。血縁的親族集団(共同体)を『アイユ』と言い、それをまとめる長は、『クラカ』(首長)がいて、全国にこの集団があって、それらの飛び地的なところには、植民者として移住した『ミティマエス』が存在した。これらアイユでは、祖先神としてマルキが祀られていた。全体のアイユの統括として王がいてパナカが王親族として王領地で遺骸と共に生活し、ヤナコーナが支えていた。このとき、スペイン人は“首の赤い人間”、ケチュア語で『ブカクンガス』と呼ばれていたようである。

コンキスタド―ル(征服者)到来後、植民地展開の各種政策

これら植民地政策にかかる用語の中で、徐々に先住民(インディヘナ)を服従させ支配してゆく征服者のスペイン本国との間の具体的な姿が読み取れてくるのではないか。また、

強調できることは 征服者たちは、アンデス地域外から家畜として、馬、牛、羊、豚、鶏などを持ち込んだが、アンデス文化のインカ社会からは歴代の組織等を無視して、インディヘナに重労働『ミタ』を強要して、金、銀、などの鉱物卯資源を持ち去り、今日の地球的農産物である地域原産のジャガイモ、トウモロコシ、トマト、カボチャ、唐辛子、綿花、木材、グアノ等を持ち出した。

植民地政策のなかで、スペイン王権は本国からの一方的な政策で、植民地へ渡ったイベリア半島の三大宗教の改宗者の活発な活動も注目される。スペイン本国からの『エンコミエンダ』(委託)制度により、植民地へ渡った人々はインディヘナを酷使して鉱山開発、農業生産活動を行った。これらのインディヘナ酷使の植民地政策に反対して、インディヘナ社会とスペイン人社会を分離する政策を主張したのが、ラス・カサス神父であった。植民地へ渡った植民者の中には、『モリスコ』(改宗イスラム教徒)や『ナシオン』(ポルトガル同郷者集団)、『フダイサンテ』(隠れユダヤ教徒)などがおり、知識と財でスペイン本国政策を活用、応用して植民地で財を成した。都市での商業活動や銀貨の通商活用などにも活路を開いていた。

スペイン本国の政策による、植民地への締め付け

パナマを拠点として、フランシスコ・ピサロとアルマグロはアンデスのカハマルカでインカ王アタワルパを捕らえて処刑してインカ帝国を征服、その後植民地政策が開始されるが、その初期の段階では、ピサロとアルマグロの対立、インカ王族の抵抗とアンデス社会は混乱した。ピサロとアルマグロがいなくなった後、『異端審問』制度による改宗者の捜索,副王の活動、『コレヒドール』{代官}の設置などを通して、植民地政策が実施されてゆくが、スペイン本国では、王政がハプスブルゲ家からブルボン家に代わり、本国の負債を改善するために植民地への圧力が増し、『アルカパーラ』(消費税)増税、『レパルティミイエント』{商品強制分配制度}など、いわゆる”ブルボン改革“が次々に打ち出されるが、植民地側の実権を握る副王、コレヒドール、エンコメンドール(委託者)の間の対立、あるいは結託、など、利害あるいは私利を肥やす問題などが次々と起こり、これらはアンデス社会のインディヘナを直接、締め付けるものとなった。

他方、イベリア半島に押し寄せた、ナポレオンは、スペイン本国の王権を廃位させたため、この隙に、植民地では、クリオーリョ(植民地生まれの白人)による独立運動がおこり、アンデス社会はシモン・ボリーバル(ベネズエラ生まれのクリオーリョ)の独立宣言となった。

このように、『インカ社会』とイベリア半島『スペイン社会』は『話し合い』と『共生』の社会は継続できず、ラス・カサス神父の思想も裏切られて、インカの三原則『盗まない』、『嘘をつかない』、『怠けない』は『侵略』という言葉で消されてしまったように思われる。

この大陸は、『DIA DE COLON』から『ENCUENTRO 』に歴史認識として変化したが、格差は解決されていない。

中南米諸国では、いろいろな言葉で、『出会い』が表現されている。例えば,『El Dia del

Encuentro de Dos Munndos』、『El Dia de la Raza』、『el Dia del Encuentro de Culturas 』,『Dia de Respeto de la Diversidad Clutural』,『Resistencia Indigena』スペインでは、『Dia de Hispanidad』と言われる。

今日の世界では、あらゆる地域で国境を越えた複雑な問題が山積しており、イベリア半島の歴史から、新世界への歴史の流れを検証し、人間の繰り返す姿を見たい。

以上。

(資料)
1)興亡の世界(12)『インカとスペイン・帝国の交錯』、網野徹載著、講談社 2008.5.19.
2)『大邸宅と奴隷小屋』(上下)、ジルベルト・フレイレ著、鈴木茂訳、日本経済評論社、2005.3.10.
3)『リャマとアルパカ』先住民社会と牧畜文化、稲村哲也著、花伝社1995.6月
4)『ラス・カサス伝』染田秀藤著
5)朝日新聞、2023.5.22