浦部 浩之(獨協大学教授)
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日本とラテンアメリカの交流史 ―その始まりから第二次世界大戦まで― 浦部 浩之(獨協大学 教授)
日本とラテンアメリカの交流の始まり
日本とラテンアメリカの交流は400年以上の歴史をもつ。最初の外交的な接点は、1609年(慶長14年)、房総半島の沖合でメキシコ船の海難事故をきっかけに生まれた。当時スペインはメキシコやフィリピンを植民地として領有し、メキシコ太平洋岸のアカプルコとマニラとの間にガレオン船という帆船による交易路を開設していた。その帆船の1隻でフィリピン総督のドン・ロドリゴも乗り合わせていたサンフランシスコ号が嵐のために難破し、岩和田村(現在の千葉県夷隅郡御宿町)の村民が乗船者317人を救出するとの出来事があった。その後、ドン・ロドリゴは徳川家康に謁見し、家康は一行が帰郷するための帆船を提供することになったのである。
こうして日本と現メキシコの交流が始まり、家康の命を受けた田中勝介が1610年、ドン・ロドリゴらの帰郷船に同乗してアカプルコに渡航した。勝介は翌1611年、スペイン国王フェリペ3世の親書を携えた答礼使ビスカイノとともに帰国し、史上初めて太平洋を往復した日本人となった。続いて1613年には、スペインとの貿易交渉を望んだ仙台藩藩主の伊達政宗が、支倉常長らを慶長遣欧使節として派遣した。常長らは翌1614年にアカプルコに到着しメキシコに滞在、その後メキシコ湾岸側のベラクルスから海路でスペインに向かい、その途上でキューバのハバナにも寄港した。
ただこうして芽生えた交流も、1639年に始まる鎖国でその後200年以上にわたり途絶えてしまうことになった。
近代国家としての再会
日本とラテンアメリカとの交流は、一つの事件を契機にやや偶発的に再開されることになった。1872年(明治5年)、ペルーに向かっていた同国籍のマリア・ルス号が横浜の港に停泊中、中国(清国)人出稼ぎ労働者の苦力(クーリー)が奴隷的な扱いに耐えかねて脱走するとの事件が発生した。対応を迫られた日本は全員の解放を命じるが、ペルー側はこれに納得せず、