山内 弘志(在アルゼンチン大使)
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日本アルゼンチン外交関係125年の歩みと展望 ―新しい関係の構築を目指して 山内 弘志(在アルゼンチン大使)
はじめに
ノーベル経済学賞受賞者のクズネッツは、「世界には4種類の国がある。先進国、発展途上国、日本とアルゼンチンだ」と述べたとされる。しばしば引用されるこの発言は、アルゼンチン人が、自国の停滞を述べる際に、皮肉として登場することが多いが、日本を自身の対極にある国であると考えていることの反映であるとも考えられる。
アルゼンチン人と話していると、日本への期待が高いことが印象的である。「100万人の日本人が移住してくれれば、アルゼンチンの問題はすべて解決するだろう」というとある要人の発言は、アルゼンチン人が持っている日本への信頼感の反映とも言える。
本稿では、今年(2023年)125周年を迎えた両国関係の歴史を振り返り、現状と今年の選挙についても言及したい。
二国間関係の始まり -安全保障上の必要性
1898年に署名に至った両国間の修好通商航海条約は、日本にとってはラテンアメリカ(中南米)ではメキシコ、ペルー、ブラジルに次ぐものとなる。日本にとっては不平等条約から脱することは最重要課題であり、メキシコで平等条約締結に成功して以来、同様の条約を広げることは必要だった。当時移住先としても中南米への注目が高まっていたほか、富国強兵政策もあり、軍拡競争を繰り広げていた南米の海軍力も注目されていた。
修好通商航海条約締結前も日本は軍艦購入をアルゼンチン、チリと交渉していた。日本にとって海軍力の強化は安全保障上の死活的課題であったが、チリとの間で海軍軍縮が合意されていたアルゼンチンは、イタリアに発注していた軍艦2隻を売却する意向を固めていた。ロシアとの競合となった軍艦2隻の購入が実現したのは修好通商航海条約が締結されていたことに加えて、支払条件や仲介していた英国の会社の意向もあったかもしれないが、当時のアルゼンチンの海軍大臣が親日的であったこともあるだろう。軍艦「日進」、「春日」は日露戦争以降も長年活躍する。
なお、この時期のアルゼンチンは1900~13年まで外国貿易の黒字にも支えられ、安定成長を謳歌していた。1901~09年までは7%以上のGNP成長があり、ブエノスアイレスの美しい建物にはこの時期に建築されたものも多い。アルゼンチンの富は1913年には世界10位であったとの推計もある。
さらに、第一次世界大戦の結果、欧州の代替貿易相手国としての日本の地位が高まった。日本がアルゼンチンの貿易全体に占める割合は低いが、南米全体の中における割合は高まり、1918年には邦銀が支店を開設し、公使館と領事館が設置される等関係は進展した。
人の絆 -日本からの移民とアルゼンチンの支援
日本は安全保障上の事情からアルゼンチンに注目したが、アルゼンチン側の関心は高くなかった。むしろ、アジアからの移民の受け入れについては消極的ですらあった。アルゼンチン側が欧州からの移民を選好していたこともあるが、日本側としても米国で起こったような排日運動を警戒して自制していたとされる。
しかし1922年の視察団がアルベアール大統領から農業移住者を誘致したいとの申し出を受けたことからも明らかなように、アルゼンチン側の状況にも変化が生じていた。その後、1930年に再び制限に転ずるまで、移民数はブラジル並みの水準に高まった。アルベアール大統領は親日家として知られ、関東大震