連載エッセイ262:六角みよ子「メキシコとの関わり、そしてモレロス州出版の本を翻訳」 - 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

連載エッセイ262:六角みよ子「メキシコとの関わり、そしてモレロス州出版の本を翻訳」


連載エッセイ 259

「メキシコとの関わり そしてモレロス州出版の本を翻訳」

執筆者 六角みよ子(「箕面市ハット市友好クラブ」副会長 大阪府箕面市在住)

はじめに
当エッセイでは、国際友好都市である大阪府箕面(みのお)市とメキシコのクエルナバカ市が、市民団体と共に地域に立地する大学と、過去から現在に続く協働による文化的事業を展開していること等について述べる。そしてクエルナバカ市と国際友好都市の箕面市、並びにクエルナバカ市と姉妹都市の千葉県大多喜町、この二つの地方行政間の繋がりの始まりを紹介する。大多喜町は江戸時代に、当時スペイン領フィリピン諸島の臨時総督のメキシコ人ドン・ロドリゴ・デ・ビベロ・イ・アベルーサを乗せたフィリピン船が遭難した時、大多喜藩第2代藩主の本多忠朝が、難破した一行を援助したことで知られている。またメキシコとの関わりを通し、「モレロス州出版本原書」との出会いから翻訳への経緯、そして出版への希望も述べさせていただく。

大阪府箕面市の国際交流と地域の国立大学の今昔

思い起こせば、1983(昭和58)年当時「箕面市国際交流友の会」が実施のホストフアミリー事業に、ホストファミリーとして参加協力していた。世界各国から、日本の文部省が招く国費留学生が当時の大阪外国語大学に来ており、半年間の日本語研修終了後に各大学や研究所に行くのであるが箕面市国際交流友の会が、その留学生にホストファミリーをマッチングさせる仲介を行っていた。後にこの国際交流友の会は「箕面市国際交流協会」へと名称は変わった。

我が家が最初に受け入れた留学生は、パキスタンの農林省官僚であり神戸大学大学院で博士号修得を目標としていた。彼の理解する言語は英語であった。その後、イラン、スペイン、メキシコ、ニカラグア、アルゼンチン、パラグアイ、ボリビアなどからの留学生を受け入れていた。ホストファミリーと言っても、ステイさせるのではなく、ビジット(訪問)だけの簡単なホストファミリーであった。それ以外にも我が家になついているペルー人、イギリス人、アメリカ人、フランス人などの留学生も招いてホームパーティーを時々行っていた。

また日本文化紹介でお茶会に誘ったりもしていた。その頃の留学生は全て大学院や研究所、病院などで研鑽を積む人たちであった。この中でメキシコからの留学生は6名に及び、その内の一人は家族と一緒に来ており、子どもの予防接種の相談を受けたり、日本で第3子が生まれ、お祝いに京都まで駆けつけたりもした(当留学生は京都大学大学院農学部に在籍であった)。それはさておき、メキシコの文化や音楽、タコスにテキーラ、まるで当時の我が家にはメキシコブームが沸き起こるような気配であった。 我が家にとって「メキシコとは親戚のような国」、と言っても過言ではない。

筆者は、1998(平成10)年からは夫の転勤に伴い東京住まいとなった。長年にわたって箕面を離れていた。後述の「箕面メキシコ友の会」の設立は、筆者が箕面の住人ではない時期のことである。また、大阪外国語大学は、2007(平成19)年に大阪大学と統合されて外国語学部になった。

それ以来大阪大学としては、モレロス州自治大学の箕面研修生を受け入れてない。2020(令和2)年に大阪大学外国語学部は、箕面市粟生間谷東地区から箕面市船場東地区に移転し、学舎は10階建てのビルになった。現在は産・官・学・民(地域住民)が一体となってイベントを開催する傾向が見られる中、時代の流れに沿い、箕面市やNPO各団体は大阪大学の夏祭りや各種行事に参画している。箕面市国際交流協会のホストファミリー事業も大阪大学への留学生に向けて継続されている。

国際友好都市として大阪府箕面市とモレロス州・クエルナバカ市の関係

大阪府箕面市は、1992(平成4)年よりメキシコのモレロス州クエルナバカ市と学術文化関係を促進する交流を行っており、モレロス州自治大学の学生を受け入れ、日本語・日本文化の習得を支援してきている。この交流は、現モレロス州自治大学深原稔名誉教授の貢献により開始し、尚も継続している事業である。ホームステイや文化交流など市民との交流を通して、友好親善、相互理解を促進している。筆者が趣味として始めた拙いスペイン語で、モレロス州自治大学からの学生に日本文化の紹介の一端として、演奏を含む邦楽・琴について簡単な説明をさせていただいたことがある。2022(令和4)年11月には、「モレロス州自治大学の学生受け入れ30周年式典」がYou
Tube配信で行われた。

一方、モレロス州自治大学が所在するクエルナバカ市では、箕面研修修了生が1993(平成5)年に「箕面クラブ」を結成している。また、箕面市でもホストファミリーが中心となって、2000(平成12)年に「箕面メキシコ友の会」を結成した。このような背景から更なる友好親善関係の構築を目指し、2003(平成15)年には両市間で国際友好都市提携が盟約された。初回以来ずっと継続の箕面研修は、世界的なコロナパンデミックにより3年間閉ざされていたが、4年振りに2023(令和5)年の今秋から再開である。

大阪府箕面市と千葉県大多喜町との繋がり(箕面メキシコ友の会からの情報

箕面市と大多喜町は、メキシコ・クエルナバカ市との関係で、前者は国際友好都市であり、後者は姉妹都市である。そこで今秋(2023年)から新たな関係が始まりかける。本年10月、クエルナバカ市に立地するモレロス州自治大学箕面研修生が箕面訪問の前に、大多喜町が下記の日程で一行をイベントに招待する。

2023(令和5)年大多喜町の受け入れプログラム

10月7日: 
大多喜町役場中庁舎ホールで開催の「記念写真展見学」(戦国イラスト甲冑展、千葉県誕生150周年歴展、大多喜町とメキシコ合衆国との交流歴史展)。
大多喜城ゴルフ倶楽部パーティー会場での「姉妹都市提携45周年記念式典」。
大多喜城下での「大多喜お城まつり前夜祭」。

10月8日: 
大多喜町中央公民館での国際交流協会主催 「駐日メキシコ合衆国大使館職員との交流パーティー」。大多喜お城祭り会場での「大多喜お城まつり」。

その他、滞在中空き時間を利用し、大多喜町とメキシコ合衆国との姉妹都市交流の契機となった史実(ドン・ロドリーゴ一行への海難救助から帰国までの援助)に関する祈念場所「(御宿町:岩和田海岸、日西墨三国交通発祥祈念之碑)(大多喜町:大多喜城、友好記念碑)」を案内することを大多喜町は計画している。

2023(令和5)年秋期箕面市受け入れ体制と国際友好都市20周年祈念式典

10月9日~29日
モレロス州自治大学生 箕面市内に滞在/日本語・日本文化を研修(詳細プログラムは割愛)。

10月14日 
箕面市クエルナバカ市国際友好都市20周年記念式典/Zoom。

10月27日~11月5日
クエルナバカ市民団(チネルマ)来日

10月30日
クエルナバカ市民団(チネルマ)箕面市訪問(詳細プログラムは割愛)

クエルナバカ市と国際友好都市としての箕面市と、姉妹都市としての大多喜町は、横の繋がりが始まりかけ、当該両地方行政はモレロス州自治大学生の受け入れをハートフルに企画している。箕面市と大多喜町の関係は、モレロス州が出版の「モレロス州での日本人 友好の証」の中で、大多喜町は『大多喜町とクエルナバカ二つの姉妹都市の出会い』を、箕面市は『深原稔先生と箕面への研修奨学生の文化的痕跡』を書かれているので、発端の事由は異なっているものの、クエルナバカ市との交流に関して共通項がある。往時の事象を偲ぶため、兼々大多喜町を訪ねてみたいと思っていたので、10月7日、8日、メキシコ友の会の方々と共に筆者も大多喜町を訪問の予定である。

クエルナバカ市民団(チネルマ)の来日・箕面市訪問

本年(2023)10月30日、クエルナバカ市民訪問団・チネルマ(元箕面奨学研修生を含む一団)が、8回目の箕面市訪問をする。その後、箕面市内の勝尾寺を参詣し、後日の行程で奈良、京都、神戸、広島、等を訪問予定である。チネルマとは、旧大阪外国語大学とモレロス州自治大学の学生交流から生まれたグループであり、今回も広島訪問は、クエルナバカ市で平和運動展開のためにも必須の日程項目となっている。チネルマ代表の活動を下段で紹介する。

クエルナバカ市民団・チネルマ代表過去10年間の活動実績

  • クエルナバカ市民訪問団箕面市訪問コーディネート。
  • 広島平和記念資料館に関する写真展開催。
  • 第4回日系人大会(クエルナバカ市で2018年に開催)での学術的協力。
  • 無形文化遺産に関する国際会議で学術的協力(UNAM―UNESCO、2018年)。
  • Los Japoneses en Morelos Testimonios de una
    Amistad
     (モレロス州での日本人 友好の証)」の中の章、『深原稔先生と箕面への研修奨学生の文化的痕跡』を担当執筆。
  • モレロス州クエルナバカ市―大阪府箕面市において文化交流に関する国内外の講演実施。
  • 平和首長会議プロジェクトに参加:平和のメッセージを発信、世界平和のための署名を集積。平和啓発のため、ホロコーストや第二次世界大戦に関する講演や展覧会を開催。

*クエルナバカ市民団の世界平和運動は、SDGsを担う活動である。

メキシコ・モレロス州が出版の本とは

クエルナバカを州都とするモレロス州が2018(平成30)年に、「Los Japoneses en Morelos Testimonios de una Amistad (モレロス州での日本人 友好の証)」を出版した。そして同年10月31日、その本の中の1章を執筆したクエルナバカ市民団代表は、箕面市と箕面メキシコ友の会に原書を贈呈している。この本は、14名の著者(転写等を除く)によって書かれており、その中の一人が序章等を執筆のコーディネーターであり、何度かのZoom交信で翻訳の確認をさせていただいた。また一人は前述の箕面研修修了者である。

その他に日本人の著者がおり、岐阜県出身で造園設計会社を設立し、1968年のオリンピック村庭園や数校大学の庭園、アンパロ美術館庭園等、数多くの庭園を手掛けている。また、メキシコ・日本協会会長であって、モレロス日系協会設立者であるが、既に物故者なので、会って色々と調査できないのは至極残念である。その他の著者もコーディネーターの選出によるメキシコの学識経験者である。日本留学や日本の大学で教鞭を執った経験を持つ方々で日本文化や歴史に造詣が深い。以上の執筆者によって、1600年代初頭から2010年代後半までの日本人の逸話や歴史的叙事が、メキシコ人との関わりやメキシコを舞台として著述されている。多くの章は如実に、またある章はフィクション的に書かれていて、覚醒の感を齎す本である。

本書の内容を時系列に辿ってみると  

序章は別として、江戸時代の史実をモチーフにした章は、『大多喜町とクエルナバカ 二つの姉妹都市の出会い』や『クエルナバカでの支倉遣欧使節団 史実に基づく架空的物語』。大正時代初期に移民として渡墨した人物についての章をコーディネーターが著述の『マヌエル・カイチ・アベ 日雇い労働者から地主に』。昭和時代初期から中期の実話を綴った『中村嘉寿と日本人学生たちのメキシコ訪問』や『勇敢な男 小栗順三』。そして第二次世界大戦中の悲話を著述の『テミスコ収容所 迫害と日本人移住者組織』と『テミスコでの生活・廣本正亀』。第二次世界大戦後の10年余り後に渡墨した日本人移民・庭園造営技師として著述の『カミノ・レアル・スミヤ・ホテルの歴史』。昭和時代後半にメキシコに進出企業を著述の『横浜からクエルナバカへ ニッサンCIVAC設立を振り返って』。平成時代にメキシコで設立した文化施設について著述の『モレロスの日本メキシコ文化学院』や『コヨルシャウキ文化センター』。また平成時代には、2国間学術交流の実績を共著の『深原稔先生と箕面への研修奨学生の文化的痕跡』と、平成後期に日本の若者文化をメキシコに導入を紹介著述の『クエルナバカでのオタク文化』、と以上の章で構成されている。

ただし原書の中の2章は、日本人移民の庭園造営技師が日本語での執筆をメキシコ人学識経験者の女性がスペイン語に翻訳して載せてある。コーディネーターの言では、「現在、その日本人が書いた日本語の原稿2章は無い」とのことである。それで、日本語をスペイン語に翻訳した前述の女史が、新たにスペイン語から日本語に翻訳するとのことであったが、半年以上の長期間を要するのと、女史は他の仕事に追われあまり気概を示さなかったので、私自身が当2章も和訳した。日本語→スペイン語→日本語、と全くスマートではない翻訳形式なので、少々の違和感があるが致し方ない。

かくして本書は、古(いにしえ)の江戸時代1609(慶長14)年から平成時代2018(平成30)年まで、メキシコと日本の歴史的関わりやモレロス州で生きた日本人の和魂本来の精神、そして日本文化においては若者(オタク)文化までをも著述している。メキシコ側の著者たちが親日派であると察するところから、かなり日本人を好意的に著述しているのも覗える。

また、史実に因んで生じた千葉県大多喜町とクエルナバカ市の姉妹都市交流や、メキシコからの留学生を迎えたホストファミリーが中心となって創設の箕面メキシコ友の会を含有の箕面市とクエルナバカ市の国際友好都市交流は、心和むものであり双方にとって絆を深めるための素因があると思える。ともあれ、本書が語るメキシコ・モレロス州に関わった日本人400年の歴史や日本人像を日本在住の多くの日本人に知って欲しい、と心から思うほど、本書は叙事的で開進的内容に富んでいる。

翻訳にいたる経緯

そもそもこの本との縁は、箕面メキシコ友の会の女性幹部から、「元箕面研修修了者が執筆の章『深原稔先生と箕面への研修奨学生の文化的痕跡』を日本語で読みたい」、との話を聞いたことに始まる。そして原書と出会い翻訳へと進行した。それまでに筆者が所属するNPOの「箕面市ハット市友好クラブ」がニュージーランド・ロワーハット市の歴史本「Lower Hutt The First Garden City(最初の庭園都市)」を日本語訳で出版しており、筆者は翻訳メンバー6人の内の一人であった。そのため翻訳に対して少し免疫があった。ロワーハットの歴史本は英語からの和訳であるが、モレロス州出版の本はスペイン語からの和訳である。先ず、依頼された章を和訳した。深原稔先生にも読んでいただき、感謝の言葉をいただいた。余力があったので、原書の序章やマヌエル・アベ・カイチの章を、そしてクエルナバカでの支倉遣欧使節団の章を読んだところ、クエルナバカ大聖堂の壁画に「豊臣秀吉が下した長崎での26聖人の磔刑の経緯が絵巻物風に描かれている」のを知り、嘆かわしい感銘に陥った。

また当時の日本の移民政策に端を発し、メキシコに移民を決意して渡墨した日本人のメキシコでの生きざまや活躍ぶりをも知り、大層興味深く思った。それでほぼ原書の全体を翻訳しようと決意した。2章分は翻訳を除外したが、その内の1章は、コーディネーターからの依頼であり、もう1章はテープ起こしの転写によるものなので、日本語翻訳に相応しくなかったからである。趣味としてスタートした大学(大阪外国語大学Ⅱ部)での専攻言語はスペイン語であったが、学生時代に購読した文学作品にはあまり感慨を得なかった。しかし本書を読んで、感慨に浸った。そして拙いながらも翻訳してみたい、と奮起に拍車がかかった次第である。

翻訳作業の苦楽

原書を読んでいくと、必ず訳しがたい部分に遭遇する。西英・英西・西和・和西の各辞書やアプリを使っても理解できない部分がある。カトリックの宗教儀式の様子も仏教徒の筆者には理解できるものではなかった。そこで結果的に、4名のスペイン語ネイティブの方々にお世話になった。元箕面研修修了生でメキシコ・クエルナバカ出身の箕面市国際交流員(女性)に、先ず初めに訳した章の固有名詞の発音・カタカナ表記について尋ねた。彼女は、箕面研修を数回経験しているので、日本語を流暢に話す。クエルナバカのことや深原稔先生のこと、そして原書の著者についての話などを楽しく聞かせていただいた。彼女が一人目のスペイン語ネイティブである。

2人目は原書のコーディネーターで、氏が執筆した章について、ご本人に難解部分について尋ねた。彼は、巧みに日本語を話せるので、Zoomを利用して翻訳ミーティングを数回行った。Zoomの時は常に日本語で対応していただいたが、Eメールの交信はほぼスペイン語で行っていた。各章の固有名詞のカタカナ表記も依頼すれば丁寧に添付ファイルで送ってくださった。日本語を理解できる方なので、随分と助けていただいた。恩人の内の一人であるが、出版に関して意見の相違がある。クリアできることを望んでいる。

スペイン語ネイティブの3人目は、エクアドル出身の国費留学生(大阪大学大学院基礎工学研究科[知能ロボット学]後期博士課程[英語コース])が大阪府豊中市公民館のスペイン語クラブの先生であったので、微妙なニュアンスの部分について尋ねたこともあったが、彼は英語には精通しているが日本語にあまり興味が無いので、スペイン語から英語に訳してもらい、筆者はその英語から日本語に訳した。彼は丁寧に数通りの英語訳を記述してくださり、丁寧に応えてくださったのでありがたく思っているし感謝している。

スペイン語ネイティブの4人目は、キューバ出身の国費留学生(大阪大学大学院法学部国際公共政策研究科博士課程)で、箕面市国際交流協会(MAFGA)のComm
cafe(カフエレストラン)で会った。彼と話をすると、流暢過ぎる日本語ではないが、やはり英語に精通しており日本語で論文を書いているとのこと。研究テーマは現代日本の天皇制(皇室)とのこと。そこで、私自身の翻訳のことを話すと、彼もそれに興味があると言うので、難解訳の部分の助けを借りることになった。大変ありがたいことである。先ず彼と私がLINEで交信できるようにした。そして文脈を把握できるように原書を渡しておき、彼のパソコンに質問部分の原文と私自身の日本語訳を送っておくと、彼からも彼が翻訳した日本文が送られて来た。

そして会う約束の日程を決める方法をとった。前述の箕面市国際交流協会(MAFGA)のコムカフェでは、日替わりで世界各国のランチを提供しているので、彼と約束したその曜日のランチを一緒に済ませ、その後で翻訳についての問答を交わした。彼のパソコンから送られて来た日本語訳に対して、私は感心しなかったが、1回目の問答の時から、私の翻訳難解部分に関し彼の説明は全く充分に理解し納得できる内容であった。双方とも完全に理解納得するまで問答を続け、妥協を許さなかった。「なんと価値がある翻訳ミーティングではないか!」、と思った。このような翻訳ミーティングを数回行った。以後もスペイン語について、事あれば彼に尋ねることにしている。近隣の在住なので便利が良い。

出版に向けての課題

出版までに、原書の各章に出てくるメキシコの現場を見て認識し、自らスナップに収めたかったが、コロナはまだ世界的に安全な状態ではない。感染症に弱い体の筆者はメキシコに出かける勇気が湧かない。もどかしく残念極まりない。コーディネーターからの翻訳許可を得て翻訳作業に入ったが、正式には法的な翻訳許可が必要である。出版刊行までには、翻訳の時以上のエネルギーと幸運が必要のように思える。

魅せられた原書との出会いに感謝し、多くの日本の人たちに読んでいただけるようになることを願ってやまない。

おわりに

過去から現在、国際交流は時流に沿い変化する。産、官、学、地域(住民)が一体となるコラボレーションは、益々盛んになることと思う。イベント参加に当たり、ITのみならず生成AI等を活用する学生の方策に地域住民は追随していかなければならないであろう。

原書に出会わなければ、大阪外国語大学でイスパニア語を学んでいなければ、また翻訳作業を助けてくださった皆さんがいなかったならば、翻訳には至らなかったことと思う。諸氏に対して真底感謝の念に堪えない心境である。

拙筆ながら当エッセイ執筆の機会を享受したことに深謝の念を込め、本稿を終わらせていただく。