連載エッセイ271: 深沢正雪「移民史最大の悲劇、コロニア平野」=不屈の精神健在、胸像3度目の再建 - 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

連載エッセイ271: 深沢正雪「移民史最大の悲劇、コロニア平野」=不屈の精神健在、胸像3度目の再建


連載エッセイ268

移民史最大の悲劇、コロニア平野
=不屈の精神健在、胸像3度目の再建

執筆者:深沢正雪(ブラジル日報編集長)

この原稿は、2023年8月8日付けの「ブラジル日報」WEB版の記者コラムに掲載されたものを同紙の許可を得て転載させていただいたものです。

7月30日の胸像設置式に参加した皆さん

3度目の正直

平野運平胸像が設置されているサンパウロ市カンブシー区の平野運平広場で7月30日10時、同胸像の3度目の設置式典が開催され、遠くカフェランジアから約60人が訪れた。平野文化体育農事協会(以下「コロニア平野」、重松茂会長)と静岡県人会(川崎エレナ玲子会長)が実施した。その後、一行は静岡県人会館に場所を移し、婦人部が作った昼食を食べながら和やかに談笑した。パンデミックの後だと、マラリア禍で3カ月の間に80人が亡くなるというコロニア平野の悲劇は、余計に我々の胸に迫るものがある。

静岡県出身の平野運平は、第1回笠戸丸移民を手伝った「通訳5人男」の一人として来伯した。うち62家族232人を引率して最初はグァタパラ耕地で働いたが、コーヒー大農園の賃労働だけでは目標とする稼ぎには程遠いことから、このままでいいのかと自問自答する日々だった。

搾取避け、日本人集団地建設という理想に燃え

コロニア平野会館にある平野運平肖像画(半田知雄画)

岸本昂一著『移民の地平線』(曠野社、1960年)の一節《死屍累々として幽鬼も咽ぶ 邦人が最初に樹てた集団地 平野植民地》(166~178ページ)には次のような記述がある。
植田勘三郎氏談《平野氏は日本移民の進路に就いて深刻に考えた人で、日本人は何時迄も大耕主の顎の下に甘んじて居るべきではない。コロノを何十年したところで、民族の大きな将来は創られない。自分の土地を持ち独立してこそ、次の発展が生まれ、やがては我々もまた、耕主の地位に進むことが出来るのだ……との明かるい目標の下に「日本移民独立!」の大理想を掲げてくれた偉大な先覚者であった。異国の暗黒世界に立って居る同胞にとっては、正に救いの声であった。海外に道を求めて来た我々に、民族の生きる道を示してくれたのだから、耕地の全日本移民が平野氏の大理想に参加したことは言うまでもない。

屈強な二十名の先発隊が道開きに、大正四年八月出発し、私は一ケ月遅れて九月に家族を連れて入った。当時カフェランジャの町には、家が二、三軒しか無かった。道は二キロ位まであったが、それから先は人跡未踏の大原始林で、先発隊が天幕を張って雨露を凌ぎ乍ら道作りをして入った。ドラード河から先は道がないので、男も女も行李を一つ宛担いで森の蔓やかづらを切って八、九キロの間を運んだ苦心は言語に絶するものがあった。

ドラード河畔の沼沢地を開墾し、家を建てた。一人の先輩経験者も無い時代のこととて、今にして想えば無謀と言おうか、愚かと言おうか、病気発生の不健康地の真中に生活したのだ》奴隷代わりの農業労働者ではなく、誰にも搾取されないように自分の土地で生産するという平野の理想に共鳴した人たちが、我先に先発隊に加わった。だが、ブラジルでの開拓経験がないことから悲劇が起きた。

家族全滅、棺作れず行李や樽に入れて土葬も

重本重吉氏談《日本人としては植民の経験が全然無かったのでマレイタ(マラリア)がどんな場所に発生するものか知らなかった。我々はちょうどマレイタの巣の中に飛び込んで居た様なものだった。大体の道開きが出来ると、家族持ちの人達が続々と入って来た。
雨期になるや八十四家族が全部マレイタで寝てしまった。平野さんは一軒一軒見舞って歩いた。体が衰弱しているので滋養物をとって体力をつけたいと思っても金が無いので、卵一つ、肉一片食べられなかった。人間は窮して来るとどんな物でも食べると言うが、我々も蛇や犬の肉まで食べた。野菜が無かったので、毎日パルミット(椰子の梢)ばかり食べて居たので、ひどい偏食だった。
病人は高熱と衰弱の為に床に就いた歩けない人が相当あったが、介抱する者が一人も無かった。向こうの家でも、こちらの家でも高熱で呻き苦しんでいる惨状は目も当てられなかった。そのうちボツボツ死人が出て来た。
最も悲惨であったのは、山口県人の中川逸喜と言う人など、若夫婦と子供四人の家族だったが、最初夫人が死亡し、続いて主人の中川氏が亡くなり、息子も死に幼い娘が一人残されて了った。樋口さんと言う人なども夫婦と男の子が死に、女の子が残されて了った。
またある家族など、戸が締ったきり人の姿が見えないので、中に入って見たところ、夫婦が死んで幾日も経ったので蛆がわいていたと云う可愛想なものもあった。
女の死人は大抵妊婦だった。高熱の為流産し、産褥熱を起して死ぬ者が多かった。最初は死人を入れる棺を作ることが出来なくて、行李に入れたり樽に入れたりして土葬したが、後には薪を集めて来て火葬にした。
人が死んでも会葬者など一人もなく、死者を焼く場所迄担いで行く人さえなかった。十二月の末から三月頃まで僅々三カ月程の間に八十名の死者が出、その他の者も病床に呻いて居るので、蒔き付けた米は黄金の穂波を湛えているのに、米の収穫をする者も無いので、ドラードの川辺に住んで居たペードロ・チヨドロと云う土着人に稲刈りから籾落し、袋に詰めるまでの仕事を一俵一ミル五百で請負わせた》
初年に入植した84家族の中でそのような悲劇が起き、最後に残ったのは27家族だった。居住地を高台に移し、米作からコーヒーに切り替えるなどして移住地を盛り上げた結果、多いときには300家族が生活するまでになった。
せっかく植え付けた畑を、雲のような無数のバッタの大群に何度も襲われるという自然災害にも襲われ、それにもめげずに開拓を続けてきた。平野本人もマラリアに苦しむ中、1919年2月6日に34歳の若さで没した。

本紙7月25日付記者コラム《103回も続く伝統の招魂祭=世代交代する日系最古の行事》(1)では、ブラジルには二つの日本人墓地が現存すると書いた。一つ目がアルバレス・マッシャードで、もう一つがここ平野植民地だ。両方とも1910年代半ばという移住開始10年ぐらいの初期に作られた日本人集団地であり、それゆえに風土病に対する理解が少なかった。入植当初は半飢餓状態の中で体力を衰えさせ、免疫力も下がっていた。そこに風土病が襲いかかったから、ひとたまりもなかった。医療体制も皆無で、罹ったらただひたすら耐えて、耐えられなかったら死ぬという状態だ。

これ以降、日本移民はこの苦い経験を活かして川岸に集団地を作らないようになった。それらの犠牲を乗り越えた結果、日本人開拓の原型が作られ、そこから先のノロエステ線一帯に広がっていき、この地域は戦前最大の日本移民集団地帯を形成した。


2018年7月、コロニア平野の開拓犠牲者之碑に献花された眞子様

移民110周年、先駆者顕彰に眞子様がご訪問

このような経験を顕彰するために日本移民110周年の2018年、眞子様は平野植民地をご訪問されたことは記憶に新しい。ニッケイ新聞2018年7月18日付《平野植民地=眞子さま、マラリア犠牲者に祈り=泣き崩れた老夫人をご抱擁=開拓先没者への最高の供養に》(2)に詳しく報じられている。

重松会長によれば現在、「コロニア平野には12家族30人ほどが住んでいる」とのこと。今でも平野運平の命日2月6日と移民の日6月18日には欠かさず法要を行っているという。重松会長に今までで一番感動したエピソードを尋ねると、「眞子さまがコロニア平野にいらっしゃったことです。とても誇りに感じています」と即座に答えた。入植初年に各所に点々として埋葬してあった遺骨を、後に一カ所に集めて合祠した場所には「開拓犠牲者之碑」という石塔が立てられた。そこに眞子様は献花された。2回目の胸像設置時の会長、山下薫ファビオさんから眞子様ご訪問時の記念ビデオを見せてもらうと、眞子様の周りには今のコロニア平野の人たちの姿が活き活きと映し出されていた。

マラリアで現在も世界で60万人前後が死亡

人類を脅かす感染症の大流行という意味では、新型コロナウイルスもマラリアも同じだ。世界保健機構の「世界マラリア報告書2022」(3)によれば、世界のマラリア死亡者数はアフリカを中心に2020年に62万5千人、2021年に61万9千人もいる。
7月1日現在の世界の新型コロナ死者数は約685万人(4)。新型コロナは一時的だが、マラリアは人類の歴史と共にずっと続いている感染症であり、死者数累計は比べようもなく多いはずだ。ブラジル保健省サイトのマラリア項(5)によれば、2019年のマラリア死亡者は37人、2020年には51人だった。1年分のブラジル全体のマラリア死者数より多い80人が、平野植民地では3カ月で死んだことを思えば、事態の重大さを痛感する。今のアフリカと同じような状態だった訳だ。昔の移住者の苦労は今からは想像もできない。

特記すべきはアマゾン地域が今も「マラリア流行地域」とみなされており、先住民族の感染者数は99%を記録していることだ。戦前のトメアスー移住地、戦後のアマゾン川流域の移住地でも入植者はみなマラリアに苦しんだことは忘れてはならない。


胸像設置式で主催者と来賓の皆さん

3度目の胸像設置

7月30日午前10時、彫刻家マリオ・ラモスさんによって据え付けられたばかりの平野胸像には布が掛けられ、約70人余りが周りを囲んだ。君が代とブラジル国歌が斉唱され、静岡県庁の地域外交局地域外交課に勤務した経歴を持つアレシャンドレ・モライスさんが、まず平野運平の経歴を紹介した。カフェランジア市議会議長の安西パウロ・セーザル・ヌネスさんは「平野運平の偉業は我々の心に刻み込まれている」と称賛し、タイス・フェルナンダ・マイノミ・コンチエリ・サンタナ同市市長の挨拶文も森部ノリユキ・エジソンさんによって「胸像の再建に尽くすことで、コロニア平野の忍耐力が健在であると示したことを顕彰したい」などと代読された。

静岡県人会の川崎会長の代理として佐野克行理事は、「遠くカフェランジアから来ていただき、静岡県人の偉人のために再建を果たしてもらったことを心から感謝したい」と感謝した。重松会長が、「コロニア平野にとって、創始者への感謝の気持ちを示せる、誇りある重大な瞬間です。日本移民115周年の記念すべき今、ブラジルを立派にする努力を惜しまなかった先駆者の忍耐力、戦い、犠牲、勇敢さを名誉に思い起こします」と述べた。最後に除幕式が行われ、胸像を囲んで皆で記念写真を撮った。一行は静岡県人会会館に会場を移し、婦人部が丹精込めて作った料理をつつきながら懇親会を行った。カフェランジアからの一行はバスを貸し切り、午前2時に出発。午前9時に平野運平広場に到着。午後5時にサンパウロ市を出発して午後11時に帰着するという強行軍だった。

一行の一人、コロニア平野の並びにあるタンガラ2文化体育農事協会の滝本節男会長(73、2世)に聞くと、同地には18家族住んでいる。「平野とはいつも一緒に行動している。お爺さんはいつも『平野運平は大変な苦労をして植民地を開拓した。それを忘れてはいけない』と繰り返していました。僕らもそれを心に刻んでいます」と述べた。

再来年は入植110周年

平野運平胸像は同コロニアに一つ、サンパウロ市に二つある。うちカンブシー区にあるそれは近隣が貧困地区で最も落書や盗難の被害に遭ってきた。ニッケイ新聞2019年6月4日付《盗まれた胸像を再落成=平野運平没後百周年で=植民地からバス1台で出聖》(6)という記事は4年前だ。

胸像は1975年の平野植民地入植60周年を記念して1976年に造成。これが1回目の胸像設置。しかし2018年に胸像が盗まれた。当時の胸像が銅製だったことから溶かして売られた可能性が高く、コンクリート製の胸像が2体作られた。うち1体はリベルダーデ区のラルゴ・ダ・ポルボラ広場に「移民の祖」水野龍の像とともに、2019年6月15日に設置された。これが設置2回目だ。

ところが再建後半年も経たない2019年11月に、カンブシー区の胸像が再び盗まれたことが判明。「今回は売ってもお金にならないコンクリートで像を作ったが盗難された。盗難は金目当ての一般的な犯行でないのかも」と推測する声まで上がっていた。その4年後、今回は3度目の設置が行われた。胸像1体作るにも数万レアルはかかる。

平野運平は1919年、同植民地でマラリアにより亡くなった。2度目の再建の年は、没後百周年の節目だった。同記事の締めには《没後100年経っても胸像が建てられる人物は移民史上でも稀か》と書かれている。「何度盗難されようが挫けずに再設置する」という強い意志表示は、まさに平野植民地が辿った苦難の道のりを彷彿とさせる。
重松会長は別れ際、「再来年は入植110周年なんです」とボソリ。その眼差しは次の目標を見据えていた。(深)

(1)https://www.brasilnippou.com/2023/230725-column.html
(2)https://www.nikkeyshimbun.jp/2018/180728-71colonia.html
(3)https://www.who.int/teams/global-malaria-programme/reports/world-malaria-report-2022
(4)https://coronaboard.com/global/
(5)https://www.gov.br/saude/pt-br/assuntos/saude-de-a-a-z/m/malaria/situacao-epidemiologica-da-malaria-1
(6)https://www.nikkeyshimbun.jp/2019/190604-71colonia.html