執筆者:田所清克(京都外国語大学名誉教授)
研究者になるきっかけは、少年の頃から、古代ギリシャ神話に登場する勇猛な女戦士(アマゾネス)に由来するアマゾン河に強く惹かれたからだ。アマゾンの低地を貫き流れる大河はなにもアマゾン河に限られたものでもない。トカンチンス•アラグアイ水系の河川もそうである。が、そのスケールから言って、他に及ぶものはない。全長は6300キロでナイル川に次いで長く、流域面積ともなれば、7億ヘクタールでむろん世界一である。ちなみに、ナイル川の場合は、3億ヘクタール強。
1200もの支流を束ねて緑の絨毯を滔々と流れる、さながら銀河のようなそのアマゾン河を私は、幾度見たことであろうか。ある時は、主な支流となるNegro川とSolimões 川に船外機で観察し、またある時は、ヘリやセスナ機で上空から眺望したこともあった。
かつては「オレリヤーナ川」とも「マラニヤン川」とも呼ばれていたアマゾン河は実に神秘的で、私の関心をいつも引き付けてやまない世界であることは、疑う余地もない。
アレクサンダー•フォン•フンボルトが “hiléia” [ギリシャ語で「森」、「木材」、「物質」の意味]と呼んだアマゾンの密林。英語ではjungle 、ポルトガル語ではselvaと言う。アマゾン観光の場合、多く取り入られているトレッキングで密林に分け入ると、そこに見出だされる生物多様性の有り様に驚かせる。つまり、換言すると、1ヘクタールの空間に実に600種以上が存在し、樹木だけども200種類が植生しているのである。このこと自体、生物多様性を証左するものだ。
熱帯林は地表の7%を覆っているに過ぎないが、地球の全種類の約半分がそこに存在する。途轍もない生物の多様性と生態系を有するアマゾンの熱帯雨林はその代表格であろう。それだけに、人類にとって有用な資源も少なくない。後述するが、医療の分野のみに関しても、アマゾンの密林には1300もの異なる種類の薬用植物があるようだ。そう言えば、このアマゾンの薬用植物について、断片的ながら京都薬科大学において講演した想い出がある。
–
アマゾンの熱帯雨林は一様ではなく、いくつかの点で他の地域のそれとは異なっている。イガポー(igapó)と称される浸水林もしくは水没林、氾濫原(várzea)に植生する林、高台のいわゆるテラ•フィルメterra firme)林がそうである。腐らないのが不思議であるが、常に水浸しの状態のイガポーには、オオオニバスのごとき一種の水性植物も散見される。
対するヴアルゼア林は、定期的に氾濫することから、どちらかと言えば、浸水林に比べて高木のものが存在する。経済的な有用性の観点から開発の対象となる、ゴムの原料ラテックスを抽出するゴムの木(seringueira)などは、その一例であろう。
洪水から免れる高台のテラ•フィルメの森林は概して、アマゾンの植物群落の中でももっとも高い木が多く、50メートルを優に超えるパラ栗(castanha-do-pará)などはその典型。
アマゾン地方は四季がなく、雨期と乾季の截然とした二季で特徴づけられる。このことから、アマゾン河も、潮汐の要因と合わせて二つの季節の違いによって、水位の変化も大きい。潮汐による水位の変化は河口上流の250キロにまで及ぶと言われている。乾季と雨季による水位の変化は、川縁に住む地域住民(ribeirinho)に多大の影響を及ぼす。乾季と雨季で水位は10メートル程度の差があるからである。雨季の多雨で氾濫原も水没したヴァルゼアも乾季ともなれば露出し、一帯は豊かな土壌に変わり農業には適した大地となる。これも洪水がもたらした恩恵である。
ところで、雨季が終わりかける3月の大潮の時に、アマゾン河とその支流では、大西洋の海水とアマゾンの淡水がぶつかり合って、猛烈な逆流現象が発生する。これをポロロカと言う。トウピ語で「轟く、爆発する](estourar)を意味するように、その大波が音を立てて遡上する様は壮観そのものだろう。が、私は残念ながら実見はしていない。
アマゾン河には優に200種類の魚が棲息していると言われる。魚類だけではない。アマゾン伝説に登場する哺乳類のイルカもいる。ともあれ、アマゾン河は淡水魚の宝庫だ。ここで論じる世界最大のピラルクー以外に、獰猛で知られるpiranha, 美しいネオンテトラ、poraqueと称する、牛馬でも感電させて倒す能力のある電気ウナギ、肛門や陰門から侵入して内臓を食い散らす恐ろしい、作家の開高健が「スケベドジョウ」と呼んだcanjiru、焼いて煮て最高に美味しいtambaqui やtucunaréなど、実に多くの魚がいる。
かつてはアマゾン河は太平洋と繋がっていたこともあり、もともと海の魚である、八角形の黒い体に黄色い縞模様を持つ、エイの仲間であるaraia だっている。ちなみに、このエイの細長い尾の基部に毒針があり、刺されると大変な激痛に苦しむことになる。
アマゾンの大江の魚類の中でその代表格はやはり、ピラルクー[pirarucu]であろう。すでにどこかで書いているが、piraは「魚」を、rucuは<,ピーシャ•オーレラ>と呼ばれる野生植物の赤い実で、染料として使われている。してみると、ピラルクーとは「赤い魚」となる。事実、尾っぽの部分は赤色をしている。むろん、アマゾンでは幾度もマナウスの中央市場や養殖場で見たが、三重県の鳥羽水族館でも遊泳するピラルクーを見たことがある。
ピラルクーはOsteoglossamと呼ばれるものに属しているようだ。学名はARAPIMA GIGAS-CUVIER。形状は円筒形をしており、ドジョウを想わせる。大きさの割には頭部は小さい。背中の部分は暗黒色、腹部はうすい黄色もしくは白色をしているが、赤色がかったものもいる。皮は固い鱗で覆われ、舌はヤスリさながらで、乾燥させてguaranáの実をすりおろすヤスリとして用いられたりもする。成長すれば、2~3メートル、体重100~200キロになり、文字通りアマゾン河最大の淡水魚である。その魚肉は住民、わけてもカボクロの主食の一部であったが、現在では捕獲が禁じられている。であるから、養殖場のものが食卓にあがる。その養殖したものをマナウスの中でも一流の料理店で、学生さんと一緒に白ワインを飲みながら食したことがある。その味と言ったら。
農耕の盛んではない地帯のアマゾンでは、自然採集で生計を立てている住民が少なくない。とくに先住民やカボクロの場合は、ピラルクー漁にかつては従事していた。彼等は普通カヌーを使って漁をする。そのカヌーには、身の回り品以外に、網、捕獲の際の打撃用の棍棒などがつぎ込まれる。通常、カヌーには二人が乗り込み、舳先の一人は舟上に立って銛を手にして身構えている。船尾のもう一人は、櫂を漕いで航進する。
ピラルクー漁の最盛期は、vazanteと呼ばれる減水の時期である。この季節になるとピラルクーは餌を求めて浅瀬、湖沼、小流に集まるからである。漁獲地域はアマゾンの広範囲に及んだ。
主だった地域の一例として、
ピラルクーがいることは、水面に立ち上がる泡によつて知る。が、これには漁師の相当の経験と熟練が求められることのようだ。
ピラルクーの通常の捕獲法は、およそ3メートルの棒の先端に付けられた銛で背部を狙って突き刺し、仕留めるのが一般的である。銛には長さ30メートルほどの網が通されていて、ピラルクーに命中すると、棒が分離する仕掛けになっている。銛の刺さった魚は舟が転覆するほど猛然と暴れ、漁師にとっては命懸けとなる。従って、この時ほど捕獲する人間が息づまり興奮を覚えることはない。魚が次第に疲れるのを待った後、引き寄せ一撃を食らわせ、カヌーに引き上げるのである。
捕獲されたピラルクーは川岸で皮が剥がれ、適当に截断された肉は塩漬けされたり乾肉にされる。乾肉にするために、地上2メートルには満たない乾台も設けられている。ピラルクー捕獲の季節ともなれば、多くの漁師だけでなく、船で川を行き来するregatãoと称する仲買人が現れ、賑わいをみせる。
ピラルクーの肉は、塩漬けのものや乾肉のものを問わず栄養価がある。一説によると、bacalhau(乾鱈)よりも栄養は優れているらしい。ともあれ、ピラルクーの生乾きは実に美味しい。ictiófago[魚を常食にしている]の、魚大好き人間の私は、tambaqui やtucunaré 、pirarucuの食べることのできるアマゾンに行きたいのだが。
アマゾンの密林をトレッキング中、現地のガイドからさまざまな知見を得ることができる。サバイバルのために水が確保したい時は、cipo d’águaと呼ぶ大量に水を含んだかずらを切断すると事実、想像していた以上の水が出てくることなどは、その一例である。
ところで、アマゾンには昔からインディオ伝来の薬用植物が多く存在する。これをまとめた貴重な文献を二冊持っており写真で紹介したいところだが、引っ越しして日が浅く、まだ段ボールの中にある状態。とにかく、ケツペンが分類する気候のアマゾンの熱帯雨林[AF]は、薬用植物の宝庫である。この日本でも出回っている、種子を水で煮詰めたエキスを炭酸水で溶かした後で甘味を加えたグワラナ(guaraná)は、その種子に多量のタンニンとカフェインを含み、神経強壮剤や興奮性飲料に用いられている。日本では、ドリンク剤になっている。
キナの樹皮からはマラリアの特効薬キニーネ(quinina)が、まmuirapuama(=marapuama、marapuama)は根の部分に精油などを含み、かずらの皮の部分の生薬エキスは神経衰弱、精力減退に効能があるとされる。現地住民に言わせれば、アマゾンのバイアグラ、だそうだ。数多ある薬用植物の紹介はほんの一部に限られるが、アメーバの特効薬の、アカネ科のイペカクアーニヤ(ipecacuanha)もそうである。
アマゾンはまだまだ未知の部分が少なくない。そのこともあって、昔から多くの外国人植物、動物学者などが押し掛けている。そして、血眼になってガンなどの特効薬探している。そのために、ブラジル政府の監視も厳しく、動植物の持ち出しが禁じられている。マナウスの空港でのチェックはその一環であろう。
前に述べたigapó、várzea、terra firmeに存在するか否かによっても様相を異にするが、密林は概して、人間の侵入を断固として拒むほどのものではない。この点において、従来抱いていたジャングルに対するイメージを修正する必要があるように思う、少なくともアマゾンの密林に関しては。
この熱帯雨林はツル植物や樹木が繁茂して、足を踏み入れることさえ困難であると予想していただけに、意外といえば意外であった。空から眺望すると、果てしなく広がる樹海は壮観そのものであるが、特にterra firmeに見られる、ゴシック様式さながらに尖頭アーチが空に伸びる亭々たる高木を、地上から見上げるのも圧巻だ。
そうした50メートルにも達する高木の下方には、20メートル前後の樹木の層があり、その下には低木が群生している。そのために地面まで太陽光が射し込まず、下草が少ない。ことほど左様に、アマゾンの密林は幾層からなっている。雨期の終わりに落葉があると遮られたものがなくなり、密林の地面に青空がのぞくこととなる。落葉は、微生物の働きとアマゾン特有の高温多湿のために、腐食するのが早い。
ブラジルに出向き始めた頃、学生さんと共に、団体名は失念したが、マナウスの日本移民とその末裔の方々の集まりに出て交流したことがあつた。その際に、ささやかながら寄付を募って日本から持って来た文房具類を贈呈したことがある。その場での話の中で、日本移民の方々がアマゾンの地で、主として黒胡椒とジユート栽培で生計を立てられていたことを、改めて認識することとなった。
アマゾンにおける日本人のコロニアは、ベレンから150キロの距離にあるTomé-Açuに189人が入植した1929年に始まる。この入植地は、黒胡椒の生産で直ぐに脚光を浴びることになった。
アマゾーナス州では、大半の日本移民は、現在のItacotiara、Urucará、UrucuritubaならびにParintinsの領域を含めた土地の譲渡に惹き付けられて、Parintins近くのColônia de Vila Amazôniaに居を構えた。彼らが栽培したもっとも重要な産物の一つは、ジユートであった。30年代になると、100家族以上の移民が、原産地であるインドの河川と似通った環境、風土を活かして、アマゾン河の氾濫原のvárzeaで栽培するようになる。綿花、麻と共に重要な植物繊維であるジユートは、布袋などに使われた。
もともとパキスタンや台湾からもたらされた種子から栽培されたもので有ったが、1,5メートル程度しか伸びず、生産性に問題があつた。そこで1939年、別の種類のジユートがインドから取り寄せられることになる。インドのは品質もよく4メートルも伸長する生産性が高いものであったことから、アマゾン州の主要な農産物の一つとなった。
ところが、第二次世界大戦による日本とブラジルとの外交関係の決裂から、日本移民が営んできたジユート関連の事業も中止に追い込まれるのを強いられたのである。1964年の時点では、アマゾーナスおよびパラー州のvárzeaの360平方キロで栽培されていたようだが、70年代の合成繊維が開発されてからは、ジユート栽培は下火となつた。現在では、小規模でかろうじて栽培されているのは、アマゾーナス州二、三の地域に過ぎない。
Emílio Garratazu Médiciの軍事政権下[1969-1974]で、アマゾン横断=国道230号線[BR-230]の建設は始った。大規模工事であることから、” 巨大事業 “(obra faraônica “として知られることになった。その実現に向けて政府は、1970~1973年にかけて、約4000人の建設労働者を投入したと言われている。道路は、パライーバ州のピアウイーからMaranhão 、Pará、Amazonas の諸州を東部から西部に横断する文字通りのものになつた[rodovia transversal]となった。
建設の目的の一つは、北部地域とブラジルの他の地域を結びつけ統合することにあつた。当初の計画では、大西洋側に位置するJoão Pessoaと、ペルーと国境を接するBoqueirão da Esperançaを結ぶ5600キロの道路のはずであった。が、アマゾーナス州のLábreaまでの2500キロが建設されているだけで、道路の半分以上は、特に雨季の時期には、通行不可能となる。この原因は、未舗装の道路が水浸しになる以外に、森林の侵入にあると言われている。
アマゾン横断道路の建設は、さまざまな問題を引き起こした。その主たるものは、森林伐採(desmatamento)であろう。そのことで生態系は壊され、一帯の貴重な動植物は消失したのである。今日、アマゾン横断道路沿いには、100万の住民が、政府の援助も得られることもなく、黒胡椒、コーヒー、カカオ、ウルクンなどの農産物で、細々と暮らしている。