連載エッセイ275:富田眞三「慶長遣欧使節の謎」その2 - 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

連載エッセイ275:富田眞三「慶長遣欧使節の謎」その2


連載エッセイ275

「慶長遣欧使節の謎」その2

執筆者:富田眞三(在テキサスブロガー)

3)秀吉とキリシタン

1582年信長は本能寺の変で倒れ、秀吉の天下となる。「鳴かぬなら鳴かせてみせる」性格の秀吉だったが、秀吉が鳴かせてみせることが出来なかったのが、大明国であり、南蛮諸国だった。信長は宣教師とその祖国による日本征服の危険性を疑った形跡は、全くなかったが、秀吉は「伴天連は侵略の手先なり」と言う見解を持っていた一方、南蛮諸国との交易には興味を示した。1585年関白となった秀吉は、翌年大阪のキリシタン教会を訪ねる。この時関白は、「伴天連の生活は、仏僧と異なり清らかだ。予がキリシタンとなるについて支障があるとすれば、多くの側室を持つことを許さぬ点だ」などと言ってご機嫌だったと言う。

同年5月イエズス会日本副管区長コエリヨ師他30人は、大阪城に関白を訪れた。この日、明国征服の企てを口外した関白に対し宣教師たちは、二艘の大帆船の提供を申し出たと言われる。これに対し関白は、シナ人が帰服したならば、シナ人が皆キリシタンになるよう命令しよう、同時に日本の半分ないし大部分をキリシタンにさせようとも語ったと、報告されている。この頃関白秀吉と伴天連との関係は、大変親密だったのである。

4)家康の登場

1598年9月18日(慶長3年8月18日)、太閤秀吉、伏見で薨去。家康は、豊臣家五大老の筆頭として朝鮮からの諸藩の軍勢の撤兵を指揮した。翌1599年、五大老の一人だった前田利家の死後、家康は秀吉の築いた伏見城本丸に入り、「天下殿になられ候」と評されたほどの権力者となった。永年三河、江戸を領していて、南蛮人とは縁がなかった家康が、彼らと初めて接触したのは、太閤の死後三ヶ月目のことだった。

家康に謁見が叶ったのは、フィリッピンから密入国した托鉢修道会派のジェロニモ・デ・ジェジーズ師だった。ジェロニモ師は1594年、フィリッピン総督の第三回使節団員として、バウティスタ師と共に初来日して以来、京都に滞在していた。96年同僚であった6人のフランシスコ会員が太閤の命令によって逮捕されたときは、長崎から京都へ旅行中であったため、逮捕を免れ、命拾いをしていた。ジェロニモは、長崎に護送される6人の同僚に付き添って長崎まで旅し、処刑に立ち会っている。26殉教者の処刑後、ジェロニモは、フィリッピンに追放されたが、日本での宣教に命を賭けることを決意して、蜜入国していた。伊勢に潜伏中、家康から出頭命令を受けてジェロニモ師は、死を覚悟したが、家康は彼にフィリッピン総督との橋渡しを依頼した。

この会見で家康が提案したのは、下記の箇条だった。
1.関東地方にスペインの太平洋航路の船舶を誘致し、商取引を行いたい。
2.日本人もメキシコに渡って、その地と通商を行いたい。その航海は、長期に亘るので、

スペイン人の操船に関する技術援助を得たい。
3.銀の採掘、精錬、及び造船技術者の招聘。

家康はその見返りに、関東付近を通過するスペイン船が、飲料水、その他必要な品を入手するために寄航することを許す、と申し出た。この頃家康は、豊臣家の大老に過ぎなかったが、天下人のように外交交渉を行っていた。家康はジェロニモとの会見後、ジェロニモの推薦状とジェロニモが代筆した家康の書状を持たせて、一家臣をフィリッピン総督のもとに派遣した。ところが、フィリッピン側は、暴君太閤が亡くなったとは言え、「サン・フェリッペ号事件」「長崎26殉教者事件」に於ける太閤の仕打ちの記憶が生々しかったため、この申し出には、差しさわりのない返答しか送ってこなかった。大体太閤は、再三に亘って、フィリッピンに、日本への帰属を働きかけており、承諾せねば、攻撃すると脅迫していたのである。こう言う情勢にあって、フィリッピンの安全は、日本人が大型の帆船を持たず、航海術にも長けていなかった為、マニラ攻撃を企画しながらも実行出来なかったことによってのみ、保たれていたのであった。

当時七つの海を支配していたスペイン帝国も、東洋に於ける彼らの根拠地フィリッピンには、守備隊程度の軍勢しか持っていなかったため、日本軍の攻撃を受ければ、ひとたまりもなかったのである。然るに、日本人に大型帆船建造を指導し、外洋航海を可能とする高度な操船術を教えることは、フィリッピンを征服させる為に必要な武器を与えるに等しい、とスペイン人たちは考えた。

その上、やっと発見した太平洋東行路の秘密を日本人に教えて、太平洋制海権とメキシコ・アジア間の通商の独占を危うくする愚を、スペイン人がする筈がなかった。家康の家臣がフィリッピンに使いしている間、ジェロニモ師は家康の指示に従い、家康が開港を希望する
浦賀を視察した後、江戸に入った。キリシタンの宣教師が関東に到達したのは、この時が最初で1599年のことだった。

一方フィリッピンとの交渉は、何の進展もなく、月日のみが経って行った。この間、家康は太閤によって破られた両国の友好関係の修復を望み、ジェロニモ師も日本に於ける伝道活動を、4キリシタン追放令以前の状態に戻すことを切望したのだった。そしてジェロニモ師は、総督が家康の提案を受け付けるならば、家康は伝道を許可するであろうと、総督に希望的観測に過ぎない虚偽の報告をしたのである。その結果、フィリッピン側は、伝道が許可されたと誤解して、宣教師を派遣し始めた。それをも黙認して、家康は彼の提案への返事を辛抱強く待った。

翌1600年(慶長五年)は国内外共に、色々動きがあった。4月、イギリス人航海士W.アダムスが乗船したオランダ船リーフデ号が豊後臼杵(かってキリシタン大名、大友宗麟の居城があった)に漂着した。アダムスは、三週間後家康に謁っして、当時の世界情勢を家康に伝えた。アダムスの情報により、家康は世界にはスペイン、ポルトガルと競合するオランダ、イギリスと言う新興勢力が台頭してきたことを、知ったのである。当然1588年、スペインの無敵艦隊がイギリス艦隊に惨敗したことも報告されたであろう。

しかもオランダ、イギリス両国は、南蛮人とは宗旨が異なる新教を信じ、通商の交換条件として、伝道許可を求めたりしないことが分かった。そのアダムスは、250石の直参旗本に登用されて三浦半島内に領地を賜り、三浦按針と名乗った。按針はPilot-水先案内人を意味する。文字通り按針は、家康の意を受けて、日本の海外進出の按針となった。

1600年10月、関が原の戦いで、家康率いる東軍は西軍に大勝した。フィリッピンからの返事は来ない。そして1601年、両国の橋渡しを果たしたジェロニモ師が、再来日したが、京都で病死して仕舞う。結局ジェロニモ師によって始まった日比交渉は、振り出しに戻った。しかし、フィリッピン側は、宣教師の日本派遣を遠慮するどころか、陸続と宣教師を送り続け、1603年には、慶長遣欧使節派遣の立役者となった、ルイス・ソテロがフィリッピンから来日した。この頃、権力争いに忙しい日本の諸侯達は、キリシタンの動向を気にする余裕は無かったため、伝道活動は密かにだが、着実に成果を上げていた。この頃キリシタン信者数は、史上最高の30万人に達している。

1602年、土佐清水港に漂着したスペイン船「エスピリト・サント号」が土佐藩の水軍と激戦を展開した。エスピリト号は、辛うじて脱出に成功したが、計40数人が人質、捕虜として土佐に抑留された。家康は、彼らを日本商船に便乗させて、フィリッピンに送還した。この時、フィリッピン総督アクーニャに送った

家康の朱印状には「漂着する外国船の乗組員の保護、積荷の安全を保障する。異国人の居住は許すが、その宗教を弘布することは厳禁する」と明記されている。
1603年(慶長8年)家康は征夷大将軍に任ぜられて、江戸幕府を開いた。
1605年秀忠が二代目将軍となる。

この頃幕府は、盛んにフィリッピン、マカオ等への渡航朱印状を発行し、1606年には、初めてオランダ人に朱印状を与え、日本への通行を許した。1606年、フィリッピン総督アクーニャが逝去した後、総督代理に就任したロドリゴは、家康、秀忠に着任の挨拶状を送った。彼の使者の乗船は、家康の希望通り関東の浦賀港に入港したので、家康は大いに満足した。
1607年、ポルトガル領マカオは、オランダ人に封鎖され、日本行き定期航路の運行は中断された。

1609年6月、ポルトガル船ノッサ・セニョーラ・ダ・グラーサ号が、二年ぶりに積荷を満載して、マカオから長崎に入港した。これを捕獲せんと追跡して、二隻のオランダ船も長崎に入港した。同船で来日したオランダ国王の使者は駿府に達し、家康より同国との通商を許す朱印状を得た。こうして、半世紀続いたポルトガル、スペイン両国の日本貿易独占は、終わりを告げた。また、この頃盛んに東洋各地に出航した日本の朱印船に乗って、関が原の負け組浪人等、多くの日本人が東洋各地に進出して行った。かの山田長政がシャムに渡ったのは、1612年のことだった。

そして、1609年10月新総督の着任により、任務を解かれてメキシコに帰任する途中、ロドリゴ、正確にはロドリゴ・デ・ヴィヴェロ・イ・ヴェラスコが乗船した巨大なスペイン船サン・フランシスコ号が、房総沖で遭難、岸和田に漂着した。ロドリゴのような高官が偶然来日したことにより、徳川家康の太平洋進出の夢は、着実に実現に向って動き出した。家康は乗船を失ったロドリゴに船を提供し、メキシコに送り届けると言う、格好の名目を得て、日本船による太平洋横断を試みるのである。

この頃家康は既に直参旗本の三浦按針(W. Adams)に建造させた80トンと120トンの二隻の外航船を所有していた。ロドリゴは長崎に避難していた彼の乗船サン・フランシスコ号の僚船サンタ・アナ号にて帰国すると、一旦は家康の申し出を断るのである。ところが、ロドリゴは、フランシスコ会のルイス・ソテロ師が家康の大使として、メキシコ、スペインに派遣されると知って、前言を取り消し、家康の提供する日本船で帰国することを、決意するのである。家康は、彼の船にロドリゴが乗船することは、願ったり叶ったりであったため、喜んで許可した。ところが、ロドリゴがソテロ師の派遣に反対したため、大使にはロドリゴが推挙した同じ托鉢派のスペイン人アロンソ・ムニョス師が任命された。日本語を巧みに話すソテロ師は、聖職者に有るまじき野心家の一面があり、ロドリゴは彼を嫌悪していたのである。さて、大使が託された家康のスペイン王、メキシコ副王宛の書状には、10年前に家康がジェロニモ師に伝えたと同じ要望が記されていた。

こうして、1610年8月1日、前フィリッピン総督代理のロドリゴは、按針が建造した120トンの日本船「サン・ブエナベンテューラ号」に乗船して、浦賀港からメキシコに向け出航した。同船には前フィリッピン総督代理ロドリゴ、遭難船サン・フランシスコ号の乗組員たちの他に、京都の商人田中勝介を始めとする二十数名の日本人商人が商品見本を携えて、乗船した。

ところで、日本各地を旅したロドリゴは、次のような日本観を持つに至った。彼がスペイン国王に提出した文書でこう述べている。「日本はスペインに優るとも劣らない政治、文化を持っている。日本の地理的条件は、フィリッピンより数段戦略的価値がある。ぜひともスペイン王国の版図に加えたい。その為には、武力征服は困難であるので、『魂の征服』を行えば良い。幸い家康はメキシコとの通商、精錬技術の導入に関心を持っているので、これを与え、反対給付として布教許可を穫得する。キリシタンとなった日本人は、必ずやカトリック教会の一大後援者であるスペイン王の臣民になることを望むであろう。」

驚くほど自分勝手で、「カトリックの布教が何物にも優先する」と言う考えであったが、少数意見に過ぎず、時代は最早「そうは問屋が卸さない」状況になっていた。日本の通商相手国として、オランダ、イギリス等が出現してきたからである。相変わらず「異教徒とは商取引しない政策」から抜け出ることが出来ない南蛮両国は、遠からず日本市場を失う運命にあった。

と言うのは、南蛮両国の船舶が日本に運んでくる主力商品は、中国産の生糸、絹製品だったからである。他国船が食い込める余地はあったのである。勿論日本の大型船でも良かったのであるが、日本はやっと二隻の外航船を建造したばかりだった。この様な東アジア情勢の中で、家康は十年来の念願であった、日本船による初の太平洋横断を実現しつつあり、メキシコとの通商開始もメキシコ副王、スペイン国王との直接交渉に進む段取りがついたのである。

5)慶長遣欧使節は誰が企画したのか?

ヴィスカイーノ大使の来日

ロドリゴ デ・ヴェラスコ前総督代理を、ノヴィスパン、スペイン語ではヌエバ・エスパーニャ、スペイン帝国副王領(現メキシコ)に届けた田中勝介等日本商人一行は、1611年(慶長16年)6月10日スペイン船サン・フランシスコ二世号に乗って浦賀港に無事帰還した。この船には、ロドリゴを送還してくれた家康、秀忠に対し謝意を表するためのスペインの答礼使、セバスティアン・ヴィスカイーノ大使が乗船していた。もっともそれは名目で、彼等の本来の目的は、日本近海にあると信じられていた金銀島の探検及び日本近海の海図作成にあった。

この頃ロドリゴと共に渡海した家康の大使アロンソ・ムニョス師は、ノヴィスパンからスペインに向け航海中だった。田中勝介は帰国するなり、駿府に家康を訪ね、メキシコ市場調査の報告を行っている。そもそも、スペインは異教徒をカトリック教徒に改宗することを国是としていたため、ノヴィスパンでもフィリッピンでも通商と言う現世的利益には興味を示さなかったのである。だが現実にはノヴィスパンは必需品の多くを、フィリッピンを経由してシナ、日本から輸入せざるを得なかった。従って、日本商品を直接ノヴィスパンに持ち込めば、商売になる可能性はあった。但し、スペイン王が通商を認め、日本船がアカプルコまで航海出来れば、の話だった。

さて、浦賀に着いたヴィスカイーノは、6月22日、江戸城で秀忠に謁し、2日後江戸市中の路上で偶然政宗の行列と遭遇、政宗と挨拶を交わした。その時政宗は、地上まで身体を屈してお辞儀をし、「部下と領地を以ってお役に立ちたい」と言った。ヴィスカイーノは日本の貴族の礼法が丁重なことに驚き、この点では彼らは世界一である、と述懐している。数日後ヴィスカイーノは駿府にて家康に謁して、日本沿海の海図作成、相当の容積の船の建造等を家康に申請したが、大御所の応対は冷淡だった。フィリッピンからノヴィスパンに航海するスペイン船が、悪天候の際、日本沿海に避難することが多いため、沿海を測量することを許可されたい、と言うのが彼らの趣旨だった。船の建造は、単独航海を避けるために、僚船が必要だったからだ。

結局家康は三浦按針の「スペイン人が日本沿岸の海図作成を望むのは、日本侵攻の準備の為である」とする意見を退けて、測量と船の建造を許可した。やがて家康より日本沿海の測量、海図作成の許可を得たヴィスカイーノは、部下のロレンソ・バスケスを測量のため西日本に派遣し、彼自身は11月16日、仙台に赴き政宗と会見した。ヴィスカイーノの仙台行きに同行したソテロは、サン・フランシスコ二世号で沿岸調査に出発した彼の留守中、仙台領内で1,800人に洗礼を授けた。キリシタンが普及していない東日本に司教区を創設し、自らが司教になる野心を持っていたソテロは、ヴィスカイーノに通訳として同行出来たことを最大限に利用した。

一方、雄勝、気仙沼等の良港を発見したヴィスカイーノは、12月8日仙台に帰着し、青葉城に政宗を訪ねると、江戸に発った後で留守だった。しかし藩の重臣達から主君の指示として、思いも寄らない大船の建造とノヴィスパンへの渡航計画を打ち明けられた。しかしヴィスカイーノは、既に家康、秀忠に新船建造を申請したばかりであったので、この提案を断った。
以上が、「政宗の太平洋横断計画」についての資料に残る最初の記述であり、ヴィスカイーノが自著「金銀島探検記」に書いている。使節派遣の二年前の話である。

ヴィスカイーノが東北沿海の測量に携わっていた間、ソテロは何度も政宗に会い、ノヴィスパンとの通商について相談し合った。仙台領に於ける伝道許可の見返りに、スペイン船が仙台領に来航する、と言う構想であった。ヴィスカイーノとソテロは、仙台では会えなかった政宗を江戸の仙台藩邸に訪ねたが、その際大船建造について話し合った形跡はない。ヴィスカイーノによると、大船の提供は伊達側からあったとされる。しかし、政宗が大船の建造をヴィスカイーノに提案したとすれば、その前に政宗は幕府の意向を確かめる必要があったはずである。ところが政宗はそれまで何度も家康、秀忠に謁しているが、両者から大船建造の許可を得た形跡はないのである。その上、当時日本に於いてこの種の大船を建造できるのは、三浦按針の指導を受けて三隻建造した実績を持つ幕府船手奉行配下の船大工しかいなかった。

そう考えると、これはソテロから伊達家へ提案した話であった可能性がある。ヴィスカイーノは日本語が分からず、日本人との会話は全てソテロの通訳によって理解していたに過ぎないので、ヴィスカイーノが報じることも額面通りには受け取れないのである。
従ってこの間の状況を理解するには、ヴィスカイーノと日本人の間を取り持った、ソテロの人となりを検討する必要がある。

ルイス・ソテロ師の野心

ルイス・ソテロ師はスペイン、セビリャ市の貴族階級出身のフランシスコ会の神父だった。
遣欧使節の旅が終った後、再び日本での伝道を志してマニラから九州に密入国して捕らえられ、二年間の虜囚生活の後、殉教死した。死後福者(聖人に準じるもの)に列福している。
先ず関係者のソテロ評は、芳しくない。スペインのインディアス顧問会議、イエズス会、フランシスコ会、ロドリゴ デ・ヴェラスコ、ヴィスカイーノのソテロ評は、一致して悪い。ソテロは日本語が巧みで、政治力はあるが、聖職者に有るまじき野心家の上、虚言癖があるとまで批判されている。

虚言癖の根拠を以下記しておこう。1615年ヨーロッパで刊行された、慶長遣欧使節に関する著名な文献に、ローマ出身の歴史学者シピオーネ・アマチの「使節記」がある。この文献の中で奥州国、政宗、使節派遣の発端等の記事はソテロが提供した情報を基に書かれている。そこでほんの一例を挙げて、ソテロのいい加減さを証明しよう。以下はソテロの奥州布教の顛末である。

「ソテロにキリスト教の教義を説かれて国王(政宗)は、釈迦、阿弥陀、弘法大師その他の高僧を憎悪するに至った。彼らは虚偽と無智により、人間を動物同様に取り扱った。今後は彼らに復讐し、真実を一同に知らしめよう、と語った。そして国王(政宗)は日本の七大寺の一つである松島の大寺(瑞巌寺)に至り、憤激して家臣に仏像を破却する様に命じ、800もの仏像が破壊された。他の一寺では、支倉六右衛門(常長)が、仏僧たちを処刑した。
そして、国王(政宗)のこの行いを見て、受洗希望者は激増し、国王は同国に相応しい大教会を建てることに付いて、ソテロの意見を徴した。するとソテロは、このような重要な案件は、ローマ教皇の指導を仰ぐ必要があると答えたので、政宗は事情に通じたソテロをローマに派遣することにした。」

上記が全てソテロの我田引水的創作であることは、明らかである。政宗は神仏を敬することに篤く、瑞巌寺の仏像を破却するどころか、終生手厚く保護し、彼が建立した本堂、庫裏は、国宝に指定されている。使節派遣の目的は、「奥州国に大教会を建立するについて、教皇の指導を仰ぐ」としているが、新教会建立の認可は菅区長の権限であるので、何もローマに行く必要はない。ソテロがローマに行く必要があったのは、彼が任命されることを死ぬほど渇望していた司教の座を得る為には、先ず東日本に司教区が新設される事が先決問題だったからだ。そして、司教区新設の認可は教皇の権限であった。それゆえローマ教皇に直訴する気だったのだ。その本心を隠すために、「奥州に大教会を建立するについて、教皇の指導を仰ぐ」と称して、ローマへの派遣方を模索したのである。

兎に角ソテロは、日本の使節として、ノヴィスパン処かローマに行くことを究極の目的とした。従って派遣者は誰であれ、慶長遣欧使節派遣の企画、否立案者はソテロだった。徳川、伊達ではなかったのである。問題はたとえ虚言癖があろうとも、日本が南蛮諸国と外交するためには、ソテロ師に頼らざるを得なかったことだ。

さて、肝心なヴィスカイーノは5月、浦賀を出港して伊東に寄り、幕府船手奉行配下の船大工が建造に当たっていた新船の視察を行った。この船はヴィスカイーノが帰国する際、僚船として帯同する意図を持っていた。ところが、船は100トンをはるかに超える大船であったため、ヴィスカイーノは約束が違うと言って、引き取りを拒んだ。そして彼はサンフランシスコ二世号一隻で金銀島探険を行った後、帰国すべく、3~4ヶ月の間、探検、航海の準備、メキシコから運んで来た商品の販売に専念した。

岡本大八事件

1612年春、駿府では、キリシタン宗門に関連する重大事件が発生した。これは、二年前の長崎に於けるポルトガル船、ノッサ・セニョーラ・ダ・グラサ号撃沈に端を発した贈収賄事件だった。家康の重臣、本多正純の与力である岡本大八なるキリシタンが肥前のキリシタン大名有馬晴信から収賄を受け取ったことが発覚し、岡本は火刑、有馬は死罪を仰せ付かるに至った。幕府は事件関係者が共にキリシタンであったことに衝撃を受け、岡本の処刑の当日、「南蛮記(き)利(り)志(し)旦(たん)の法、天下停止すべし」と布告した。これまで家康は宣教師に対しては布教を禁ずる、と明言してきたが、キリシタン宗徒を弾圧することはなかった。しかし、この事件を契機に布教のみならず、宗門、宗徒を禁圧する方針に変更し、同日、京都のキリシタン教会を破却せよとの命令も発せられた。また、この頃ソテロが司祭を務める江戸のフランシスコ会教会も破却された。

このため、キリシタン宗門に関する政策変更は対南蛮政策にも、南蛮諸国の対日政策にも、影響が及ぶのは、当然の成り行きだった。しかし、家康は事件の三ヶ月後、1612年7月、ヴィスカイーノが携えていくスペイン王宛の覚書に押印している。覚書には、前回と同じく「キリシタン布教は禁じるが、通商は続けたい」と記されていた。ところが、ソテロ等スペイン神父が担当した翻訳には、「キリシタン宗門を喜ばず」と柔らかく変更されていた。
これまでソテロから、「家康はキリシタンを保護すると約束した」と信じ込まされていた、ヴィスカイーノは約束が違うと慨嘆したが、托鉢派は日本進出以来、この詐欺的手法でフィリッピン、スペインの上層部と日本人を欺き続けていたのだ。但し同じキリシタンでも、イエズス会は現実を厳しく認識していた。

ヴィスカイーノ帰国出来ず、日本船も座礁

9月16日、ヴィスカイーノは金銀島探険の後、帰国すべく浦賀港を出航していった。想像上の島である金銀島を発見出来る訳がなく、船も大嵐に逢って損傷したため、已むなく浦賀港に帰港せざるを得なくなった。浦賀に着いて彼が見たものは、伊東で建造された大船が港外で座礁している惨めな姿だった。ところで、意外にもこの船に、再度家康の大使に任命されたソテロが乗っていたのだ。更に伊達家の二人の”兵士”までも乗船していた。

こうして、日本人とヴィスカイーノとソテロと言う夫々異なった目的を持った三組の太平洋横断計画は揃って挫折し、新たな構想のもとに、仕切り直しをせざるを得なくなった。
さて、次回はいよいよ決行される慶長遣欧使節の船出を見届けたい。

写真説明:1.瑞巌寺本堂(国宝)、宮城県松島

6)慶長遣欧使節団、産みの苦しみ

サン・セヴァスティアン号出航、挫折

1612年(慶長17年)秋、三組の太平洋横断計画がそろって挫折したことは、前回述べた。ヴィスカイーノのノヴィスパンへの帰航は、予定の行動だった。しかしヴィスカイーノに置き去りにされた幕府船とソテロの太平洋横断計画は、予定外のことだった。家康、秀忠は日本船による太平洋横断を悲願としていたが、船は建造出来ても、操船はスペイン人船員抜きには出来ない相談だった。当初の計画では、サン・セヴァスティアン号は、サン・フランシスコ二世号の僚船として太平洋を横断する計画だった。この幕府船にソテロが乗船していたのは分かるが、仙台藩の兵士が二名乗船していたのは、どう言う事情なのか。

兎に角サン・セヴァスティアン号がノヴィスパンに向かった事情は、全く謎に包まれている。
当時の政治情勢を伝える「駿府記」「当代記」「伊達家文書」にも一切記述がないのである。唯一サン・セヴァスティアン号に言及しているのは、シピオーネ・アマチの「使節記」第11章であるが、信頼性は低い。その他に、翌年(1613年)政宗がノヴィスパン副王に宛てた書状の控え(石母田文書)に、同船に関する記事がある。これ等を総合すると、以下のように推定される。

「秀忠は家康の承諾のもとに、一船(サン・セヴァスティアン号)を建造し、ヴィスカイーノが帰航する際に僚船として伴わせて、ノヴィスパンに渡らせようとした。ソテロは家康の使節として、同船に乗って渡航することになった。ソテロは奥州でキリシタン宗門を広めたい熱望があり、政宗に太平洋を渡る船の造船を勧めたが果たせなかった。そしてソテロは幕府使節として、今回ノヴィスパンに行くにあたって、政宗の使者として家臣を派遣してもらい、かの地に着いた後は、自分の思いのままに利用しようと謀ったのではないか。
ところが、完成した船が大き過ぎて、約束が違うと、ヴィスカイーノは日本船を僚船として率いていくことを拒否、サン・フランシスコ二世号単独で出航してしまった。そこで已む無く幕府はヴィスカイーノを諦め、二週間後、サン・セヴァスティアン号に、多数の日本人と商品を載せ、ソテロとサン・フランシスコ二世号から離脱した10名ほどのスペイン人船員を頼みとして、出港させた。」そして、二隻とも渡航が挫折したのである。

秀忠、政宗に大船の造作を命ず

サン・セヴァスティアン号の挫折後、家康、秀忠は、太平洋横断計画を諦めるどころか、、新企画を編み出した。江戸幕府が寛政11年(1799年)、諸侯が提出した資料を基に編纂した著名な「寛政重修諸家譜」の伊達政宗の項に、下記の記述がある。
「慶長18年(1613年)八月十五日、仰せを承りて、向井将監忠勝と計り、新たに船を造作し、江戸に在留せし南蛮人楚(そ)天(て)呂(ろ)を送り返すにより、御具足御屏風等を、かの国に賜る。九月十五日、忠勝が配下の者、政宗が家臣支倉六右衛門常長等、及び南蛮人、合せて百八十人余、領国牡鹿郡月ノ浦を出帆す(日付は邦歴)」とある。

即ち伊達政宗は(秀忠から)命ぜられ、御船手奉行の向井忠勝と協議して新たに船を造ったという。家康が駿府に隠居した際、御船手奉行は二つに分かれ、向井正綱は駿府の御船手奉行となり、嫡男の忠勝が将軍秀忠の御船手奉行となっていた。従って、慶長遣欧使節の乗船サン・フアン・バウティスタ号建造は、将軍秀忠の船手奉行が担当したことになる。

秀忠が政宗にノヴィスパンへの使節派遣を命じたことは、此れまでの経過を見ると、あり得ることである。即ち、前年サン・セヴァスティアン号が浦賀水道で座礁したこと、スペイン船が房総半島で遭難したこと、ヴィスカイーノの船が黒潮に流されて、浦賀に入港出来なかったこと、等から浦賀港への出入港が困難であることに、幕府は気が付いたのだ。

しかも、マニラからアカプルコに就航しているスペイン船は、日本近海を黒潮に乗って北上し、牡鹿半島沖から進路を東に変え、海流と偏西風を利用してアメリカ大陸西岸に達するルートを取っていることも、この頃には、分かってきた。田中勝介一行はこのルートを航海しているのだ。そして、家康なり秀忠が以上の諸事情を考察して、ノヴィスパン行きの船は仙台藩領牡鹿半島で建造することを決め、以前から太平洋横断に関心を持っていた伊達政宗にこれを命じたのである。この辺から船出すると、昔も今も容易に太平洋を横断出来るのである。

以上は航海技術の面から見た、政宗への船建造及び使節派遣命令が下った必然性を、検討したものである。しかし、政宗にノヴィスパン(メキシコ)への使節派遣が下命されたことは、これだけが原因ではない。この時期、幕府は南蛮諸国との通商開始を熱望しながらも、他方ではキリシタン禁制を厳重にする政策に転換していた。通商相手のスペインはキリシタンの大パトロンでもあるため、幕府は「忠ならんとすれば、孝ならず」と言う行き詰まった状態に陥っていた。

この局面を打開するために、同様の目的を有する政宗に対し、暗黙の了解を与え、その企てを支援し、これを決行させたのであった。言い換えれば、幕府の政策を政宗が継承代行したと言える。そして、両者の間にあって陰に陽に使節派遣の実現にまい進したのが、ソテロだった。

サン・フアン・バウティスタ号完成

使節の乗船の建造は、この手の船を三隻建造した実績を持つ、幕府御船手奉行配下の公儀船大工が、設計から艤装まで全てを担当した。仙台藩はヨーロッパ型帆船建造の技術を持たなかったからだ。和船とヨーロッパ型帆船の最大の違いは、和船の船底は平たい箱型であるのに対し、ヨーロッパ型の船底は竜骨と言う船底材を持つV字型であったことだ。また、マストを複数持つヨーロッパ型に対し、和船は一本マストで横帆を一枚掲げるシステムであった。しかも甲板を持たない和船は、屋根もない訳なので、波浪が荒い大洋の航海には不向きであった。和船では沿岸伝いにフィリッピンに行くのが限度だった。

船の建造場所は、仙台藩牡鹿半島西側の入口にある月ノ浦が選ばれた。月ノ浦を出航後、西に向う北太平洋海流に乗り、偏西風を利用すれば、一路アメリカ西海岸に到着出来る。これこそスペイン人ウルダネッタが1565年に発見した太平洋東行路なのだ。1613年4月29日、政宗は向井忠勝に船大工を派遣されたことへの礼状を送っているので、この頃船の建
造が始まっていたことが分かる。船の建造費は全額仙台藩が負担した。

さて、こうして完成した船は500トンの小型ガレオン船で、長さ35、幅10.8、主檣(しゅしょう)31.5、弥(や)帆(ほ)17.8(メートル)の大きさだった。船の用材は松と杉であり、スペイン人はサン・フアン・バウティスタ号と命名した。因みに私が見たメキシコの書物には、この船を「Matsu Maru」と呼んでいるが、「Mutsu Maru」(陸奥丸)の間違いではないかと思う。但し日本では、何故かこの船はサン・フアン・バウティスタ号で通用している。

ノヴィスパンへの使節派遣の趣旨

太平洋横断用の船は、向井忠勝配下の船大工により完成間近となった。ソテロは使節団派遣の仕掛け人として、また案内役、通訳兼交渉役として、余人をもって代えがたき人物となっていた。ところが、この年の8月、江戸のソテロの教会の宿主、修道士ら数名がキリシタン禁令により、処刑されている。ソテロも彼の部下たちと共に入牢していたが、政宗の幕府への助命嘆願により釈放された。これにより政宗は「余人をもって代えがたきソテロ」を確保した上、彼には命の恩人として恩を売ることが出来た。

伊達政宗のノヴィスパンへの使節派遣の趣旨は、副王宛書状によると、下記の通りであった。即ち、同国との直接通商を開くこと、ノヴィスパンの精錬技術の導入、スペイン船員による操船術指導等であった。その上、政宗は「自分はキリシタンになるつもりである」「宣教師を送って欲しい」「教会も建てさせ、種々援助する」等々と書いている。これ等の文言は、彼の信条にも幕府の政策にも反するにも係わらず、政宗は署名し花押を添えた。いかにソテロが書いたのにせよ、これは実に不可解なことである。政宗が幕府の政策に逆らい、且つ自身もキリシタンになる、と本気で宣言したならば、虚言者(うそつき)の典型と言わざるを得ない。彼にそんな気は少しもなかったからだ。それにしても無責任極まる政宗の対応であった。これは終始「我は通商を欲し、布教は禁ず」と明言してきた家康と政宗の大きな違いであった。

しかしこの様にソテロに好き勝手なことを書かせた書状を持たせる代わりに、ソテロとスペイン人船員に乗組んで出航してもらう外なかったのであり、これを幕府に咎められた際は、このことを認めてもらえる自信があったとしか理解しようはない。この様な事情が分からないまま、未だに多くの人が謎解きに苦しみ、挙句は政宗謀反説、スペインとの軍事同盟締結説等を生む原因となった。公式文書に幕府政策に反することを記したのだから、後世の我々が誤解するのは、無理からぬことだった。しかしこの二枚舌的ソテロの手法の化けの皮が剥げるのも時間の問題だった。

ソテロ、渡航計画変更を迫る

ところが、サン・フアン・バウティスタ号が出航間近に迫ったころ、ソテロは突然渡航計画変更を仙台藩重臣でありキリシタンでもあった後藤寿庵に告げ、使節は奥南蛮(欧州)まで行くべきことを提案した。仙台藩の記録によると、1613年10月17日、政宗はローマ教皇、スペイン国王、セヴィーヤ市長、フランシスコ会上長宛の書状を認める(したた)、とある。出航のたった11日前である。従ってソテロが計画変更を告げたのは、10月に入ってからではないのか。尚これ等の書状の内容はノヴィスパン副王宛の書状と大同小異であった。
計画変更の事情は日本側の記録には残っていないが、寿庵と親交があったイエズス会のイタリア人宣教師ジェロニモ・デ・アンジェリスがイエズス会本部総長宛の1619年の私信でこの件を報告しているので、下記に引用しよう。

「ソテロはノヴィスパンとの通商交渉は、スペイン国王ともすべきであり、同時にローマ教皇へも使節を送るべきである、と説いた。また、交渉を進展させるためには、相当の進物を贈るべきとも強調した。そしてこの条件が受付けられなければ、自分は乗船しない、と難題を吹っかけた。政宗は造船に多額の資金を投入して船を完成した後でもあり、出航を目前に控えて中止する訳にも行かず、計画変更を承認せざるを得なかった。」

ソテロは自分の野望を達成するために、是が非でもローマに行く必要があったことは、既に述べた。これを絶妙のタイミングで切り出したのである。アンジェリスの書簡は、計画変更の理由を明確に記していないが、「政宗は司教が何のことかも理解していなかった」という記述があるので、例の新司教区開設を話したと思われる。

なお、支倉がスペイン国王フェリッペ三世に提出した政宗の書状の原文書は伝わっていないが、仙台藩の奉行石母田家にその案文が残っている。この文書だけでも問題だが、その際支倉がフェリッペ三世に述べたと言われる挨拶が、とんでもない代物なのだ。これは後段で詳しく述べる。

一方家康、秀忠のノヴィスパン副王宛書簡と進物は、前年ヴィスカイーノに下付したものを、そのままソテロと伊達藩の使節が携えて行くことになった。この投げ遣りな応対から、家康・秀忠の主要目的はノヴィスパンとの通商ではなく、太平洋東行路の調査と大洋での航海術の習得にあったのではないか、と思えてくる。事実家康、秀忠は政宗の使節がノヴィスパンだけではなく、計画を変更して奥南蛮にまで行くことに、格別異議を唱えていないことも奇妙なことである。

こうして政宗の使節は奥南蛮まで足を伸ばすことになった。慶長遣欧使節の誕生である。ところで、肝心の使節支倉六右衛門はどのような経緯で任命されたのか?
次回の最終回は使節決定の経過を辿り、矛盾と謎に満ちたこの使節団の出発を見届けたい。


写真説明:サン・フアン・バウティスタ号の復元船、宮城県慶長使節館(石巻市)に展示されている。