連載エッセイ276:富田眞三「慶長遣欧使節の謎」その3 - 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

連載エッセイ276:富田眞三「慶長遣欧使節の謎」その3


連載エッセイ276

「慶長遣欧使節の謎」その3

執筆者:富田眞三(在テキサスブロガー)

7)いよいよ使節団出発 

何故支倉は使節に選ばれたか?

支倉六右衛門はどの様な経緯で伊達政宗の使節に選任されたのか、検証してみよう。政宗

は、1613年(慶長18年)5月20日、船の件で書状をソテロに送り、文中使者について「南蛮へ遣わし申候使者の事、此の以前申し付け候者共に相定め候」と言うくだりがある。要するに、「今回南蛮へ送る使者は、昨年船出し座礁した幕府船に乗船させた者たちに決めた」ということである。乗船させた者たちとは、ヴィスカイーノが伊達藩の二人の兵士がサン・セヴァスティアン号に乗船していたと、記した者たちのことであり、その二人を今回も使者として選んだ、と政宗がソテロに通知しているのだ。政宗が使者の名を明記していないことから推して、その人物が身分の低い者であることを示している。又ヴィスカイーノが「兵士」と言う語を使っていることもこの事を証明している。後で分かった様に、この二人の中の一人が支倉六右衛門だった。

支倉六右衛門とは、一般に常長と言い習わされている人物のことであり、慶長遣欧使節の使節に任じられた人物である。支倉が使節に選任された経緯は、これ又はっきりしていない。唯一この件に触れているのは、先に紹介したアンジェリスの1619年11月31日付け書簡で、下記の記述がある。
「政宗が使節に任命した六右衛門は身分の低い家来であった。彼の父親は息子の出航数ヶ月前、盗みの罪で切腹を仰せつかった。日本の習慣では、息子も知行を召し上げられ、死罪に値するところを、スペイン、ローマに使いすることで、苦痛を味うことに減刑する方が良い、と判断されて使節に任命された。おそらく航海の途中で死ぬだろうと予想し、召し上げた知行は返還された」

因みに使節に任じられた時、支倉の知行は60貫文だった。仙台藩は石高制を取らず、貫文制をとっていたため、石高にすると600石となり、藩では中級の武士だった。
尚、上記支倉の父親の切腹の件は、昭和61年、仙台博物館が発見した政宗自筆の書状によって、確認、立証されている。また、アンジェリスは、支倉はローマまで旅すると書いているが、彼が任命された5月の時点では、最初の計画通りノヴィスパンまでの旅程だったことを付け加えておく。

政宗が、自らの使節を数ある重臣のなかから選ばず、処刑人の息子を選んだことは奇怪だが、「何年か後に生きて帰ろうが死んでしまおうがどうでも良い」人物と言う基準で選んだ、と考えられる。又、政宗は南蛮要人宛書状に、幕府の政策に反する箇条を記していることを考慮すれば、将来その責任を幕府から問われた際、責任が政宗に及ばないように、故意に身分の低い家臣を選んだとも考えられる。一種の危機管理である。決して支倉に特別な才能があって選ばれた訳ではないのだ。

使節団の主席は政宗のローマ教皇、スペイン国王、ノヴィスパン副王への書状を託されたのが、支倉六右衛門であるので、彼を主席と見るのが妥当とする説がある。しかし、政宗の副王への書状の中に、「ソテロを使者とし、三名の侍を伴わせる。その内二名は奥南蛮(欧州)に行かず、ノヴィスパンから帰朝し、他の一人は奥南蛮まで赴くよう申し付けてある」と記されている。他の一人とは支倉六右衛門のことである。

これを見ると、ソテロが実質的な団長であったことは疑いないが、外交使節としては、日本人が主席でなければ、格好が付かないので、六右衛門を一応使節団長としたのだろう。又、政宗は危険度が高い奥南蛮への旅は六右衛門だけを送る予定だったことが分かり、アンジェリスの記述が正しいことを証明している。

慶長遣欧使節の船出

慶長18(1613年)年10月28日、サン・フアン・バウティスタ号は伊達政宗が派遣する慶長遣欧使節団員、宣教師、スペイン人船員及び日本商人を乗せて、無事仙台藩領内の月ノ浦港を出航した。仙台藩文書によると、乗組員、乗客は計180余人だった。内、名前が分かっている者は支倉六右衛門、今泉令史、松木忠作、田中太郎右衛門、西 九助、内藤半十郎、九左衛門、内蔵充、主殿、吉内、久次、九蔵の十二名である。尚支倉以外の者の身分は不明である。幕府御船手奉行向井将監忠勝の家人、10名ばかり。南蛮人、40名ばかり。この内、名前が分かっているものは、ルイス・ソテロ、ヴィスカイーノと三人のフランシスコ会宣教師、ディエゴ・イバニェス、イグナシオ・デ・ヘスス、グレゴリオ・マティアスである。
氏名不詳の南蛮人は、ヴィスカイーノ配下のスペイン人船員だった。その他商人120名、とある。商人の中には、忠勝配下の船頭、水夫、とソテロが乗り込ませた亡命志望のキリシタン信者等が紛れこんでいた。合計180余名であった。尚、正確な乗船者名簿は未だ発見されていない。

スペイン船員と日本人水夫が乗り組んだサン・フアン・バウティスタ号は92日の航海後、1614年1月28日無事ノヴィスパン、アカプルコ港に入港した。

ノヴィスパンに到着。使節団、奥南蛮組と帰国組に分かれる

使節団のアカプルコ上陸と時を同じくして、大御所徳川家康はキリシタン殲滅のために、重臣大久保忠隣を京都に派遣した。一年前の春、幕府は「南蛮の記(き)利(り)志(し)旦(たん)の法、天下停止すべし」と布告して幕府直轄領から宗門、宗徒を禁圧する方針を採ってきた。そして使節団のノヴィスパン到着と時を同じくして、この布告を全国に及ぼしたのである。この方針転換は、オランダ、イギリス両国の日本進出により、南蛮両国の対日通商独占状態が崩れたこと以上に、日本が南蛮両国の敵国と友好関係を結んだことを意味する。

矛盾と虚偽に満ちた使節団を待ち受ける厳しい現実も知らず、支倉等使節団員はスペイン王国の最大の植民地に第一歩を記した。船の同船者だったヴィスカイーノ・スペイン大使はアカプルコに上陸するや否や、メキシコ・シティーの副王庁に駆けつけた。幕府の宗教政策がキリシタン禁圧の方針となり、殉教者が続出していることを報告するためだった。ヴィスカイーノ大使の報告は、直ちにスペイン本国に送られた。一年前家康の大使、ムニョス師は無事スペイン国王に家康の親書を提出したが、日本は「キリシタン宗門を喜ばず」と和らげた表現の翻訳が功を奏して、スペイン国王は「毎年一隻商品を満載した船を日本に送ることを許可した」ばかりだった。しかしヴィスカイーノ大使の報告は、この決定に影響を及ぼすことは必定だった。何故なら南蛮両国は「異教徒とは商取引しない政策」に固執していたからである。

ところで、使節の資格、即ち彼らは日本国を代表する使節ではなく、一領主の使節ではないか、と言う疑問、及び使節団の目的にも疑問があるとして非協力的であったノヴィスパンの高官たちに対し、ソテロは40人ほどの商人たちをメキシコ・シティーの教会で集団洗礼させると云う切札を使った。これが副王及び大司教の頑なな態度を軟化させ、ソテロはスペイン、ローマへの渡航の手掛かりをつかみ、商人たちは船で運んだ商品の販路を見出した。当地での予定を終えた使節団は二つに分かれ、支倉他約30名がソテロの引率で奥南蛮に向い、残りの100余名の日本人は一年間のノヴィスパン滞在後帰国した。

支倉、ソテロ、マドリードにてスペイン国王に謁見

そして遂に一行は1614年12月、セビリャを経てマドリードに入った。この年(慶長19年、1614年)は在日宣教師の大部分がマカオとマニラに追放され、キリシタン大名の高山右近も国外追放処分を受けた。大阪冬の陣が戦われたのもこの年であり、大阪方が敗北したのは12月26日のことだった。

スペインに於いても、この使節たちの資格、目的及び幕府のキリシタン禁圧の方針を巡って、インディアス顧問会議は紛糾した。しかし年が明けて1615年1月30日、支倉使節一行はマドリードの王宮で、スペイン国王フェリペ三世に謁見を賜った。この謁見の様子はアマチの「使節記」に記載されている。この時期アマチはマドリードに滞在しており、その後支倉一行のローマでの通訳に任じられてローマに同行している。「使節記」前半の記事はソテロからの伝聞であったため信憑性に欠けるが、マドリード以降の使節に関する記事は史料的に価値がある、と松田博士も認めておられる。

さて、アマチは謁見の模様をこう描写している。
支倉はフェリペ三世に謁見した際、日本語で挨拶を述べ、通訳はソテロが務めた。六右衛門の挨拶の中に、つぎの様な件(くだり)がある。「わが君なる奥州国王(政宗)は自ら洗礼を受け、自らの臣下をことごとくキリシタンに帰依させることを欲している。さらにわが君政宗は陛下(フェリペ三世)の強大なこと、その庇護を請う者に対しては寛大なことを聞き、予を派遣し、その位とその領土を陛下に献じ、大国と親交を結ばせることにした。今後は何時にても陛下の望みに応じ、喜んでその全力を用いるであろう」

以上を支倉が日本語で話したという証拠はないが、通訳のソテロがこの様に言ったことは間違いない。支倉の挨拶を聞いたフェリペ三世は感動し、歓喜の表情を浮かべて答辞を述べた、とアマチは記している。支倉が述べた政宗の言葉が荒唐無稽な虚偽であることは、勿論だが、こう言う愚劣なソテロの外交交渉を黙認した政宗こそ、責任を問われるべきであった。
スペイン帝国植民地の全てを統括するインディアス顧問会議は、「政宗が日本の主権者でないことは明らかであり、キリシタン迫害が日増しに増大していることも確認した」として、この使節団は政治的には、全く相手にされなかった。

当然のことながら、スペインでも使節団が目指したことは、何一つ入手出来なかった。しかしソテロはここでも支倉ら三人の使節を、国王臨席のもとに洗礼させると言う切札を使った。又してもこれが効を奏し、スペイン国王は使節団のローマ行きを認め、旅費、滞在費を支給した。

ローマ到着、哀れな末路

使節団はスペインを離れ、ローマ教皇との謁見に全てを賭けてイタリアに渡って行った。
ローマ教皇には奇跡的に謁見を賜ったが、これによっても事態は変わらず、ソテロが熱望した東日本司教区の新設も認められなかった。

失意の中にスペインに戻った使節団は、マドリードに立ち寄ることを許されず、セビリャに直行した。支倉とソテロは国王の政宗宛返書を受け取らなければ出発しない、と同地に居座ったが、一年半後の1617年7月4日、ほぼ強制的にノヴィスパン行きの船に乗船させられて、セビリャを退去させられた。セビリャ市当局は使節団が多数の人員を率いて旅しているにも係わらず、スペインに於ける全ての費用を市に負担させた事は、いかにも思慮に欠け、詐欺に等しいとソテロを非難した。この非難は当然な話で、当初使節団はセビリャ市から歓迎され、招待客として扱われたが、再度の滞在は一年半と期間があまりに永すぎた。それにしても、この使節団のノヴィスパン出航以降の旅は、ヒッチハイク其の物であった。政宗が使節たちに必要経費も渡さなかったのは、ノヴィスパン以降の旅はソテロ自身の野望の為の旅と認識していたのか、理解に苦しむ。

さて、使節団が最初にセビリャに到着した時、団員は約30名を数えたが、ローマには15名位しか渡航しておらず、更にソテロ、支倉と共にノヴィスパンに戻った者たちは、5名であった。この数字を見ると、相当数の亡命志望のキリシタン等が同市近辺に居残ったものと推定される。事実セビリャ近辺には、2,000人近くのJapon-ハポン-と言う苗字を持った住民が居住している。彼らは当地に残留した使節団員の末裔である可能性が高い。その末裔の一人がミス・スペインに選出されて評判になったのは、10年ほど前のことだった。


セビリャの近郊都市コーリア・デル・リオにある支倉常長像。グアダルキビル川に面している。

ノヴィスパンに戻った使節団員の足取りは次の通りである。

1618年(元和4年) 4月2日 ソテロ、支倉一行アカプルコ出航 7月、マニラ着
1620年(元和6年) 9月22日 支倉、マニラより仙台着、ソテロはマニラに残留
11月6日 政宗、キリシタン宗門を禁じ、信徒たちを処刑
1622年(元和8年) 8月7日 支倉、死去
10月22日 ソテロ、マニラから潜入して捕らえられ、大村の牢に収監さる
1624年(寛永元年) 8月25日 ソテロ、大村の放虎原にて火刑により殉教死。後年、列福

支倉六右衛門の死

支倉は帰国二年後、死亡した。彼の死因もはっきりしていない。キリシタンに改宗したことを追及されて転んだ即ち、棄教した後病死したとも言われている。しかし、私はカトリック信者として、遠藤周作氏の小説「侍」の結末を支持する。小説はお役目のため心ならずも改宗したフェリッペ・フランシスコ・六右衛門が、最後は信仰に殉じた模様をこう記している。
尚、文中の「あの方」とはイエス・キリストを指す。
「御沙汰」
いつぞやのように平伏した侍の頭上で役人の声は聞こえた。
「邪宗門に帰依したる故、再吟味致すに付、このまま評定所に出頭すべく……」
障子をしめた廊下で何人かの男が息をこらしているのが侍にはわかった。それはもし侍がその御沙汰にかくされたものを感じ、逆上した場合、彼を捕えるために待っている男たちだった。妻と勘三郎とに宛てた手紙を書き終え、頭髪を少し切ってその手紙に入れた。そして彼のそばで待っている石田さまの御用人に頼んだ。
「小者の与蔵をよんでくだされ」 (中略)
「藩がお前をそのように扱わねば、江戸に申し開きができのうなった」石田様が言われたお言葉も耳に甦ってくる。すべては初めから決まっており、その決まった轍(わだち)の上を自分は動かされていく。暗い虚空のなかに落とされていく。  (中略)
与蔵がいつの間にか雪の庭に正座してうつむいていた。彼は用人からすべてを知らされたにちがいなかった。眼をしばたきながら侍はしばらくこの忠実だった下男をみつめ、「今日までの苦労……」と言って咽喉をつまらせた。     (中略)
「ここからは……あの方がお供されます」
突然、背後で与蔵の引きしぼるような声が聞こえた。「ここからは……あの方がお仕えなされます」

侍はたちどまり、ふりかえって大きくうなずいた。そして黒光りするつめたい廊下を、彼の旅の終わりに向って進んでいった。

終わりに

今、私はメキシコ湾のキューバ近海を航海する78,491トンの豪華客船「ラプソディ オブ ザ シーズ号」上で、この文を書いている。400年前この海を支倉、ソテロ一行がこの船の百分の一にも満たない、サン・ホセ号で奥南蛮に向っていたことを思い、感慨無量になっている。そして伊達政宗の慶長遣欧使節は果たして何であったのか、何か成果を挙げたのか、を考えている。

端的に言えば、唯一達成されたことは太平洋横断航路の調査、及び大洋での航海術の習得であった。この二つは共に家康が1590年代から熱望、追及していたこと、即ち「日本人と日本船によって太平洋を横断し、太平洋の彼方なる国、Virreinato de Nueva Espana(ヌエバ・エスパーニャ副王領、ノヴィスパン、現メキシコ)と交易したいと言う雄大な夢の成果であった。

この夢の実現のために召集されたのが、政宗とソテロだった。政宗は彼の領地が太平洋横断船の出航地として理想的であったためであり、ソテロは南蛮への案内人、通訳として欠くことの出来ない人物であったためである。政宗は大船を建造し、日本人による太平洋横断を果たしたことで家康の期待に応えた。しかし計画遂行に当たって、政宗はソテロを利用しようとして反対に利用され、欺かれた。

一方ソテロはこの絶好の機会を自身の出世欲を満たすために最大限に活用し、使節をスペイン、ローマまで引き摺って行った。祖国ですっかり信用を失ったソテロは、ローマでの殉教を予感し、暴君ネロの支配するあの国に死を覚悟しながら向った聖ポーロに肖る(あやか)かの様に、彼も日本に戻り、殉教した。

家康は当時世界的にも稀有な複眼的視野を持った政治家であった。つまり彼は南蛮人によるキリシタン的世界とオランダ、イギリス人による新教的世界をはっきり区別して認識していたのであり、時代の趨勢に逆らう南蛮両国に見切りをつけて、彼らの敵であった新教諸国と友好関係を結んだ。家康は慶長遣欧使節派遣以前から、盛んに朱印状を発行して東南アジアへの日本人の渡航を推進していた。彼は通商による日本人の海外進出を目指していたのだ。惜しむらくは、この天性の海洋民族が苦労して身に付け始めた、ヨーロッパ型帆船建造技術と大洋での航海術による海外進出の夢が、壮途半ばにして彼の孫、家光の代の鎖国によって終焉してしまったことだ。


肖像画は晩年の徳川家康

「慶長遣欧使節の謎に書き残したこと」10月2日‘07

「慶長遣欧使節の謎」はお陰様で皆さんの関心を集め、多くの方々から反響がありました。
私も書きながら色々勉強する必要に迫られ、大変充実した日々を送ることが出来ました。
ところで「慶長使節の謎」に書き残したことが幾つかあります。何れも「慶長遣欧使節」の錯綜した問題に関わる興味深い題材ですが、今回は当時聖職者が使った「聖なる偽り」と言う概念を、ソテロの言動を通じて考察してみたいと思います。

Engano Eclesiastico

「聖なる偽り」とは何か?

このポルトガル語の教会用語は、「教会(聖職者)の誤り、偽り、欺瞞」とも訳せる言葉で、Santo Enganoと言う言い回しもあり、意味は同じである。後者を日本では、「聖なる偽り」と訳しているので、この稿は「聖なる偽り」で通したい。

16,7世紀、カトリック教会は組織を挙げて、異教徒への布教またはカトリック教的教化を、世界中で熱狂的に行っていた。その際、彼らの言行が布教の目的に副うか副わないかが彼らの判断基準であり、真実か否かは二義的な問題とされていた。その結果異教徒をカトリック信者に改宗させると言う大義名分のためには、如何なる手段、策略、偽りも許されるとした。何故ならば、野蛮人である異教徒はカトリック教徒に改宗することによって、イエス・キリストと繋がりが出来、魂が救われるからであり、それが取りも直さず神の御旨に叶うことであると自己正当化していたのである。当時のカトリック教会はこの種の手段を「聖なる偽り」と称していた。

当時のイベリア人たちは武力征服は悪であるが、布教による征服、即ち「魂の征服」は正当な行為である、と信じていたのは、上記の論拠によるものであった。そしてスペイン、ポルトガル両王室は共に「異教徒のカトリック教への改宗」を国是と決めて教会の大スポンサーとなり、新世界で得た巨万の富を布教活動に注ぎ込んでいた。

そして聖なる偽りにはヴァティカンが取り扱う高度且つ政治的なものから、第一線の宣教師の日常の説教に至るまで、様ざまなレベルのものが存在した。尚、これはテキサスの神父様に教わったことであるが、カトリック教会の最大の過ちであったと教会自身が認めて反省した、中世の十字軍派遣も将に聖なる偽りの産物であった。

ところで、この「聖なる偽り」をルイス・ソテロは「慶長遣欧使節派遣」に際して、縦横に駆使したのである。ソテロが使った偽りはヴァティカンのお株を奪う様な高度なものであった。日本語を自由に話せたソテロは南蛮への案内人、通訳として欠くことの出来ない人物であったため、家康、政宗に重用された。そしてソテロはノヴィスパンに使いするこの絶好の機会を自身の出世欲を満たすために最大限に活用し、使節をスペイン、ローマまで引卒していった。これがソテロに関する定説である。

ソテロの虚言も「聖なる偽り」

しかし、視点を変えると、ソテロの荒唐無稽の嘘も「聖なる偽り」手法に準拠したものとも言える。ソテロの目的は政宗の後援のもとに、東日本に於いてカトリック教の布教を大々的に行うことだった。それは、日本での布教にすっかり臆病になっていたイエズス会の事勿れ主義ではなく、より積極的な布教を目指すものだった。この大目的を達成するためには、東日本司教区の新設許可と彼自身が司教に任命されることが不可欠だった。と言うのは当時日本にはソテロが目指すアグレッシブ且つ無謀な布教を考える宣教師は彼以外に誰も居なかったのである。当時幕府の禁教令により、日本の教会そのものの存続が全滅の危機に瀕したが、ソテロはローマに行くことにこだわった。何故ならば新教区の認可、司教の任命権は、ローマ教皇に属していたからである。

スペイン王室の援助を受けるフランシスコ会は日本に於いて、ポルトガル王室が後援するイエズス会に追い付き追い越したい、と言う焦りが禁じ手の「聖なる偽り」を使わせた、と考えられる。しかも、この頃には、新教国家のオランダ、イギリスが日本に接近し始めたことも、ソテロが乾坤一擲の勝負に出たことと無関係ではなかった。では、ソテロが目的達成のために、作り出した偽りを列挙してみる。

ソテロの偽り:

1)家康のスペイン王宛文書(複数)の翻訳に手心を加え、決して「家康がキリシタン布教を禁止している事実」を書かずに、スペイン、フィリッピンの上司を騙し続けた。
2)政宗はキリシタンに帰依し、瑞巌寺の800もの仏像を破壊した等の虚偽の事実をシピオーネ・アマチに提供して彼の使節記のヨーロッパでの出版を後援し、政宗はキリシタンの保護者と言う虚偽のイメージをPRした。
3)スペイン人要人と日本人との会談を通訳する際、再三布教に都合の良いように、内容を変えた。
4)教会幹部、スペイン国王、教皇を歓喜、感激させようと信心も無い数十人の日本人に洗礼を授けた。
5)政宗のノヴィスパン副王への書状に、「自分はキリシタンになるつもりである、宣教師を送って欲しい、教会も建てさせ、種々援助する」等政宗の心情にも幕府の政策にも逆らうことを書いた。これに政宗は署名し花押を添えている。
6)支倉がスペイン国王フェリッペ三世に謁見した際、次のような挨拶をしたと、ソテロは通訳をした。
「我が君なる奥州国王(政宗)は陛下(フェリッペ三世)の強大なこと、その庇護を請う者に対しては寛大なことを聞き、予を派遣し、その位とその領土を陛下に献じ、貴国と親交を結ばせることにした。」いくら何でも政宗がこのような荒唐無稽な虚偽を言う筈がなく、ソテロの創作だった。

「聖なる偽り」の後遺症

以上の偽り中で最悪は、政宗の副王宛の文書であった。後世の歴史家は、卑しくも公文書に心にも無い虚偽を書くはずがないと言う思い込みから、これを政宗の本心と信じ、様ざまな解釈を施している。政宗謀反説、スペインとの軍事同盟説と色々ある。文書の内容が幕府に露見したら、どうする積りだったのか、と余計な心配までした先生もいる。

事実、この文書をはじめとする一連の「聖なる偽り」が慶長使節を判り難いものにしたのは、疑いない。政宗は幕府、ローマ教皇、スペイン国王等を欺いた虚言者とされてしまった。しかし、これまで述べてきたように、これは東日本のカトリック教を振興すると言う目的を持った「聖なる偽り」と言う策略だったのである。

政宗は策略についてはプロ中のプロであった家康に、彼とソテロの意図することを明確に話して了解を得た筈だ。政宗の策略とは、「ソテロに乗船して貰う為に、心にも無い虚偽を南蛮向け公文書に書いたこと」だった。読者諸賢はソテロがノヴィスパンに向けて出港する直前、使節団をスペイン、ローマまで派遣して呉れなければ乗船しないと、政宗を脅迫したことを御記憶だろう。その際やむを得ず、ソテロに好きなことを書かせたことを、政宗は家康に釈明した訳だ。

多分家康はにやりと笑って、政宗に「よきに計らえ」と言ったに違いない。諸般の事情から、自分の太平洋横断計画を政宗に継承代行させた家康は、結果的には教皇、スペイン国王、托鉢修道会派を欺く悪役の役どころも政宗に任せて、自分は高みの見物をしたことになる。

また、ソテロの「聖なる偽り」の援用も個人的な出世欲のためではなく、日本のカトリック教の発展を彼なりに考えてのことだった。だからこそ、ソテロは慶長遣欧使節が失敗に終わった後、マニラの修道院長のポストをなげうってまでも日本の信者のお役に立ちたい、と日本に戻り殉教死した。唯の我利我利亡者には出来ないことだ。この辺の事情は拙稿の五、六、七編を参考にして頂きたい。


支倉常長像(仙台市博物館所蔵)