執筆者:設楽知靖(元千代田化工建設、元ユニコインターナショナル)
最近の国際ニュースのなかで、ラテンアメリカ地域が、すっかり忘れられているように感じてならない。しばらく前は、中米からメキシコを経由して米国への『不法移民』のキャラバンの動向、米国トランプ政権はメキシコとの国境に『壁』を建設することを具体化させた。その後、ラテンアメリカ諸国の大統領選挙では『左派政権の誕生』が叫ばれ、また、中国のラテンアメリカ地域への進出が強くなるにつれ『台湾』との断交や、台湾の総統の中米訪問や副総統のパラグアイ訪問などが報道された。
また、G7やG20のなかではブラジルの顔がBRICSを通して見えるぐらいで、『エネルギー問題』のなかではラテンアメリカ地域は無視されているようである。一方。食品関係ではメキシコとペルーの『アボガド』が日本に入ってきたり、『エッグ・ショック』では、ブラジルから鶏卵の輸入が報じられている。
日本に於いては、人口減少や労働力不足。そして、これに伴う外国人雇用の問題がクローズアップされ、米国では白人社会での人種差別の問題から大学入試の『積極的差別是正』
(Affimative Action)の逆戻りの様な判決など、複雑化の傾向が出てきている。そして、今回、この表題の様な問題を考察して、『メキシコと米国の歴史的変遷について』も検証してみることとした。
発見や領有権の問題では,新大陸においてイギリス、フランス、スペイン、ポルトガルの間で激論があったと言われる。その中で、どの国も先住民、インディアンの『領有権』は一つの権利、すなわち、購入か征服という二つの方法によってのみ、譲渡される権利として認めていたという点で一致していた。
米国(アメリカ合衆国)とスペインの間では1819年『アダムス・オニール条約』というのがあり、米国はスペインからフロリダを譲渡される代わりに、テキサスへの進出を断念することでスペインとの間で取り決めがあった。
メキシコは征服以来、300年間の『ヌエバ・エスパーニャ』としてスペインの植民地となって、スペインからの独立の戦いを初めたのは1810年であった。テキサスはこの時はスペインの植民地であった。1821年、スペインから独立したメキシコ政府によって、米国南部出身のオースティンがメキシコ領テキサスへの入植を認められ、米国南部からの『移民』を増大させた。この時、メキシコの領土は現在の国境、リオグランデ川の北側の米国の7つの州まで領有していたのである。
イギリスの宗教弾圧により、対立するピューリタン(清教徒)が1620年9月16日、メイフラワー号(乗客102人、乗組員20~30人)が北米へ出航、移住した。彼らは1691年にかけて、北米イギリス植民地の先駆けを作り、現在のマサチューセッツ州南東の大半を領有した。先住民インディアン文化とイギリスの習慣の違いから、多くの誤解が生じたが、1776年北東海岸の13の植民地は連邦形式でイギリスから独立した。
ピューリタンは家族で移住し、先住民インディアンと決して融合することなく、厳しい気候の中で定住生活を続けた。そして、マサチューセッツに移住した人々の一部がコネチカットに移住したのが始まりとされ、白人の開拓移住が漸次西方へ拡大されることとなるが、これが米国の『フロンティア・スピリット』と言われることである。しかしながら、移住者の大きく立ちはだかったのがアパラチア山脈で、フロンティア開拓を目指す農業移民は米国独立戦争のころにアパラチア山脈を越え始めたとされ、1830年にミシシッピー川を越えてアーカンソーに達したとされている。
このフロンティア・スピリッツは『西漸運動』(Westward Movement)と称され、西部未開拓地への定住地拡大と人口移動であった。また、別の動きとして、19世紀にドイツ移民が激増、その多くはピューリタンの子孫が住む東部を避けて、ミズーリ―州やオハイオ州といった中西部に住んだ。20世紀に入ると、ポーランド、ハンガリーなどの東欧地域からの移民が急増し、彼らの多くは貧しいカトリックやユダヤ人で、ニューヨーク辺りに居住した。
さらに、1930年代にはナチス・ドイツを逃れて、多くの知識人が米国へ、そして、中西部から西海岸へ安住の地を求めた。こうして米国は、移住者のよる『多民族国家』となった。
1492年、イベリア半島で再征服(レコンキスタ:Reconquisata)を成し遂げたキリスト教徒、スペイン王国は兵士の失業という問題を抱えて、コロンブスの西への航海という提案にのり、王室とコロンブス商会の合弁事業(J・V)を展開し、コロンブスの船団はバハマ諸島のグアハニー島(サン・サルバドール島}に到達、その後、エスパニョーラ島のサント・ドミンゴに拠点を置いて、再度の航海ののち、キューバ島からエルナン・コルテスがメキシコのアステカ帝国を征服した。スペイン征服者は男性のみでの征服劇を展開することにより、人種、言語、宗教を征服し、先住民文化を破壊して、人種融合は混血人種(メスティーソ)を生み、『共生』という方策は、一部の宣教師の努力にもかかわらず、本国の植民地政策のなかで葬られてしまった。一方、米国へ移住したピューリタンは家族で定住しフロンティア・スピリッツはすぐには進まず、先住民、インディアンは狩猟民として移動生活を主体としていたので、融合『共生』は行われなかった。
スペイン人征服者たちは、メキシコ中央高原のアステカ帝国を征服、破壊してスペイン植民地『ヌエバ・エスパーニャ』を建設して、北方、南方への拡大を図るとともに、領土拡大は今日のカリフォルニア、テキサスを含むリオグランデ川のはるか北方まで占有された。
この間に、鉱山開発が進み、特にサカテカスの銀山開発は本国を潤すとともに、先住民、インディヘナの大きな犠牲を伴い、エデン鉱山の遺構は今も悲しみが残っている。
一方、米国のフロンティア・スピリッツに基ずく『西漸政策』は、1819年、『アダムス・オニール条約』にもかかわらず、西へ展開され、1803年のルイジアナ購入、1845年のテキサス併合、1846年のオレゴン併合と進められた。この間に、メキシコ(ヌエバ・エスパーニャ)は1810年に独立運動の狼煙があがり、北方領域を維持することが困難となる時期もあった。米国のアングロサクソンは先住民、インディアンを排除しながらテキサスをはじめとする農業適任地への拡大を魅力と考えていた。こうしてスペイン人(ラテン人)と米国人(アングロサクソン人)との衝突が起こることとなった。
フロンテイア・スピリッツで『不法戦士』と言われる米国人がテキサスへ侵入してきた。この衝突の中で1836年3月6日にアラモの砦事件が起こり、この砦に立てこもった米国人、すなわち、不法戦士と言われるテネシー生まれの快男児、デイビー・クロケット(Crockett,David)一等兵、ケンタッキー生まれのジム・ボウイ(Bowie,James)志願兵大佐、そして、サウス・カロライナ生まれのW.B.トラビィス(Travis,William Barret))中佐が1836年2月3日にサンアントニオにおいて合流し、其の一か月後にアラモ砦でメキシコのサンタ・アナ軍と戦うこととなった。
アラモで勝利したサンタ・アナは、1836年3月27日にゴリアットで米国ファニン軍を破り、その後、サンハシントにてヒューストン軍の急襲を受けて、破れてサンタ・アナは捕虜となってしまう。今日のヒューストンから東へ40キロメートルのところに、サン・ハシント戦場跡が残されているが、ここで1836年4月21日、テキサス軍により630人のメキシコ軍が殺害された。サンタ・アナは米国軍の捕虜となるが、ヒューストン将軍はワシントンへ連行して、その後保釈されて米国の艦船でメキシコのベラクルスへ戻ったとされる。ヒューストンはテキサス共和国初代大統領に、1845年,12月、テキサス共和国はテキサス州として米国連邦に加盟が認められた。
1836年3月2日、テキサス分離独立宣言が発せられ、暫定大統領、副大統領が選出されたが、このテキサス叛乱を鎮圧するためにメキシコ市から軍を率いてきたのが、サンタアナ将軍であった。『アラモ砦事件』は、その後の『米睦戦争』の遠因とされているが、米国人にとってはテキサスは移民を通して関心は大であった。一方、メキシコ人にとっては、当時、資源もなく関心が薄かったことと、サンタ・アナの中央集権の動きに反発があった。
又、メキシコ国内では、独立後も人種的区別の問題が生じており、差別意識は分裂をもたらす要因ともなりかねなかった。その差別とは、スペイン本国出身の『ペニンスラ―ル』、植民地生まれの白人『クリオージョ』、そして混血の人種『メスティーソ』と先住民、『インディヘナ』との間であった。
このような状況を圧力で鎮圧して政変を抑圧しようとしたのがサンタ・アナであった。
『米墨戦争』はテキサス併合の戦いではなく、併合はその前に完了していたので、戦争は残りの南西部のメキシコ領の獲得を目指すものであった。米墨戦争の結果、1848年2月2日『グアダルーペ・イダルゴ』条約が締結され、メキシコは領土の半分に当たるリオグランデ川の北側を失うこととなった。これは今日の米国の7つの州、テキサス、ニューメキシコ、カリフォルニア、ネバダ、アリゾナ、ユタ、コロナドの各州とワイオミングの一部である。
『共生』とは、互いに利益を得て、共に生活するという意味であるが、米墨戦争終結後、テキサス中央部を中心に南北戦争勃発までの過渡期において、『メキシコ系』の住民は『米国人』として認められたが、低賃金労働者として次第に労働市場に組み込まれていった。
具体的には、当時、テキサス東部や中央部を中心に展開されていた綿花プランテーションにおける黒人奴隷と同様の待遇で、それを拒否した多くは運送業に従事していた。
1854年になると、9つの群からなる評議員がテキサスのゴンサレスで会合を開き『メキシコ系の追放』を決議した。『南北戦争』以降の1866年頃から、牧牛業が発展し、その背景には、移動型の牧畜業に関心を持つ『アングロ系』経営者の出現があった。その後,支配領域を中央部から南部へ拡張した。この移動型放牧業にはカウボーイが従事、そこに『メキシコ系カウボーイ』(Vaquero)が誕生した。
1854年から10年間は牧牛業が最盛期を迎えたが、土地を失ったメキシコ系はテキサス西部へ逃れるか、あるいはアングロ系の牧場経営者の下で働くかの選択を迫られた。
メキシコ系がアングロ系経営者に従事する形で、米国労働市場において必要な位置にあるとすれば『共生』と言えるかもしれないが、『差別』という観点から解釈されるべき問題は多い。
アングロサクソンは、米国の先住民インディアンとは『共生』せず、『保留地』への強制移住の様な差別待遇で対処してきたのではないか。『共生』という問題は、メキシコの中でもあったが、ラテンアメリカ地域では、融合、混血という形で展開され、米国内では排除、排斥という形で区別されたのではないか。
『不法移民』の問題は、米墨間国境設定後の両国間格差など多くの問題が原因で発生した。
一方さかのぼると、テキサスの独立にかかる『不法戦士』という存在が絡んで『アラモ砦の戦い』から『米墨戦争』まで、米国東部から米国人がこれらの戦いに参加して、テキサスのメキシコからの分離独立に加担したことも事実としてあげなければならない。
『多様性』の定義として、“集団のなかに異なる特徴、特性を持つ人が,ともに存在する”とあり、多様性的社会の変化と発展に不可欠の要素と言われている。 米国で最近、『入学試験優遇』禁止の最高裁判決が下され、『多様性への学び、人種考慮か平等か』との問題が報じられている。
これは、1960年代以降、アフォーマティブ・アクション(Affirmative Action)が導入されてきた。これは差別撤廃のための積極的社会政策であった。この措置の主眼は『多様性の確保』で入学試験選考でも黒人やヒスパニックなどの出願者が優遇されてきた。
今回の判決は、“人種に考慮することは、法の平等を保護することを求める憲法に反する”という主張を認めたものである。
いろんな大学の主張には『何十年にもわたる経験で、丁寧な研究の結果、多様性は万人に学びをもたらす』とも言われ、これまで『多様性』を実現するために。人種を考慮していたので、影響が出るのではないかとの意見も聞かれる。今回の判断で、”人種の考慮“が退けられて、1978年の多様性を確保するという米国は『移民社会』としてどのように対応してゆくのだろうか。
ハーバード大学・学生新聞ハーバード・クリムソンによれば、2027年の卒業予定者の内訳では、白人が40.8%、アジア系が29.9%、黒人・アフリカ系が15.3%、ラテンアメリカ系が11.3%となっている。米国の人口統計では、白人が減少傾向に対して、アジア系とラテンアメリカ系が増加している。
メキシコと米国の間には、『不法移民』を巡って、様々な問題が生じている。これは、今までで述べてきた国境を接する両国間の領土問題から始まる『歴史的変遷』から『経済格差』の無視できない問題、そして、米国政権が代わる都度の『移民政策』の変化が絡んでいる。
米国の前トランプ政権では。2020年3月、コロナ禍を理由に、移民・難民受け入れを厳格にする『タイトル42』を発動して、国境の『壁』の建設を開始した。この時は国境には連日、600~800人が押し寄せた。バイデン政権では、この問題の関係国を集めて、
『ロスアンゼルス宣言』(米国・カナダ・中南米共同宣言)で、移住先や出身地、通過地などの支援を促進することを上げた。また、最近はバイデン政権で、リオグランデ川にテキサス州主体で、2023年7月上旬に河川の中央に『ブイ』を連結して不法越境者を阻止することを始めて、メキシコ側とぎくしゃくしている。
日本では、人口減少、労働力不足問題の中で、『共生』と『多様性』の問題は緊急の課題でもある。日本は、外国人受け入れに、必ずしも積極的とは言えず、当面は日本に居住する外国人との『共生』を課題として、『コミュ二ケーション』と『相手の文化を理解する』ことを推進し、『多様性』というテーマを学んでゆくことが重要と考える。
(以上)
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