連載エッセイ294:藤尾明憲 チリとペルー・ボリビアとの大平洋戦争 - 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

連載エッセイ294:藤尾明憲 チリとペルー・ボリビアとの大平洋戦争


連載エッセイ294

チリとペルー・ボリビアとの大平洋戦争

藤尾明憲(在チリ・サンテイアゴ)

1)南米の独立運動

1800年代の前半、南米は独立運動に関連して戦争が頻繁に起こった。1816年アルゼンチンが独立。チリは1818年。続いてペルーが1822年に独立。すべての国で独立運動がおこった。ボリビアは1825年に独立。他の国より遅れたのはその頃アルトペルーと呼ばれていたが(高地のペルーという意味)スペインがまだ抑えていたわけだ。建国の父シモン・ボリバールの活躍で独立を勝ち取る。彼の名を使ってボリビアとされた。

2)チリの動き

1818年の独立以降、チリは他国に比較して落ち着いており、近代化が順調に進んだ。先ず1833年に憲法制定をしている。どんな国を目標にするかがその基礎になった。また教育の頂点として大学が考えられ、チリを代表する教育機関としてチリ大学が創立される。それは1842年だった。またチリの近代化の他の例になるが、最初の鉄道が1851年にコピアポで起動し始めた。41キロの線路だったらしい。1861年にはサンティアゴとバルパライソの間にも線路が置かれている。それは日本では徳川幕府のころだ。その頃のチリは日本と比較すると大きく進歩していたのは間違いない。

チリはスペイン時代の行政区画で示されたチリの領地を確保するため当初から南部に手を入れ始める。1843年にマゼラン海峡に植民地を作った。その時、作られたブルネス砦に何度か行ったことがある。そこは 南米大陸の最南端の町プンタ・アレナスから50キロほどだが、昔は非舗装だったので2時間近くかかったが、今では半時間で着く。大砲が備えられて、そこの許可が無ければどんな船もマゼラン海峡を走行できないとされた。その近くにチリの南北の中間点と言う表示がある。これはチリは南極にもチリ領土があると考えるからだ。

そして、その他にチリ南部のバルディビアやオソルノにドイツ移民を置きはじめた。 その後、マプチェの抑えるアラウカニア地区に侵入を始める。
他のケースでは太平洋戦争の後だが、1888年にイースター島がチリ領土に入った。

3)大平洋戦争

日本人にとって太平洋戦争とは第2次世界大戦の事だが、日本以外の国では太平洋戦争というとチリ対ペルー・ボリビアの争いをさす。私もチリに来る前はそんなことは知らなかった。

19世紀の終わりの頃、太平洋戦争が始まった。(1879ー1884)これはチリの歴史の中で飛びぬけて重要な事件だ。チリとボリビアは領土の合意をしたが、両国の国境線南緯24度付近は自由に行き来できるとなった。そして隣国に入って仕事をして利益が出れば、相手国に税金を払うことになった。もちろんその税率も定められ、それは25年間変更されないとなった。これは1874年の事だ。

チリ人はその決まりに沿ってボリビア領土に入り、チリ硝石と呼ばれる鉱物を採取した。もちろんその鉱山の採掘権も買い取ったわけだ。それは農薬・火薬の原料として重宝され、欧州、特にイギリスが購入した。その事業を運営する人がアルマス広場で群衆に呼び掛けた。(今の価値で)「みんな、聞くんだ。君たちはここで働けば40万ペソしか稼げない。どうだ、私と一緒に北に行かないか?鉱石の採取の仕事だ。給料は100万ペソ払う。それだけではない、寝るところも用意する。一日3食もだ。それを全部無料にする。つまり月に 100万ペソ、年に1200万ペソの収入になる。それをここに持ってくれば、君たちのしたい商売が何でも始められるぞ。どうだ、一緒に行かないか?」すると、親方行きますとか、一日待ってくださいと答えが返ってきたらしい。

そして多くの労働者が北に入り、ボリビアの海に面した街アントファガスタの人口の9割が外国人(チリ人)になったらしい。私に非常に不思議なのはどうしてボリビアがその鉱石を採取しようとしなかったのかだ。自国内だから、すでに操業中の所を除けばどこでも開発可能なはずだ。仕事はチリ人にやらせてその上前を撥ねればよいとしたのだろうか。

1874年に税金を上げないと決められたが、78年にそれを一方的にボリビアは上げた。チリはそれを認めなかったが、ボリビア政府は領土内のチリ企業を接収する。チリはそれに対抗して79年2月にアントファガスタに軍隊を送り、全く争いは無く同市を占領した。そして戦争が始まった。ボリビアは1対1では負ける可能性があるとして、隣国ペルーを誘い、2国でチリに対抗した。
太平洋戦争という名前になったのは各国の首都の間の距離はかなり遠く、陸の戦争にはなりにくい。それより各国の海軍が自分の国を代表するとなったのだ。ボリビアは軍艦を持っていなかったが、チリとペルーはそれぞれ巡洋艦を2隻ずつ持っていた。

1879年の5月にイキケの海戦(5月21日は現在は祝日になっている)が起きた。 太平洋戦争が始まったとき、チリ側は巡洋艦2隻をリマ近くのカジャオ港に送り、一気に,勝負に出たが、ペルー側の巡洋艦はイキケに向かっていた。そのイキケの港の前にチリ側は2隻の駆逐艦を置き、「ここは抑えた。もう誰もここから出させない、入港もさせない」としていた。そこへ2隻のペルー巡洋艦が到着し、戦闘が始まる。ペルーの巡洋艦ワスカルがチリの駆逐艦エスメラルダを撃沈した。

その日のことはチリ人なら誰でも知っている。言ってみれば海軍記念日だが、その戦いの英雄がエスメラルダの艦長のアルツーロ・プラットだとチリ人なら誰もが言う。いや違う、その戦いの英雄は彼ではなく私の考えではコバドンガの艦長のカルロス・コンデルだ。それも詳しい説明が必要だ。

イキケ海戦に参加したのは、ペルー側 巡洋艦 ワスカルとインデペンデンシア、チリ側 駆逐艦エスメラルダとコバドンガ。駆逐艦は木造船で、巡洋艦は鉄造船。つまりそれらがぶつかると壊れるのは駆逐艦になる。ワスカルは大砲で攻撃した後に、エスメラルダにぶつかっていった。それは操縦が下手なのではなく衝突すれば壊れるのはエスメラルダだとわかっていたからだ。最初の衝突の後、艦長のプラットは部下に、次に彼らが衝突してくれば、自分は彼らの船に乗り込み敵を皆殺しにすると言った。そして2度目の衝突をしてきたとき、縄を使って敵艦に乗り込んだ。しかしペルー側には機関銃があったのに、チリ側には単発銃しかなかったので、プラットは敵艦に乗り込んだが、わずか1分で銃殺された。当然だろう。

彼は現在のチリの1万ペソの紙幣に顔を出す。もう一隻のコバドンガはインデペンシアの攻撃を受けた後、イキケの港を目指して進んだ。ペルーのインデペンデンシアの艦長は「それは敵前逃亡だ。皆殺しにしてやる」と怒り狂って追跡してきた。コバドンガの艦長コンデルは怖くて逃げたのではなく、港近くに浅瀬があり、そこは底の浅い駆逐艦は通過できるが、巡洋艦には不可能ということを知っていたからだ。そして彼の作戦通り、インデペンデンシアは浅瀬に乗り上げ、船底に穴が開いて走行不可能になった。これで巡洋艦の数が2対2だったのが2対1になった。

その後の10月のアンガモス(アントファガスタ)の海戦で巡洋艦同士の対決があり、2対1で砲撃されたワスカルは捕獲され、ペルー海軍は巡洋艦を失う。2対2が2対1に、そして2対0になった。これ以降、海上はチリ海軍が牛耳ることになり、陸の戦いもチリが優勢になっていく。

80年のタクナの戦いでペルー・ボリビア連合に勝ったチリ軍はペルーに上陸し、翌年1月にリマに侵入、ミラフローレスの戦いでチリが太平洋戦争に勝ったことがほぼ決定した。その時、ペルーの大統領が欧州に行き、終戦の合意事項にサインする人がいなかった。国会で大統領は野党側から「敵前逃亡するのか」と罵られたが、彼は「逃げるのではない。味方を捜しに行くのだ」として逃走した。次の大統領は終戦を考えたが実施しなかった。

つまりこの戦争は5年続いたが、実質の戦争行為があったのは2年だった。さてその間の各国の大統領の数だが、チリは2名と通常だったが、ボリビアは5名、ペルーは何と6名と全く統治力のない人が大統領になっている。リマで政権を行使できず、アンデス山脈の方に逃げていったこともあった。

ただ戦争の後半にリマの近くの町コンセプシオンに駐屯していたチリ陸軍が10倍以上の数のペルー軍に襲われる。チリ側のリーダーのイグナシオ・カレラは手を挙げて参ったとせず、24時間も戦い続け、全員が殺されたとか。コンセプシオンの戦いと言われる。彼はチリの1000ペソ札に出てくる。つまりチリでは戦闘に負けて殺された二人が陸海軍のシンボルになっているわけだ。

タクナ・アリカの領土に関し10年後に国民投票が行われることになったが、それが実施されず揉めると、アメリカが介入して、タクナはペルー、そしてアリカはチリ領土になった。ボリビアもリトラル県(アントファガスタ)をチリに渡すと言う条件で終戦した。チリはペルー・ボリビアに勝って現在のチリ北部を領土にした。

しかしその戦争の期間に、二つの大きな出来事があった。その一つは直接の戦争はしなかったがアルゼンチンにパタゴニアを半分、脅し取られた。(1881)(このあたりの話は、講談風に話してみたい)この事件があるので、チリの軍隊には反アルゼンチンは明白で、後のフォークランド戦争の時、南米全部の国がアルゼンチンを支援したのに、チリだけイギリスの味方になった。もう一つは南部のマプチェが支配する地区に侵攻したことだ。

ここで少しチリの先住民の事を説明したい。2017年の人口調査で先住民の子孫は218万人(全人口の13%)とされ各自の言語を持つ10部族が確認されている。その内訳は、人口の多い順に、マプチェ 175万人、アイマラ 15万人、つまりこの2種族で90%を占める。そのほかではディアギータ、アタカメーニョ、チャンコ、チョノ、オナス、ヤガネスなどがある。もちろん本土だけでなくイースター島にもラパヌイ族が住む。さて南米で先住民の3大種族はケチュア(ペルー)と、アイマラ(ボリビア)そして グアラニー(パラグアイ)だ。マプチェは4番目でチリとアルゼンチンに住む。
チリ北部のアイマラはボリビアの民族だが、その子孫がチリに入ってきたのではなく、太平洋戦争でチリに負けて、彼らが住んでいた地域がチリ領土になったわけだ。北部のカラマにある世界最大級の銅鉱山はチュキカマタと呼ばれるが、それはアイマラ語で「銅を生産する場所」を表す。

チリの先住民の歴史は一番古いと言われるのはモンテ・ベルデ遺跡(14000年前)だ。それは南部のプエルト・モンの近くにある。私が世界史を学び始めたころ、アメリカ大陸には人間は住んでいなかった。氷河期時代と言われる14000年ほど前に、アジアとアメリカが一番接近するベーリング 海峡が凍り、シベリアからモンゴロイドと呼ばれる種族が歩いてアラスカに入ったのが最初の人類だとされていた。それならアラスカに入った人類はすぐにラタム航空に乗ってプエルトモンに飛ぶ必要があるだろう。そうでなければほぼ同じ時期にアラスカとチリに存在は不可能だ。つまり他のルート、例えばアジアから太平洋を渡ってアメリカに来たとか、があるのではないか。

そして、それよりさらに南のパタゴニアでは3種族が8000年の歴史を残している。それはプエルトモンから南下していったと考えることは可能だろう。彼らはその超長期間に、ほとんど争いごともなく協力して住んでいたと言うのが素晴らしい。日本の縄文文化と似ているようだ。また最北部のアリカの近くのチンチョロは7千年前にミイラを残している。エジプトより古いのは注目される。マプチェは意外と新しく一番古い遺跡が3500年ほど前のものだ。

激しい戦いが続いたが、マプチェのチリ内部の人口は、最高時は50万人だったが、一時2.5万人まで激減したと言われる。今はまた175万にまで増えている。これらの数字が正しいかどうかは疑問だが、チリとの戦争で人口が大きく減ったのは間違いないだろう。

さて余談だが、太平洋戦争の終了前にチリは、新しい軍艦を購入する為、手元の軍艦を売ることにした。1883年にアルツーロ・プラット(筑紫)、そして1884年にエスメラルダ号(日本名和泉)を日本海軍に販売した。その2艘は日清・日露戦争で活躍した。

ボリビアの海問題に関し1904年の合意でボリビアからチリの海岸までの鉄道建設が認められた。近年になってオランダの国際法廷にボリビアの領土を戻すようチリを訴えたが、全く認められなかった。

そして現代のチリが実現したわけだ。もちろん、その後も困難な時期は何度もあり、今から50年前に軍事革命が起きている。多くの血が流れている。つまりチリの歴史はスペインの侵入から殺し合いが継続と言えそうだ。それがこれから先は新しい風に代わって殺し合いの戦争が消えてほしいものだ。

チリの紙幣

1000ペソ Ignacio Carrera 太平洋戦争


2000ペソManuel Rodriguez 独立戦争


5000ペソ Gabriela Mistral ノーベル賞


10000ペソArturo Prat 大平洋戦争


20000ペソ Andres Bello チリ大学長