連載エッセイ310:田所清克「ブラジル雑感」その36「ブラジル北東部を語る」その1 - 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

連載エッセイ310:田所清克「ブラジル雑感」その36「ブラジル北東部を語る」その1


連載エッセイ310

ブラジル雑感 その36 ブラジル北東部を語る その1

執執筆者:田所清克(京都外国語大学名誉教授)

はじめに: 北東部(Região Nordestina)についての記述にあたって

 すでに幾度となく触れたが、私のブラジル学の原点は、北東部にある。2年間、リオでの留学生活を送ったものの、心は常に、この国の古い側面を持つ北東部地域に釘付けになっていたといつても過言ではない。そして、今でも変わりはない。
 なぜかくまでに北東部に惹かれ虜になっているのもそれは、Luiz Gonzagaの音楽や、後に翻訳することになる、ブラジル文学の父José de Alencarのインディアニスタ小説Iracema に接したからに他ならない。
 加えて、選考試験にパスして、日本人として初めて内務省企画のProjeto Rondonに参画することとなり、セアラー州、それも奥地のカアチンガ地帯に位置するQuixadá に1ヵ月あまり逗留したことが、北東部を愛し研究の対象とする上で決定的なものとなつた。
 次回に、ゴンザーガの北東部の表現としての音楽と『イラセマ』に言及して、この地域の風物詩を取り上げたいと思う。

ブラジル北東部を語る前に –“バイアンの王”(Rei do Baião)”たるLuiz Gonzaga—

 前回、Gonzaga の音楽文化に取り憑かれたのが、自らの北東部研究を目指す一つの動機になったことを吐露した。セアラー州奥地の半砂漠地帯に滞在の間に私は、共作を含めたゴンザーガの樂曲である「白い翼」(Asa Branca)、「旱魃の声」(Vozes da Seca)などを、何度聴いたことであろう。
 実際に奥地に身をおきながら、現実を前にした彼の唄とサンフオーナを耳にすると、えも言えぬ琴線に触れるものがあるのは確かだ。
 今、10数年前に買ったJosé Forios dos Santosの手になる『ルイース•ゴンザーガ: 北東部の表現としての音楽』(Luiz Gonzaga: música como expressão do Nordeste)[IBRASA]を読み返しているが、まったく著者が観るゴンザーガの楽想と相通じるものが少なくなく、わが意を得た心境になった。 ともあれ、ゴンザーガのバイアン[ボタン式アコーディオンを主とする、軽快なリズムと明るい曲想に特徴のある、北東部のフオークローレで都会化したもの。]、シヤシヤード(xaxado)[男性だけの踊りで、その出自はペルナンブーコ州の深奥部の奥地で、山賊であるcangaceiro やlampiãoによってバイーア州内陸部まで広まったと言われる]、シヨテ(xote)[もともとポルトガルのサロンの舞踊。2拍子のリズムに特徴がある。]、フォロー•ぺー•デ•セーラ(forró pé de serra)[サンフオーナ、大太鼓、トライアングルによる伝統的なフォロー]などの典型的な北東部の民衆音楽、中でもバイアンのカテゴリーのAsa Branca[1947年]とBaião Dois[1950年]はこの地域のリズムを知らしめ、Caetano Veloso、Raul Seixasといった音楽家に多大の影響も与えている。
 北東部の奥地社会が呈する貧困、不正などを、旱魃などの自然の有り様と共に歌い上げている点で、特にAsa Brancaは国歌的な存在とまでみなされいる。と言うのも、ゴンザーガ自身がペルナンブーコ州の奥地の生まれであることで、まさしく奥地を音楽を介して北東部人やその社会を語る上では、うっつけの人物であったから。
 そして、1930年代の、いわゆる北東部の地方主義作家たちが、小説のジャンルで主にNeorealismo の視座からこの地域が抱える諸問題を暴き国を告発したように、ゴンザーガは自らの歌を通して苦悩し嘆く奥地の住民の姿を赤裸々に物語った。かくして、いままで知られざる世界が他の地域の人々にも知られるようになったのである。
 それにしても、北東部の社会と文化を反映した、とくにAsa Brancaの歌詞と彼の唄う歌に私などは宗教性すら感じる。
Quando oieu a terra ardendo
Qual fogueira de São João
Eu preguntei
A Deus do céu, aí
Pru que tamanha judiação
、、、、、、、、、、、、、
[Asa Branca]
Eu vou mostrar pra vocês
Como se dança o Baião
E quem quiser aprender
É favor prestar atenção
[Baião]
と思う。
ブラジル北東部を語る前に–民族融合によってブラジル人の誕生を象徴する作品 : 『イラセマ』(Iracema )

 ここで私の翻訳ながら『イラセマ』取り上げるのは、José de Alencar の手になるこの作品が、ブラジル人であれば知らない人がいないくらい、あまねく人口に膾炙しているだけではなく、作品の舞台が北東部のセアラー州だからである。
 学生時代からこの一頭地を抜くインディアニスタ作品の存在は知っていたし、将来ぜひとも日本語に訳することをしんから夢見ていた。それが現実のものとなり、ブラジル文学を学んで良かったという思いである。
 しかしながら、翻訳には悪戦苦闘した。まず何よりも、作者の見事なまでの詩的言語を日本語に置き換えるのに、資質のなさもあって苦労したものである。ともあれ、名作の翻訳ということもあつて、出版してからはブラジルはもとより、日本においても取材の対象となった。ちなみに、取材記事はあまたにのぼる。

 ブラジル文学の父と言われるAlencarの最高傑作は、インディアニスタ作品で歴史小説でもある『グアラニー』(Guarani)と並んで、『イラセマ』である。オペラ作曲家として著名なCarlos Gomes※は前者の作品を主題としたオペラをスカラ座で上演して、脚光を浴びている。

 Alencar の作品研究に淫した時期もあった。従って、いくつかの研究論文も認めている。ポルトガル語で書いたものもあるが、その一部を紹介しておく。
※ブラジルを代表するオペラ作曲家カルロス•ゴーメ スを顕彰して、「カルロス•ゴーメス賞」がある。この名誉ある賞を、何とFacebookでも時折登場される、ユニバーサル グループを主宰されておられる原田裕子さまが受けられているのだ。あっぱれ、あっぱれ。

ブラジル北東部の世界 Mundo do Nordeste brasileiro –北東部入門(Introdução à terra nordestina)—

 一口に北東部と言えども、場所によって歴史の成り立ちも、経済活動も、自然および文化景観も多様である。最初にバイーアに首都が設けられ、植民地活動の一貫として染料剤となるパウ•ブラジルの木が開発され、次いで砂糖産業がはじめて興った地であるだけに、ブラジルの揺りかご(berço)と言われる。従って、この地域はそこかしこに旧い歴史の面影が垣間見られる。
 9州からなる北東部は、国土の19,5%、つまり1.554.257平方キロの面積を有し、人口は国のおよそ三分の一に当たる53.081.950人という具合に、二番目に多い地域である。
 全ての州が大西洋に面しており、その緑なす海と白砂の浜にたなびく椰子樹の絵画的な美しさには息をのむ。であるから、国内はもとより海外からの観光客を惹き付けてやまない。
 多くの観光客を魅了するのは、それだけではない。この地独自のフオークローレや民衆音楽もそうだろう。
 私などは、初めて奥地のカアチンガを訪ねた折りに、即興詩人(repentista)の唄うのを聴いて、いたく感動したものでである。
 バイーアの美しい黒人系の売り子たちや、カポエイラリスタたちによる格闘技、サン•ルイースの街並みを飾るアズレージヨ(彩色タイル=azulejo)、沖を帆走するジヤンガーダ(筏舟=jangada)、あちこちの郷土料理など。いづれも北東部の風物詩になるものばかりである。
 その一方で、北東部は国内でもっとも貧しい、社会問題をかかえたところでもある。留学時に、国立フルミネンセ大学で、著名なGladstone Chaves de Melo教授の「ブラジル諸問題研究」(Estudos Problemas Brasileiro)講座※を受講していた私は、講座を通じて北東部の社会病理性を多く学んだ。そして、実際に北東部のバイーア、レシーフエ、セアラー州の奥地に出向いて、mocambo と言われるスラム、旱魃にあえぐ貧農たちの日常を垣間見て、北東部の社会問題の深刻さを認識できた。
 北東部はまさに、『重いくびきの下で–ブラジル農民解放闘争–』[F•ジユリアン著、西川大二郎 訳](岩波新書 967)が描く世界と違いなく、大きなショックを受けたものである。
 次回から、20世紀初頭まで南部の人たちにあまり認識されず放擲されていた、しかしこの地域を抜きにはブラジルを真に理解できない、「もう一つのブラジル」と言われる北東部について、風物詩をまじえて私見を披露したい。
※この講座は当時、今は知らないが、必須科目であった。

北東部の風土 的特性① –場所によって異なる生態系(ecossistemas)

 北東部を知る手がかりは、まずその自然風土なり生態系なりを、植生などを含めて理解することにある。
 民族地理が専門ではあったが、頻繁に北東部に出向き、自然地理学の視座からも、土壌などを採取したりなどして、北東部の自然風土的特性を明らかにする作業を試みたものである。自然風土の理解なくしてこの地域の産業、文化風土、人間像も認識し得ない、という考えが根底にあるからに他ならない。
 事実、北東部と言えども場所によって、地勢はむろん、気候、土壌、植生のタイプも異なる。
 それらの違いから、基本的に北東部の自然風土は、沿岸部のゾーナ•デ•マタ(zona de mata)※、アグレステ(agreste)、奥地(sertão)、さらには、アマゾンに近い中北部(meio-norte)に分けられる。
 次回から、それらの個々の生態系の特徴などを見てみたい。
※zona da mataは本来「森林地帯」の意味であるが、今ではかつての森林はほとんど存在せず、単にバイーア州からリオ•グランデ•ド•,ノルテ州に伸長する沿岸部を言う。従って、「森林地帯」と表記するよりは「ゾーナ•デ•マタ」とした方がよい。

北東部の風土的特性(ecossistemas) ② – ゾーナ•デ•マタ(zons da mata)

 全ての州都が沿岸部に位置し、人口も集中している。そのこともあつて、他の下位区分される地域よりもはるかに経済的に発達している。気候は暑熱湿潤で、乾季と雨季か截然としており、雨季は10月から冬にかけてで、対する乾季はちょうど南部地域の春と夏に当たる時期である。雨はゾーナ•デ•マタの大西洋林(Mata Atlântica)の成育に好都合であるが、植民地開発以来の農業、とりわけ砂糖産業の拡大と、都市の発達によって、もともと存在していた森林は消え失せてしまった。であるから、” 森林地帯 “とは今では名のみである。

 この地帯で特筆すべき伝統産業といえば、サトウキビ栽培であろう。サトウキビを材料にした製糖によって、17世紀を前後してバイーアやペルナンブーコは殷賑をきわめ、文字通り砂糖文明の中心地となった。しかしながら、砂糖産業はその歴史過程において、エンジエーニヨ(engenho)と言われる旧式の製糖工場から近代的なそれ、つまりusinaに置き換わり、北東部社会に大きな変革をもたらし、落魄するエンジエーニヨの経営者を多数生み出した。
 1930年代の北東部地方主義小説にあって、José Lins do Regoの<サトウキビ叢書>(ciclo de cana de açucar)の作品は、生起し隆盛期の『砂糖園の子』(Menino de Engenho)から、斜陽を迎えるエンジエーニヨを扱った『消えた火』(Fogo Morto)を通じて、砂糖産業の盛衰の歴史を物語っていてすこぶる興味深い。

北東部の風土的特性 ① –zona da mata– 2

 北東部のこの地域は、気候、とりわけマサぺー(massapê)※と言われる土壌に恵まれて、サンパウロに生産高で地位を奪われたものの、依然として主要な産業である。
 そして、植民地時代から較べればかなり変容しているにもかかわらず、単一栽培(monocultura)である点では変わりない。
 奴隷制廃棄[1888年]以降、労働者は黒人奴隷から賃金労働者にとって変わった。前回述べた旧式の製糖工場であるengenho は、電気を動力とする近代的なusinaに様変わりする。しかも、サトウキビ栽培は機械化されて、その運搬も旧来の牛車ではトラックが使われるようになった。
 1980年代になると、多くのアルコール蒸留工場が出現して、同じサトウキビから燃料もとれるようになる。
 しかしながら、サトウキビ畑(canaviais)やusinaで働く労賃は安く、貧しい生活を強いられたままであった。サトウキビの伐採時には、これから述べるアグレステ(agreste)からの季節労働者だけではなく、禁じられている児童もいたのである。
※massapêはこの地帯の粘土質の肥沃な土壌で、黒い片魔岩(gnaisses escuros)、石灰岩(calcários)、千枚岩(filitos)が分解したもの。わがセンターには、アラゴーアス州のサトウキビ畑で私が採取したものを瓶詰めしたものを保管して いる。

北東部の風土的特性 ① –zona da mata—3

 海岸線から200kmの幅で伸長する、主として北東部の東域を占めるzona da mataは、前述の通り熱帯暑熱湿潤気候で、バイーア南部を除いて、約1800から2000mmほどの高い降水量と、24から26度合の平均気温を示す。
 そうした暑熱湿潤の環境が多様な森林、特に大西洋林の成育にとつては好条件であった。がしかし、サトウキビおよびカカオの栽培や、都市域の拡大によって、昔の” 森林地帯 ” の面影はほとんど残していない。
 zona da mataで栽培されるのは、サトウキビだけではない。例えば、Recôncabo Baiano[沿岸部のみならず内陸部を含む、バイーア全聖徒湾周囲の肥沃な地域]でのタバコ栽培もしかり。16世紀の末期に導入され、いまでも商業農業の一角を成す。一部は輸出されているが、多くの労働力を要する集約農業の典型。
※前回、massapê について説明した。が、その後で確認の意味で他の地理書を当たると、より詳しい説明がなされていたので、紹介する。
massapê(é)とは、粘土質の黒い土壌。基本的に截然とした二季(乾季と湿潤期)違いによる作用から、熱帯地域の花崗岩が分解されることによってできる。この地独特の湿気の存在は、粘着性の土壌となる。北東部沿岸部では従って、massapê 土壌を好むサトウキビの栽培が、植民地化の初期からなされていたのである。