連載エッセイ312:小林志郎「パナマ運河返還を巡る米・パ紛争」 - 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

連載エッセイ312:小林志郎「パナマ運河返還を巡る米・パ紛争」


連載エッセイ312

「パナマ運河返還を巡る米・パ紛争」~歴史に翻弄された“独裁者”ノリエガ将軍~

執筆者:小林志郎(パナマ運河研究家)

米軍深夜のパナマ軍事侵攻

1989年12月20日深夜、クリスマス気分で盛り上がっていたパナマ市内に花火の音が鳴り響いた。随分、遅い時間の爆竹音。しかし、どうも、いつもと様子が違う。私は、自宅から20分ほど車を走らせ、花火の現場に直行して見た。

そこに見たのは、50台近い米軍戦車による一斉射撃だった。戦争が始まっていたのだ。貧民街(チョリジョ地区)の中心に建つ3階建ての「パナマ国防軍総司令部」に向け戦車が一斉に火を噴いていた。闇夜を切り裂く閃光が美しいシルエットを描き1キロ先の総司令部の建物に集中。弾道には貧民街の5階建て集合住宅がある。寝入りばなの住民は、ベッドの真上を砲弾が通り抜けるという恐ろしい体験をしていたはずだ。砲撃は約1時間で終わった。

翌日、戦車の攻撃後を再訪して見た。パナマの政治・社会を20年近くコントロールしてきた国防軍総司令部ビルはあっけなく消滅していた。今回の奇襲攻撃で亡くなったパナマ貧民街の住民は2千人以上と言われる。正確な数字はその後も未発表のままだった。

一方、爆竹音は、私のアパートの裏手にある国内空港から鳴り響いたものだった。急襲した米軍パラシュート部隊による機関銃音だった。ノリエガ将軍の自家用ジェット機を破壊し、逃亡を阻止するためだった。

ブッシュ米大統領が軍事侵攻の目的を放送

米CNNテレビの深夜放送が、「午前1時、米ブッシュ大統領の決定により、米軍はパナマ国防軍に総攻撃をしかけた」と説明。

午前7時、米ブッシュ大統領が、「私は、昨夜、大統領としてパナマへの軍事行動の決定を行った。2年間にわたりアメリカはラテンアメリカ及びカリブ諸国とパナマ問題の解決に向けて努力してきた。独裁者ノリエガは問題解決への全ての交渉を拒否してきた。先週、金曜日に軍事独裁制はついにアメリカに宣戦布告を行い、翌日には、公然と米軍兵士1名を殺害し、また、将校の妻に性的虐待を行った。証拠はこれだけで十分である。合衆国の目標はアメリカ人の生命を守ること、パナマの民主主義を防御すること、麻薬取引との戦い、パナマ運河条約の遵守である。我々は、今日憲法手続きによって選出されたエンダラ政権を承認し、即座にわが大使を帰任させる。新政権が新しいパナマ運河委員会の事務局長を推薦すれば、私はその候補者を上院での審議に回す手続きを進める」と。4分間の短いスピーチであったが、米軍によるパナマ軍事侵攻の目的が公式に表現していた。また、今回のパナマ攻撃は、“パナマ運河” 防衛が目的であり、2万4千の兵力であるとも述べた。

絶妙なタイミングの米軍侵攻

今回の米軍のパナマ軍事侵攻の1ヶ月程前、1989年11月には、「ベルリンの壁」が崩壊。東欧圏に民主化の波が押し寄せていた。パナマ軍事侵攻の数日前には、ルーマニアのチャウシェスク政権が崩壊しつつあり、世界の耳目はそれに釘付けになっていた。パナマへの軍事侵攻は、世界が余り注目しない状況を見計らい、計画的に実行されたものであった。

パナマ国防軍は、半分は治安警察の役割を持ち、機甲部隊などを持つ余裕すらない貧乏軍隊だ(注)。常日頃、米パ合同軍事演習をやっているので、その実力は十分承知のはずだ。米軍は戦略攻撃機“ステルス”まで動員し、“雀を撃つのに大砲”という表現がぴったりの軍事作戦だった。

(注)パナマ国防軍は、陸軍(6千)、空軍(400)、海軍(900)の計7,300、これに1万2,300の警察を加えると一定の兵員数はある。しかし、陸軍は戦車ゼロ、空軍は攻撃機ゼロ、海軍は艦船ゼロである。国防軍が組織した「尊厳隊」は1万人以上と言われるが、実際は女性、子供、老人も含み、戦闘能力は無いに等しい。)

事の起こり:参謀長によるノリエガ批判とそれに呼応する米上院議員の動き

パナマへの軍事侵攻に至る道のりを振り返ると、東西冷戦の終末期における米国の外交戦略(中心問題の一つは、パナマ運河の返還を中止しようという意図)と運河返還の実現を目指す小国パナマの「ノリエガ将軍体制」の抵抗劇でもあったと表現できる。

事の起こりは、1987年6月8日、国防軍第二の実力者で故トリホス将軍の甥のディアス・エレラ参謀長(大佐)が、軍内部の対立から辞任に追い込まれたことから始まった。エレラは、マスコミを通じノリエガ将軍が関与した諸事件を暴露した。

例えば、(1)81年7月のトリホス将軍の飛行機事故(この事故の原因は今でも不明)(注)、(2)ノリエガ批判をしたエスパダフォラ厚生次官の惨殺事件(85年9月)、(3)バルレッタ大統領の辞任圧力(85年9月)、(4)イラン国王シャーのパナマ亡命(80年3月)、等々。

(注:トリホス将軍は1968年、軍事クーデターで政治的実権を握り、各種国内改革を進めた。他方、米国とは6年にわたるパナマ運河条約の改定交渉を行い、1977年米民主党カーター政権との間に新運河条約(通称「トリホス・カーター条約」)の締結に成功。米上院での批准に向けた議論は長期間を費やし、わずか1票差で可決された。パナマの英雄トリホス将軍は、1981年7月、飛行機事故で急逝した。著書「ある将軍の死」(邦訳、1985年刊、早川書房)でトリホスと親交のあったグレアム・グリーン(英国ミステリー作家)は、CIA工作説などを上げているが、ノリエガ下手人説も含め、事故の本当の原因は未だ謎のままだ。)

興味深い動きは、同日付けのパナマの別の新聞で、米議会上院議員エドワード・ケネディ他7名の民主党議員の署名入りで記事公告を掲載したことである。その主旨は、「米国内には運河条約の廃止論者が存在するが、両国の友情を維持するために条約の履行を実現したい。その条件はパナマ国内政治の正常化である。」

これら内外二つの政治的動きは、パナマ国内の反軍・反政府批判勢力と米国の民主党系議員とが事前に練り上げてきたシナリオであることを示している。図式的には、当時の共和党レーガン政権(1981年1月~89年1月)も、その後の共和党ブッシュ政権(89年1月~93年1月)も運河条約の廃止勢力に含められていた。

エレラ告発を合図に、パナマ国内では、「市民十字軍」、「シビリスタ」と呼ぶ、学生・市民による反軍・反政府抗議運動がより激しくなった。「シビリスタ」は、商工会議所を中心に、各種経済100団体を組織化した全国的活動へと拡大する。社会階層的には、オーナー経営者層、自由業、専門職、教員など、比較的裕福な階層、インテリ層をベースとしていた。また、野党連合(キリスト教民主党、真性パナメニスタ党、共和党)もバックアップしていた。

米国による一連のノリエガ退陣工作の失敗

87年6月以降、パナマ国内では反軍・反政府運動が激しさを増し、国防軍機動隊との衝突で多くの死傷者が出た。政府は「非常事態宣言」を発し、集会、言論の自由を規制した。

米上院は「パナマの民主化、国防軍幹部に対する疑惑の真相解明を求める決議」を84対2で可決し、パナマへの干渉を強めていった。これに対抗する形で、パナマ国会はデイビス米大使を「好ましからざる人物(ペルソナ・ノングラタ)」として非難決議、米大使館襲撃事件も発生した。

10月には、米上院外交委員会は、対パ経済・軍事援助停止の承認を行った。パナマ政府は逆にパナマに駐在する米国の援助機関(USAID)職員100名の国外退去を求めた。88年に入ると、米国は「ノリエガ退陣、民主選挙(89年5月予定の大統領選挙)」を求める動きに重点を移し、各種工作を展開した。在ニューヨーク・パナマ総領事(シビリスタのブランドン氏)が作成した「ノリエガ退陣計画」をベースに米国務省、国防総省の代表が訪パしてノリエガ将軍の退陣を求める説得工作を行った。しかし、いずれも失敗。次第にノリエガの麻薬取引関与を告発する作戦へと転換していく。

ノリエガ将軍を麻薬取引容疑で告発、ニューズウイーク誌の反ノリエガ特集

88年2月、米マイアミ及びタンパ大陪審が、マイアミ連邦裁判所にノリエガ将軍を麻薬取引と武器取引関与で告発した。これに呼応する形で、世界最大の週刊誌の一つ「ニューズウイーク」(2月18日付け)が「拷問、強姦、賄賂、悪の限りを尽くすパナマの独裁者ノリエガ将軍」という見出しで、ノリエガ将軍特集号を出した。

記事はセンセーショナルなタイトルが並んだ。「将軍は欲で国を売った、麻薬で儲け、性的拷問を愛した中米パナマの“暴君”を米が刑事訴訟」、「中米パナマが揺れている。大統領をしのぐ影の最高実力者ノリエガ将軍が米法廷に起訴された。麻薬の密輸以下、その罪状を並べ立てれば145年の刑期になる。パナマ運河を抱える同国の戦略的重要性は言うまでもない。かけがえのない同盟国の指導者がこうも腐敗していたとは。本誌独自取材の情報と起訴状から、将軍の驚くべき素顔を暴く」と言った具合だ。

さらに「麻薬密輸については、コロンビアの凶悪な麻薬密売組織“メデジン・カルテル”に手を貸し、コカイン空輸用の滑走路を提供、殺し屋をかくまったという罪状も上がっている」、「1982年以降ニカラグアには武器を、キューバには米国の機密を売っていた。パナマ領内に米国のための電波傍受施設を置くことに協力し、中米、南米方面の情報収集の便宜を図っていた。80年までCIAは毎月、彼に金を払っていた。将軍はあのイラン・コントラ疑惑にも顔を出す。オリバー・ノース中佐の要請を受けてパナマ国内でコントラ兵士訓練を許可し、コントラへの資金パイプとして設立したダミー会社が3つあったとも言われる」、「ノリエガは、1934年、貧困の中で生まれ、私生児で、5歳の時里子に出された。暴力的性向も早い時期から見られた」、「起訴された将軍は、今以上に権力にしがみつく事態もありうる。報復が怖くて、容易には辞任も出来ない。そこでパナマ国内の反対派と米レーガン政権の思惑が一致する。ノリエガの仲間たちがノリエガ追放に立ち上がってくれればいいのだ。」

この世界に向けて放ったニューズウイークの情報は、米国によるノリエガ将軍追放の正当性のキャンペーンにもなった。

(注:米軍侵攻時、ノリエガの自宅捜索を行った結果、大量の白い粉(麻薬)の袋を発見したと大々的に報じられた。しかし、後日、それらはトウモロコシの粉であったことが判明した。その報道は、新聞の片隅にほんの小さく報じられた。)

ノリエガ将軍側の粘り強い抵抗

ニューズウイークの記事が発表された1週間後の88年2月25日、パナマ大統領が突然ノリエガ司令官を解任し、後任に参謀総長を任命した。(注:パナマ憲法は大統領に軍司令官の任免権を付与している。) しかし、すかさずノリエガ派の国会議長が臨時国会を召集し、大統領罷免を決議し、新たに大統領代行を任命してしまった。

それ以外にも、政府、国防軍の粘り強い巻き返し作戦が続けられた。全国中小企業評議会や貧しい県の県知事等には、国防軍と大統領代行への全面支持を表明させている。これらの動きは、国防軍と翼賛政党の民主革命党(PRD)が、パナマ社会の半分以上を占める中・下層階級を制度的に掌握していたことを示すものであった。

また、ノリエガ将軍の米国非難演説は一層激しさを増した。パナマの貧しい農民が雑草刈りに使う“山刀”(マチェテ)を好んで振り上げ、「われわれの偉大なトリホス将軍が実現した運河返還の約束を米国に履行させるために最後まで戦おう!」「麻薬の国内取り締まりもできない無能なアメリカ政府、自国のホームレスの対策もできないで他国の内政に干渉するな!」と叫び、大衆の喝采を浴びていた。

88年4月頃から、増派された米海兵隊が、パナマにある米軍基地でデモンストレーション効果を狙い軍事演習を活発化させた。米軍基地の周辺には何百台もの戦車が配置され、米国が着々と武力侵攻に備える気配が濃厚になってきた。5月、米ソ首脳会談に向かうレーガン大統領に随行した国務長官(シュルツ)がノリエガ将軍の退陣を狙った秘密交渉が決裂したことを記者発表した。

パナマ国内ではこの頃、下層階級を中心にした民兵組織“尊厳部隊”を国防軍が組織化していた。初めの頃は武器を所持しない軍事訓練であったが、次第に小銃が支給され、シビリスタの中には身の危険を感じて国外に一時避難する者も出てきた。

米国「国家安全保障会議」(NSC)の討議資料、運河を米国支配下におくための戦略

米パ関係が悪化しつつあった88年6月、米大統領の諮問機関である「国家安全保障会議」(NSC)の討議資料が、パナマの政府系新聞に掲載された。 この討議資料(86年4月8日付け)は、東西冷戦末期に作成された米国の対外戦略の一環でもある。米レーガン政権によるパナマ運河戦略とそれに付随した対パナマ作戦を知る上でいくつかの興味深い点を含んでいた。また、日本との関係では、「パナマ運河代替案調査委員会」(注)が取り上げられていた。

(注:日・米・パ3ヶ国による「パナマ運河代替案調査委員会」は、1986年正式にパナマで「第二パナマ運河」建設に向けたFS調査を開始していた。日本の参画は、当時の大平正芳首相から米カーター大統領に伝えられパナマ側も合意した結果だ。必要資金、政府代表者数、合意方法、調査への参加、等、全てにおいて3ヶ国平等を原則としていた。当初パナマ政府の代表4人の中には、ノリエガ将軍の異母兄、PRD党員で後に大統領になるコルティソの姿もあった。米パ紛争中、調査活動は一時中断されたが、米軍侵攻後の93年、「第三閘門運河」案をまとめ、実際の施行は、パナマ運河庁に引き継がれた。)

討議資料では、第一に「トリホス・カーター条約、パナマ運河と米国」というタイトルで、(1)1977年にカーター政権は、米国内に強い反対があったにもかかわらず、パナマとの間に「新運河条約」を締結した。NSCの基本的議論は2000年以降もパナマ運河をソ連からの影響外に置き、米国の支配下に置くことであった。

(2)米国にとり運河の喪失は政治、経済および戦略的に深刻な結果をもたらす。一度、米国が運河地帯から撤退すれば、パナマ政府はこの地域におけるキューバ、ソ連連合に直接さらされることになり、両洋を結ぶ水路が危険にさらされる。

(3)パナマ国防軍は、新運河のフィージビリティー調査では、海面式運河が有利でないことを証明するであろう。パナマは新運河が米国の直接支配下に入ることを避けるために、計画の樹立、資金調達面で日本、ヨーロッパ及びラテンアメリカ諸国の参加を確保しようとして「調査委員会」を発足させた。日本はパナマ側に立って「三カ国調査委員会」に積極的に参加し、運河の管理に関して既にその発言権を確保している。日本が今後、運河を支配することになれば、西半球の経済に決定的な影響力を持つことになり、米国が地理的に持っている影響力を失うことになる。

新運河条約の無効化戦略

討議資料は、第二に、「パナマ及び運河条約に対する方針」として、

(1)2000年以降もパナマ運河に対する米国の支配権を確保できるような政策を必要としている。この戦略目標を実現するために、パナマ国防軍上層部の腐敗を有効に利用し、パナマを不安定化させ、トリホス・カーター条約を合法的に無効にしていくことが肝要である。

(2)それを実施するために、パナマ国防軍、特にノリエガ将軍に対する麻薬取引、ラテンアメリカのテロリストへの協力、大統領選挙での不正、及びキューバと米国情報機関との接触などを材料にパナマ不安定化のための秘密活動を展開する。

(3)われわれは、パナマ、日本とともに「三カ国調査委員会」に参加し続けて、日本に本調査を独占させることなしに、日本の技術的参加を促進することが賢明である。ヨーロッパ、ラテンアメリカの参加を阻止する必要がある。

(4)われわれは、米国及びパナマの大衆に対し、ソ連がニカラグアに両洋運河を建設することを考えていると思わせるような心理作戦を展開するべきである。それにより、パナマとニカラグアの二カ国関係を破壊し、西半球におけるニカラグアのサンディニスタの信用を失墜させることができよう。

ノリエガ体制の存在理由をより強固に

米SNCの討議資料は、米国内の新運河条約反対派の本音を余すところなく表現していた。それは、パナマの現政権と国防軍がパナマ運河返還を実現させるために頑張っているという大義名分を一層強固にする要素を持っていた。このSNCの暴露記事が掲載された後、ノリエガ将軍は米国による退陣工作に対し議会で「自分は個人的利益からではなく国民のために拒絶した」と誇らしげに演説した。将軍は68年以来の革命体制(=トリホス軍事クーデター以降の体制)を少なくとも、運河返還が実現する2000年までは維持する必要があり、それまでは自分の退陣はあり得ないとも強調した。

この段階で、米国の対パナマ戦略は攻撃から守勢に立たされることになった。米国務省は「パナマに民主化が確立するか否かにかかわらず、米国は運河条約を履行する」と繰り返し、経済制裁措置を一部緩和さえした。しかし、パナマ運河収入のパナマ政府向け支払いは停止したままであり、公務員給与の支払い遅延問題が発生した。公務員は現政権支持の有力母体の一つであったが、ストが多発、電力供給ストップ、電話故障の多発など、通常の市民生活にも影響が及んだ。ドル通貨(パナマでは、運河建設以降、米ドルが正式通貨)の流通も減少し、全般的な経済不安が高まっていた。

米国では88年11月、ブッシュ(父)が次期大統領に選ばれた。パナマでは、89年5月に大統領選挙が予定されていたところから、米国側もしばらくその結果を見守ることになった。

カーター元大統領も選挙監視団員に、パナマ大統領選挙の無効化宣言

89年5月7日、パナマで総選挙(大統領、国会議員など)が行われた。不正選挙の防止という名目で、ヨーロッパ、日本、ラテンアメリカ、米国から300名近い選挙監視団が来パした。米国からは、かつて新運河条約を締結したカーター元大統領も私的資格で監視団の一員に加わっていた。90年初めには、パナマ運河の管理・運営を司る「パナマ運河委員会」(PCC)の事務局長ポストがパナマ人の手に移ることになっている。新事務局長候補者は、パナマ政府が推薦し米議会が承認し米大統領が任命することになっている。その意味でも今回の選挙は2000年に予定されるパナマ運河の全面返還に向けて重要な意味を持っていた。

選挙そのものは、おおむね平穏に終了した。しかし、選挙結果は2日経過しても発表されなかった。選挙の翌日、いち早く帰国したカーターは、テレビ・インタビューで、ノリエガ派が大量の投票結果のすり替えを行ったと述べ、それをブッシュ大統領にも報告している情景が世界に報道された。

(注:カーターによる選挙監視の報告が、真実であったことを裏付ける証拠はない。彼自身、市内の投票所を回った時は全てが正常であったと述べている。夕方5時に投票が締め切られ、投票の集計に入った。このときは野党側も参加していたので問題はなかった。しかし、カーターは、集計結果のデータが夜間ノリエガ派の兵士により盗み出されすり替えが行われたと証言している。しかし、中央選挙管理事務所はアトラパ国際会議場にあり、世界中のメディアが注目してそこに居合わせたが、そのような報道はなされていない。カーター自身、投票が行われた夕方には、ワシントンに戻っていたはずなので、自分では目撃もしなかった情報をブッシュに報告していたことになる。)

しかし、これを機にパナマでは、シビリスタによる抗議行動が再び熱を帯び、流血騒ぎに発展した。シビリスタ側のエンダラ大統領(この時点では候補、以下同じ)、フォード第一副大統領、カルデロン第二副大統領がいずれも私服警察にこん棒で殴られ血まみれになって路上をさまよう姿が世界に報道された。(後に、この流血騒ぎは、実はトマトケチャップをふりかけたものであったことが判明した。)

5月10月、パナマ選挙管理委員会が、「今回の選挙は、外国の招かれざる選挙監視団による妨害行為とアメリカによる不正選挙の喧伝により正常な選挙を行うことが出来なかった」として選挙の無効を発表した。論理のすり替えもあったが、明らかにノリエガ派の敗北を意味していた。

ブッシュ政権の対パ戦略

89年5月11日、米ブッシュ政権は、対パ戦略7項目を新たに発表した。これには、パナマ運河の安全を確保し、在パ米国市民(約4万1,000人)の生命を保護するため2,000人の陸・海兵力の急派、対パ経済制裁の継続、米大使館員の削減などが含まれていた。

(注:パナマには米国が世界中に配置する米戦略軍の一つとして「米南方軍」が常駐している。その任務は、運河防衛を主目的とする以外にメキシコを除くラテンアメリカ全域を防衛範囲としている。陸軍7千、空軍3千、海兵隊900、合計1万900の兵員を保持、攻撃用ヘリ、輸送用ヘリ、攻撃機など多数を保有する。)

同時に、ワシントンにあるOAS(米州機構)を通じて、ラテンアメリカ諸国を結集して対パ政策の協議を開始した。ここでも、ノリエガ将軍の追放が焦点であった。

OASを通じた対パ工作の失敗、ノリエガ派の反撃が続く

89年5月17日、ベネズエラ外相の呼びかけで、ワシントンのOAS本部で、加盟31ヶ国の参加を以て緊急外相会議が開かれた。会議の決議文は、米国が主張したノリエガ将軍を直接非難する部分はパナマ及びニカラグアの反対、7ヶ国の留保で合意されず、「平和的手段による権力の移行」が求められ、ノリエガ将軍の退陣と今回選挙で勝利したとされる野党への政権移譲が盛り込まれた。そのため急遽OAS特別ミッションがパナマに派遣されることになった。

これに対し、パナマ政府は「米国の過去3カ年にわたるパナマ不安定化戦略、今回の選挙干渉、運河条約の侵犯、国連憲章、OAS憲章の違反」を糾弾し、「現在のパナマ政治危機の基本的原因は米国にある。OASがその調査を徹底的にやってくれることを期待する」と述べ、同時に「OASは国際裁判所の機能は持たず、パナマは国内問題に関しOASの決定に従う考えもない」とする閣僚全員が署名した声明文を出した。

6月から7月にかけ、OAS代表は2回パナマを訪問するが、いずれも具体的成果を得ることはできなかった。他方、パナマ政府は、ラテンアメリカ13ヶ国の議員150人をパナマに招待し、「パナマのためのラテンアメリカ議員会議」を開催し、OASを通じた対パ圧力を拒否する旨の決議文を採択するなど、したたかな戦術を展開した。

7月19日に開催されたOAS外相会議では、米国が主張した強硬手段はラテンアメリカ主要7ヶ国の反対により制止され、政権移行は現政権の大統領任期が終了する9月に行うこと、新たに誕生する政権が早期に再度選挙を実施すること。また、パナマが主張する「米国による経済侵略、資産凍結、軍事脅威」に対する対米非難も決議文に盛り込まれることになった。パナマ軍部・政府与党による粘り強い反撃工作が有利に働いている印象が濃厚になってきた。

国防軍内部でノリエガ将軍が拘束される、されど米南方軍は動かず

89年10月3日、朝8時のラジオ放送で、「国防軍内部でクーデターが成功した」という短い放送があった。クーデター側が放送局を一時的に占拠して流したメッセージであった。街を行き交う車はクラクションを鳴らし、ハンカチを振りかざす人々は晴れやかな表情を浮かべていた。しかし、午後、一転してノリエガ将軍が「尊厳部隊」に囲まれガッツポーズで勝利宣言をしている光景がテレビに映し出された。一方、米CNNニュースは、ブッシュ大統領がこのクーデターに米国は一切関与していないとの発言を繰り返した。

クーデター首謀者は、ヒロルディ少佐他3名の大尉。国防軍総司令部にいつものように出勤したノリエガ将軍を取り押さえ、4時間以上、一室に拘禁した。その上で、身柄引き渡しを米南方軍に要請した。しかし、奇妙なことに米南方軍は全く動かなかったのである。この間に国防軍の応援部隊がかけつけ、逆にクーデター首謀者は捕らえられ処刑されてしまった。

このクーデターは、ノリエガ将軍追放のための戦術を練っていた米国にとっても千載一遇のチャンスであったはずだ。米議会は、なぜ求められたヘリコプターを出さなかったのか、ブッシュ政権の手抜かりを批判した。しかし、このクーデターから2ヶ月後に行われた米軍によるパナマへの全面的な軍事侵攻により、ブッシュ政権はノリエガ将軍一人の捕獲だけでなく、国防軍全体の崩壊、つまり、パナマの軍事政治体制の転覆と排除を狙っていたことが明らかになった。

(注:ブッシュ政権によるパナマ軍事侵攻作戦は、88年4月頃から実行段階に入っていたことは、91年6月に発刊された「司令官たち」(ボブ・ウッドワード著、文春刊)でも明らかにされている。当時の統合参謀本部議長コリン・パウエルは、パナマ国防軍の完全壊滅こそ合法的な文民政府が政権を握ることができるとの前提で作成した作戦を10月16日にブッシュ大統領に説名した。当時発生していたソ連東欧圏での旧政権崩壊過程を加味しながら名付けられた作戦名は“ジャスト・コーズ”(正義の戦い)だった。)

米軍侵攻でノリエガ将軍は国内逃亡

米軍によるパナマ軍事侵攻が行われた二日目、昼のCNNニュースは、米統合参謀本部議長による戦闘状況などの説名があった。パナマ国防軍は米軍によりほぼ制圧されたこと、ノリエガが逃亡する可能性があるので、パナマにあるニカラグア及びキューバ大使館は米軍の監視下に置かれたこと、国際空港は米軍のコントロール下にあること、パナマ運河は再開されたことなどであった。ノリエガの所在に関する情報提供者には、100万ドルを提供するとして専用の電話番号も公表された。今回の米軍の侵攻による米国側の人的被害は死者21名、負傷208名、行方不明4名であった。

(注:米軍の死傷者が想定外に多いのは、パナマ国防軍による最後の抵抗戦で発生したものとされる。パナマ側の損害状況は、政権交代と警察機能の停止のためか、正式な報告はなされていない。)

ニカラグア大使館に対する米軍による家宅捜索は完全に国際法違反である。即座にニカラグアはニカラグアにある米大使館を戦車で包囲して報復を宣言したため、米政府は正式に謝罪をし、また、キューバ大使館の捜索は中止した。

それにしても、あれほどまでに探し求めていたノリエガ将軍の居場所は突き止められなかった。40~50人もパナマにいたとされるCIAスタッフは一体何をしていたのか?

米軍は侵攻後2日目には、パナマの主要な国家機関を管理下におき、各機関が保有する国家機密文書を押収するなど、徹底的な調査活動を展開していた。コロンビアのメデジン・カルテルに関する情報も集められ、後日、米捜査当局の活動に役立てられた。余り早くノリエガを捕らえてしまっては十分な情報収集活動に支障を来すとも推測された。

秩序維持のため新たに警察隊を創設

実は、米軍のパナマ侵攻の直前、つまり、12月20日深夜、米南方軍TV放送が、エンダラ大統領、カルデロン第一副大統領、フォード第二副大統領の3名(いずれも、5月の大統領選挙に立候補した野党候補)が、いずこかで(恐らく、米南方軍の施設と思われる)、就任宣誓を行う光景を短時間放映した。大統領就任式にしては、なんとも寒々しい光景だったが、米国は軍事侵攻の直前にこのエンダラ政権を形式的に承認する必要があったのだ。

新たに発足したエンダラ政権にとり緊急の課題は国内治安対策であった。内務・司法大臣に就任したカルデロン第一副大統領は米軍侵攻後3日目に、従来の国防軍は全面的に解体されたこと、新たに警察隊が発足したことを宣言した。1968年のトリホス革命以降、21年ぶりにシビリアン・コントロールが実現した。

ニューヨークの国連代表やワシントンのOAS代表部でもパナマ新政権が任命した代表が旧体制派と入れ替わった。数日前まで、米国の軍事侵攻を激しく非難していたパナマ代表の意見が180度転換することになった。

バチカン大使館に逃げ込んだノリエガ、国連は米軍事侵攻を非難

米軍侵攻後4日目の12月24日、米南方軍のTV放送は、クリスマス・イブにノリエガ将軍は、パナマ市内にあるバチカン大使館に庇護を求めて逃げ込み、第三国への亡命を希望していると報じた。その後、米軍はバチカン大使館に蟻の出入りする隙間もない程の厳戒態勢を敷き、しばらくすると、高音のヘビメタ音楽を流し始めた。大使館の周辺の壁の上に張り巡らされた何台ものスピーカーから大音響が24時間流された。大使館内部での交渉を妨害し、安眠を妨げ、ノリエガの投降を早める目的であった。結局、年明けの1月3日、ノリエガが米軍に投降するまでの10日間、ヘビメタの大音響はなり響いていた。周辺の住民は睡眠不足で神経衰弱になる人も続出した。

一方、12月29日夕方、国連総会は、米軍のパナマへの軍事介入を遺憾とし、介入の即時停止を求める決議を賛成(75票)、反対(20票)、棄権(40票)の多数で採択した。ラテンアメリカ諸国やソ連、中国は賛成に回り、米、英、仏、日本などが反対した。今回の介入が国際法、国家の独立、主権、領土保全の原則を侵害する、との認識に立ち、中米の平和と安全にもたらす影響について、深い憂慮を表明するなど、全般に米国に対し厳しい内容であった。また、国連安全保障理事会は23日、同様の決議案を採択に付した。その結果、理事国15ヶ国のうち、10ヶ国の賛成を得たが、米、英、仏が拒否権を行使したため不成立に終わった。

マイアミでノリエガ裁判始まる

米軍侵攻から14日目、新年を迎えた90年1月3日、夜8時50分、ノリエガは10日間滞在したバチカン大使館から出て、出口にいた米軍に投降した。すぐさま、身柄はパナマ国内のハワード米空軍基地に移され、そこで米麻薬取締局によって正式に逮捕された。そこから米空軍輸送機でフロリダ州に移送された。ノリエガが投降して1時間後に、ブッシュ大統領はパナマ侵攻の4つの目的が全て達成されたとの声明を出した。それは、①米国民の安全確保、②民主主義の回復、③パナマ運河条約の保全、④ノリエガ将軍の身柄の米司法当局への引き渡しだ。「将軍の逮捕と米国への移送は、麻薬の取引に絡んだ者は司法の追及を決して逃れられないという米国の決意を示すものだ」と、今回の成果を誇った。

ノリエガはマイアミの連邦地裁で、既に起訴されている麻薬取引の罪で裁判にかけられ、翌日の午後、初公判が開かれた。弁護側は、米軍のパナマ侵攻が国際法違反であることなどを理由に裁判の無効と無罪を主張した。しかし、判事はノリエガが米司法の管轄下にあるとしてこの主張を退けた。(注:逆転の論理であるが、米国がしばしば使う論法でもある。)

初公判は20分で閉廷した。ノリエガの当面の拘置先はマイアミ周辺の連邦刑務所であった。

10ヶ月の裁判、量刑40年の判決

本格的な裁判は翌91年9月初めに開始された。検察側の罪状をそのまま認めた場合は、ノリエガの刑期は140年とも165年とも言われた。米国民の関心は、この裁判を通してブッシュ大統領がCIA長官時代や副大統領時代にどのようにノリエガと関係していたのか、また、キューバのカストロとの関係、イラン・コントラ事件でどこまでノリエガがアメリカに便宜を提供していたかなどであった。しかし、ブッシュとの関係についての情報提供は判事の判断で却下されたこともあり、裁判から政治的色彩は排除されてしまった。(注:上記諸事件は、中間選挙を控えたブッシュ政権に微妙な影響をもたらす懸念材料であった。)

裁判は10ヶ月近い審理におよび総計78人もの証人喚問が行われた。

92年4月、マイアミの連邦地裁の陪審は10件の起訴事実のうち8件について有罪の評決を下した。有罪になった起訴事実は、1981年から86年にかけて麻薬の製造や取引、それに絡むマネーロンダリング(資金洗浄)の共謀、コロンビアの麻薬生産者メデジン・カルテルに便宜を図り500万ドルの賄賂を受け取っていたこと等、計8件の罪であった。検察側は最高120年の拘禁刑、罰金54万ドルを求めた。結局、3ヶ月後の7月、マイアミ地裁はノリエガ(58歳)に対し、拘禁刑40年の量刑判決を言い渡した。

ノリエガの反論、弁護側証人3人が語るノリエガの貢献

判決の前に、ノリエガは逮捕以来、初めて法廷で3時間にわたって起訴の不当性と無実を訴えた。この主張の中には、米政府がニカラグア侵攻の口実を作るためにパナマ軍を使うようノリエガ将軍に要請したが、それを拒絶したこと、レーガン、ブッシュ政権の中米政策に従わなかったために米政府は自分を逮捕したと訴えた。また、84年に将軍が麻薬組織をめぐる問題のためにキューバを訪問したという検察側の陳述に対しては、「実際はワシントンの要請に基づき、カストロ政権と米国の間に密かに話し合いの窓口を作るのが目的だった」などと反論した。

弁護団は、ノリエガが長年にわたり米国政府に協力してきたことを考慮すべきだと主張し、3名の証人を呼んだ。一人は、元米パナマ大使(デイビス)。同氏は、「ノリエガには米政府内に庇護者がいた。例えば、CIA長官(ビル・ケイシー、在任1981~87年)には、“ノリエガは私の部下だ”と言われたし、米南方軍の将軍連もノリエガを一様に褒めていた」と述べた。

二人目は、1984年から86年までCIAのパナマ責任者を務めたウインター。同氏は、「ノリエガが米国のために果たした大きな仕事は、イランのシャーの亡命を受け入れたこと、米国とキューバのカストロとの連絡役を果たしたこと、等。また1985年のエスパダフォラ厚生次官の斬首事件が起きた際、ノリエガは国外に出ており無関係だった」とも証言した。

三人目は、自身を諜報の専門家であり、米南方軍の元政治アドバイザーであったとするフリアス元空軍大佐。「当時、トリホスは政治的スターであったが、実際の政治を掌握していたのはノリエガであったこと、ノリエガはラ米の歴史始まって以来、最も重要な情報源であった。そして、ノリエガの協力により、チリ、ニカラグア、エルサルバドル、及びホンジュラスでは、何百人もの人命が救われた。ノリエガに対する麻薬取引とマネーロンダリングに関する判決は笑いものだ」とも述べた。

(注:ノリエガが多くのラテンアメリカ諸国と米国との関係において、重要な情報源であったとする評価は、ノリエガが1970~1982年まで国防軍の情報部長であったこと、さらに、運河地帯にあった米南方軍施設には、1946~1984年までの38年間「米州陸軍学校」があり、ラテンアメリカ22ヶ国から士官訓練生4.4万名がそこを卒業している。スペイン語という共通言語を使用するラ米諸国との諜報面での連携工作を進めるに当り、米南方軍がパナマ国防軍、特に情報部長だったノリエガ将軍に協力を仰いだであろうことは容易に想像がつく。)

ノリエガの最後

1992年7月、ノリエガはマイアミ連邦地裁による拘禁刑40年の判決を受け、マイアミの拘置所に収監された。その後、模範囚として刑期が17年に短縮され2007年9月に釈放された。しかし、フランスが、1999年に欠席裁判でノリエガに対し麻薬資金洗浄罪で10年の禁固刑の有罪判決を下していたことから、米国にノリエガの身柄引き渡しを求めていた。2010年4月、ノリエガはフランスへ移送され、7月にパリの裁判所は禁錮7年の有罪判決を言い渡した。

他方、パナマでは、政敵のエスパダフォラ厚生次官殺害容疑により、ノリエガに禁固20年の判決が下されていた。パナマの引き渡し請求により、翌年、フランスからパナマへ身柄移送された。

2011年12月、既に77歳になっていたノリエガは21年振りにパナマの土を踏んだ。車椅子に乗り、かつての精悍な将軍の姿はなく普通の老人であった。そのまま、運河周辺のジャングルの中にある刑務所 “Renacer(再生)”に収監された。成人した3人の娘や妻とも鉄格子越しではあったが再会を果たすことができた。

冷戦が終結し、西半球の安全保障の要であったパナマ運河周辺の米南方軍の存在意義も無くなった。99年12月末、「トリホス・カーター条約」で約束されていたパナマ運河と米軍基地はパナマに返還された。

パナマではノリエガ裁判の開廷を巡り賛否両論あったが、結局、裁判は開かれることはなかった。一つにはパナマにとり、この裁判がもたらすであろう政治的余波が依然として大きかったであろうこと、もう一つはノリエガの体調が優れなかったことだ。

2017年3月、脳腫瘍の手術後、5月に83歳でこの世を去った。「第三閘門運河」の工事は前年6月には完成していたので、そのニュースは聞いていたはずだ。それにしても、歴史に翻弄された人生ではあった。(完)