連載エッセイ317:本多加代子「2023年大阪市親善大使のサンパウロ派遣レポート」 - 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

連載エッセイ317:本多加代子「2023年大阪市親善大使のサンパウロ派遣レポート」


連載エッセイ317

2023年大阪市親善大使のサンパウロ派遣レポート

執筆者:執筆者:本多加代子(2023年度大阪サンパウロ姉妹都市親善大使)

「私とブラジルとの出会い」

 看護学校へ通っていたころ、アルバイト先の「ハードロックカフェ」で初めてブラジル人と出会ったのがブラジルとのファーストコンタクトでした。アルバイト先で彼らとふれあうことで、言語や文化に興味を持ち、ポルトガル語を独学で勉強し始めました。看護学校卒業後も精力的にポルトガル語を勉強し、看護師として働く中で、ブラジル人が多く通う病院に勤め、ポルトガル語とふれあう環境を求めていきました。そして、平成24年には、愛知県医療通訳士の研修、試験を受け、ポルトガル語医療通訳士の認定を受けることになりました。

その他趣味でブラジル音楽を日本語に訳して歌ってネットで配信したことがきっかけで、ブラジルのTVに取材されました。またコロナ禍には世界中が混乱して、情報が少ない中、ニュースをSNSでポルトガル語に素早く翻訳し、発信したことによって、在日ブラジル人より脚光を浴びることになりました。現在は東京海上日動火災の代理店にて、任意保険の販売をポルトガル語と日本語の二本柱で対応し、交通安全の啓発に努めています。

過去に3回渡伯しましたが、リオデジャネイロ州、サンパウロ州、ゴイアス州、ミナス・ジェライス州、パラナ州と多くの観光地や州を歩き渡りました。初めて渡伯したのは、22歳の時でした。初めてのブラジル、ブラジルのインターナショナル空港、グアルーリョス空港に到着した途端、体中にエネルギーが走ったような記憶があります。そして過去3回の渡伯で分かったこと、それはブラジル国内での日系社会の存在大きさ、日本文化が根付いており、そして敬愛されていること。アジアンヘイトなどが起きている中で、ブラジルでの日本愛はどのように根付いたのか、大変興味がわいてきました。

「大阪サンパウロ姉妹都市協会主催の『ポルトガル語スピーチコンテスト』で優勝」

ポルトガル語を勉強し始めて10年過ぎ、独学で学んだポルトガル語の実力がどのぐらいなのか、またポルトガル語を勉強している日本人の方と知り合うきっかけが欲しく、インターネットで探したところ、大阪サンパウロ姉妹都市協会主催の「ポルトガル語スピーチコンテスト」を見つけ、すぐに参加しようと思いました。
2020年に初参加しましたが、結果3位となり、まだまだポルトガル語の勉学に励まないといけないと、精力的に勉強をし続けました。コロナ後最初の2023年のスピーチコンテストに、再度挑戦し、優勝することができました。

スピーチの内容は自身の経験に基づいたもので、「小さい行動を大切にして、共存を目指していこう」というタイトルで、在日ブラジル人でなかなか日本の慣習になじめず、日本人と有効な関係性が構築できないブラジル人たちに対し、情報提供し、小さい行動を起こして関係を築いていこう、という内容のスピーチで、5分間のスピーチを行いました。アピールしたかったことは、ブラジルの言語療法士に指導してもらった発音で、ネイティブの方にもネイティブの発音に近いといわれていたことです。またポルトガル語を習得するだけでなく、日々のブラジル人の方々の関わり合いを是非スピーチにしたいと思っていました。

 大阪サンパウロ姉妹都市協会主催の「ポルトガル語スピーチコンテスト」の優勝の副賞は、大阪市長の親書を持参し、サンパウロに出張できることです。公式スケジュールに加え、私の希望するスケジュールも入れることが可能でした。
過去3回の渡伯、また在日ブラジル人と接することで、日本人や日本の文化が一番遠く離れた国ブラジルでなぜこんなにも親しみ、愛されているのかという疑問を持ち始めました。ポルトガル語を勉強していく中で、ブラジルと日本の関係は1900年より続いていること、また多くの日本人の移民がブラジルへ移り住んだことを学び、そこに秘密が隠されているのではないかと考えました。そこで今回のブラジル行きで、まずは日系人が築き上げた「コロニア」の形成・成り立ちについて、日系の大企業が現在どのような形でブラジルに進出し、適応されているのか、日本語教育について、また現在勤めている東京海上日動火災保険ブラジルでの損保・生命保険の傾向を見てみたい、と多くのわがままを言いましたが(笑)様々の人のお力のお陰様で、私の全ての希望を叶えてくださいました。

大阪サンパウロ姉妹都市協会主催の「ポルトガル語スピーチコンテスト」で優勝

「現地でのスケジュール」

 現地での滞在日数は、10日程度でしたが、下記のような盛りだくさんの日程を作成していただきました。
ブラジル日報 インタビュー
JAPAN HOUSE訪問
ブラジル日本移民資料館見学
パウリスタ通り
ノムラ市議会員とサンパウロ市役所訪問
東京海上日動サンパウロ支社訪問
ピラール・ド・スル 研修二日間
HONDA 見学
TOYOTA 見学 

「訪問先の印象記」

以下いくつかの訪問先の印象記をまとめてみました。

1)ピラール・ド・スルとコローニア・ピニャール訪問記

ここでは、2023年10月6日~7日に開催されたピラール・ド・スール、コロニア・ピニャールの日本語学校合同研修会に参加させていただきました。その目的は、日系コロニアで、日本の文化や言語がどのように継承されているかを学ぶことにありました。そこでの活動は、授業見学、懇親会、生徒とのふれあいです。

ピラール・ド・スルは今年入植78周年、文協創立70周年を迎えます。町の人口は約3万人で、日系家族数は200程度です。生徒は日系3世、4世が中心で、純日系は年々少なくなってきている状況でした。生徒数は幼児(4歳~7歳)が27名、児童(7歳~13歳)46名。教師数は6名でその内訳は、現地3名、日本人2名、助手2名の構成です。授業時間は月曜日から金曜日まで毎日、一日2時間。週二回1時間ずつ体育の授業があります。

教育理念は「周りとともに強く生きる力の育成」、道徳やしつけなど人格形成に重きを置いた教育、人生で一番感受性の強い青少年期に様々な経験を通じて指導し、社会の中で多くの人とともに生きていく上で、必要なこと・力になる事を身に着けることです。また日本語や日本文化を教える教育、日本語能力を身につけ、日本語能力試験などの勉強も行っています。日本語能力試験N1,N2を持っていると、今後日本への研修や留学が非常に有利になるとのことでした。

日本学校の役割としては、言語の習得だけでなく、「よき」日本文化の継承、幼少期の貴重な時期にしか出来ない人間形成の場を目指しており、時間厳守、規則を守る、教室など自ら使ったものを自ら掃除するなどの集団で行う活動も取り入れられていました。そのため、文協では日本人の教員を必ず1人以上はいれていることでした。
またブラジルでの文化的な違いから、受け入れられないことも多々あり、父母とトラブルになることもあったという話を聞きました。例えば、掃除。自分が汚した空間は自分で掃除をするという日本的な教えが学校教育では浸透していないため、「自分の息子や娘は掃除をするために学費をはらっているわけではない!」と父母からクレームを受けることもあったと言います。

・生徒の非日系の比率の増加
実際に通っている息子、娘の授業の態度のよき変化を感じ、口コミにて伝播されることが多くなってきたこともあり、非日系のブラジル人の子供の加入が増加傾向にあります。なんとピラード・ド・スール日本語学校においては50%以上を占めています。生徒のお母さまより、ブラジル学校にいたときは落ち着きがなかったが、日本学校入学後には、授業に対して集中力が上がり、ブラジル学校の先生より、授業態度の良い変化が見られたとの声がありました。

とは言え「日系なのだから」、「家では日本語を使っているんだから」といった継承日本語教育の減少が見られています。私は、実際に日本で関わる日系ブラジル人と話していますと、小さいころ日本人学校に通っていたが、あまり熱心に勉強せずに、日本語を習得できなかったというコメントを多く聞いていました。

・実際に日本学校で務めている教師たちの意見
入学するタイミングが日本と異なり、バラバラになってしまっていることで、日本語のレベルが教室内で異なる場合の対応の仕方に困っているという多くの日本語学校の先生たちの声も聞きました。対策としては留年制度を設け、年度末に能力試験を行い、クラスのレベルの平均化を行っているとのことでした。また日本人生徒に比べて、ブラジル人生徒の落ち着きのなさに困惑をしているという意見も多く聞きました。

ピラール・ド・スル日本人教師の渡辺先生より、日本語教育で大事なことは、まずは理屈よりも、言語の習慣化を行い、聴覚の刺激を行っていくことを大事にしているという話を伺いました。例えば、多くの生徒は体育の授業が好きなため、体育の授業の指示は日本語で行っていくのが有効です。それにより、耳が良くなるだけでなく、授業に対する集中力の向上、学校に通学するモチベーションの増加がみられるとのことでした。

今回のピラール・ド・スル日本学校の研修を通じて分かったことは、世代交代により、日系人の日本文化疎遠傾向や継承していく人員不足が問題となっていることです。その中で、日本の「よき」文化の継承と繁栄をもたらすため、強い志を持った多くの教員がまだまだおられることに感銘を受けました。そして文協の人々の力。多くの日系人の方が遠く離れた日本に血を引くことに誇りを持ち、継続的に活動されていることが、ブラジルと日本の大きな懸け橋の役割を担っていることに気づくことが出来ました。日本人として、よき日本文化の継承に力をいれてくださっている教員の方々へ敬意を示すとともに、これからの活動に期待したいものです。

ピラール・ド・スル日本学校での研修風景

2)東京海上日動サンパウロ支店

現在保険代理店の店主として生命保険、損害保険を扱っていますが、90%ブラジル人のお客様であり、お客様よりブラジルの損害保険、生命保険のある程度の情報は習得していましたが、より正確な状況を把握してお客様へ提供したいと思い、当代理店が扱っている東京海上日動のサンパウロ支店での見学を希望しました。私がお客様から伺っていた情報の再確認と、また保険を扱っている方にお話を伺うことが出来て、とてもいい勉強になりました。大きな違いは自動車事故において過失割合がないことです。日本だと交通事故で、過失割合というものが存在しますが、ブラジルでは3パターンのみです。100パーセント悪いか、半々の50パーセントか、0パーセントかでとてもシンプルです。日本では5パーセント刻みで過失割合を決めていきます。また生命保険に関しては、日本だと健康保険で賄えない30パーセントのために、生命保険や生命保険に加入する方が多いが、ブラジルでは無料の医療制度があり、全て税金で賄われている制度があります。その代わり、病院は選べず、高度な医療などは受けることが出来ないため、中~富裕層の方は医療保険に加入することになります。(価格も高め)以前はあまり話題にならなかったが、コロナウイルスより生命保険に着眼するお客様も多くなっているとのことでした。国の医療制度や制度によって、求められる保険や商品も異なることも理解することができましたし、またお客様へ提案する際に情報提供を行うことが出来ており、実際の日々の業務に生かされていることがわかりました。

3)HONDA DO BRASIL  TOYOTA DO BRASIL

自動車保険を扱っている者として、また自動車に興味があり、日本を代表するTOYOTAとHONDAの見学も希望しました。サンパウロ市を見ていても、トヨタ、ホンダの車は多く見られ、日本メーカーの二大メーカーだということはよく分かりました。私自身のお客様も、「ブラジルでフィットに乗っていたので、日本でもフィットを買った」と日本でもフィットを乗られるお客様もいるぐらいです。ただブラジルでのフィットの生産は終了してしまったようです。HONDAの駐在員の方は、生産するモデルを少数精鋭して、120%のクオリティーを提供したいためと言っていました。工場内も日本から輸送したという数々のロボット機械があり、作業工程もしっかり見学させてもらいました。ブラジルではHONDAの進出は二輪車からだとのこと。ブラジル国内でもHONDAのバイクとても人気です。

トヨタの生産工場では、お客様より注文してから生産されるそうです。工場内も日本と同じシステムを取り扱って、効率化を図っていました。二つの会社に共通していることは、会社内でのイベントが多くあり、日本なら社員同士が集まるイベントも、ブラジルでは大事な家族も参加する、など国に合わせた形式をとっていることが分かりました。また貧困層への食糧提供などのイベントもあり、日系企業も、他国の制度や慣習に沿って、適応していること、また社員や職場環境の満足度を上げることにも力を注がれているように見受けられました。

4)ブラジル日本移民資料館

サンパウロにある歴史資料館では、日本人の移民の歴史が大変深く学べました。
今回のブラジル行きで、どのように日本文化がブラジルで根付いたのか、というところを探るべく渡伯をしたのですが、資料館へ行き、日本人の移民が深く関係していることが分かりました。なんと資料館を案内してくださった方が、幼少期に実際に船に乗ってブラジルへ移民した方でありました。実際に日本から移民した方とお話する機会は殆どなく、とても貴重な経験をさせていただきました。

中でも、船に乗っていたときは、輸送荷物と一緒に移動していて、アメリカなどの途中の国で1週間も荷物の積み降ろしで止まったりしていたといった事情に驚かされました。私は今まで日本からブラジルへ渡航するのに、単純に移民する人々を乗せていたのものだと思っていましたが、ビジネスを兼ねて移民者をブラジルへ乗せていたため、渡航期間が1~2か月かかったとのことでした。

荷物があるせいで、人々は船の下の方で生活しており、空気が薄く、空気口からお手製の紙で作った筒で空気を自分の部屋へ運んでいたというお話もあり、空気の取り合いで喧嘩になることもあったそうです。インターネットで調べてもなかなか出てこない情報を実際聞けて、本当に嬉しく思いました。また先人の日本人は慣れないブラジルでの生活の中、創意工夫を行いながら、ブラジルでも成功を成し遂げたことにとても感謝の気持ちでいっぱいになりました。先人の多くの努力よって、根付いた日本文化を、これからも大事にしていかないといけないなという責任感や使命感も出てきました。

まとめ

ブラジル派遣前までは、ブラジル人は日本のカルチャーへの興味が強いという漠然とした考えだったのが、今回のブラジル派遣で様々な場所へ見学して、多角的にどのように日本文化が根付いたのかということが理解出来ました。日本人の移民を乗せた笠戸丸が1908年に初めてブラジルへ到着して115年以上という年月の中で、我々の先人たちが見知らぬ土地で生き抜くため、また繁栄のために血の滲むような努力をしたこと。また現在においても、日本人学校が日本の文化と教育を伝えていくために、日系人の子供や非日系の生徒達にも精力的に活動している教師の方々、ブラジルの文化や経済状態に適応し、成長を続ける日系企業。
一つ、一人の行動だけでなく、多くの因子が相互し、それぞれが影響し合うことによって、ブラジルという日本から一番離れた国で日本文化が根付き、ブラジル人にとって身近にあり続けているのだなということが改めて分かりました。

スピーチコンテストで発表した「小さい行動を大切にして、共存を目指す」についてですが、今までは日々関わりの多いブラジル人に対してフォーカスしてきました。ブラジル人関わりが多い私でも今まで分からなかったように、多くの日本人の方々もブラジルと日本の関係性について、情報量が少なく理解していないという現状があります。 親善大使として、私が見てきて感じたものを日本人の方々にも情報提供していくことで、一人でもより多くの人がブラジルを身近に感じ、興味を持ってもらうことで、更なる共存への一歩へ繋がっていくのではないかと考えています。この記事を掲載することで、知識を共有できれば幸いです。

また今回の派遣を通じて、今後地元愛知県とブラジルの姉妹都市化を進めていくことが出来たら、と新たに目標が出来ました。ブラジルと日本は物理的には遠いですが、今後はお互いの心の距離をより近づけていける活動が出来れば、と思います。

大阪市とサンパウロ市は、姉妹都市として提携してから、スピーチコンテストなどのイベントを定期的に行い、過去11回において親善大使を送り、また迎え続けております。様々な方々が協力し、精力的な活動を続けていられ、心より感謝を申し上げるとともに、今後も益々の活動の継続、また提携の強化されることを願っております。  

以    上


ブラジル日本資料館の前で