連載エッセイ321:設楽知靖「アンデスに暮らす人々の知恵」=互恵関係と緊張関係の中で= - 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

連載エッセイ321:設楽知靖「アンデスに暮らす人々の知恵」=互恵関係と緊張関係の中で=


連載エッセイ321

『アンデスに暮らす人々の知恵』=互恵関係 と 緊張関係の中で=

執筆者:設楽知靖(元千代田化工建設、元ユニコインターナショナル)

1.機上と地上からアンデスを:

私は『アンデス』、その語源は『アンデネス(ANDENES:段々畑)』と言われている世界最長の山脈の『多様性と共生』に魅力を感じている。地上ではいろいろなことが起こった地域で、いまも様々な格差があることも確かであるが『自然空間』は変わらない。私は北から、南から、いろいろな視点からアンデスに触れてきた。

(1)北部アンデス:

まずベネズエラから話を進めていくとベネズエラ東部ではギアナ地域にテーブルマウンテンに世界最大の落差1000メートルのアンヘルの滝が存在する。私はこの滝をグリダムで開催された日・ベ経済委員会に出席の際にボ-イング727機の機上から窓越しの手の届くようなところから見た。テーブルマウンテンはいつも雲に覆われている。この地域は地上では鉄鉱石、ボーキサイト、石油の一大産地でもある。

アンデスはそのあたりから西の方へ連なり隣国コロンビアへつづいている。これを海岸線に沿ってパナマ方面に向かうと左側の窓からピコ・ボリバール(ボリバール山)が美しい。
一方地上からはマラカイボから南へアンデスに入るとアンデス大学、タチラからコロンビアの国境へ、そこにはフリーゾーンがありコロンビアからの労働者を活用して様々な製品を生産している。この道路はククタへ通じている。

北部アンデスはコロンビアで三方向に分かれて深い谷を形成している。北のブカラマンガに石油研究所があり、他方少し西へ行くとコーヒーの集積地メデジンの都市がある。その南は深い谷にカリブ海へそそぐマグダレナ川の流れがありその流域にバランカベルメッハ精油所があり、首都のボゴタから中型機で何度も通った。

首都のボゴタ自身がアンデスの中にあり、その昔はメキシコ市と同様に湖のところに都市が形成されたと言われアンデスの標高2700メートルのレンガ色の街並みが美しい都市である。さらに南へ進むと日本人移民が暮らすカリという高原の都市がある。そこからさらに南へ進むと隣国エクアドルへ通じて、エクアドル側には先住民オタバロ族の藍色のポンチョを着た美しい姿が見られる。このエクアドルへ入るとアンデスは高峰が連なりチンボラッソ、コトパクシの美しい姿がキトー国際空港の滑走路からみられる。この首都キトーも標高2800メートル以上あり、プロジェクト遂行のために何度となく尋ね、東部アマゾン源流の原油産出地からアンデス越えのパイプラインが太平洋側のエスメラルダス側へのびている。

コロンビアの南からエクアドルはアンデス文明の北部地域に当たる。エクアドルのクエンカはパナマ帽の産地である。この小国エクアドルのすぐ南は隣国ペルーへつづき地上ではキトー発ペルー、チリ―経由アルゼンチンの首都ブエノスアイレス行の国際バスも出ている。このキトーから地球上の『赤道』を超すことになる,赤道碑に行くと足で北半球と南半球をまたぐことができ、そばの土産物屋で絵葉書を買うと、0’0‘’0’‘’のスタンプを押してくれるとともに、インティ(インカの太陽神)によりあなたがここへ来たことを証明するというカードに店のおばちゃんが神の代理としてサインしてくれる。

赤道を越えて南半球へ入ってもアンデスの姿は変わらず静かな姿が見られ、ペルーの最高峰ワスカラン山がそびえている。地上から標高5000メートルの峠を越えてワンサラ鉱山を訪問し、機上からはペルーの首都リマからルフトハンザ・ドイツ航空でキトーへ向かうときは機長がワスカラン山と並行して低空で飛行して案内してくれたこともあった。この辺りを飛行しているとアンデス文明の様々な年代の遺跡の上空を飛んでいることが頭に浮かぶ。ペルーアンデスが文明の中心であり、アンデネス(段々畑)とそこで生活を営むインカの末裔ケチュア族やアイマラ族の生活様式が思われる。

ここでペルーの地上へ目を移して思い出してみると北部ではスペイン人征服者が最初にインカ皇帝アタワルパと遭遇したアンデスのカハマルカへも首都リマからトルヒーヨ経由車で訪れた。町は温泉場で湯気で煙っていた。ペルーの海岸線は土獏で北の方にはタララ精油所がある。この辺りはエルニーニョにより気候変動が起こると雨が降るようになり一日で土獏に草が生えて緑になり、土砂崩れが起こることもある。

(2)中央アンデス:

アンデスはこの中央地域ペルー南部とボリビア西部、チリ―とアルゼンチンの北部でその幅が最大となり500~600キロメートルでインカの首都であったクスコ(標高3440メートル)もここに存在する。そのあたりにはインディヘナ(先住民)とミスティ(メスティーソ)が居住するが、これは後述することとしたい。

この中央アンデスはペルーの首都リマから東へ車を走らせると直ぐにアンデスの標高4000メートルのワンカーヨまで行ける。そして海岸線を南へパンアメリカンハイウエーを走ると約100キロメートルほど行ったところに日本人移民が150年前に佐倉丸で最初に上陸した『カニェテ』に着く。ここはアンデスから下るカニェテ川が太平洋へそそぐ土獏の地を灌漑して農作が行われている。南部ペルーアンデスはアレキーパという白一色の美しい町があり、別名シウダーブランカ(白い都市)といわれ、そこから美しいミスティ
山が眺められる。

ここはハレー彗星が地球に接近した時に世界有数の観測適地として世界各国から観測隊と観光客が訪れた町で、私も偶然調査で滞在してアンデスの星空の中にハレー彗星を見た。
この翌日は車でアンデスから流れる川に沿って太平洋岸のイロまで下ったが、ここでは稲作が行われていて、やはり土壌の塩分が問題と言っていた。

アレキーパからやや南東部のアンデスを進むとクスコへ至るがその間には6000メートルを超えるアンデスの高い峰が連なっている。首都リマからクスコへは機上から美しいアンデスを眺める機会が数回あったが、隣国ボリビアの首都ラパスからティワナク遺跡、標高3800メートルのチチカカ湖への道でもアンデスを眺めることがあって、この途中では小さな広場で物物交換をしている市を見たこともあった。ボリビアの首都は標高3800メートルにあり国際空港は標高4071メートルである。ここはチリ―側から調査で車でも訪れた。この空港からラパスの町へ降りてゆく時には正面に雪を頂く6000メートルを超すイリマニ山の姿が美しい。

チリ―側の調査では北部チリ―とペルー国境の港町アリカから車で東へボリビアの首都ラパスへ5時間のドライブをしたがアリカから徐々に高度が上がり国境のチュンガラは標高4500メートルにイミグレーションと税関がある。その道中は雪解け水が流れるところにイチュ草が生えておりビクーニャの家族を見ることができる。国境の近くからは雪を頂く6000メートルのアンデスのチュンガラ山が美しく国境の手前では先住民のインディィヘナたちが美しい織物のポンチョを売っている石囲いの市場があった。

暮れから正月にかけての気候は南半球では『夏』であるが海岸べりでは夏でもアンデスの山岳は『冬』で国境を越した後はボリビアのアンデスはみぞれ交じりの雨で街道沿いにはほとんど家なみは見られずラパスの空港の近くまで寒い曇った道中であった。チリ―北部とアルゼンチン北部はアンデスを中心とするインカの末裔の人々が住む地域が変わりなくみられる。

チリ―北部の三分の一は乾燥した土獏のアタカマ砂漠が続き海岸線に点々とある港町はアンデスの鉱物資源を積み出すところで、その南チリ―中部の国土の三分の一は地中海性気候でブドウ畑やオレンジ畑が点在し人口もこの地域に集中している。内陸に位置するチリ―の首都サンチャゴからアルゼンチンの首都ブエノスアイレスへ通常の定期バスで行ったが、たまたまその乗ったバスはエクアドルのキトー発ペルーのリマ経由、サンチャゴから
アンデス越えのブエノスアイレス行の国際バスであった。チリ―側からは直ぐにいろは坂的な峠を登り、その登ったあたりの左側にはポルティージョ・スキー場がアルゼンチン人でにぎわっている。さらに進んでアンデスの最高峰アコンカグア(標高約7000メートル)の山麓を国境のイミグレーションと税関を通って行くとアルゼンチン側はなだらかな草木もない傾斜面を一路メンドサへ、メンドサはアルゼンチン有数のブドウの産地で夏は暑いが並木の美しいアンデスの高原都市である。このメンドサを過ぎるといよいよアルゼンチンのパンパス草原でフラットな道路をバスは100キロ以上のスピードで首都ブエノスアイレスへと突っ走る。

(3)南部アンデス:

チリ―側は有名な港町バルパライソを南下すると気候は地中海性気候から徐々に針葉樹が多くなるアラウカーノ森林に近づく、この辺りはスペイン人征服者が北のインカ帝国を征服して南下してサンチャゴ辺りまで侵入した際にそれに抵抗した先住民アラウカーノ族の地域とされこの森林に咲く赤いかれんな花がチリ―国花コピウエである。さらに南のプ エルトモントまではドイツ移民が多いとされている。

さらに南の入り江の多い地域は、今有名な鮭の養殖がおこなわれている地域である。さらに南は陸路で行くには難しい地域で森林地帯の複雑な地形が続き、マゼラン海峡のプンタアレネスとなる。ここは一年中風の強い町であるがパナマ運河が開通するまではにぎわった町で知られている。

一方アルゼンチン側のアンデス南部は有名なバリローチェなどの観光地が多く風光明媚なところが続く、氷河湖ラゴアルヘンティーノも南のアンデスにある。途中のネウケン州は石油やガスも産出するが古代恐竜の化石が多いことでも有名である。アルゼンチン南部の大西洋岸はパタゴニア地域でバイアブランカの町から南は比較的乾燥した地域がコモドロリバダビアからリオガジェゴスまでつづき、そこから先はマゼラン海峡を渡ってティエラデルフエゴ島へ、この辺りも一年中強風が吹き荒れちる。昔、フエゴ島へは空軍機で渡ったが地球上の一番南の街と言われている“ウスワアイア”は美しい町で夏は南極へ行く玄関口とも言われている。このマゼラン海峡でチリ―とアルゼンチンを南下してきたアンデス山脈はマゼラン海峡に飲み込まれるのである。

2.スペイン人征服者が初めて見るアンデスの動物、インカの人々は『馬』を初めて見て:

1532年スペイン人、フランシスコ・ピザロ一行はペルー北部ツ゚ンベスから『馬』で東のアンデス山中のカハマルカへ侵入した。そこには当時インカ帝国皇帝アタワルパが滞在していた。スペイン人は鉄の鎧を着て馬に乗って進軍してきたのでインカ民族は初めてみる馬と人間を伝説の古代神『ピラコッチヤ』と思い込み歓迎したと言われている。

しかしながら、ピサロは、事前にメキシコのアステカ文明を征服したエルナン・コルテスから征服には皇帝を捕まえることが最適との知恵つけをされていたのでアタワルパ皇帝を幽閉した。そして,その解放条件にその部屋に皇帝が手を挙げた高さまで金銀を積んだら解放しようと約束した。これに対してインカ族は領土内から金銀を大量に集めてみるみる部屋を満たし、その組織力に恐れたピサロは皇帝を処刑してしまった。その結果、インカ帝国(正式にはタワンティインスーユ帝国)の組織は崩壊しピサロは南下して首都クスコを征服するのは容易であった。このときにスペイン人征服者はインカ民族の日常生活の中でアンデスの動物、すなわち『ラクダ科の動物』を見たはずで、それが最初の『遭遇』であったはずである。

ヨーロッパ人の新大陸へ『作物』や『家畜』を持ち込んだ記録としてはコロンブスの二回目の航海でコムギ,ヒヨコマメ、メロン,タマネギ,ダイコン、サラダ菜、ブドウ、サトウキビの種子や切り枝などを持ち込み、さらに馬、牛、羊,山羊、豚、ロバも積み込んだとされている。1540年のスペイン人の記録ではオオムギ、コムギ、イチジク、ブドウの栽培を見たとされリマでは1539年にすでにパンが販売されていたとの記録がある。

『馬』が最初の家畜でピサロが連れてきたものとされクスコやエクアドルでは草が豊富で馬の繁殖が進んだようである。牛も征服後まもなくアンデスへもたらされたようで1550年にはクスコでは牛にひかせて畑を耕す光景も見られたとされている.征服から500年たってもアンデスでは伝統の農具が使われた牛の『畜力』が並行してアルパカとリャマも飼われておりジャガイモ耕作は変わらない。

3.ラクダ科の動物は何処から来たのか:

ラクダ科動物の『祖先種』は、今から数千万年前に北アメリカで最初に出現されたとされている。現在旧大陸にいる『フタコブラクダ』(内陸アジア)と『ヒトコブラクダ』(西アジアと北アフリカ)は約500万年前にユーラシアへ進出したラクダの子孫とされている。
新大陸の最初の人類は、今から一万数千年前の最後の氷河期にベーリング地峡を通って渡ってきたが『ラクダ』はそれよりずっと前に人類と逆の方向へ移動したのである。

北米と南米大陸がつながった300万年前にパナマ地峡を南下、それが現在の『コブナシラクダ』となった。一方北米大陸のラクダ類は約一万一千年前に他の多くの哺乳類と共に絶滅し南米大陸へ渡った現在の四種類が分布している。それがリャマ(Lama glama),アルパカ(Lama pacos),ビクウニャ(Vicugna vicugna),グアナコ(Lama guanice)である。

私も北アメリカからメキシコ、そしてパナマまで中央アメリカの全ての国を訪ね、機上と地上からラクダ科の動物と同じルートを通ったが、ある時は地上で『東西冷戦の代理戦争』が行われていた。パナマ地峡のダリエンからコロンビアへはうっそうとしたジャングルで道がなく渡れなかったが、動物はここを渡って行ったのだろうか。

ラクダ科の分類は反芻動物で『牛』に属するが三個の胃袋をもちすべてに胃センがあり四肢の先端はひずめになっていない。もっとも近いのはウサギとされる。また耐寒性が強くリャマ、アルパカ,羊が標高4000~4800メートルのところで放牧されている。特色としてリャマは牧草があまり限られないために低地部を含めて広い範囲で行動できるがアルパカはプナ地域の牧草しか食べないので放牧はプナ帯に限られてしまう。これによってインディヘナの居住地が『放牧ゾーン』と『ジャガイモ栽培ゾーン』の中間に居住するわけである。

4.動物インフラ(組織構造)の信頼関係:

アンデスの牧民にとってラクダ科の動物との付き合いは重要な『一年の生活サイクル』である。牧民の食事は一日一回で、ラクダ科動物の搾乳は行わず,乳を利用することもない(飲料やチーズ加工)。肉は重要だが主食ではなく農産物の物物交換は『肉、干し肉,畜糞、岩塩、果物、土器』などが交易品である。雨季(1~4月)は家畜の出産期で牧畜本来の仕事である毛刈りも忙しく,乾季(4~6月)は農産物確保の活動としてジャガイモ、トウモロコシの収穫期で『キャラバンの旅』に出る。リャマのキャラバンは訓練されたリーダー(デランテ―ロ)を付けて途中の村で物物交換を行う。岩塩やアルパカの肉とチューニョ(乾草ジャガイモ)と交換する。また行く先々で宿を提供してもらいネットワークを持つ友人が重要である。

5.農耕と牧畜の高度差『住み分け』:

寒さのため農耕ができない高地に適応したラクダ科の家畜を飼って生活する『牧民』とトウモロコシやジャガイモの栽培をして生活してきた『農民』は同じ『ケチュア語』を話し、同様の文化を共有しながら標高差によって全く異なる環境に適応し『住み分け』ながら互いに親密で『互恵的関係』を保ってきた。しかしながら、不在地主が高原に所有する牧草地『アシエンダ』(ここでは大農園ではない)では地主は家畜の飼育を『牧民』に委託して『ぺオン』{小作人}として牧民は家族と共に高原に居住し地主の家畜と自分の家畜を一緒に飼育している。この間には格差と相互不信が存在する。

地主は『ミスティ』(メスティーソ)でぺオンとしてのインディヘナ農民の間には『垂直的主従関係』となっている。さらに農民同志、村落間にはいつも緊張関係があり、それは耕作地の境界問題とヨーロッパ起源の家畜、馬、牛、羊、豚などをめぐる耕地の侵害、草地の競合などで生ずる。尚、標高差による農民と牧民の住み分けは添付の図『南米の断面図』並びに『プイカ行政区の”垂直統御“』のごとくである。

6.経済関係と社会関係(地形に基ずく牧民と農民の行動):

経済関係は季節の農作物の収穫時期と関連している。4月はジャガイモ類の収穫時期。5~6月はトウモロコシやソラマメの収穫時期に当たり牧民は親しい農民の家に二か月ほど滞在して農作物の運搬に従事する。運送手段はラクダ科動物の活用、リャマである。すなわち畑から収穫物を家まで運ぶのである。運賃として収穫物の一部をもらう。物物交換は二段階交換という方法もある。標高2000メートル前後の『エンガス』{峡谷低地帯)の果実、とくにイチジクやトウガラシを獲得して、それを『ケチュア』(峡谷高地帯)にもっていき農産物と交換する。農民と牧民の関係は多くの社会的関係も広げられている。『友人関係のネットワーク』では市場ではなく牧民が訪問する村々においてそのネットワークによって宿泊場所やリャマを追い込んでおくための中庭を確保することができる。確立された友人関係は父親が息子をキャラバンに連れてゆくことにより父から子へ継承されることになるアンデスの土着の習慣として『ウマ・ルテューチ』(髪を刈ること)があり生まれた子供は二歳くらいまで髪を刈らず、最初の髪を刈るとき『儀礼』が行われ牧民は農民との間の関係強化にこの制度を活用している。 

最後に『アンデネス』(階段耕作)の誕生はティワナク文明崩壊後のワリ王国で始まったといわれ、インカ帝国で大規模になったことが1553年ピサロの従弟ペドロが記述している。

7.おわりに:

機上から見てきたアンデスは地上では『自然空間』で複雑な様相を強くしているが『多様性と共生』が標高差の中で維持されているように思われてならない。

(おわり)

<参考資料>
1.『リャマとアルパカ』稲村哲也著、花伝社、1995年6月10日
2.『アンデス高地』山本紀夫著、京都大学学術出版会、2007年3月30日
3.『21世紀のパートナー・ラテンアメリカ』設楽知靖著、ジェトロ出版、1991年10月17日
4.『アンデスのカマロン』恒川恵市著、2023年6月
5、『新版:ラテンアメリカを知る事典』大貫良夫監修、平凡社、2015年3月25日

以   上

(添付)『南米の断面図』及び『プイカ行政区の垂直統御』(農民・牧民の高度差利用)