執筆者:田所清克(京都外国語大学名誉教授)
全聖徒湾(Todos os Santos)に立地するSalvador。ここは周知のように、リオに遷都[1763年]されるまで、214年に亘ってブラジルで最初の都がおかれたところである。
11月1日のTodos os Santosの日に発見されたことから、この街の正式名称と言えばSão Salvador da Bahia de Todos os Santos となる。
一方、Bahiaはサトウキビ耕作のための労働力をアフリカから最初に導入した地でもある。後述するが、彼らがもたらした風俗、習慣から料理法、音楽、宗教、言語等に至るまで、今ではブラジル性を表徴するものとして色濃く残っている。黒人系住民が多いのみならず、教会、礼拝堂が相対的に多いことも合わせて、「黒いローマ」と言われる所以である。
アフロ系住民と彼らのブラジル文化に与えた影響を研究していたこともあつて、バイ…〒74ーアには幾度となく訪ねたものである。だから、リオ、パンタナルと同じく、土地勘はある方だ。
坂や路地の多い町並み、Cidade AltaとCidade Baixaとに分かれた街、Pelourinho 広場、民芸品の宝庫Mercado Modelo、方々に植民地遺産の面影を残す建築群など。まるでそれら全てが博物館を想わせる。ユネスコの世界遺産に選定されているのも合点がゆく。
1535年ポルトガルは、マデイラおよびアゾーレス諸島で成功をおさめたのと同じ植民地化のシステムで、ブラジルを統治することに決めた。そして、外国の浸入から領土を護る目的で、1549年にバイーアにブラジル最初の首都が設けられたのである。その植民地化のシステムとは世襲制のカピタニア(capitania)制度のことであり、ドナターリオ(donatário)と称する、主として貴族たちからなる有力者等に対して、植民地を開発することを条件に広大な領土を分け与え、領主にしたのである。
行政区分されたバイーアの領地は、Francisco Pereira Coutinhoによる統治の下、サトウキビ栽培で繁栄した。しかしながら、ヨーロッパへpau-brasilを密貿易していたフランスの私鯨船に結託したインディオの攻撃もあつて、繁栄にも陰がさしていた。植民地行政のまずさや度重なる攻撃などもあって、ポルトガル国王Dom João III世は結果として、新大地ブラジルを本格的に植民地化することを迫られた。
かくして、Tomé de Souzaが到来して、新世界で最初のポルトガルの都をサルヴァドールの地に作ったのである。およそ海抜65mの高台ところに、居住地域と行政が、低いところは港湾活動が集中する街となった。Salvadorとその周辺部はサトウキビとタバコの一大生産地へと変貌する。そして港は、17世紀から19世紀にかけて、ポルトガルに向けた産品の重要な積出港となった。
農村の大地主は輸出で稼いだ金を大邸宅の建造等に惜しみなく当てた。これらが今もサルヴァドールの歴史的中心地(Centro Histórico de Salvador)として保存されている。
町全体が古色蒼然として歴史に重さを感じるSalvador はしかしながら、Minas Gerais州の金、São Pauloのコーヒー栽培が脚光を浴びるようになり、南東部のリオに1763年遷都することになる。
およそ800戸の植民地時代の町並みからなる建築群からなるPelourinho
。それは今でこそユネスコの世界文化遺産に登録され、Salvaの観光の目玉となっているが、むごくて悲しい歴史を秘めている。何故ならそこは、黒人奴隷売買の場所であったばかりでなく、捕えられた奴隷や犯罪人を鞭うち、あるいは単に民衆の前にさらけ出すところであったからである。
奴隷や犯罪人は青銅製の首輪(argola)につながれていたそうだ。その場所であるPelourinho は当初、現在のカストロ•アルヴエス広場(Praia Castro Alves)の前のCasa de
Câmaraと刑務所にあった。17世紀になって、現在のCentro Histórico のあるTerreiro de Jesus に移されたのであるが、鞭打たれる奴隷や犯罪人の悲鳴にイエズス会の信者たちは耐えかねていた。その結果、Largo
das Portas de São Bento に、そして究極には現在のLargo do Pelourinho に移されることになった次第。正式名称はブラジル文学の父を顕彰、敬意を表して、Praça José de Alencar
だそうだ。彼の作品『イラセマ』の訳者として知らなかったのは、忸怩たるものがある。
1754年に建造され、サルヴァドールでもっとも知られる存在となったノツソ•セニオール•ド•ボンフイン教会。市の北西部の高台に位置する。私は、その途中の埋め立て地に拡がる貧民街[多くがparafitaと呼ばれる水上家屋で、見るからに衛生面は顔を覆うほどに良くなく、無法状態に近い]の調査※に出向き、ついでに訪ねたことがある。
そもそも建てられた由来は、艦長であったTeodósio Rodrigues de Fariaが、ポルトガルとブラジル間を航行時に嵐を避けることができたあかつきには教会建造の約束をしたことにあるらしい。無事に船員ともども艦長の命が救われたことから、病気の快復を願った奇跡にあやかろうとするとする人たちも訪ねるようになった次第である。
教会内部に入って私は驚いた。と言うよりは、薄気味悪さすら覚えた。何故なら、天井から足や手など人体の部位が鈴なりに垂れ下がっていたからだ。説明を受けて判ったことであるが、病気やケガの回復を願う人が蝋細工のかたちで供してしていたものである。その一方で、壁には治癒した人の写真がところ狭しと貼られている。
リオの大学で、見目美しい女性なのに薄汚い、今にも擦り切れそうなリボンを巻き付けているのを目にしたことがある。ボンフイン教会を訪ねて、巻き付けている理由がわかつた。つまり彼女は、願掛けていたのである。幅1cm長さ50cmほどのリボンは右手に巻かれ、願を一つ掛けるたびに一回結び、3つまで願い事ができるらしい。もっとも願う内容は人には言ってはならないようだ。リボンが自然に切れ落ちると、願い事は叶えられるといわれる。
ボンフイン教会が近ければもう一度訪ねて、足の不具合のためにリボンを巻いて、願掛けしたいところだが。
※毎日新聞に掲載された小生のブラジルの貧民街研究です。水浸しの上に林立するSalvadorのと、São Pauloの近くのfavela、つまり貧民街です。後者は現在、一掃されてありません。
奇跡の教会と言われるボン•フィン教会のもう一つの目玉は、毎年、1月の月曜日から木曜日まで行われる、教会の階段を洗い清める宗教儀式かもしれない。バイーアナたちは、花の香りのする水の入った花瓶を教会の階段を洗う(a lavagem das escadarias)ために頭に乗せて持ち運ぶ。白い衣装をした信者たちの、平和を祈りSenhor do Bonfim にあたるCandomblé
の神Oxaláへの敬意を表した行列は圧巻だ。教会の辺り一面がイルミネーションで浮かび上がり、広場にはバイーア料理の屋台も軒を連ねる。ちなみに、その宗教祭の期間は教会の扉はしまつている。
街の中心部に位置して、Salvador市ではもっとも重要な建造物であり、その骨組みは17~18の間に造られたといわれている、修道院をかねたサン•フランシスコ教会。特に教会内部は、ブラジルバロック様式が豊かに表現されており、壮麗な装飾には瞠目すべきものがある。それ故に、世界のポルトガルの出自の7つ(Sete Maravilhas de Orige Portuguesa no Mundo)の魅了する驚嘆すべきものの一つとして、国家芸術歴史遺産院(Instituto do Patrimônio Histórico e Artístico Nacional=IPHAN)で登録されているのみならず、市のCentro Históricoの一部をなして現在では人類遺産となっている。
ともあれ、 ” 黄金の教会 ” と呼ばれるだけに、内部のそこかしこが金箔(ouro em pó)で施されている。と同時に、ブラジルバロックのシンボルともいうべき花や葉、ペリカンなどが設えてある。私はこの教会を何度訪ねたことだろう。行く度に、荘厳にして豪華な有り様に圧倒されっぱなしである。