執筆者:深沢正雪(ブラジル日報編集長)
この記事は、2024年2月20日付けの「ブラジル日報」紙の記者コラムに掲載されたものを同紙の許可を得て転載させていただいたものです。
手を合わせてハートを形作る恋人たち(UnsplashのMatt Nelsonが撮影した写真)
2023年6月12日付BBCブラジル《なぜブラジルは「バレンタインデー」に反対して、6月に「恋人の日」を祝うのか》(1)には、興味深い事実が書かれている。
先週の水曜日、2月14日は日本をはじめ欧米では「バレンタインデー」として知られている。日本では女性が男性にチョコレートを贈る日だ。戦前から散発的にバレンタインデーは行われていたが、森永製菓が1960年から新聞広告キャンペーンなどを大々的に行なって以降、知名度が上がり一般化したといわれ、商業的な習慣だと言われる。
だが、ブラジルでは全く祝われない。代わりに1948年以来、ブラジルでは6月12日を「恋人の日」として盛大に祝っている。これは、日本や欧米にはないブラジル独自の習慣で、この日はカトリックの〝縁結びの聖人〟サントアントニオの日だ。
聖バレンタインは3世紀のローマのカトリック聖職者で、聖アントニオは12世紀末から13世紀のポルトガルの聖職者なのでまったくの別人だ。なぜそうなったかに関してBBCは《その理由は宗教的な意味とは関係がなく、商業的なものである》と断定している。
同記事によれば、そのように仕組んだのは実業家で、元聖州知事ジョアン・ドリア・ジュニア氏の父親、広告代理店「スタンダード・プロパガンダ」経営者のジョアン・ドリア氏だったというから、興味深い。
《彼は、いつも(商業界の)売上げ不振だった6月を改善する目的でクリッパー・エキシビション・ショップに雇われた。母の日の成功に触発されたドリアは、その年に贈り物を交換するもうひとつの日、「恋人の日」を設定した》とある。
サントアントニオ(Stephan Kessler, Public domain, via Wikimedia Commons)
南米では真冬の6月は、最も商業界の売り上げが不審な時期であり、そこに「恋人の日」を持ってくることでプレゼント交換という行事を始めた。そのきっかけとして6月12日、サントアントニオの祝日を選んだ。
それを盛り上げるためのキャッチコピーは、「Não é só com beijos que se prova o
amor!(愛を証明するのはキスだけじゃない!)」だった。「恋人の日」には、愛する人にプレゼントを贈って愛を証明しようと大々的にキャンペーンを張り、さらに「Não se esqueçam: amor com amor se
paga(愛には愛で報いることをお忘れなく)」という対句も打ち出した。お互いに贈りあうことで、売り上げは2倍に膨れ上がる。天才的な目論見だ。
終戦直後の暗い世相にパッと明るい陽を差し込ませるようなキャンペーンであり、あっという間に定着した。この広告キャンペーンは、パウリスタ広告協会によって1948年の年間最優秀賞に選ばれた。
現在でも6月の恋人の日は、12月のクリスマス、5月の母の日に次いで、3番目に商取引の盛んな日となっている。
ちなみに「母の日」もはっきりとした起源はないという。20世紀初頭に乳児死亡率と闘う活動家アン・ジャービスを顕彰して米国で始まった。
ブラジル最初の母の日はリオ・グランデ・ド・スル州ポルトアレグレで、キリスト教青年協会の主導により1918年年5月12日に開催された。5月はイエスの母マリアの月ということもあり、広まりやすかった。徐々に普及して1932年にヴァルガス独裁政権は法令で5月第2日曜日を正式に定めた。
この母の日の公式化には、女性からの支持を増やしたいという政治戦略も関係していた。選挙法制定により1932年に女性が選挙権を獲得し、政府が女性や母親の役割を強調しようとしていた流れで制定された。
それが徐々に定着して終戦直後には母親への賛辞が商業的な側面を帯びるようになり、クリスマスに次ぐ重要なプレゼント商戦に成長した。それを横目で見ていたジョアン・ドリア氏が「恋人の日」の発想を得た訳だ。
と同時に、世界はバレンダインデーだった先週14日は、カトリック的には「Cinza(灰の水曜日)」でもあった。この日は、カーニバルが終わった後、カトリック教徒は復活祭(パスコア、英語ではイースター)に備えて、悔い改めに専念する期間である「四旬節」開始を意味する。この期間中、カトリック教徒は肉の摂取を制限され、他の食べ物、飲み物、その他の活動も制限される習慣がある。
カーニバルの日付は毎年変わるが、復活祭から数えて47日前がカーニバルとなるので、だいたい2月中だ。春分の日は3月20日か21日のいずれかで、そのあとの満月の日のあとに来る日曜日が「復活祭」の日となり、そこから逆算するので2月中頃が多い。
ローマ帝国への反逆罪によって処刑されたイエス・キリストは、処刑される前に「3日後に復活する」と予言し、実際に復活したとされており、その奇跡を祝う日が「復活祭」だ。復活祭のお祝いはイエスの十字架磔と死を記念する聖金曜日に始まり、イエスが復活して弟子たちの前に現れた日を祝う復活祭の日曜日に終わる。
つまり、カーニバルは時期的にバレンタインデーとほぼ重なる。カーニバルでは4日間から1週間程度も大騒ぎをして大出費をする習慣が元々ある。さらに、その直後には「悔い改める期間開始」という、恋人とのプレゼント交換という華やかなイベントとはそぐわない時期が始まる。
だから、世界最大のカトリック人口を抱えるブラジルの場合、カーニバルに「恋人の日」が被ってしまうと商業界としてはメリットが少ない。それなら売り上げが少ない6月に移した方が、商業界的には都合が良い。
ドリア元聖州知事の父親ジョアン・アグリピノ・ダ・コスタ・ドリア・ネト氏(1919―2000年)は、ブラジル広告業界の先駆者だけでなく、弁護士、連邦議員でもあり、目立つ存在だった。
軍部がクーデターを起こした1964年4月1日の直後、9日に発布した制度法第1号(AI1)(2)によって政治的権力をはく奪された102人のうちの、連邦議員41人の一人が彼だった。
この第1号は軍事クーデター政権の存在を正当化する法律で、これをもって軍政は始まり、第17号までだされた。制度法はクーデターに反対する勢力を排除し、大統領に権限を集中させることを法的に正当化するものだった。
そのうちの1968年12月13日に施行された第5号(AI5)が最も厳しい内容だった。この結果、軍を批判する連邦議員の権限が失われ、軍や警察は拷問してもよいとする法的な根拠を提供した。
本紙2月10日付《連警がPL本部から戒厳令原案=閣僚会議動画に問題発言=テメル元大統領「国には平静が必要」》(3)などで報じている〝戒厳令原案〟と言っている法案は、この制度法に似たものと推測される。
クーデター直後に施行してそれを正当化する法案であり、それゆえ1964年の軍事クーデターで弾圧されたトラウマが残る左派現政権にとっては特にデリケートな部分だ。
ブラジル憲法にある「例外状態(estado de sítio」は戒厳令の一種で、国家的な緊急事態の際に大統領が立法と司法の権限を一時的に停止できる。国家の存亡に関わる戦争などの場合、政府の迅速な行動が必須の時に運用される。
憲法第137条などにその概要があるが、実際に「例外状態」においてどのように大統領が統治するのかを示す法的根拠の「法案」として検討していたとみられる。
連邦下院サイトの田村幸重氏紹介ページ
ちなみに、この制度法AI5は日系社会にも関係がある。同法によって罷免された連邦議員リスト(4)には、日系人初の連邦議員の田村幸重氏(1915―2011年、2世)の名前があるからだ。
田村氏は1910年に高知県から移住した田村ヨシノリ、チヨ夫妻のもとに1915年1月2日、サンパウロ市リベルダーデ区で生まれた。幼少時は家庭が貧しく、母が作ったパステルを父とともにセー広場で売っていた。1948年に聖市議として政治経歴のスタートを切り、51年から4年間州議員をした後、日系人初の下院連邦議員への当選を果たした。71年までの16年間、4期に及ぶ任期についた。
だが、軍部が独裁化を推し進めるさなかの1968年、軍政を批判する国会演説を行ったマルシオ・モレイラ・アルヴェス連邦議員に協力したとして、最後の任期半ばで罷免された。その後、サンパウロ市議に返り咲いたことは、その人望がいかに厚かったかの証明だ。
ポメローデの街並み(Allice Hunter, via Wikimedia Commons)
復活祭の前、キリスト教徒はチョコレートで作った卵をプレゼントしあう。これは、復活祭の前に40日間断食し、肉を食べるのをやめる。その代わりに、この断食期間の終わりに豪華で盛大な夕食をとる習わしがあり、その流れでプレゼントしあうものだ。
23年3月30日付フォーリャ紙(5)によれば、その際、昔は家族の全員に、子孫繁栄や豊穣を意味する本物の卵を一つずつ与えた。子供たちにあげる卵には、彼らの喜びを増すために表面に美しい模様を描いたものをあげるようになっていた。
このような欧州の伝統が移民によってブラジルに持ち込まれ、本物の卵ではなく、チョコレートになり、更におもちゃや別の種類のチョコを中に入れるという現在の形になったようだ。
ちなみに今年はドイツ人移民ブラジル入植200周年であり、1863年にドイツ移民が建設した「ブラジルで最もドイツ的な街」と言われるサンタカタリナ州ポメローデでは、数々の記念行事が行われる。中でも現在開催中の、このドイツ式の復活祭の卵をメインにした「オスターフェスト」(6)は、ドイツ文化の伝統、風習、美食、音楽、宗教などをブラジルに広めるものとして有名だ。
ヴィアージェン誌23年6月27日付《ポメローデ:ブラジルで最もドイツ的な都市の魅力》(7)によれば、サンタカタリナ州都フロリアノポリスから173キロ離れた、「Vale Europeu(ヨーロッパの谷)」にある人口3万4千人の小さな町で、《ヨーロッパではほぼ絶滅したドイツ語の「いとこ」言語であるポメラニアンが今も話されている世界でも数少ない場所の一つ》として有名だ。
もしもウチナーグチが沖縄で使われなくなり、ブラジルの沖縄系コミュニティだけで話される言語になったら、ポメラニアンと同じことになる。
祖国では失われた伝統が移民によってブラジルに持ち込まれ、その子孫が現代に伝えているということは、当地ではけっこう起きている。もしかしたら、日系社会で盛んにおこなわれている「BomOdori(盆踊り)」「Undokai(運動会)」なども、そうなるかも。(深)
(1)https://www.bbc.com/portuguese/articles/c9x9pz7zk82o
(2)http://www.planalto.gov.br/ccivil_03/AIT/ait-01-64.htm
(3)https://www.brasilnippou.com/2024/240210-13brasil.html
(6)https://www.instagram.com/osterfest/
(7)https://viagemeturismo.abril.com.br/brasil/pomerode-e-vale-europeu-enxaimel-comidas-tipicas-festas/