執筆者:深沢正雪(ブラジル日報編集長)
この原稿は、2024年3月19日付けで「ブラジル日報」に掲載された記者コラムを同紙の許可を得て、掲載させていただきました
救済会のサンパウロ市事務所で、吉安園子さん(2015年撮影)
清貧を貫いた修道女のような生き方
3月9日の福祉法人・救済会総会で、吉安園子さん(1928―2022年、2世)が亡くなる間際に97万レアル(約2900万円)を寄付していたことを聞き、高くないであろう福祉団体職員の給与から、どうやってそんな大金を貯めたのだろうかと想像し、心を揺さぶられた(3)。
園子さんは1928年8月22日に第2アリアンサで生まれ、昨年10月24日に膵臓がんで亡くなった。行年94歳。生涯独身を貫く園子さんの生き方からは、どこか修道女的な雰囲気を感じていた。
きっと、私のような凡人とは異なり、あちこちの美味しいものを食べようとも望まず、良いマンションに住んで新しい家電を使おうとも思わず、知らない場所を旅してまわろうとも思わず、日本のテレビを見ようとも思わず、見栄えを気にして着飾ろうとも思わず、常に自分を律して救済会の活動のことだけを考え、かなり前の段階から遺産を寄付しようと決め、コツコツと給与や年金を貯金してきたに違いない。「その生きざまの総決算」のようなお金だと感じ入った。
吉安園子さんは心底仕事熱心で、真面目だがギスギスせず、思いやりが深く、とても謙虚な人で、自分が目立つことを嫌っていた。コラム子のことは新米記者時代からとても気にかけてくれ、救済会に限らず、コロニア創成期から全盛期の話をよく聞かせてくれた。
園子さんの人生は、まさに日本移民史の大半と重なる。だから移民史に関する疑問があれば常に彼女に質問し、教えてもらった。その中で園子さんから「これは重要なことだから、よく聞いてね」と言われながら取材して、いまだ書いていないこともある。今こそと思い、久しぶりにメモをひっくり返した。
園子さんから見せられた書類を見直していて、最も目を引いたのは2017年11月に見せられた「サンパウロ市カトリック日本人救済会改組強化に関する評議員会件総会議事録の草稿」だった。1953年3月27日午後8時から10時に、サンパウロ市ジュビテル街にあった渡辺マルガリーダ宅に33人の評議員が集まった設立総会の内容をまとめた手書きの議事録草稿だ。
いまなら総会は普通、週末の午前中に行うことが多い。忙しい仕事の合間を縫って福祉のために志のある人たちが集まるから、夜8時から総会を行う形なのだろう。
これは救済会を正式登録するための総会であり、登録のはるか以前から活動をしていた。戦中戦後は救済会しか活動できず、外交断絶によって閉鎖された総領事館の代わりに邦人保護を一手に担うというとても重要な役割を果たしていた。議事録には登録以前、戦中にどんな救済業務をしたかの報告がある。
戦争中は、産業組合や銀行以外の日系団体の活動は禁止されていたから、戦争中に何が起きたかを知る貴重な史料だと、今更ながらに園子さんが自分に見せた意味をしみじみと噛みしめた。
真珠湾攻撃から当地日本人受難の時代が開始
この設立総会までの正式名称は「サンパウロ市カトリック日本人救済会」だった。この総会でキリスト教団体の体裁をとることをやめ、多宗教を旨とする「救済会」に改名することが決議された。それまでなぜカトリック組織の体裁をとったかといえば、活動を開始した1942年4月は「敵性国人の集会」が禁止された時期だったからだ。
1941年12月8日に真珠湾攻撃があり、太平洋戦争が始まった。米国が外交的な足場を固めるために42年1月15日~27日にリオで、南米11カ国の外相を集めた汎米外相会議を開催し、〝米国の裏庭〟である南米を引き寄せる工作を行った。そこでアルゼンチン以外、ブラジルを含む10カ国は日独伊枢軸国との外交断絶を決めた。
その会議の真っ最中の1月19日、サンパウロ州保安局は敵性国民に対する取り締まり令を出して、自国語で書かれたものの配布禁止、公衆の場での自国語使用禁止、同局の通行許可証なしの旅行や転居の禁止を交付した。
外相会議直後の1月29日には、枢軸国との国交断絶が宣言され、その在外公館閉鎖が命令された。2月2日には日本人集中地域だったセントロのコンデ・デ・サルゼダス街界隈から日本人の第1次強制立ち退き命令が出された。
当時ブラジルはヴァルガス独裁政権で本来ならナチス・ドイツと親和性が高く、実際に外交関係も強かったため、ドイツは連合国に寝返ることはないと思っていたが、米国が製鉄所建設などをちらつかせて無理矢理に手繰り寄せた。
それに怒ったナチス・ドイツは、ブラジルから米国へ送られる物資補給路を断つために大西洋上のブラジルや米国艦船を次々に潜水艦攻撃で沈めた。その死者数は2月から8月までで1千人を越えたという。
この被害を補償するためにブラジル政府は2月、枢軸国側移民や企業の資産凍結令を出し、ブラ拓、海興、東山、南銀、横浜商銀などが真っ先にその標的にされ、次々に邦人がスパイ容疑で政治警察に拘束された受難の時代だった。
1942年にサンパウロ市カトリック日本人救済会創立
続々と起きた戦中の日本人拘束に対する救済として、ブラジル人医師家庭で家政婦をしながら育てられポルトガル語が達者だった渡辺トミ・マルガリーダ(以下、ドナ・マルガリーダ)を実行委員長とする「サンパウロ市カトリック日本人救済会」が生まれた。在外公館閉鎖、国外退去を命じられた石射猪太郎大使はこっそりと救済会に活動資金を託し、外交官や駐在員らは同年7月に交換船で引き上げた。
42年5月13日、大使からのお金で80着ほどのセーターを買って差入する際、収容施設で所属を訊かれたドナ・マルガリーダがとっさの機転で「カトリック婦人会」という名前を思いついた。だが、ちゃんと司教にお願いした方が良いという話になり、元外交官の宮腰千葉太、高橋勝(後にブラジル・トヨタ重役)、渡辺トミ・マルガリーダの3人は、ドン・ジョゼー・ガスパール・デ・アフォンセッカ大司教にお願いにいき、カトリック婦人会の傘下団体として認めてくれるように相談した。会議後、大司教はにこにこ笑いながら「明日大司教館の事務所に来てください」と言った。
翌日に訪ねると、婦人会ではなく「大司教館」の名で活動しなさい、教会の口座に預金することを許しますとまで言われた。こうして大司教の庇護のもと「サンパウロ市カトリック日本人救済会」は石原桂造を加えた4人が創立メンバーとなった。後から分かったことだが、実はカトリック婦人会は「戦争中のことなので引き受けできない」と断っていた。大司教は自らの責任で引き受けていた。
敵性国人が戦争中に行動できない中でも、カトリック大国ブラジルだからこそ大司教が「我が大司教館の傘下」だとお墨付きをくれたことで救済活動ができるようになった。その恩義に報いるために、1953年に正式登録する際、救済会のポルトガル語正式名称を「ASSISTÊNCIA SOCIAL DOM JOSÉ GASPAR」にした。
戦中の1943年、バチカンからの第1回小切手の受け取り(前列左から石原桂造、4人目がバチカンからの使者、右から1人目が加藤好之、2人目が渡辺マルガリーダ、後列右奥が山本喜誉司など)
日本政府がこっそり赤十字経由で支援費用送金
創立総会の同議事録にはこうある。《救済会の事業は、時局の関係で、警察抑留者への差入、貧困者・疾病者及びその家族の救済、孤児・私生児の収容、発狂者の入院斡旋、結核患者の入院斡旋と救済、死者(無縁仏)の埋葬、警察より釈放された人々への宿舎の斡旋・帰宅旅費の支給、就職の斡旋並びに人生相談などであります。救済の対象となった延人員は一九五二年十月三十日までに一七、二五〇人となっておりますが、右人員中にはサンパウロ市コンデ街立退き者中移動費補助をした七十八家族(五百人)並びにサントス及びその近郊の立退き者六千五百人、計七千人を含んでおり、これは純然たる救済事業とは申せませんから、この数字を控除しますと、一〇、二五〇人即ち一万人を十一年間に救済したことになります》
1943年7月7日のサントス強制立ち退きの際には、サントス海岸部在住の日本移民6500人が24時間以内に移動を命ぜられ、サンパウロ市の移民収容所でその受け入れ支援をしたドナ・マルガリーダ、高橋、石原らは1週間不眠不休で面倒を見たと言われる。
まさに総領事館の邦人保護業務そのものだ。これだけの救済活動をした費用は、1942年5月から1947年7月末までの第1期で、合計60万8931・60クルゼイロスかかっている。間違いなく相当の金額だと思われるが、現在の価値にして幾らか分からない。知っている方がいたらぜひ教えてほしい。
費用の74%を占めるのは「国際赤十字社経由寄付金」で45万クルゼイロスだ。これが実は日本政府からの送金だったことが同議事録に書かれている。日本政府からだと分かるとブラジル政府に「スパイ行動の資金か」と疑われて接収される恐れがあったので、「国際赤十字」とし、極秘扱いにしていた。
2番目に多かったのは実は「ローマ法王庁経由寄付金」の3万4千クルゼイロスだった。3番目が東山、ブラ拓、ブラスコット、海興の各2万5千クルゼイロス。あとは個人や地方団体からの寄付金だった。
戦中の1944年にバチカンから2万クルゼイロスを受け取ったサンパウロ市カトリック日本人救済会
大戦中に発狂した日本移民700人が精神病院に
更に気になる記述が同議事録にはある。活動報告の部分でドナ・マルガリーダがこう語っている。当時の表記のまま記す。《先ず気狂人から申し上げますと、サンパウロにはジュケリーとピリツーバの二病院に七千人からの発狂者が収容されておりますが、その内約一割の七百人は日本人であります。救済会としましては、各発狂者毎に二人の医師の証明書を取り、会が引受人となりまして、警察に申請し、許可が下りましたところで、病院に紹介し、患者を連れて入院させております。入院費は無料でありますが、入院をさせるまでは手続きと費用を要します》(12頁)
これに関して2月29日付本紙《〝ブラジル版ホロコースト〟描く=精神病院実録映画が話題に》(1)は、気になる内容だった。このドキュメンタリー作品はミナス州南部バルバセナ市の「コロニア精神病センター」で起きた患者虐待の事実を掘り起こしたもの。収容者はネズミを食べさせられたり、汚水を飲まされたり、寒さの中で放置された他、電気ショック療法などの拷問や残忍な扱いを受けたとされ、この作品によれば60~80年代に同院で6万人以上の死者を出したという。
日本人移民は基本的に聖州内の精神病院だったので場所は違う。だが、同じ国内だけに気になる部分が残る…。
更に《肺患者は現在マンダキ病院に三十五人、サン・ルイス病院に十五人、ヴィラ・マスコットは十人、ソロカバ病院は十四人、日本病院に二人、カンポス・ジョルダン療養院に三人、合計九十四人おります》、身寄りのない老人は計31人、孤児院は9人、捨て子は11人、皮膚病患者は6人と報告された。
つまり、在外公館閉鎖と外交官追放の中で、元外交官の宮腰千葉太らが中心になって日本政府からの支援費を赤十字経由で受け取り、ドナ・マルガリーダを前面に立てて本来なら総領事館がする「邦人保護業務」を戦争中にこっそり行っていたのが、救済会だった。
ドナ・マルガリーダと憩の園入園者の皆さん(『救済会の37年』憩の園記念誌、1979年より)
退職金で救済会の特集を邦字紙に出した園子さん
戦後移住が1953年から開始し、本格的な受け入れ団体として1959年1月にサンパウロ日伯援護協会が組織された。その流れで援協が社会福祉事業を扱うようになったので、救済会は老人問題にしぼって行く流れとなり、移民50周年の1958年に憩の園を設立した。この経緯は2013年12月21日付ニッケイ新聞《救済会60周年と憩の園55周年特集》(2)に詳しい。
ちなみにこの特集頁も救済会ではなく、園子さんが定年を迎えた際の退職金を使って救済会の歴史を新聞に残したいと申し出てくれ、彼女が払った。当時ニッケイ新聞とサンパウロ新聞の2紙に2頁ずつ出した。
当時の救済会会長や役員らは、園子さんと内容の打ち合わせに行ったコラム子の居る前で、「そんなことに大金を使うことはない。やめたほうが良い」と諫めていたが、園子さんは毅然と「新聞社には昔からお世話になっています。私の退職金ですから何に使おうが私の自由です」とキッパリと言い切っていたのを見て驚いた覚えがある。
園子さんは憩の園ができた1958年に、宮越千葉太氏の面接を受けて救済会で働き始めた。67年から2003年まで事務局長を務め、創立者のドナ・マルガリータの右腕として活動を補佐した。05年に理事となり14年~15年には会長を務めた。会長退任後は常任理事として支えた。
亡くなる直前に遺産の寄付を申し出て昨年分の会計に入り、憩の園がコロナ禍後に赤字転落することを天国から防いた。本田イズム救済会会長は9日の総会でそれを説明し、「彼女は人生の全てを憩の園に捧げてくれた」と感謝の言葉を述べ、文協ビル4階にある同園事務所の一室を「サーラ・ソノコ」と名付けて追悼したと報告した。「園子さんはいつもあの場所にいたから、とても良いエネルギーが満ちた場所です」と本田会長は説明した。(深)
(1)https://www.brasilnippou.com/2024/240229-11brasil.html
(2)https://www.nikkeyshimbun.jp/2013/131221-e1colonia.html
(3)https://www.brasilnippou.com/2024/240316-21colonia.html