執筆者:設楽知靖(元千代田化工建設、元ユニコインターナショナル)
1533年7月、インカ帝国(タワンティンスーユ帝国)のアタワルパ皇帝はペルー北部ツンベスより上陸したスペイン人、フランシスコ・ピザロとディエゴ・デ・アルマグロの侵入により北部アンデスの湯治場カハマルカにおいて幽閉されインカ帝国は崩壊した。その後南下したスペイン人コンキㇲタドール(征服者)は帝国の首都クスコを征服した。
この著者、天野芳太郎氏はチリ―南部のビオビオ州コンセプシオン郊外のアンダリエンで農場を経営していて、その地でアラウカノ族と接触した可能性があるとされている。その後氏はパナマへ移って雑貨商を営み、第二次大戦後に再び南米ぺルーのリマへ行きアンデス文明の研究に務めて古代織物の発掘研究に貢献して首都リマに『天野博物館』を建設した。
私は何度も訪問して最初の頃は天野氏自ら展示品の説明を受けたことがあり、今は友の会の会員である。
スペイン人コンキㇲタドールはパナマを拠点として南への探検によりアンデスの文明を征服しさらに南へ遠征してチリ―南部の先住民と遭遇し、その抵抗にあった。天野氏はチリ―南部のアラウカノ族と接触してパナマとペルーへ移りコンキㇲタドールと逆の道を歩まれたことも興味深い。
ピザロはインカ人民を宥めるため傀儡の王としてアタワルパの甥インカ・マンクをたてた。しかしながら彼は太陽神殿の高僧ウイジャック・ウムと謀り、スペイン人勢力を二分しその隙に兵をあげることを考えた。その手段として『チリ―はインカを凌ぐ金銀の国である』ことを宣伝したとされる。アルマグロの遠征はこれに乗せられたものと言われマンクの弟トウパックと高僧が案内役として1535年末ホアン・デ・サーペドラの先発隊がクスコを出発やがてアルマグロも発ってチチカカ湖を過ぎたころ二人の案内人は姿を消した。
遠征軍は次第に道に迷いアンデス越えの海抜4000メートルを超えると寒さで兵は凍死者が増えてコピアポにようやく着いた時は10,000名を失っていたとされる。ここで初めて先住民と会うこととなるが、先住民は『背が高く色白で髭をはやして馬を自由に操る姿』に驚き歓待した。おそらく古代伝説のピラコッチヤ神と思ったのだろう。これにより遠征隊は英気を取り戻した。さらに南下してアコンカグアの渓谷でアルマグロは探検隊を二つに分け、一隊はサーペドラ、他はゴメス・デ・アルバラードが率いた。アルバラード隊はマウレ河畔に達した。(現在のサンチャゴの近く)
しかし、この時は『雨季』で彼は一片の黄金も発見できず、二か月後アルマグロと『チリ―は人の住むに耐えぬところである』と判断し報告している。もしこの時マウレ河を越えていたら、そこはアラウカノ族の領土で彼は生きて帰れなかったであろう。このときクスコはマンクの兵によって包囲されて市街の大部分は焼き払われスペイン人守備隊が苦戦をしていた。1536年暮れアルマグロはコピアポに軍を集結させアタカマ砂漠を縦断して北へ帰らんとしていた。しかし砂漠も軍を悩ませ『再びチリ―になんか来るものか』と考えさせた。ようやくアレキーパの町に到着したがアルマグロの遠征は『失敗』でペルー全土に知れ渡っていた。これによりチリ―はしばらく重罪を犯した者の流刑先となった。
このような土地の植民地化に手を挙げたのがスペインのエストレマヅーラ、セレナ生まれのペドロ・デ・バルディビアであった。彼はベネズエラの戦い後ペルーに来てピサロの部下になった人物とされピザロの死後にはゴンサロ・ピザロの反乱に対してスペインからの討伐軍に加わって手柄を立てたと言われている。
1540年1月わずか15人でクスコを発ちモケグアからタラパカに進んでここで後続を待ったが、この道はアルマグロが帰った道であった。そして4か月かかってロア河に達した。彼は永住の計画であったのでいろいろな植物の種子を用意していた。また家畜、農機具、1000人の男女のヤナコーナ(インカ帝国の集団で耕作や雑用で世襲的にインカに使える)でクスコを出て7か月でコピアポにたどり着いた。さらにコピアポを過ぎてリグア河の下流を渡りロンゴトーマに差し掛かった時バルディビア軍はアコンカグア族に属するピクンチェスのミチマロンゴ酋長の襲撃に会う。これは短い戦いであったがバルディビアが最初にあった先住民の集団であった。やがてアコンカグア平原、マポーチェ河,ウエレンの丘へ、このころ一行は幸いにも『チリ―で一番良い気候』の時であった。雨季に来たアルマグロとは対照的でこの気候についてカルロス王に報告している。
1541年2月12日バルディビアはサンチャゴの建設に着手しウエレンの丘はサンタルシアの丘と改められた。彼は北のコピアポから南はマゼラン海峡、東は大西洋から西は太平洋の土地を支配すると宣言した。そしてサンチャゴはサンチャゴ・デ・ヌエバ・エストレマデューラと命名した。またマルマリカの金山復旧、ペルーとの航海のためコンコンの造船所などの建設を進めた。しかしここでアコンカグア族の夜襲を受けるがスペイン軍同行の女傑イネスの奮戦で士気を取り戻した。だがサンチャゴは焼け野原となり復興に当たって二人を救援依頼のためペルーへ派遣した。しかし帰って来たのはピサロの暗殺で二年後であった。サンチャゴの復興はアドべの建築から始められ、丁度そのころ『南方に強い民族がいる』ことを知った。1546年バルディビアは自らイタタ河まで南下してアラウカノ族を見たと言われている。
1550年正月バルディビアは200の騎士、数百のヤナコーナの兵を率いてサンチャゴを出発。このとき一通の遺言書を作成し、自分が死んだら総督の後続者に順位と三名の名前を記した。マウレ河を越えて南下してアラウカノ族がペンコにいるという情報を聴いたがやがてペンコ近くのアンダリエン河にその樹木の生い茂るところで大声をあげてアラウカノ族が躍り出てきた。アラウカノ族は討たれても討たれても接近してきた。その戦いの中でスペイン軍を救ったのはヤナコーナの民兵であった。バルディビアは勝利したがその報告では『これほど勇猛な種族はいままで見たことがない』と報告している。この『アンダリエン戦争』でペンコを占領したスペイン軍は捕虜に対して残虐な仕打ちを重ねた。この年の10月ペンコはコンセプシオンと改められ南方の唯一の植民地都市となった。1552年自己の名バルディビア市がウルセル河口近くに開かれた。1553年にはアンゴール市が開かれた。このようにアラウカノ族の国にスペインの要塞がきずかれた。
老酋長コロコロがアラウカノ全部族を口説きスペイン人との戦いの必要性を説いて古来の習慣に従ってトキ(総大将)を選ぶことを宣言した。その選択方法は『ローブレの幹を担ぐ競争をして優劣を決することにしよう』ということにした。
まずハイカビが担いで6時間、次いでカヨクビルが破ることができず、翌朝テュカベルが試みた。そして夕日が没する頃止めた。彼の勝利が決定的となり老酋長が進んだとき片目のカウポリカンが遅れを詫びてローブレの幹を軽々と肩の上に乗せてリンコヤンの記録を破り競技を止めて勝利した。彼は力だけでなく頭脳もよくまた武将として策略にも富んでいた。こうしてカウポリカンが総大将になるとスペイン人に対する復讐の機会は近づいていた。
バルディビアがチリ―に来て十三年植民地も落ち着いてきたころの1553年12月一人の兵士が血だらけでコンセプシオンにかけ込んできて『テュカベルの要塞がアラウカノ族に占領された』と告げた。彼はその守備隊の一人であった。アラウカノ族はアンダリエン戦争の時の様な無秩序ではなかったとのことであった。このときバルディビアはコンセプシオンの本陣にいた。そして直ちに救援に向かった。
12月24日行動を起こしたとき南の丘から『鋭い角笛』が響いた。アンダリエン戦争でバルディビアが勝利した時にアラウカノ軍の捕虜の中に一人の若者『ラウタロ』というものがいて少年なので許されてバルディビアの馬番にされていた。彼はまめまめしく働き皆から愛されて重宝がられ,誰もがこのラウタロが復讐に燃えていると思いもしなかった。しかしながら馬番をしながら常に自分たちのアラウカノ族がなぜ負けたかを考えていた。
そこで学んだのは『組織』であった。それは一人の号令で軍隊が動くことであった。この練兵を学んである激しい雨の夜バルディビア軍唯一の名馬を盗み出し闇の中に消えた。ビオビオ河を渡りカウポリカンの陣営に乗り付けた。カウポリカンは喜んで彼を迎え軍の教練を託した。こうして指揮官の命令で自由自在に動くカウポリカン軍ができスペイン軍を破ったのでした。これを知らないバルディビア軍はアラウカノ軍に次々に敗れ退却を余儀なくされた。この中で遂にバルディビアは降伏。カウポリカンはスペイン軍の『アンダリエン戦争』で行った残虐な行為に対しバルディビアに対して死刑を宣告した。
ラウタロの出現によるアラウカノ軍の戦術の変化によりバルディビア軍は破れバルディビア総督は死去。この敗北によりスペイン軍は南方の要塞のみならずサンチャゴやセレナも危なくなった。この現状から現場にいたビジャグラが指揮を執ることとなった。1554年のはじめビジャグラは『バルディビアの弔い合戦』に出てビオビオ河を渡って南方へ、このことは直ちに斥候の役割でラウタロの知るところとなりビジャグラ軍は夜営をねらわれてラウタロ軍に攻撃され五時間の戦闘中角笛が鳴らし続けられ新手のアラウカノ軍が現れた。
これは実は『女と子供の一隊』であった。ビジャグラ軍は武器を奪われ敗走この『マリグエの戦い』は南米征服史上最大の敗北と言われている。ビジャグラはコンセプシオンへ逃げたがラウタロの軍勢は追ってきてスペイン人はサンチャゴへ逃げることを命じられ『アラウカノ討伐は失敗』しアラウカノの勝利に、総大将カウポリカンと参謀ラウタロの得意顔が浮かぶ。一方サンチャゴに戻ったビジャグラは残りの一軍を率いて再び南へしかしラウタロはスペイン軍が来るのを予測していて主力と主力の戦いとなったが、またしてもアラウカノ軍のまえに敗退した。この時ラウタロはカウポリカンに『酋長会議開催』を進言した。そこでサンチャゴ攻撃を提案したが賛同を得られず、その理由は『アラウカノの伝統は自己の領土を侵すものに対しては死をもって戦うが、こちらから進んで他の領土に侵入することは絶対にしてはならない』と考えられており、敵を追い払えたらそれで良いとの考えであった。そこでラウタロは単独でサンチャゴを攻撃する決心をした。彼はひとりで馬に乗り去ってゆきビオビオ河の北に現れそこの住民を説得して一軍の組織を作った
1557年半ば、ラウタロはサンチャゴへ攻め上った。サンチャゴでは『アラウカノ族来る』の報に夜も眠れずセレナやペルーへ逃げようとの人々が続出した。こんな中ビジャグラは出陣、南下するスペイン軍と北進するラウタロ軍は現在のタルコ北方スタキート河で相対した。ラウタロの斥候がビジャグラの兵の配置などを調べてラウタロはスペイン軍により近い場所に本陣を構えた。ところがその本陣の場所を裏切者がビジャグラに内通した。夜明けの突然の襲撃にラウタロは飛び起きた。闘う用意もできず傷をおい部下を呼んで『この胸を射よ』と命じて矢はラウタロの心臓を射抜いた。
1557年4月1日アラウカノ族が生んだ稀世の将才は倒れた。20歳を超えたばかりの若武者であった。アラウカノの本体が来ていればサンチャゴは奪取されていたと思われる。『ラウタロの死後』フランシスコ・デ・ビジャグラとフランシスコ・デ・アギラの対立がおきた。これは『バルディビアの遺言』による後継者争いである。二番目が死去したのだから、当然私が次だと言ったのがアギラで、サンチャゴを救ったのは私だと主張したのがビジャグラであった。この二人は争いに夢中で『南のカウポリカンの健在』を忘れていた。ここでペルーから新総督としてペルー副王の息子ガルシア・ウルタード・メンド-サが乗り込んできた。彼はこの非常時に何をしているのだと言って二人を船でペルーへ送還した。メンドーサはペルーから兵を率いて来たがサンチャゴよりむしろコンセプシオンへ直行させた。そして1557年7月タルカワノ湾に投錨させた。アラウカノ族を恐れて上陸させず入り口のキリキナ島に上陸、ペンコを眺めながら二か月滞在、これは陸行してくる兵を待つためであった。ここでカウポリカンの軍勢か押し寄せてきた。
しかしラウタロの死後彼らの戦法は体制を欠き退却した。次の戦闘が数日後に行われたがアラウカノ族の敗北でカリバリーノ酋長は捕虜に両手を切られても平然としていてスペイン軍は彼を釈放した。彼は『俺の体に一滴の血が流れている限り断じて戦いを止めない』と言って 去って行った。その後再び彼はまた捕虜となり処刑された。
メンドーサは連勝に次ぐ連勝に気をよくしてビオビオ河を越えて海岸地方まで行きトウカノ復興、カニェテ、インペリアル、バルディビアも再建、そしてアンデス地方まで進んだ。メンドーサの進軍は15か月にも及んだ。スペイン軍は『カウポリカンは神出鬼没で油断ができない』といつも警戒していた。ペルーからの補給は半年もかかった。
アンドレスという一人のアラウカノ人がスペイン軍の指揮官レイノーソの主旨を汲んでカウポリカンの陣営に忍び込んだ。そしてスペイン軍の情報カニェテ駐屯、昼夜の行動を密告した。カウポリカンはこの罠を見破ることはできなかった。翌日カウポリカンは兵を率いてカニェテに攻め込んだとき『待ち伏せ』のために無念にも捕らえられてしまった。
1558年夏カニェテの中央広場で死刑執行人はアフリカから連れてこられた黒人奴隷であった。そして100本の矢を浴びたが目を見開いたままで、まさに弁慶の立ち往生であっ
カウポリカンの死後スペイン軍はさらに奥地へアラウカノ族の殲滅に向かったが、アラウカノ族はそんな生易しい種族ではなかった。彼らはいかなる打撃にも反発、カウポリカンの死は彼らの士気と復讐心をますます高めた。メンドーサの部下、レイノーソ軍はキヤボにおいて8時間の戦闘の末スペイン軍に名を成さしめたがメンドーサはアラウカノ軍は再起不能と判断してスペインへ帰ってしまった。メンドーサから新総督のバトンを渡されたのは最古参の将軍ビジャグラであった。しかしこの間も殲滅したはずのアラウカノ族はスペイン植民地の都市を不死鳥の如く攻撃してこれに対してビジャグラが討伐に派遣したのは彼の息子ペドロ・ビジャグラであった。これは親子二代で戦うこととなりビオビオ河を渡って父の古戦場マリグエへ、ここでもアラウカノ軍の攻撃に会ってアンゴールに逃げ込んだ。
その後は『ラウタロ』や『カウポリカン』のような名将が現れずスペイン人をビオビオ以南から追い出すことができず町の人口は増え繁盛していった。アラウカノ族はあきらめたのではなくスペイン人から奪った馬で騎兵隊を作り馬上での槍の訓練を続けていた。 スペイン人が農業や牧畜に使っていた人たちはアラウカノ族と同種のベウエンチェスであった。スペイン人の労働に対する罰は厳しく一匹の豚、一羽のニワトリの方が人間より大切であった。また砂金採取場はもっと厳しく逃亡者が増えそれを防ぐために先住民に焼き印を押すようになった。こんな時、1598年12月22日宿営地クララッパにパイアマン率いるアラウカノ軍が現れスペイン人チリ―総督ロヨラが戦ったがスペイン軍は敗戦を重ねた。『クララッパの戦い』以来8年にしてビオビオ以南7か所の都会は一つも存在しなかった。こうしてスペイン人の南方侵略は夢と消えた。1599年バルディビア襲撃、1600年インペリアルとアンゴール襲撃、1602年ビジャリオ襲撃、1604年オソルノとララウエウエ襲撃であった。
日本は豊臣秀吉の没後で1599年マゼラン海峡を通過した一隻のオランダ船『リーフデ号』がチリ―のアラウコ湾のサンタマリア島に寄港、アラウカノ族(マプーチェ)と一戦を交えたとされる。そこから太平洋を横断して日本へ向かった。そして『関ヶ原の合戦』の少し前1600年4月29日豊後の国(大分県)に着いたとされている。この船には著名な
二人が乗っていた。その一人は『八重洲』の名で知られるヤン・ヨーステン、もう一人は『按針』で知られるウイリアム・アダムス(三浦按針)であった。今から420年前アラウカノ族の地を経て日本へ来た一隻の帆船がいたのである。
スペイン人総督ロヨ以降4人の総督が来たが誰もビオビオ河を渡ることはできなかった。その後ガルシア・ラモンがアラウカノ軍を破ったが一片の黄金も得られず多数の死者を出し政府は戦費の支出に苦慮するのみであった。この時にカトリックの僧侶ルイス・デ・バルディビアが現れ、アラウカノの総大将アンカナムンと交渉『ビオビオ河以南をアラウカノ族の領土と認める』ことと『キリスト教布教を許す』ことで以降14年間(1612~1626)の平和が保たれた。しかしながら、その後キリスト教反対の動きが起こり宣教師が虐殺されて再び戦争にそれが15年間続いた。新総督として赴任したフランシスコ・ローベス・デ・スニィガがコンセプシオンへ出かけアラウカノ族のアンデグエニョと面談、交渉し1641年1月キジン河で和平合意をなした。しかしこれも束の間で以降『戦国時代』に入った。アラウカノ族にとってはただ屈辱に生きることより自由に死することを望んだ、この精神が征服された後もアラウカノ族の存在を保つことができたのである。
歴史家は『スペイン人はペルーで得た富を全部チリ―で失った』と言っている。チリ―は1810年9月18日独立を成し遂げた。チロエ島からスペイン王旗が消えた。アラウカノ族は昔ながらの風俗習慣を伝え、英雄の功績を語り古戦場にカマを振るって生活している。天野氏がアラウカノ族の部落を訪ねたのは1939年3月、南半球は秋であった。彼らの住むテムコ、インペリアルで田舎道を歩くアラウカノたちの男はポンチョ、女はエチャーセを纏い肩幅と胸の厚い姿だった。畑には麦が実り草屋根の家が続いていた。彼らは道を譲る様子もなく何かに恐れることもなく悠然とした態度が印象的であったと述べている。
*アラウカノ族の精神は、決して他の領土へ侵略することはなかった
*アラウカノ族は、その血が一滴でも入っていれば、とことん闘う精神の持ち主である。
*アラウカノ族はただ屈辱に生きるより自由に死ぬことを望んだ。
*アラウカノ族は南部の森林地帯で勇敢に戦い、その森に咲く真っ赤な花はアラウカノ族の流した血と言われ『チリ―の国花、コピウエ』である。
*チリ―独立後もアラウカノ族は、決して同化しなかった。
(資料):『アラウカノ族の如く』天野芳太郎著、汎洋社、1944年6月
1) アラウカーノ族の勇敢さは、スペインの歴史家Alonso de Ercillaによる「LA ARAUCANA」が有名である。
2) チリのサンテイアゴのアルマス広場には、チリを征服したPedro de Valdiviaの巨大な像がある。
3) LAUTARO『ラウタロ』の銅像はサンチャゴのサンタルシアの丘ににある。
4) CAUPORICAN『カウポリカン』の銅像は南部ビオビオ州カニェテ市のPlaza
Cauporican にローブレの幹を担いだ姿がある。
5)チリの有名なサッカーチームには、アラウカノ族の英雄の名前をとったColo Coloというチームがある。(おわり)
左:サンテイアゴのアルマス広場にあるPedro de Valdiviaの像
右:サンテイアゴのサンタルシアの丘にあるLautaroの像