執筆者:田所清克(京都外国語大学名誉教授)
これ以降、バイーア州と並び歴史、社会、経済、文化面で北東部を語る上で看過しえない、重要なペルナンブーコ州について触れることになる。学生としてブラジルに留学する前までは、この州の持つ重要性への認識があまりなかったように思う。
文献で調べ、この地を訪ねるにつれて、ペルナンブーコのブラジルに占める位置と重要性が少しずつ分かるようになってきた。そう言えば、私がこよなく愛し、修士論文の研究題目にまで考えていた近代主義の代表的な詩人であるManuel Bandeiraは州都Recife生まれである。詩聖と称されたこの詩人の作品、ことに郷愁あふれるものに私はどれだけ心を揺さぶられたことか。であるから、そうした詩作のいくつかは、拙訳も試みている。
その一方で、知的巨人Gilberto Freyre の生地はこの州である。ブラジルを理解する上で必読すべき基礎文献のいくつかが、彼の手になるものであることは、言うまでもない。私のブラジル研究はほぼ全て、彼の著作に依拠しているといっても過言ではない。アナール学派の手法で、学問横断的に自国を解析しようとするフレイレの方法論が、私個人の研究を進める上でどれだけ役に立ったことか。
ブラジルを訪ねた時は多くの場合、”ブラジルのベニス” と言われるRecife に出向き、美しい海岸[praia de Boa Viagem]に面するホテルに数日逗留しながら、ありし日のフレイレが住んでいた館を見学するのが習わしであった。
州の面積は98,281平方キロで、その拡がりは東西の方向で、zona da mata, agreste, sertãoを抱えている。187キロに及ぶ海岸は岩礁(arrecife=recife)、断崖絶壁(falésia)、川の浅瀬(barra de rios)に特徴がある。
ペルナンブーコの海岸から北東の545キロの地点には、フェルナンド•ノローニヤ国立公園がある。島全体がそうで、環境保全がなされている。従って、環境保護のための規制は厳しい。ガラパゴス同様に動植物にとっては楽園であるかのようである。目下、ダイビングする絶好の場所としても知られている。
ペルナンブーコの歴史は16世紀の、初期の植民地化の時代に遡る。すなわち、サンフランシスコ川からItamaracá島に拡がるカピタニアをDuarte Coelhoが統治してからのことである。
彼は最初の砂糖農場(engenho de açucar)を設け、この地を植民地ブラジルのもっとも重要な輸出の中心地の一つにした。
サン•フランシスコ川からイタマラカー島(Ilha de Itamaracá)に拡がる世襲制のカピタニアの受領者(donatário)となったDuarte Coelho。彼が最初にペルナンブーコ州に砂糖産業を興こしてからはいうものの、ブラジルのもっとも重要な輸出地の一つとして、殷賑を極めるようになる。
それ故に、バイーアを占有する試みが不発に終わった後、この地はオランダの垂涎の的となり、1630年にオリンダを侵略した。そして、向こう24年間にわたって支配した。この意味において、後日言及することとなるが、少なからずオランダの影響を受けている。
こと文化、特に地方文化面では、maracatu やmange
beat[1991年以降にRecifeに生まれた、一種のブラジルの対抗文化の運動の一つで、様々なジャンルの音楽のコンビネーションに特徴がある。]は、ペルナンブーコ州を象徴するリズムによって印されていることは言うまでもない。
加えて、著名な文化人、音楽家、文人たちを数多く輩出したところでもある。Gilberto Freyre は言うに及ばず、 ” バイアンの王 “として知られる、歌手にして作曲家で多様な楽器奏者のLuiz Gonzaga, 叙情詩のジャンルで光芒を放つ、詩聖と呼ばれた近代派詩人Manuel Bandeira、同じく詩人でありながら地方文化と民衆表現の擁護者であったAriano Suassuna 。
詩人に触れるのであれば、 “45年世代”を代表するJoão Cabral de Melo Neto を黙過するわけにはいかない。彼らの作品については、いくつかの拙著のなかで詳述してある。
frevoのリズムで、この地特有のカーニバルに観られる、楽器に合わせて目抜通りの踊りと歌の行列であるfoliaは圧巻そのもの。リオのサンバ車中(escola de samba)によるそれもレシーフエのカーニバルに由来していると言われている。
食文化も豊かである。一種の郷土料理ともいうべき羊や山羊の胃詰め料理ブッシヤーダ(buchada)、血、臓物を食材にしたごった煮サラパテル(sarapatel)、海の幸を煮込んだモケツカ(moqueca)などはその一例だろう。農業の分野では、サトウキビ栽培はむろん、あまり知られていないが、果樹栽培(fruticultura)も盛んである。
北東部を旅する時は私は、Ceará とRecife, Olinda を必ず訪ねることにしていた。何故なら、そこが千態万容を呈する絶景の地であるからである。初めてOlinda
のその風光明媚な光景を目にして私は思わず、美しい!、という言葉を吐いたものであった。Olindaはまさしく、美しいという名前を冠した都市であり、Recife と共に1937年に創立した歴史的にも由緒のあるところである。
では一体、どうしてOlindaと呼ばれるようになったのであろうか。前回言及したように、ペルナンブーコ州の植民初期の領主(donatário)はDuarte Coelho であった。その彼が、オリンダの坂を登りかけの際に辺りの光景を一望して、うぁ-、何て美しい(Oh! Linda)ところなんだ!街を建設するには絶好の地だ、と思わず叫んだらしい。
その時以来、ここはOlindaと呼ばれるようになったのである。ちなみにそれは、感嘆の間投詞であるOが、linda(美しい、綺麗)と接合したもの。7キロ離れたRecifeに州都を譲るまで、Olinda
が数年間ペルナンブーコの都であったことも付記しておきたい。
皆さまも一度はぜひ、絵画的風光のOlindaを訪ねて頂きたいものです。歴史的、文化的豊かさや、教会などの建造物などの宝庫であることもあって、1968年には国、そして1982年にはユネスコの世界遺産の都市のリストに含まれている。
17世紀までレシーフエは、当時としては地域のもっとも重要な中心地であったOlinda港に隣接する村に過ぎなかった。しかしながら、その地をオランダが占有する1630年以降、急速に進歩を遂げ拡大の一歩をたどった。オランダ人が実効支配したことから、Recifeはニューアムステルダムと呼ばれるようになった。そして、マウリーシオ•デ•ナサウ伯爵(conde Maurício Nassau)が1637年に到来すると、都市化のプロセスは勢いを増した。
現在のSanto Antônio 島における衛生事業、水に囲まれた市街地と陸地を結ぶ橋の建造、旧市街地Bom Jesusの舗装などはその一例。その一方で、ソブラード(sobrado)と称する、ある程度出来上がったかたちの、二階以上からなる長い窓と階段のついた家屋が、オランダから搬入されたりもした。ナソウは自国から画家、博物学者、地図製作者、天文学者などをヨーロッパから引き連れて来た。このことによって、Recifeの街の有り様は一変することになる。
16世紀には拡大発展にあったポルトガルも2世紀にわたって得た優位性を喪い、凋落の傾向を否めなかった。周知のように、ポルトガル人は世界の隅々まで跳梁跋扈し、いわゆる世界に冠たる海洋王国としてポルトガルは揺るぎない地位にあった。
航海技術への投資をやめ、東洋での戦争は重荷にもなっていた。加えて、スペインに併合されたことによって、植民地の最大の供給者であるオランダを敵に回すこととなった。
それだけではない。別に項目を設けて詳述するが、宗教裁判(inquisição)で、概して裕福なセフアルデイ系の新キリスト教徒(cristãos novos)を、比較的に宗教に寛容なオランダに追放もした。
これらの要因で、ポルトガルは零落するのである。その一方で台頭著しいのはオランダである。伝統的な商業、わけても織物の中心地であるフランドル(Flandres)地方、すなわちオランダは、国際網もあり商業組織にも定評ある豊かなポルトガルの新キリスト教徒も受け入れ、一段と活況を呈することとなる。のみならず、海を通じてスカンジナビアやロシアとも近い地理的な位置から、織物製造以外にその商業的重要性は18世紀以降ますますま高まった。
アメリカ大陸や東洋からもたらした産品を他の国々に供給する意味において、きわめて有利な立地条件にあったのでオランダは、ヨーロッパ最大の商業の中心地となり、イタリアの諸都市にとって代わった。
そして、商業支配の一層の拡大はこの国を一大決心へと導く。商業と戦争目的を兼ね備えた東インド会社(Companhia das Índias Orientais)は1620年に、南米のポルトガルおよびスペインの領土を攻撃する目的で西インド会社(Companhia das Índias Ocidentais)が後に設立されることになる。かくして、砂糖産業で栄えるブラジル北東部はオランダにとっては垂涎の的となり、最初に侵略されるのである。
もろもろの要因でポルトガルが弱体化の兆しある状況のなかで、オランダは1624年5月9日、Jakob Willekensの指揮の下、1700名の兵士がサルヴアドールで下船して街を占拠した。これが西インド会社による最初のブラジル侵略であった。バイーアの住民は都心部で闘うことを避けて、内陸部へ遁げるのを選択した。この選択というか戦略は間違いではなかったとみなされている。オランダ軍は周囲の未知の地域に進むことで危険を冒し、ゲリラの激しい抵抗に遭い、困難を極めたからである。
そうした状況は、ポルトガルの軍艦が到来し住民が反撃できるようになる1625年の5月末まで続いた。双方の間に交わされた激戦あと、侵略国は撤退した。バイーアへの侵略は敗北に帰したものの、オランダ人にとっては益するところも少なくなかった。内陸部へ進軍したことで、ポルトガル人による奴隷を使った砂糖農場におけるノウハウを習得するに至ったからである。かくして、オリンダも砂糖を生産する競合国となった。
オリンダ人以外に、フランス人、英国人、スペイン人がポルトガル人の手法でアンテイール諸島でサトウキビを栽培し、砂糖市場に参入することとなったのである。それ故に、宗主国にとってはドル箱的存在であった植民地ブラジルの、砂糖の世界市場での首導的地位は揺らぎ始めた。
カリブ海のアンテイール諸島などでの砂糖の生産は急速に拡大した。ペルナンブーコ州を侵略することになるオランダは、Curaçao, Anguilla, Surinameなどを生産の拠点とした。スペインの場合は、Santo DomingoとCubaにおいてサトウキビを栽培するようになり、他方イギリスはJamaica, Bahamasで砂糖農場を営むに至る。そしてフランスは、生産の拠点をHaitiに絞った。
かくして、17世紀末葉の時点になればこの地域の全域が砂糖栽培となり、活況を呈した。三角貿易(comércio triangular)が推進されたのもこの頃だろう。いわゆるヨーロッパ、アフリカ、アメリカとの間の物品の取引である。商品を積んだ船はヨーロッパからアフリカに向かい、アフリカでは奴隷を乗せてカリブ海地域で売りさばき、そこで現地の砂糖を積み込んで帰還するシステム。
この方法で莫大な富を得たイギリス人などは、” お天道様の下でのもっともぼろい商売 “(o negócio mais lucrativo sob oSol)と呼んだほどである。競合によってこれまでのような勢いを失ったとはいうものの、レシーフエは依然として砂糖生産の点からは貿易の中心地(entreposto)であり続けた。
オランダにとってはこれが眼目というか、垂涎の的にならないはずはなく、バイーア攻略では失敗したにもかかわらず、ペルナンブーコ州への侵略•占有を虎視眈々とうかがっていた。
オランダがブラジル北東部で盛んな砂糖産業に目を付け、侵略•占有を惹起させたのには、いくつかの事由があった。奴隷制による黒人を用いた、栽培から製糖技術に至る豊かな[ポルトガル人の]経験、サトウキビ栽培に適した豊かな粘土質の黒い土壌(massapê)、相対的にアフリカに近く、奴隷入手が容易であったことなど。これらの要因が結果として、砂糖生産を安価なものにしていた。
こうした好条件に恵まれた北東部の砂糖産業の存在を、オリンダが傍観するわけなどなかった。1625年には敗北してバイーアから一度は撤退を余儀なくされた西インド会社ではあったが、今度はその敗北の原因を検証して入念な計画の下に侵略した。それは1630年の二月のことである。64隻からなる艦隊と3800名の兵士を動員して、OlindaとRecifeを制服することとなった。
このオリンダ軍に対して、軍人訓練も受けたこともない3000名の住民は何ら抵抗することもなかったと言われている。ほどなくして、オリンダからさらに6000名の補強軍が到来して、ペルナンブーコ州のこの地は完全に占領されるに至った。
このようにオランダ軍はペルナンブーコを占拠するために、用意周到であった。そして占有後、都市を要塞化し、ポルトガルとスペインの艦隊を撃退するに充分な軍隊と武器を絶えず維持した。その一方で、ゲリラを撲滅するために遠征隊を内陸部に派遣。抵抗する砂糖農場は略奪したり焼き払ったりした。
こうしてオランダは、1630から1654年の間、完全に駆逐•追放されるまで、ペルナンブーコを支配することとなり、北東部にオリンダ的な世界が誕生するのである。その結果、オランダ文化も花咲き、宗教的にも寛容であったプロテスタントの国から、ブラジルの社会、文化形成に向けてその一翼を担った、ユダヤ教徒(「汚ならしい、豚みたいな」を意味するmarrano=軽蔑的にユダヤ人を指す)、隠れユダヤ教徒(criptojudeu)、新キリスト教徒(cristão novo=自発、強制を問わず、ユダヤ教からキリスト教に改宗した者。)も到来する。