連載エッセイ360:田所清克「ブラジル雑感」その46 ペルナンブコを語る その2 - 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

連載エッセイ360:田所清克「ブラジル雑感」その46 ペルナンブコを語る その2


連載エッセイ360

「ブラジル雑感」その46
ペルナンブコを語る その2

執筆者:田所清克(京都外国語大学名誉教授)

オランダ人が創った世界:ペルナンブーコ— ①
Pernambuco, o mundo que os holandeses criaram

 

ブラジル国内でもっとも古い都市の範疇の一つに位置付けられるのは、レシーフエとオリンダである。17世紀に創建されるが、前回みたように、1630年から1654年の間、オランダに占有されたことにより、この歴史都市の風貌も以前とはいしか異なるものに変容して、部分的であれオランダ的な都市風景なり様相を垣間見るものになった。

 この新たなブラジルの領地を統治する使命を帯びたのが、Maurício de Nassau
であった。彼は1637年、画家、博物学者、医者、天文学者、建築家などを引き連れて熱帯の大地を踏んだ。ポルトガルを除いて、ペルナンブーコはヨーロッパ流に統治される点では最初のアメリカ大陸となる植民地であったかもしれない。

 軍事的な優勢と有望な経済的見通しの下、砂糖農場のより一層の発展に向けてNassau は西インド会社の資金を投入した。それが奏功して製糖に至るサトウキビ栽培は成功をおさめ、ブラジルでは首都となるであろう、最初の計画都市Recifeが再建され始めるのである。

ペルナンブーコ、オランダ人が創った世界—②
Pernambuco, o mundo que os holandeses criaram

 オリンダが熱帯ブラジルを征服する企ては最終的には1954年、ポルトがル人および当の住民による反撃•追放によって失敗し悪夢と化した。
 しかしながら、20年あまりにわたるこの国の北東部、なかんずくペルナンブーコへの侵略と支配は、ある意味において、インフラなどの都市の整備や改造のみならず、ブラジルの芸術、文化、科学の発展に寄与した。これはひとえに、統治者となるMaurício de Nassauに負うところが大きいと思われる。多方面にわたる彼の才腕による偉業なり営為は、侵略者らしからぬ側面も伺い知ることができる。

 事実、西インド会社の上層部は統治者となるべくNassauの能力を高く評価し白羽の矢をたてた。そして、彼を統治者に任命したのである。産業面の資質ばかりか近代的なヨーロッパ文明をペルナンブーコの地に移植•構築するに向けて、広い視野を有する適任者は彼しかいないと考えたからである

 ともあれ、到来の際に統治者は、橋梁の技術者や土木建築家以外に、França Post, Albert Eckhoutなどの画家、博物学者で天文学者Georg Marcgrav、医者のWillem Pies[Piso], 年代記者のGaspar vanBaerleusなども引き連れてきた。かるがゆえに、ペルナンブーコにはいわばオランダ世界が一時的であれ発現し、文化や社会に刻印を残し影響も及ぼした。と同時に、彼らを介してブラジルをヨーロッパに知らしめることとなった。

ペルナンブーコ、オランダ人が創った世界—③ –Georg Marcgrav–
Pernambuco, o mundo que os holandeses criaram

 Maurício de Nassauのペルナンブーコへの到来は、多方面の分野で働く者を伴うものであった。その彼らは、ブラジルの事物について多くの優れた業績を残している。

 博物学者のGeorg Marcgrav は例えば、アムステルダムにおいて1648年、『ブラジルの博物史』(A Historia Naturalis)を刊行している。この著作は、後世リンネによって始められることになる、科学的な手法を駆使した襤しようとみなされている。つまり彼は、単なる功利主義(utilitarismo)の立場からのみならず、ブラジルの植物を厳密に分類し体系化したのである。しかも、しばしばインディオが用いる名称なども活用している。

 マルクラーヴエの手になる300ページにおよぶ同書は8つに分冊されている。最初の三冊は298種の植物を、次の4冊目は魚類、甲殻類(crustáceo)の133種、5冊目は鳥類115種、続く6冊目は64種類の哺乳類、爬虫類に当てている。55種の昆虫類を扱った7冊目の後、最後の8冊目は、地理、気候、インディオについて論じている。

ペルナンブーコ、オランダ人が創った世界—④ Pernambuco, o mundo que os holandeses criaram
–医者Willen Pies[Piso]と年代記者Gaspar van Barleus—

 ナソウに伴ってペルナンブーコに到来した医者のPisoもまた、ブラジルの疾病分類学(nosogia)の先駆者として注目される。厳密な研究に基づいて著した書『ブラジルの医学に関して』(De Medicina
Brasileira)によってである。彼は、地理的、大気的要因、皮膚病、毒と解毒剤(antídoto=contraveneno)、薬草とそれによる治療を扱った4冊の本も公にしている。これらの著書を通じてPisoが、地域住民の習慣や慣習を医学の観点から十分考慮して、17世紀のブラジル人の生活を観察していることが、特筆するに値する。

 ポルトガル人(Gaspar Barleus)に帰化した年代記者Gaspar van Baerlは他方において、アムステルダムで1647年、『最近のブラジルでの8年間でなした偉業史(História dos feitos recentemente praticados durante oito anos no Brasil)という重要なものがある。これは今では、西インド会社による北東部占有に関する研究に向けて礎石的文献として不可欠なものとみなされている。

ペルナンブーコ、オランダ人が創った世界 —名声を二分した二人の画家:Frans PostとAlbert Eckhout  Pernambuco, mundo que os holandeses criaram —os dois
pintores que partilharam a fama: Frans Posto e Albert Eckhout—

 植民地時代、それも17世紀のブラジルを紹介した諸文献において、必ずといつてよいほど取り上げられる画家は、Frans Posto[1612-1680]とAlbert Eckhout[1610-1665]だろう。この二人もMaurício de Nassauの要請によってペルナンブーコに到来、あまたのブラジル的なテーマの作品を残している。

 従って、これまで私も、両者の作品を書物を通して幾度となく見たことがある。前者は、ブラジル北東部で送った日常をつぶさに観察しながら、当時の植物などの自然環境をカンバスに描いた、最初の風景画家(paisagista)かもしれない。

 一方Albert Eckhoutも同様に、前例のない記録的価値のあるブラジル的な事物、例えば、動物、果実、花などをヨーロッパ人向けに描いている。描く対象は事物だけではない。題材はインディオや黒人にも向けられた。傑作はむしろこちらの方で、「黒人女」(A MulherNegra)[=A Negra]や「タプイア族の踊り」(A Dança dos Tapuias[=Tarairiu]がそれに当たる。

 Frans Posto の場合はやはり風景描写に真骨頂があり、サン•フランシスコ川やイタマラカーの光景を題材にしたものに、彼の才能が遺憾なく発揮されている。

ペルナンブーコ州で訪ねるべき名所: カルアル(Caruaru)—①
O ponto turístico que deve visitar em estado de Pernambuco

 州都レシーフエから134キロ離れた、zona da mataとsertão の間のagreste
のど真ん中に位置するCaruaru。ここは北東部の典型的なリズムの一つであるフオフオー(forró)の中心地であるばかりでなく、粘土製の手工業品、とくに人形で名高い。
 その一方で、北東部最大の民衆的な青空市場が開かれることで知られている。ちなみに、街の中心部のParque 18 de Maioで毎日催されるその会場の広さは2万平方メートルにもおよぶそうなので、驚くばかりである。
 Caruaru の中でも村落地域であるAlto do Mouraには、人形製作の巨匠といわれるVitalino Pereira dos
Santos[1909-1963]に追従する工芸家のたまり場になっていることから、多くの作品が見られる。
 日常の民衆の文化、例えば、フオフオー、馬上の人、家族、妊婦を題材にし、同時に北東部の民間伝承を表徴したスタイルの粘土人形を創作したという意味で、ヴイタリーノはこの道の開拓者とみなされている。
 1940年代に村を出て街に居を構えた彼は、粘土技術を磨き大家となった。そして、自分の子供や友人たちに伝授したそうな。
 Caruaru にあるMuseu do Barro de Caruaru には、バイアン(baião)の王Luiz Gonzaga などいくつかの作品が展示されている。
 この地を一度訪ねた私は、人形はむろん、陶器などを買った。それが阿蘇のブラジルセンターに飾られている。それらを見るたびに、ブラジル北東部への思いが募る。

風物詩:ペルナンブーコの民俗芸能の伝統を反映したレシーフエおよびオリンダのカーニバル –フレーヴオとマラカトウのバトウケの団体によつて特色づけられる祭典–
A poesia que canta a natureza:Os carnavais de Recife e Olinda que se reflete a tradições folclórica de Pernambuco  –A
festança que se caracteriza pelos blocos de frevo e os batuques dos maracatus-

 北東部研究のメッカということもあつて、書籍の購入と、郊外にある砂糖農場でのフィールドワークのために、レシーフエとオリンダを訪ねたことは数限りない。しかし、バイーアのものともリオのものとも異質の、この地のカーニバルを直に観たのはただ一度きりである。
 にもかかわらず、オリンダで目にしたカーニバルの一部始終には感動し強く印象づけられた。リオやバイーアのそれとはかなり様相の異なるものとして映ったからであろうか。
 事実、それかあらぬか、ペルナンブーコの州都とオリンダのカーニバルは、ブラジルの三大カーニバルとして位置付けられている。フレーヴオとマラカトウに特色があるからだ。
 山車(trio elétrico)がなく、すさまじいfrevoの音に500もの団体、クラブが参加するのもこのカーニバルの異色なところで、祭典の主たる舞台はパレードのあるCentro Históricoである。
 ちなみに、オリンダのお祭り騒ぎとも言えるフオーリア(folia)カーニバルは、土曜日に始まり、灰の水曜日の後の金曜日に幕を閉じる。
 このカーニバルのために民衆は、数ヶ月もかけて衣装や鉄で骨組みした巨大な紙人形をこさえたり、街頭、家並みを飾りつける。
 伝統的な団体としてVirgem do Bairro Novoがカーニバルではよく知られている。何故なら、このブロッコの男たちは女装するからだ。
 およそ三メートルの紙人形は一際目立つ存在であるが、フレーヴオの団体の到来を告げる役割をはたさていることのようだ。その人形でもっとも有名なのは、「深夜の人間」(Homem do Meia-Noite)。
 Ladeira da Misericórdia とR. Prudente de Morais とが接する角は、” quatro cantos de Olinda ”
と呼ばれ、そこは各ブロッコやが結集するとこであり、それらが出会うとカーニバルは最高潮に達する。
 実際に私はこの目で見てはいないが、ペルナンブーコ州内陸部では、”バツケ•ヴイラード”と呼ばれる、ポルトガル、アフリカ、先住民族の影響を受けた村落のマラカトウもあるらしい。
 orquestraともbaque soltoとも呼ばれるそれでは、主役は農民で、鮮やかな服をまとい、色彩豊かなカツラをかぶっての出立ちのよう。
 リオのカーニバルだけでなく、ペルナンブーコやバイーアのそれも見ていただきたい。

風物詩:不法な奴隷貿易の受け入れ港であった、ポルト•デ•ガリーニヤ(Porto de Galinha) の絶景
Poesia que canta a natureza:Um panorama deslumbrante do Porto de Galinha que recebia os escravos negros através do
comércio ilegal

 ブラジル最大の逃亡奴隷集落であるUnião de Palmaresの取材で、関西テレビのスタッフと同行した途次ポルト•デ•ガリーニヤに立ち寄り、その海と海岸風景のあまりもの美しさに、言葉を失った。ことほど左様に、この地は風光明媚である。
 白砂の海岸に沿って椰子樹が生い茂り、マングローブのある入江、それに、珊瑚礁の浅瀬の生温かいみどりなす海は、さも天然のプール(psina
natural)さながら。まるっきり泳げない私でも、安心して透明の海水に浸かりながら、そこかしこに泳ぐ大小の魚と戯れることができた。
 そのポルト•デ•ガリーニヤは、レシーフエから南に60キロのところのIpojuca郡に位置し、Taman-daré海岸、Cabo de Santo Agostinho海岸と共に「黄金海岸」(Costa
Dourada)と称する地域の一角をなす。インフラが整い、国内外の観光客やサーフィン愛好家が押し寄せる、人気のスポットである。
 故に、Abrilが発行する観光向けの雑誌Viagem e Turismo では、国内において最良の海岸としてランクされている。
 もともとここは、pau-brasilが豊かに植生していたことから、Porto
Rico[豊かな港]と呼ばれていた。ところが、奴隷貿易が1850年に禁じられ、レシーフエへの奴隷船の入港ができなくなると、奴隷密輸商人たちは監視を避けて州都からも近く安全な地を選んだ。
 そこがPorto Rico だったのである。奴隷商人たちは監視の目を欺き奴隷を搬入するために、巧妙な手段に訴えた。つまり、表向きはGalinha d’angola [アンゴラ鶏]を輸入しているように装いつつ、奴隷も同時に輸入した。
 彼らが採った手段とはつまり、アンゴラ鶏を囲った木の枠の下に奴隷を隠していたのである。このようにしていつしか、Porto Ricoはgalinha を冠してPorto de Galinha と呼ばれるようになった次第。
 付言すると、黒人奴隷船が入港する際の合言葉(senha)は、” mercadorias[商品] “, ” tem galinha nova no porto! [港に新たな鶏が]”であったそうな。
写真は一部Webから借用