執筆者:田所清克(京都外国語大学名誉教授)
米国同様に、キリスト教徒に改宗した「新キリスト教徒」(cristão novo)もしくは隠れユダヤ教徒(criputojudeu)を含めて、ユダヤ人がブラジルの社会、経済、文化に果たした役割などについては私は、余りにも無知であった。
が、ジルベルト•フレイレの書を通じて、この民族がアラブ系ブラジルの歴史に大きな刻印を残していることを知ることになった。
そして、京都大学 小岸昭教授を代表する6人の一員として文部科学省科学研究費 国際学術研究に、「ブラジルと日本における領土拡張政策と宗教活動に関する総合的な研究」(課題番号08044028)なるテーマが幸運にも採択され、ブラジルをフィールドに考察することになった。このことで、認識のなかったブラジルにおけるユダヤ人について猛勉強することになり、多少は深まった。
ちなみに、3年間の科学研究費が3700万というかなりの高額を頂いたので、忘れられない。この研究費を活用して私たちは、中西部と南部を除く各地、とりわけペルナンブーコにおいて、ブラジルの錚々たる学者の参加も得て、ユダヤ関連の研究を行った。日本人では私がブラジル留学と渡航の経験があることから、滞在中は終始、通詞の役を任され大変苦労した記憶がある。
次回からは、ブラジルに渡来したセフアルデイ系のユダヤ人について、イベリア半島にいた当初の時に遡って言及する予定である。
掲載写真のものは、共同研究後にブラジルのユダヤ人についてまとめたもの。
概して、隠然たる経済力のあったユダヤ人、それもセフアルデイ系の民族が、イベリア半島に多く住んでいた。1996年ポルトガルが、翌年の10月までに国外に立ち去る旨の追放令を発布した時点での、ポルトガルの全人口の10%がユダヤ人で占められていたらしい。
ところが、まずスペインにいたセフアルデイ系の人々はモーロ人ともども異端審問の対象となり、国を離れ、1480から1496年にかけて、およそ18万人が主としてポルトガルに流亡した。
そのポルトガルでもスペイン[1478年]同様に、宗教裁判所(inquisição)が開設[1536年]され、迫害は熾烈を極めた。その過程て、中には敬虔なカトリック信者になるものもいたが、多くは、改宗したかのように見せかけて、密かに祖先の宗教を信仰続けた。いわゆる、彼らは「隠れユダヤ教徒」(criptojudeus)であつたのだ。
ちなみに、新キリスト教徒(cristão novo)に改宗(converso)した呼び名は他にある。Nação de Portugal, Homens da Nação, Homens de Negócios, Marranoなどがその一例。
新キリスト教徒であるという理由のみで異端審問所による熾烈な迫害に遭い、それを遁れるためにユダヤ人たちは国外に脱出せざるを得なかった。
そして、スペインから追放されたセフアルデイ系の人たちは、当初の流亡先であつたポルトガルから新たに亡命を強いられた。
その避難所となったのは、オランダ、北アフリカ、フランス、ドイツ、トルコなどであった。中でもオランダのアムステルダムは、宗教に対して相対的に寛容であったので、多くがその地を目指した。
国外脱出を図った者の中には、新大陸を居住地に選ぶものもあったようだ。
にもかかわらず他方において、異端審問所の存在に怯えながらも、依然として山深きポルトガルの内奥部にひっそりと留まりながら、ユダヤ教徒として生きるマラーノもいた。
新キリスト教徒、すなわち隠れユダヤ教徒たちが難を逃れたオランダのアムステルダムは、当時は一地方都市に過ぎなかったが、裕福なユダヤ人が商業と宗教の中心地に創り変えた。
1595年以来アムステルダムには、ポルトガル出自のユダヤ人が存在した記録が残っている。ユダヤ人共同社会が成長拡大するにつれて、最初のシナゴーグ[ユダヤ教会堂]はむろん、修道会、共同墓地まで作られた。墓地には、オランダ系ブラジル[ペルナンブーコを中心とする北東部地域]に住んでいたユダヤ人も葬られていたらしい。
Pedro Álvares Cabral 艦隊がブラジルを発見した1500年、彼に随行した乗組員のなかに2人のユダヤ人がいたことはあまり知られていない。一人は、ポルトガル王室の医者をしていたMestre João であり、もう一人は通詞役のGaspar da Gamaと言われている。
ペルナンブーコを拠点とするオランダ系ブラジルが誕生して、24年間にわたって占有する過程で、製糖技術にも明るい新キリスト教徒が多数、約束の大地というか新天地を求めて、オランダから来着した。
この頃、ペルナンブーコの全人口の14,6%が新キリスト教徒で、1579-1620の間、砂糖園主の実に32%がユダヤ出自で占められていたらしい。そして文字通り、砂糖貴族(aristocracia açucareira)としての地位を享受していた。
こうしてより良い機会をとらえて資産家となり、植民地社会の枢要な立場に就きながら、天下泰平の日常を送っていた彼らであったが、1491年ブラジルにおいても宗教裁判所(inquisição)が設けられると、新キリスト教徒などのユダヤ系の人々の状況は一変するのである。
結果として、王室のユダヤ人に対する風当たりはいっそう強まり、ユダヤ商人の農園売買も不許可になったりして、彼らの不安と緊張は俄然高まった。
かくして、ユダヤ系の人には安住の地と見えたブラジルはポルトガルとさして違いものになった。ユダヤ系と察しがつく名前を植物名や動物名に変えたりしたが、異端審問の恐怖を再び味わうこととなる。それに耐えかねた彼らのなかには、ラプラタ地域やアルゼンチンなどに逃亡、離散するものもあったと言われる。
ブラジルが植民地であった時期の、産業経済の面で果たしたユダヤ人の役割は測り知れない。
マデイラ島と、改宗を拒んだユダヤ教徒や流刑囚の収容所であった、ギニア湾に位置するサン•トメー島では、サトウキビ栽培が盛んに行われ製糖工場も存在していた。その点、当時のポルトガルは世界の砂糖市場を支配していたのてある。
Fernando Noronhaの一団がこれらの島からサトウキビを持ち出しブラジルで移植すると、この国の砂糖産業はユダヤ人とその子孫によって手掛けられるようになる。
その意味で、彼らは砂糖栽培の熟練者であり、製糖技術にも精通していた。故に、ユダヤ人は砂糖生産活動に従事する者が主流を占め、潤沢な資金を持つ者のなかには、収益性の高い砂糖貿易に乗り出す者もいた。しかも、資産家ともなれば、自らの所有地を管理•運営する一方で、capitaniaにおける公的生活の面でも八面六臂の活躍をした。
砂糖産業に直接係わらないユダヤ人は、例えは、高利貸し、卸売業、税関貨物取り扱い、小売商などの職業に従事していた。
異端審問から遁れるためにユダヤ人にとっての唯一の策は、農園主の娘や未亡人との結婚すること、貴族の称号を買い求めること、それに、社会上昇を図ることにあったと言われている。
ポルトガル帝国主義の膨張はユダヤ人の繁栄に基礎を置き依存していた。ユダヤ人にとっては異端審問を逃れいわば” 約束の地 “であった植民地ブラジルの社会、経済、文化、政治等も、Gilberto Freyre が『大邸宅と奴隷小屋』でかなりのスペースを割いて言及しているように、モーロ人と同じくポルトガル人植民者に影響を与え、それは今日まで及んでいる。
ところで、まず文化面で光彩を放つているのは、ブラジルで最初の詩歌「擬人法」(Prosopopéia)を著したBento Teixeira であるだろう。論争好きのこの新キリスト教徒は、異端審問所の迫害を受けた中心人物として知られている。
同じ時代に生きたAmbrósio Fernandes Brandão も挙げねばならないだろう。かの有名な『ブラジル富裕記」(Diálogos da Grandeza do Brasil)の書において、自然的観点から豊かな大地であること以外に、住民の人種構成や風俗習慣、労働技術などにも触れ、その持つ文献的価値はきわめて高い。
オランダ支配の時期には、ブラジル最初の典礼書簡作者にして律法学者のイザク•,アボアブ•ダ•フオンセツカがいる。彼は南北アメリカにおいて知られた存在で、ヘブライ語で書いた詩作「神の奇蹟に対する記念碑建立」(Erigi um Memorial aos Minagres de Deus)はつとに有名である。
医学、薬学の領域においては、オランダ支配の時期には二人が特筆されよう。双方ともキリスト教に改宗した、いわゆるcristão novoであるが、うち一人は薬剤師のアブラハム•デ•メルガード。もう一人は、1639年頃に生まれたヤコブ•デ•アンドウラーデである。薬を処方する技術で先駆的な薬剤師の、マラーノであったルイース•アントウネスも列記すべきかもしれない。
転じて土木工学の分野で傑出したのは、バルタザル•ダ•フオンセカである。彼は、マウリーシアとレシーフエを結ぶカピバリーベ、ベベリーベ双方の河川に、技術水準の高い石橋を建造したことて知られている。
法曹界では、おそらくブラジルにおいて最初の弁護士業を営んだと目されるミカエル•,カルドーゾの名が挙げられる。1645年頃、オランダ領ブラジルで始めたのであるが、ユダヤ人であることで差別され妨害も受けた。しかし、有力者の嘆願もあって、彼がレシーフエ司法審議会で認めてからは、この方面の権威者として社会的にも貢献した。
また教育の分野では、二人が目にとまる。ベント•テイシエイラと、伝説上の人物となつているブランカ•デイアスである。後者はカマラジーベ砂糖園の所有者のみならず、ペルナンブーコにおけわる最初の教育者とみなされている。
双方とも実践的なユダヤ教徒であったがために、異端審問所によって迫害される身となった。
以後、ユダヤ系民族がブラジルの社会全体に与えたと思われる事象を、具体的にみてみたい。
ユダヤ人はポルトガルにおいても商業民族としての能力を発揮して、商業活動の世界では概して、経営に関する専門性の高い職種に従事していた。結果として大資本家や大富豪になっている場合が少なくない。それはブラジルにおいても変わりない。
しかも、優れた知的、科学文化を具えていることから、各方面で巧妙な影響を及ぼした。
ブラジルのポルトガル人の性格や傾向にみられる商業主義も、ユダヤ人の性向を反映した例だろう。
ひょっとして、肉体労働を好まず一攫千金に走るところも、ユダヤ的に思われる。
北東部の旱魃の被災者がパンを求めて南東部のサンパウロやリオを目指す放浪性は、ユダヤ人の影響に帰するのではなかろうか。
ブラジルの大学卒業者、博士などは、エメラルドやルビーの指輪をはめたり、眼鏡、鼻眼鏡をかける傾向が今もなおある。これとてもユダヤ人の学歴主義への嗜好のようだ。
法律至上主義や儀礼的な司法であるところもユダヤ人の影響、とGilberto Freyre はみている。
こうして、断片的にみる限りにおいても、明白なユダヤ民族の影響が垣間見られる。
先述の通り、Porto Seguro に入港した、ブラジル見の立役者であるPedro Álvares Cabral 麾下の艦隊の乗組員のなかにはすでに、ヘブライ教を信仰するユダヤ系の人が二人いた。が、最初にブラジル、それもバイーアとペルナンブーコに定住したのは、イベリア半島出自のセフアルデイ系のユダヤ人であった。
1618年以降、商業活動中心の彼らは各地に散らばり、pau-brasil の開発と砂糖生産活動に従事していた。そして、経済部門で支配的な立場にあった。ところが、ペルナンブーコで1593-1595の間に、宗教裁判所が機能すると、多くのユダヤ人が不法な富を蓄えること(蓄財)や信仰する宗教のために告発され迫害された。
バイーアにおいても違いはなかった。1618年に新審問官Marcos Teixeira が到来すると、ユダヤ教を信じるかどで起訴されている。
植民地ブラジルのその二つの州での異端審問によって、経済部門でのユダヤ人の活動は冷え込むこととなった。しかしながら、オランダ人の占拠•支配によるペルナンブーコへの到来は、ユダヤ人にとっては渡りに船のごときで、状況は明らかに改善されたMurício Nassau の時期[1637-1644年]がそうで、ユダヤ人たちは自由に信仰できた。これには、統治者であるNassau の宗教的な寛容性に負うところが大きい。
オランダ支配の時は公然とユダヤ教を信じることができた彼らであったが、オランダ人追放以降は再び、宗教裁判所による非人道的な扱いで塗炭の苦しみを味わうことになる。
ブラジルに留まるものもいるにはいたが、多くはアムステルダムに帰還するか、あるいは他の新世界の国に移住した。
1773年5月25日付けの法令でMarques de Pombalは、cristão novoとcristão velho[カトリック教信仰者]との間の隔離を廃止し、と同時に、前者へのいかなる迫害も禁じるに至った。かくして、ユダヤ系の人々もブラジルの地において、信仰の自由を獲得したのである。19世紀および20世紀のユダヤ系民族のブラジルへの移民は拡大する。それらはわけても、アシユケナジー(asquenazes)系、すなわち東ヨーロッパ出身で占められている。IBGE[ブラジル地理統計院]によれば、1999年の時点で、国の全人口の0,2%がユダヤ系の民族で、地域的にはSão Paulo, Rio, Rio Grande do Sul, Paranáの各州に多く住んでいる。
そのサンパウロとリオには、最大のユダヤ人コミュニティーが存在している。『ブラジル移民史総論』(Síntese da História da Imigração no Brasil)に従えば、1998年の段階で、サンパウロにはおよそ9万人、リオには7万人のユダヤ系が居住しているものと推定している。2010年現在の最新の統計では、ブラジルには148,329人のユダヤ系の人がいるそうだ。ちなみに、アルゼンチンに次いで二番目でに多く、世界では11番目らしい。そして、カトリックが主流の国で10万人以上がユダヤ教を信仰しているとのこと。