執筆者:田所清克(京都外国語大学名誉教授)
植民地時代、わけてもオランダが占拠•支配していた時期[1630-1654年]のブラジル北東部は、ユダヤ教徒や新キリスト教徒にとっては、つかの間であれ、”この世の春”のごときものであった。
そして彼らは、ヨーロッパの主要な港と直結した貿易を通じて、あるいはユダヤ教の精神的な中心地と接触を保つ目的での、宗教的性格のリスポンス文学[literatura de resposta=手紙形式のヘブライ文学]を通じて、世界に分散するユダヤ教徒とむすびつきを緊密にしていた。と同時に、ユダヤ史にも残る重要な宗教、文化、思想の華を咲かせた。中でもペルナンブーコには、新大陸では最初のシナゴーグが建立され、ラビをかかえてユダヤ宗教詩がイサク•A•ダ•フオンセツカによって書かれもした。これらの事例は、南米におけるセフアルデイ系ユダヤ人の証ともいえる。
オランダ人が占有していた時期の、ペルナンブーコに住むポルトガル出自の新キリスト教徒は、カトリック教を捨てて再びユダヤ教を信仰する者も少なくなかったが、オランダが敗北して追放されると、オランダ系ユダヤ人やフランドル出身のカルヴァン主義者とともに、ブラジルを離れねばならなかった。
退去したユダヤ共同社会の住民は、北アメリカのハドソン河口のニユーアムステルダムやカリブ地域に、更に一部はオランダへ、一部は新大陸のオランダ会社の領地であるギアナ、アンテイル諸島に安住の地を求めた。
余談ながら、こうしたブラジルからのユダヤ人の離散が、他の熱帯アメリカ地域へ砂糖産業を普及させ、ブラジル北東部のそれの零落を招来したことは、経済史上見逃せない。
ポンバル侯の改革によって、新旧キリスト教の区別が禁じられた48年後の1821年、ポルトガルの異端審問制度は撤廃されるに到った。これに併行して、植民地に存在する同制度もなくなった結果、新たなセフアルデイ系ユダヤ人の移住が始まった。中でも気を引くのは、モロッコからの到来であるだろう。主としてアマゾン地域に移り住んだ彼らの多くは、15、16世紀の間、モロッコに退去したスペインもしくはポルトガル出自のユダヤ人の末裔で、ブラジルの歴史の中で、セフアルデイの中心的存在と考えられている。
歴史過程を通して、イベリア出自のユダヤ人、つ
まりセフアルデイ系の民族的、文化的な残滓が、ブラジルの北東部の地では垣間見られる。時にそれは、鮮明なかたちで北東部人の風俗、習慣、そしてモラルや倫理観、思想などにも見て取れる。北東部人の宗教性を例にとれば、彼らの胸の内には、何がしかのメシア的あるいはセバステイアン主義的な思想が潜んでいるように思われる。カヌードス戦争
(Guerra de Canudos)における狂信的な指導者Antônio Conselheiro の言動や、カリスマ的なリーダーシップを発揮したCícero Romão Batista神父※が示した神秘主義的なものには、そうした思想が底流にある。
Antônio Conselheiro に見出だされるセバステイアニズモ(Sebastianismo)自体、キリスト教に持ち込まれたユダヤ教的なものの継承であり、ことにポルトガル民衆の間に流布するSebastianismo は、隠れゆ教徒(criptojudeus)の信仰に起源を発する。しかも、そのSebastianismo と称されるメシア的な運動は、アフリカの砂漠で命を落とした国王の生還を祈願したものというよりはむしろ、” Divino Mártir “のポルトガル的信仰に由来しているようにさえ思える。
このDivino Mártir こそがサン•セバステイアンであるかもしれない。ポルトガル人によってすこぶる崇められるその信仰は、ユダヤ教的な発現と言うべきである。何故なら、英雄復活はユダヤ教徒の願望でもあるから。 ※単にCícroあるいはPadim Ciçoの名でも知られ、北東部わけてもセアラー州の社会、政治、宗教に多大の影響を与えた。
北東部の人たちの生活全般にわたって観られるセフアルデイ的要素はけして少なくない。その具体的な事象のいくつかを、以下に取り上げてみよう。
北東部の慣習法とでも言うべきものの中に、ポリガミー[poligamia =一夫多妻制度]がある。ここでは、多重婚を禁じた法律があるにもかかわらず、階級を問わずあらゆる階層の男たちが、複数の妻を持ちたがる。この慣習は、北東部社会特有の家父長的伝統[制度]の一つに数えられるかもしれない。ユダヤ社会では10世紀以来、ポリガミーは禁じられている。その点で、ブラジルの北東部にユダヤ的伝統が継承され残存した、珍しい例である。
他方、セフアルデイ的な倫理観との関連において、名誉を絶対的に重んじる態度は、北東部の人間像の典型の一つとみてよい。民衆が口にする諺、 ” 名誉は血によってのみ、晴らされる “は、セフアルデイに特有の、北東部の倫理観を表している。
更に、行動様式の観点から北東部人を捉えると、いかにもセフアルデイ的である。すなわちそれは、彼らの遊牧民的な “放浪性” にあり、ユダヤ人的な特質を端的に示している。
ユダヤ人の歴史に記された流亡と放浪の民族性が、外的要因もあるにはあるが、北東部人のパーソナリティーの深層にあり、”彷徨えるユダヤ人”なるユダヤ民族に与えられた宿命らしきものが、”パウ•デ•アラーラ”[pau de arara=旱魃を遁がれて、他の地域、特にサンパウロとリオへ糧を求めて、オームさながらにトラックの荷台に設えてある横棒に乗りながら、一時的に移住する北東部の被災者]にも通底するものがあるような気がする。
ブラジルの北東部農村社会の住民が共有する、苦しみや辛いことに対する辛抱強さ、忍耐もユダヤ人と同質のものかも知れない。あらゆる逆境に耐え忍ぼうとする姿勢•態度は、生き残りをかける北東部民衆に欠くべからざるもので、セフアルデイ系ユダヤ人から受け継いだもののようだ。
日頃、垣間見られるユダヤ的な影響と思われる事例を、さらに列挙してみたい。北東部では、人が亡くなると、家にある鏡を布で覆っ足り、泣き女をよんだり、あるいは死んだ場所に水を撒いたりする習慣がある。また、人を弔うさいに黒いマンテイーリヤ(被りぎぬ)を着用する。死者は埋葬される時、縫い目も裁断もない白亜あざぶで被うのが一般的である。そして、遺体が墓地に運ばれた後、死者が住んでいた家を、前方から後方に掃除する習わしなどは、北東部研究者の著書の中でも、セム族由来のものと記されている。
オランダ人が北東部の地から追放された後も、少なからぬユダヤ人が、沿岸部や内奥部で行商をしていたと言われる。
概して、北東部人に商才があるのも、そうしたユダヤ人の影響もしくはこの民族から継承したものであろう。社会史家Gilberto Freyre もこの点を、『農園主の邸宅とたこ部屋』(Sobrados e Mocambos)[p.326.]の中で指摘している。
北東部は異端審問制度から逃げ延びてきたユダヤ人にとつて、一時的であれ、自由と救済の場であった。
世界のあちこちに散らばったユダヤ人の描く北東部空間は、その意味からも重要であった。つまり、迫害され懊悩した民族にとっての、生存するための象徴的空間であったからである。
北東部人、中でもマージナルな社会の底辺に生きる人たちの空想、より正確に言えば、ユダヤ的な神秘の世界が、彼らの心性に深く刻印されているようだ。
奥地の人たちの音楽、世界(宇宙)観 、カーニバル、シランダ(ciranda=民謡に合わせて輪になって踊るものなどの民間伝承や文化のなかに、それを見出だすのは可能である。ペルナンブーコのFazenda Nova市に創設されているニユーエルサレムは象徴的な一例だろう。
※cirandaの写真はWebから。
現在のブラジルのみならず、世界の民族や宗教にからんだ問題を理解•認識しようとなれば、ユダヤ人問題は避けて通れないテーマである。何故なら、この民族は少なからず植民地時代以来、迫害や差別の対象となり、ヒストリオグラフイーのなかで重要な意味を持っているからである。
そうした文脈においてこれまで、植民地ブラジルのユダヤ人、わけてもイベリア出自のいわゆるセフアルデイ系の人々に対する偏見や差別の問題を、宗教および民族学的観点から俯瞰•展望した。
その上で、主としてセフアルデイ系の新キリスト教徒がブラジル発見当初から、北東部の地で果たして
た役割や、彼らの習俗、文化、思想、心性などが土地住民に及ぼした影響について、具体例を示しながら考察を試みた。
今日でこそ “人種デモクラシー” (democracia )をは、宗主国から移入された<純血法>と異端審問所による弾圧がユダヤ系の民族に対して公然と行われ、言語に絶する犠牲を強いられた。そしてそれは、ポルトガルの植民地政策の一貫としての、国家やカトリック教会による制度化されたものであったように思う。
ブラジルを「約束の地(カナン)」と観ていたユダヤ教徒やマラーノにとって、新しい南半球の熱帯の大地はその意味では、決して楽園的世界とは言い難かった。
オランダ支配の時期を除けば、渡伯したユダヤ系民族とその子孫たちは、容赦のない非人道的な異端審問制度によって、逃げ出した植民地本国と何ら変わらないくらいの辛酸を嘗め、ブラジルにおいても受難の歴史の当事者となったのである。
異端審問制度が撤廃され近代に至っても、例えばヴアルガス大統領政権下では、ユダヤ人亡命者の入国を拒否する動きが表面化して、1937年には、彼らへのビザの発給が認められなかった事態にまで発展したことがある。
ブラジルの近世に至るまで、ユダヤ民族は差別や偏見の対象であり続けた。そうした環境の下で、ポルトガルのセーラ•ダ•エストラーダやスペインのバレアレス島には、マラーノの共同体社会があった。他方、異端審問所による迫害やアウト•ダ•フェー(auto da fé=火刑)から遁れるための新キリスト教徒の隠れ家が、セリドー溪谷のカイコーと呼ぶ場所に存在し続けたことも、この民族の受難の歴史を知る上で黙過し得ない。
繰り返し述べるが、自らの信仰する宗教ゆえに、また諸々の社会制度によって虐げられながらも、ユダヤ人は植民地ブラジルの産業、社会、文化発展に大きく寄与した。とくに産業開発の点では、彼らの天稟ともいえる知性や商才、技術力と、資金力に負うところは少なくない。のみならず、セフアルデイ系を中心とする新キリスト教徒は、学術や教育、文化の面で著しい貢献をして、北東部の地に華を咲かせた。
今日の北東部人の民衆文化や習俗、慣習、物の考え方、思想•行動様式をみる時、そこにユダヤ的なものの介在を否定し難い。しかもそれは、総体としてのブラジル文化や国民の心性、国民性にまでも影を落としているように思われる。
現在のブラジル社会に生きるユダヤ人は、イベリア出自のセフアルデイ系と、ドイツや東欧が出所であるアシユケナジー系である。彼らの伝統なり文化は、ユダヤ教と分かちがたく結びついた共同体社会のなかでかたくなに保持されている。
がしかし、あるものは他の民族のものと混融している例もある。サンパウロ州中央部に位置するイジエノーポリス市にみられるメシア運動では、ユダヤ教的伝統を重んじながらも、また一方において、真のメシアとしてのキリストを認知する動きも存在する。これなどはまさしく、キリスト教とユダヤ教のシンクレテイズム(習合主義)と言ってもよい。