執筆者:設楽知靖(元千代田化工建設、元ユニコインターナショナル)
今般、(社)ラテンアメリカ協会の『ラテンアメリカ時報』2024年・春号において特集“日本とCARICOM交流60周年が組まれている。この地域はヨーロッパと新大陸(アメリカ大陸)の『出会い』最初にコロンブスがグアファニー島でタイノ人と対面したときから始まるが、その後いろいろな国が領土侵攻を重ねる複雑な地域となり『植民地化』とともにさらにアフリカからの人々の奴隷としての移入などを通して、人種に基づく二重構造など、それは政治、経済、音楽,そのほかの芸術をして展開してきた。それらを包括して限られた書籍から考察を試みてみたい。
私は以前、ブラジル北部からガイアナ、トリニダード・トバゴ、バルバドス、プエルト・リコ、ドミニカ共和国、ハイチ、ジャマイカ、ベネズエラ、コロンビア、オランダ領アルーバ、キュラソー、そしてフライトの経由として小アンティーレスの島国を訪ねたことがあるが、残念ながらキューバだけは尋ねていない。ベネズエラとトリニダード・トバゴは石油産業の関係で何回も訪ねたが、大アンティーレスと小アンティーレスの島国は複雑な歴史上の島国である。
大アンティーレス、キューバ、ハイチ、ドミニカ共和国、ジャマイカは初期のスペイン帝国の領土としてカリブ海の中心であった。そして少し遅れてイギリスの進出で17世紀の半ばにジャマイカを征服し砂糖プランテーションによりイギリス本国へ富をもたらし、同時に奴隷貿易の拠点として発展した。
一方、小アンティーレス(東カリブ)はバージン諸島から南東へ弧を描くようにトリニダード・トバゴへ続くがいずれも小島のためにスペインは関心がなくイギリス、フランス、オランダの影響が強い地域となった。その後、イギリスの白人が入植するにしたがって先住民カリブ人(タイノ人)は追われ砂糖プランテーションの労働力を補ったのはアフリカの奴隷であった。奴隷労働力の内訳は、B=Black(100%黒人)、S=Sambo(黒人の血が4分の3)、M=Mulato(黒人の血が2分の1)、Q=Quadroon(黒人の血が4分の1)に分けられ『肌の濃淡による格差』が続けられ、少しでも白に近い肌の持ち主が教育や就労の分野で有利となった。
第一次大戦後1920年代本国が経済的打撃を受けて締め付けに厳しくなると、それに抵抗して島々のストライキは暴動になるなど頻繁に起こるようになった。又、大戦へ『西インド連隊}として帝国の戦争に駆り出された後、人々が奴隷貿易と植民地化という歴史に基づく『共通の文化を持つ西インド人』だとの意識を育んだことも団結と抵抗の要因となった。
1958年、ロンドンのジャマイカ系移民が多く暮らす地域で、望ましくない移民に対する挑発的機運による人種暴動が起こった。1962年に『コモンウエルス移民法』が制定されて管理政策が徐々に厳しくなり、それまで表面化しなかった人種問題が政治的アジェンダに登場する時代となった。1970年代後半、経済低迷が極限に達するとイギリスに住む黒人たちが差別や暴力にさらされた。
1981年にはロンドン東南部のカリブ系移民の住む地区で放火事件が起こったりした。また『人種}と『人種主義』の問題は労働者階級の形成と再形成における『黒人の役割』と『黒人闘争』を否定し続けてきたイングランドの左翼の伝統をただすものと受け取られた。そして、1970年代のイギリスは移民の第二、第三世代への『独自の文化形成』の時代となって、世界的スター、ボブ・マーリーの『レゲエ』がイギリスのカリブ系黒人たちの新しいアイデンティティーを示す音楽となり行き場のないイギリス社会に対する怒りを抑えることのできなかったことが音楽を通して『黒』と『白』の新しい関係を創造しようとした文化政治運動となった。
アメリカ中心的な『アフリカン・アメリカン研究}に対するヨーロッパ大陸からの介入とたんに見るだけでなく各大陸間、ヨーロッパ、アフリカ、アメリカの『移動の歴史』を描くと、イギリスへの黒人の移住は数世紀に及ぶが,今日の黒人コムにティーの大部分は第二次世界大戦後の移民コムニイティーが集中する都心部の貧困地域の『土着の文化』は全く新しいものでカリブ人や黒人アメリカ人によって供給された様々な『素材』を集めて作られた人種的サブカルチャーである。このサブカルチャーの様々な条件のなかにイギリスの黒人移民は移民労働力として組み込まれている。
その中での人間関係、新しい環境で獲得して適応させていった文化的な特徴の重要な表現となった自己創造の社会的発展を評価する手段として機能した。また、言葉の遺産は黒人という特徴的な様式へと多様な移住者たちが向かうために重要な役割を果たしそれは可能性の条件をカリブやアメリカ合衆国、そしてアフリカから引き出そうとする位置機能を有していた。またそれは生まれ育ったイギリスの条件によって消すことのできないかたちで特徴づけられた。この種の過程をたどってきたものは『アフロ・カリビアン系移民』のみに限っていたわけではない。
ガイアナ、ジャマイカ、バルバドス、グレナダ、トリニダード・トバゴ、セントルシアの文化的、政治的歴史はヨーロッパの各々、多様な移民をもたらした。それらの経済的 な面も同様に大きく異なっている。それらの文化が一つの『黒人英国文化』へと統合されることは人種主義の影響のみによって確実にされてきたものではない。特に黒人アメリカ人から引き出された黒人性をめぐる意味での役割が継続的な文化洗練させてゆ
くうえで重要であった。音楽として『レゲエ』がイギリスで一位となるのはアフリカ、アメリカ、ヨーロッパ、カリブと継ぎ目なく統合している有益な例である。これはイギリスでカリブとアフリカからの移民の子供たちがシカゴの黒人によって与えられた素材をキングストン的感性を通してろ過し、一人の黒人の英雄にささげるために作った音楽であった。
こうしてイギリスが人種的分離のあいまいさ、階級関係の配置、言語的融合の偶然性などのローカル要因によって反植民地的な政治編成などのグローバルな現象が今なお維持され、再生産され増幅され続けている場所である。
白人系アメリカ人に語りかけて文明と国民文化を肌の色でコード化する彼らの観念に挑み、さらに現在と将来における広範でトランスナショナル読み手の共同体に呼びかける。奴隷制廃止後の西洋黒人に特有の歴史に全地理的な意義を認めようという熱望がある。
人種、国民、文化、共同体という互いに際立った諸概念が多様なやり方で描かれた空間化されているさまを見るのを通して行おうとする。また、二重意識の概念が『黒人の魂}の幕を開け、その組織原理における深遠構造を供給している。二重構造の概念は黒人がアメリカ人としてのアイデンティティーを内面化することからくる特別な困難を表現するために用いられる。『アメリカ人』であることと『ニグロ』であることの二つの魂、二つの思想、二つの調和することのなき向上への努力、そして一つの黒い身体のなかで、またかこっている二つの理想、しかも身体を解体から除いているものは頑健な体力だけである。
心理学的関心と結節的でこの概念を作り出したのはたんに黒人アメリカ人特有の立場を表現するためだけでなく『奴隷』という過去を持つ人の全般の経験を明らかにするものである。これは色という象徴とはそれほど重要ではないといわれる。
アフリカ大陸という起源から切断された黒人奴隷たちは大西洋航路をゆく船に積み込まれて南北アメリカやカリブ海へと移送される過程で各々の民族文化をおおかたはぎとられ近代的な存在へと完全な変化を被った。20世紀の後半、今度はその大西洋をレコード盤や音楽楽器が彼らの待ちわびる新たな聴衆に向けてひっきりなしに行き来するようになった
1492年にコロンブスが初めてカリブ海諸島の一つであるグアファニー島で『出会った』のは『タイノ人』と言われている。その人々は絶滅したといわれているが、その末裔と言われるスペイン語圏のドミニカ共和国、プエルト・リコ、キューバに今なお生きながらえている。イギリス領ドミニカの指定保留地の住民たちもカリブの言語を使わず文化的にも生物学的にも混血しているにも関わらづみづから『カリブ』と称して今日の西インド諸島の住民でタイノもしくはアイランド・カリブ人の末裔と称しているといわれる。歴史家の見解では『タイノ人}は1200年ころに頂点に達してコロンブスが到達したときはいまだに進化の過程であったといわれている。1524年ころには集団ではなくなっていたが侵略してきたスペイン人に生物学的、文化的、言語学的に伝えて、やがて東半球全域に広まったといわれている。
それらの『特性』について述べれば生物学的特性として人間の遺伝子がスペイン本国へ伝わらなかったといわれているがスペイン人が持ち込んだ疫病によってタイノ人の滅亡が早まったといわれ、これと逆にカリブ海地域から梅毒がヨーロッパへもたらされたといわれている。文化的特性としては『食料の交換』があげられる。これに大きな役割を果たしたのは奴隷商人たちでタイノ人の主食農産物であったキャッサバ(ユカはタイノ語)をアフリカのサハラ以南へ運んだ。この農産物は貯蔵、乾燥でサバンナ気候に適応し多く栽培された。また、インディアンコーン(メイズ、Maiz)もスペイン人が地中海周辺、中央ヨーロッパへと広めた。スペイン人はイスパニョーラ島にも栽倍させた。タイノ人の功績は今日のさつまいも、豆、かぼちゃ、ピーナッツなどの作物、グアバ、パイナップルなどの果物にも及ぶ。一方、じゃがいも、トマトはスペイン人の中米、南米到達により流通するようになった。
そのほかにゴムやたばこもタイノ人の功績でゴム栽培は球技のボールに貢献、キューバなどに球戯場ができたし、カヌー(カノア)やハンモック(アマカ)も彼らの製作である。さらに言語学的な特性として挙げるべきであり今日使われている言葉もある。英語になった言葉はバーベキュー、カーニバル、ハリケーン、サバンナ、カシケなどでタイノ語がスペイン語やフランス語を経由して英語へと伝っていったものと思われる。
かつてイギリス帝国植民地管理局は『ブラック・カリブとガリフナGarifuna』という用語を使って、アメリカ州の先住民のうち奴隷として連行されてきたアフリカ人たちと姻戚関係を持たない集団である『イエローカリブ}や『レッドカリブ』とを区別した。『ガリフナ族}はアフリカ系の人々と小アンティーレス諸島のアラワク族との間の混血の祖先をもつ人々の総称とされる。
アフリカ人と全く婚姻関係を持たなかった先住民の集団は今も小アンティーレス諸島に現存する。現在ではガリフナ族の人々は中米のべリーゼ,グアテマラ、ニカラグア、ホンジュラス(本土とロアタン島)のカリブ海沿岸に居住する。彼らの海産物料理がある。また、アメリカ合衆国内ロスアンゼルス、マイアミ、ニューヨークその他の都市部にもガリフナの『ディアスポーラ・コミュニティー}が存在する。
また、タイノ人は大アンティーレス諸島、キューバ、イスパニョーラ島、プエルト・リコ、ジャマイカ、バハマ諸島の先住民でアラワク人やタイノ・アラワクと表記されることもある。アラワク語はボリビア北西部、ペルーのモンクーナ地方、スリナムとガイアナおよびアマゾン下流域などに定住する先住民の間で使われている。
ベネズエラはラテンアメリカ諸国で有数の混血社会と言われているがこの国に住む『土地っ子}は自らを『白人』とも[黒人]でもなく、『混血}とみている。ここでは日本人研究者がベネズエラ北部カリブ海に面した街に伝わる『太鼓歌}を現地調査で分析し解説してこの国の人種的変遷を伝える資料を基に述べてみたい。
この町『プエルト・カベージョ』(Puerto Cabello)の旧市街パリオ、サンミジャンはならず者の街区と呼ばれた地域社会の黒人文化の中心である。この『パリオ}とは西欧近代化の価値観とは一線を画した民衆文化が実践される場でもある。日々の暮らしの中で話し言葉、言語より身体、論理より感覚、型どおりの振舞いより当意即妙の機転が生さいを放つ、このような流儀で人々との絆が維持、更新される『社会空間}がそこにある。
かつては、ここに『カカオ大尽』と呼ばれた商家が立ち並ぶコロニア様式の町としてカカオを輸出品とする植民会社がスペイン王室により設置され近隣農村に数多くのアフリカ人奴隷が労働力として導入されていた。この港町プエルト・カべージョはイギリス.オランダに度々襲撃されたために城壁を設け、堀は都市の公的空間と、その外側の無法地帯の境界となった。今もチョコレートは有名でスーパーマーケットの棚にはカカオの含有量別にグレード分けして並べられている。
この掘割の外側に住んだのが『自由身分の黒人』で彼らの多くはオランダ領キュラソー島出身で、このあたりのパリオは19世紀にサンミジャンと呼ばれるようになった。このパリオは1960~70年代の石油ブームによる都市の拡張により市街地に飲みこまれて『タンボール祭り』も衰退の一途をたどった。ここで研究者の言う『Tambor』という言葉はスペイン語では“楽器としての太鼓”であるが、『アフロ・カリブ文化』
では楽器のリズム、歌、踊り,宴、祭りのすべてを包括する幅広い奥深い用語と解説している。
1970年代末、一人の男がサンミジャン民俗文化救済会を組織して、かつてのサンミジャンの軽蔑された黒人文化の復権を目指し、“暴力の町”のイメージを『民族文化の息ずく街}に塗り替える運動を起こした。黒人文化というがベネズエラにはアフリカ人の子孫が数多く住んでいるはずだが、彼らは現在『アフリカ系人』として固有の歴史意識を共有している。北米に見られるような『黒人』として結束するような『人種・民族』集団はベネズエラには存在しない。『自由身分の黒人』たちが創建したといわれたサンミジャンにおいても今日の住民の大多数は自らを『混血』(Café con leche ,Marron)と考えている。
1878年の第一回国勢調査では『クリオージョ集団‘』(混血:ヨーロッパ系、アフロ系、先住民系の要素)、{先住民集団}『バイナショナルーバイカルチュラル集団』に分けられ人種、民族の区分はない。15~19世紀の征服、植民、奴隷貿易、独立闘争、共和国形成という歴史を通して『受容』することによって『混血}を形成し混血の国民像を作り、混血意識の共有で人種的排他性が存在しなくなった。
『アフロ・ベネズエラ文化』の軌跡について触れると、植民時代のベネズエラ社会にも他と同様、{カスタ}(Casta)制度と呼ばれる『人種による身分秩序と分離政策』に管理されていた。ところが辺境の植民地であったベネズエラは17世紀末まで経済的不安定もあり、少数の支配階級を除いてカスタ制度に反して早い時期から混血が進んだ。また、カカオブームが終わりコーヒー栽培とともに奴隷などの余剰人口は都市へ、奴隷依存の農業経済は崩壊し、逃亡奴隷コムニイティー[クンベ]が生まれこの人種構成は黒人、混血、インディヘナ、貧困白人層を含むものとなった。
そして、19世紀初めからの独立闘争は独立派軍,王党軍ともに黒人奴隷を『兵}として雇い入れた。そして1920年以降、{産油国}となり都市化の波で社会は形態的混血並びに文化的混淆へと進んだ。また民衆カトリシズムでもアフロ・ベネズエラ系聖人信仰も世界各地の点で共通している。しかし祈祷の文言や神霊世界の枠組みにアフリカ的要素がありありとみられるハイチのブードウーやキューバのサンテリーアなど
の民衆宗教と比較すればベネズエラの事例は相対的にアフリカ色が薄いといわれる。アフロ系文化は、かつて社会の最下層に位置していたが、一方で平原地方の牧童(ジャネーロ)『あらぶれクリオージョ像』が平原地方出身の軍人の政治的優越感が建国当初にはあった。
また世界の1930年代世界的知の潮流と言われる米国ハーレム・ルネッサンス、フランス語圏に開花したネグリチュート運動、キューバのアフロクバニスモ運動、ブラジルのアフロ系文化評価などがベネズエラの進歩的知識人により『誇るべき国民文化』として省みられた。ベネズエラのアフロ系概念は社会的排他性を伴わない文化の概念であり、かつまたクリオージョ層の混血アイデンティティーに溶け込んでいるからこそ、広範な国民の共感を呼ぶイデオロギーの資源となっている。
トリニダード・トバゴは植民地時代はアフリカからの奴隷労働力により砂糖プランテーションによる砂糖、そしてカカオなど農業主体の経済であった。その後、1595年イギリス人により『ピッチレーク』が確認され1857年以降、アメリカ人、イギリス人による試掘、地質調査が行われて1908年初めて商業ベースの原油生産がはじめられた。1910年には島内初のリファイナリーが建設されて、日糧1万バレルの油田開発、シェルも油田開発に乗り出し近隣諸国から労働力が流入してヨーロッパ人の経営者との格差が生じ、労働争議が頻繁に起こるようになった。1938年、第二次世界大戦により英・米軍の燃料基地となり精製能力も拡大したが党内原油生産量が精製需要に追い付かず、一時は中近東からの原油輸入もあり中間地精製の役割も担った。
1972年ころにはオフショアー原油開発が活発化、シェルの設備を政府か買収して、国営の石油公社、TORINTOCを設立したり,これのアップグレーヂィングには日本も協力した。1973年のオイルショック時は追い風となり収益は天然ガス開発の投資に向けられその結果としてガス資源を活用して、鉄、アルミ、メタノール、肥料、石油化学に挑戦するようになった。1995年にはAtlantic LNG が設立されて
Train I は年産300万トンでカリブ・南米で初の設備として米国市場向けに輸出された。2021年の天然ガス生産高は世界24位、LNG輸出は世界11位、アンモニア輸出は世界1位、メタノールは3位、肥料は15位となっている。しかしながら、天然ガス生産量が減少して、LNG,石油化学の分野に支障が出ており、今後有望なマナティガス田の開発に期待が寄せられている。
一方、ベネズエラの石油・ガス開発は『原油埋蔵量世界一位』であるが、ベネズエラ政府の政治的な問題が絡み、開発並びに既存設備のメインテナンス分野も大きな支障がが生じている。このような中で隣国、ガイアナで原油・ガス開発がブームとなっており、埋蔵量が確認されてエクソン・モービルを中心とするジョイントベンチャー企業がスターブロック地区で原油生産を2026年に開始する予定となっている。これに伴う
大規模インフラ整備が急速に行われているが、人口80万人の国土で深刻な人材不足が生じており、トラック運転手も国外から調達する事態となっている。これに対する対策としてガイアナ政府は『ディアスポラ』の呼び戻しを考えている。これは人口の55%がディアスポラで、実に大学教育を終了した80%が、高等教育を終えた40%が国外で仕事をしている。特に技術者と職業訓練の必要性が認識されている。(以上)
資料:
1.『ブラック・アトランティック』
ポール・ギャルロイ 著、上野俊哉、毛利喜孝、鈴木慎一郎 訳
(有)月曜社、2006.9.15.
2.『太鼓歌に耳をかせ』
石橋 純 著、(株)松籟者社、2006.1.31.
3.『ラテンアメリカ時報』2024年・春号
(社)ラテンアメリカ協会
4.『タイノ人』
アービィング・ラウス 著、杉野目 康子 訳
法政大学・出版局、2004.12.15.
5.Wikipedia 解説