執筆者:久野佐智子(JICAエルサルバドル事務所,広域企画調査員)
「出産のヒューマニゼーション」。普段あまり聞き慣れない言葉ですが、妊産婦と新生児、そしてその家族に対して医学的かつ心理的側面から尊厳のあるケアを実現することにより、母子と家族が安全な環境で穏やかな時間が過ごせるよう医療者や関係者がサポートをすることです。
2022年8月にエルサルバドルにてJICAがSICAとともに「出産のヒューマニゼーション」をテーマとした地域セミナーを実施しました。8カ国の各国代表者からそれぞれの国における参加ケアの状況が発表されたのですが、今回のシリーズでは特に印象に残った国について、最新の情報を交えながらまずはコスタリカから紹介したいと思います。
今から10年ほど前、コスタリカのプンタレナスでは病院で出産した女性から「医療者に適切なケアをしてもらえなかった」という不満の声が数多く上がっていました。SNS上で投稿されていたのは、「陣痛中に痛みを訴えていたのにもかかわらず放置された」とか、「出産中に暴言を吐かれた」という産科暴力に対する訴えでした。そのとき、プンタレナスの地域病院ではちょうど新しい病院長が就任して院内の体制改革のひとつとして産科病棟の調査を行っており、それらの結果も合わせて、産科ケアの質の改善に取り組むパイロットプロジェクトが開始されました。このようにしてMonseñor Víctor Manuel Sanabria Martínez病院(Monseñor病院)は、2015年のパイロットプロジェクト開始から常にコスタリカにおける出産のヒューマニゼーションのパイオニアとしてリードすることになる病院となったのです。
Monseñol病院で始まったパイロットプロジェクトでは、妊産婦・新生児ケアに直接携わる医師、助産師、看護師、看護助手のほかに、栄養士や検査技師、病院の警備員、そして患者の搬送を担う赤十字の職員を対象に研修が繰り返されました。それまで病院の産科病棟では医療者中心の環境であったのが、研修による医療者や関係者の意識改革が進んだことにより、「妊産婦中心のケア」という新たなスタンダードが出来上がり、その新たなスタンダードはMonseñor病院からプンタレナス州全域の病院に広げられていきました。なかでも興味深いのは、妊産婦ケアの対象となる女性やコミュニティの人々を巻き込んで行われたエンパワーメントの取り組みです。当事者が尊厳あるケアを受けられる権利を知るためのヘルスプロモーションであり、また妊婦教室では女性が出産に向けて自ら主体的に考えられるよう心理面におけるサポートも行われるようになりました。そのひとつとして浸透したのがバースプラン(出産時にしたいことや、してもらいたいケアなどについて希望をまとめておき医療者に伝えること)です。
現在のコスタリカ保健省母子保健課の技官であるMartha Alejandra Romero Poveda医師に、この国の出産のヒューマニゼーションについて現状を伺ったところ、実際は未だ毎週のように尊厳を欠いた妊産婦に対するケアの訴えが新聞記事になっているとか。しかしながら、彼女自身が2019年に首都の国立病院で出産した際の経験は悪くなかったと思う、ということでした。そのとき、妊産婦に対してどのようなケアが行われるのかある意味調査をするためにも自分が医師であることは伏せて出産する病院に到着。妊娠期も陣痛が始まってからも問題なかったのが、モニター上で急に赤ちゃんが苦しんでいるサインが見られたために緊急帝王切開で無事に出産。帝王切開の必要性は十分理解していたことから受け入れてはいたものの、赤ちゃんが産まれてからさっと顔だけ見せられた直後、身体計測などのためにすぐに遠くに連れていかれてしまったのは、やはりなんだか寂しかったということを思い出し、心の中では帝王切開後であっても産まれたばかりの子どもと触れ合う時間が欲しかった、すぐに抱っこしたかったと思っていた、と言います。
日本でも「カンガルーケア」として知られている出産後の早期母子接触は、母子の体調が安定していることを確認したら、帝王切開の直後でも医療者のサポートを受けて実施することができます。また、そのメリットは母子の愛着形成だけでなく赤ちゃんの心身の発達や、母乳育児に対するポジティブな影響なども研究を通して報告されています。
もしあのとき早期母子接触ができていたら、彼女の出産経験の印象は今とどのように変わっていたでしょうか。そう考えると、医療者からしたらほんの小さく捉えられることが、当事者からしたら出産経験の印象に大きな違いを残す可能性のある“ケア”であり、そういった妊産婦側の気持ちに寄り添うことこそが「出産のヒューマニゼーション」なのだと感じます。だからこそ、妊娠・出産をサポートする医療者は母子の安全を守るべく医学や助産の正しい知識と技術、そして経験に加えて、まさにコスタリカで2015年からこれまで実施されてきた研修で重点が置かれているように、“感性”を育むことが求められるのです。これについてはWHOの出産ケアのガイドラインでも触れられており、質の高いケアというのは対象者の生命の安全を守る医療の側面と、気持ちに寄り添うエモーショナルケアの両面が揃っていなければならないと、記載されています。
コスタリカでは、妊娠・出産の過程で流産や死産を経験した女性に対しても手厚いケアを行っています。赤ちゃんを失った女性には、病院内で赤ちゃんの声が聞こえない特別な環境の部屋が準備され、亡くなった赤ちゃんと家族で過ごす時間を十分確保し、心身ともに専門家による十分なケアが行われるような体制が整えられています。また、Monseñor病院では退院後のフォローとして、家族単位のピアグループの集会を実施しており、お互いの経験を語り合うことで深い悲しみを経験した当事者同士が支え合う、という取り組みも行っています。その背景にはそっと見守る姿勢で赤ちゃんの思い出を共有する医師と看護師がおり、女性や家族が無理をせずに時間をかけて現実を受け止められるようになるまでサポートを行っています。このような退院後のフォローについては、対象の女性や家族によって必要な期間やニーズが異なることから、一人一人に合った細やかな対応が実践されています。
2022年、コスタリカでは産科ケアにおいて妊産婦とその家族の人権を保障する目的の法律が制定されました。妊娠期・分娩期・産褥期のいずれにおいてもケアの中心が女性となるように医療者によるわかりやすい説明が義務付けられ、その説明をもとに女性自身が納得いく自己決定ができるようにすること、侵襲を伴う過剰な医療介入は避けるべきこと、出産を女性の希望に沿った形で実現するためのバースプランの立案とその実施をサポートすること、いずれのケアにおいても付き添う人を女性の希望通りにすることやプライバシーの確保について明記されています。それに加えて、流産や死産を経験した女性に対する心理的なサポートについても医療機関が担うべき役割が説明されています。このようにコスタリカでは、国内すべての病院で質の高い産科ケアが提供されるよう「出産のヒューマニゼーション」が、法律で明確に定められているのです。
Monseñor病院のCarla Verónica Gríos Dávila医師は、「妊産婦中心のケアを実践することは、決して医療者がケアを提供するという一方方向ではなく、逆に私たちが妊産婦から学ぶことも多いということに気づきました。」と、言います。尊厳のあるケアを実践することで医療者側に還ってくる対象者からの信頼という形のフィードバックは、医療者にとって大きな自信につながり、さらに質の高いケアの実践を目指すモチベーションとなります。「出産のヒューマニゼーション」をテーマとしたJICAプロジェクトでも同じような効果があったと報告されていることからも、この取り組みは医療者にとってもポジティブな影響をもたらすということが言えるでしょう。
コスタリカには先住民族が居住する地域が3つあります。Maleku民族のRegión Huetar Norte、複数の民族が居住するHuetar Atlántica、そしてCabecar民族のRegión Central Esteです。このうち、Región Huetar NorteとRegión Central Esteに住む先住民らは医師のいる一次医療施設にアクセスできるものの、Huetar Atlánticaの先住民らは山の中に住んでいる上に公共交通機関もほとんどないことから、医療施設へのアクセスがほとんどできないような状況です。そのため、妊娠や出産のケアは主にParteraやMatronaと呼ばれる伝統的産婆が行っています。そのような状況の下、昨年Huetar Atlánticaで1人の妊婦が亡くなりました。急激に具合が悪くなったことから家族とともに馬に乗って1日半移動し、その後ヘリコプターで大きな病院に搬送されたものの助けることはできなかったと言います。
実は、コスタリカには医療施設から遠くに住む女性のために、病院の近くに、出産を控えた妊産婦が宿泊できる施設があります。もちろん先住民らの住む地域にもあるのですが、文化的な背景や環境が合わない、家族と離れたくないなどの理由から、いくら地方に住んでいようが利用しない女性も多くいるということです。コスタリカでは先住民の文化が尊重されているからこそ彼らの決定に対して深く踏み込まないわけですが、しかしその一方で母子の生命がおざなりになってはなりません。文化の尊重をしつつ母子を安全に守ること。それはこの国の課題のように感じました。
今回はコスタリカにおける「出産のヒューマニゼーション」について、2022年に実施したJICAとSICAの地域セミナーに参加してくださったMonseñor病院のCarla Verónica Gríos Dávila医師と、保健省母子保健課のMartha Alejandra Romero Poveda医師に現状をご説明いただきました。お二人からは医療現場の視点と保健システムの側面、それにご自身の経験も合わせてこの国の「出産のヒューマニゼーション」について、その始まりから現在に至るまでを非常に丁寧に教えていただきました。今では法律も整備され、医療者への研修も回数を重ねたことで彼らの意識改革も進んでいることから、コスタリカにおける「出産のヒューマニゼーション」は国内でも浸透していることが感じ取れるわけですが、そこに至るまでには医療者自身による反対など道のりは平坦ではなかったと言います。しかしながら、妊産婦が中心となるケアを実践するというぶれない視点をもったリーダーと、日々努力を惜しまず全力でケアを行ってきた現場の医療者らにより、産科ケアの質は著しく向上し、その結果は妊産婦や家族からのポジティブな反応としてフィードバックされています。Monseñor病院のCarla医師は、「病院でケアを受けた妊産婦さんが、家に帰ってから思い出すことは何だと思いますか。きれいな病院でウキウキした?最新の医療機材を使った検査が嬉しかった?そんなことじゃありません。最も印象に残ることは、自分自身がどのように丁寧にケアをされたか、ということなのです。」と力強く語り、彼女の「出産のヒューマニゼーション」に対する熱い想いが伝わってきました。
今回、お忙しいなかインタビューに応じていただいたMonseñor病院のCarla Verónica Gríos Dávila医師と、保健省母子保健課のMartha Alejandra Romero Poveda医師にはこの場をお借りして感謝申し上げます。
帝王切開の出産後に肌を寄せ合う母子。