執筆者:田所清克(京都外国語大学名誉教授)
1930年代のブラジルの近代主義運動および地方主義運動において、光芒を放ったのは紅一点の存在のRachel de Queiroz であろう。
ジャーナリストとしてDiário de Notícias, O Jornal, Última Hora, Jornal de Comércio, O Estado de S. Pauloなどのお馴染みの新聞や、雑誌O Cruzeiroに健筆を振るいながら、他方において、短編も含めた小説、随想、戯曲、回想記、児童文学など2000あまりの作品をものにしている。
私は知らないが、死後に刊行された未発表の詩集もあるらしい。70年あまりの職業としての文筆活動は、文字どおり二足の草鞋を履いての、瞠目すべきものであった。
『イラセマ』に関心があったことから、北東部の自然やそこに生きる人々についてもおのずと触手を伸ばしていた大学院生時代。当時既に、Rachel de Queiroz の最高傑作O Quinze があることは存じていたが、読んではいなかった。
ブラジルに留学して二年目、幸い「ロンドン計画」の一員として奥地の中部地域に位置するQuixadáが活動の拠点となった。
まさしくそこがO Quinze の作品の舞台であることを知り、深い感動を覚えたのは言うまでもない。そして、実際に作品と照らし合わせながら、奥地の自然景観の有り様を観察したことが、記憶として鮮明に刻まれている。
北東部、中でも奥地の半乾燥地帯の社会や住民の実態を認識するのには、新写実主義(Neorealismo)の視座から描写したRaquel de Queiroz の手になるO Quinze やGraciliano Ramosの最高傑作VidasSecas[「干からびた生活」]を読むことも手助けになる。
次回は、O Quinze の梗概を中心に記述したい。
O Quinzeは作家の処女作にして最高傑作。『15』という作品名は実は、1915年に襲った大旱魃からきている。幼年時代に経験したそれが主題になっており、政府からも見放された北東部住民の飢餓や貧困の問題が通奏低音になっており、ある意味では、社会批判の書とも見なされる。
作者が二十歳になる以前に書かれたというから驚きだ。1930年に刊行されている。
1)作品の主たる舞台
Quixadá と州都Fortaleza
2)筋書き
地域の事情と現実に通暁(onisciente)している語り手[作者]の、シンプルにして簡潔な口語体の言語によつて三人称で語られ、しかも、直接話法を駆使して登場人物の心理分析がなされている。
筋書き(plano)は二つ、すなわちその一つは、土地所有者の息子Vicente と、従兄妹で22歳になる教師をしているConceição との間の、恋愛関係の危うさが次第に表面化してゆくものを物語ったもの。もう一つは、旱魃のためにDona Maroca農園での職を失い、Quinxadá を離れ、Fortaleza へ糧を求めて徒歩で逃避行する、牧童Chico Bento一家の飢えと貧困による苦悩が綴られたもの。
これまでにもこのFacebookを通じて、バイアンの王Luiz Gonzaga について紹介している。雨の多いこれからの梅雨の時期を想うと、灼熱の太陽が容赦なく照りつけるあのブラジル北東部の、半乾燥のカアチンガ地帯が恋しくて仕方がない。
抑え難いありし日にそこで過ごした想い出を反芻しながら、Literatura de Cordel でもCícero神父、匪賊のLampiãoと並んで取り上げられる、バイアンの王Luiz Gonzagaについて論じた写真添付の文献を読んでいる。と同時に、大好きなことから試訳もしている彼の代表作Asa Branca に耳を傾けている。
Vida e Morte de Luiz Gonzaga
ルイース•ゴンザーガの生と死
Gonzaga representava
Todo o sertão brasileiro
Com sua voz e seu ritmo
Seu jeito de cangaceiro
Cantou tudo do sertão
Também mostrou no baião
O apoio do vaqueiro
ゴンザーガは
ブラジルのセルトン中の代表者
彼の声とリズム
カンガセイロの身振りで
セルトンの全てを唄い
バイアンでは
牧童の牛追いの歌も見せにけり
※Baião =北東部のわかりやすい単純なリズムの民謡
Asa Branca はVozes da Secaと並び、北東部の旱魃を主題にしたものである。特に前者は、バイアン王の大成功作で、今では、” 国歌的な存在” の北東部を表徴するものとみなされている。
それかあらぬか、多くのアーチスト、例えばCaetano Veloso, Geraldo Vandré, Quinteto Violado, Gurre-Peixe , Altamiro Veloso, Inédita
Barrosoばかりか、ギリシャの歌手Demissão Roussosなどの異なるスタイルの音楽家にも歌い続けられている。
後者のVozes da Secaは、北東部が旱魃で甚大な被害を受けた1953年に作曲されたものである。政府がこの旱魃に何の手をうたないことに対する無能ぶりへの、抗議の歌とも解され、その先駆をなすものとみなされている。
Luiz Gonzaga については、ラテンアメリカ協会のコラムの中で、「ブラジル雑感: 北東部を語る」においても述べていますので、ご覧になってください。
私は根っからの酒好きである。ですから、喜寿を迎えても飲まない日ないくらい、それもが鯨飲のごとく浴びていた。その悪癖にも似た習性は、大学を退職するまで絶つことはなかった。私と共に酒席をもった学生さんなら、そのことをご存じだろう。
が、数年前から体調を患ってからは、酒量もずいぶん減った。健康を考えてあまり飲まなくなったと言うのが正確かもしれない。
ところで、ブラジルを訪ねる喜びは巡検で各地を回る以外に、多くの国民が愛飲するcachaçaを飲むことにあった。カイピリーニャ(caipirinha)と呼ばれるその酒に氷と砂糖とレモンを加えたものより、多くの場合私は、いつもストレートにしていた。
cachaça を口にしてからは病みつきになり、ほとんど病気の自分があった。自らの名誉のために言うが、それはアル中になったわけではない。
cachaça は砂糖栽培地域ならどこでも製造されている。が、上質のものとなれば、特定の地域に限られている。例えばミーナス産のように。
フィールドリサーチで各地を訪ねては、地元の人に品質の良いものを教えてもらい、よく吟味したものであった。
現在、セアラー州について論じているが、この州にもYpioca と言う名酒がある。この酒はまさしく、その名を冠するMaranguape の農園で造られている。
Fortaleza からほぼ30kmに位置するMaranguape うとの山地の麓の、Ypioca 農園。そこに1846年にcasa grande が建てられ、もう同年にははやcachaça の製造が始まったと言われる。
Museuには、各種の製造機械類、cachaçaに関する文献や古いフイルムなどが収められている。特筆すべきは、世界最大の樽[374千リットル]があることかもしれない。入り口には最初のサトウキビ圧搾の模型が置かれている。また、別の部屋では、圧搾の様子が蝋人形で展示してある。見学の最後にはバルにて、cachaçaとサトウキビを絞った汁を試飲できる。
※上戸であったことからか、国立民族博物館との共同研究のかたちで、世界の酒について調べたことがある。その成果は、味の素食の文化センター発行の食文化誌「Vesta」に公にしている。関心をお持ちの方はご覧ください。
ペルーとボリビア国境にあるチチカカ湖には、「トトラ」というカヌーがあるが、ジヤンガーダは似ていなくもない。
がしかし、操り自在な三角状のマストのある、木を組み合わせたジヤンガーダは北東部の風物を飾る典型かもしれない。
バイーアからセアラーかけての海浜の風景を特色づけるのは、海風にそよぐ椰子樹とジヤンガーダであろう。ことに後者のジヤンガーダが、はるか沖合の緑なす潮路を点々と帆をなびかせつつ走っている様には、つい見とれてしまう。
椰子の葉しげる白砂の海浜と、緑の海に浮かぶジヤンガーダを目にすると、私はIracema の作品の冒頭部分の描写をすぐさま想起してしまう。そして、
へぼ詩人ながら、その絵画的光景を詩(うた)にしたくもなる。それほどまでに、北東部の自然風光はこよなく美しい!
Rio Grande do Sul の牧童であるガウーシヨ(gaúcho)にとって馬が生活に欠かせないものであるとするなら、ジヤンガデイロ(jangadeiro =筏師)にはジヤンガーダは生命ごとき存在である。
A atmosfera poética do Nordeste: as jangadas no alto mar de cor verdejante junto com as areias na praia e as palmeiras
que farfalham pelo vento. Um parágrafo de um verso de Dorival Caymmi foi inspirado pela jangada.” Mina jangada vai sair
pro mar “.
ドリヴアル•カイミの詩の一節はジヤンガーダに想を得ている。
” 俺のジヤンガーダは海に出るよ ”
はるか沖合に胡蝶のように帆を掲げたジヤンガーダを私は、Fortaleza のリゾートのBeira-Mar の投宿するホテルから幾度ながめたであろうか。何度みてもその光景は美しいし、絵画的である。
その大きさは通常、横幅が1,4-1,7m、長さが4-7mの小型のパケテ(paqute)と呼ばれるもの以外にも、大型のものもあるそうだ。伝統的なジヤンガーダはいっさい釘などの金属類は使わず、木を組み合わせるための筏状のものは全て特殊なつるで結ばれるている。
ジヤンガーダの用材としては、海水にあって堅牢で軽く、腐りにくいばかりか、日に晒せても割れ目を生じないことが重んじられる。この条件をクリアしたものが、アマゾン湿地に植生するピウーバ(piúba)と言われる。
既述のように、ジヤンガーダは過去において黒人奴隷の密輸送にも使われていた。と言うのが、そうした秘密裏の大型船のブラジル海域への入港を認めなかったがために、小型の舟を使用したことによる。しかしながら現在では、北東部の沿岸部に住んでいる人たちの、ひたすら生活を支える漁撈と、Mucuripe港でとくにみられるように、娯楽のためのジヤンガーダ競争に使われるのみである。
ジヤンガーダの舟名はよくみると、聖女の場合が多い。舟主が附されることも少なくないようだ。
基本的に5本の丸太からなる帆掛け舟のジヤンガーダ。もっとも太い2本それはbordoと、中央のはmeio、両端のはmimburaと呼ばれる。ついでながら、帆柱(mastro)はboréと言う。
ジヤンガーダの乗組員(jangadeiro)は小型の場合、通常3~4人である。彼らの普段の海上生活を彷彿とさせる、日焼けして赤銅色をおびた顔といかにも筋骨たくましい体格をしている。
言うまでもなく、ジヤンガデイロのなかで船頭(mestre)の言は絶対であって、舳先(proeiro)の見張り役など他の乗組員は、船頭の指示によって従って行動する。
それにしても、操舵手としての船頭の役割は美
事と言うしかない。長年の経験で、潮流や風の向きを見て、帆を操る技術に長けているからである。
危険を冒して漁撈するジヤンガデイロたちの冒険魂は、沿岸に住む人たちの象徴となつている。そうした彼らであっても、暴風雨が到来して穏やかな海が一変すると、舟出することはできない。逆巻き咆哮する怒涛の海が静まり返るのを、海辺近くの茅屋でひたすら待ち望むのである。
喜怒哀楽(sentimentos de alegria, ira, tristeza, prazer)の感情を吐露した、ジヤンガデイロとその家族の心境を歌にした俗謡(canção
folclórica)がある。これを紹介しつつ、jangada について記述を終えたい。
ああ、やっと嵐が止んだ
一隻、二隻、三隻
テレジーニヤ、カリニヨーザ、サンタ•マリアが
戻ってきた
そして夜の帳がおりた
でも、テレコの姿がない
といっても、ジヤンガデイロは強い
きっと戻って来るはずだ
おーい、おーい