執筆者:深沢正雪(ブラジル日報編集長)
この記事は、ブラジル日報紙7月2日付けの「記者コラム」を同紙の許可を得て転載させていただいたものです。
フィナーレの後、舞台のそでにいた藤瀬圭子さん
6月23日(日)午後6時過ぎ、ブラジル日本文化福祉協会大講堂の舞台のそでで、ひときわ目を引く衣装を着て、人知れず泣いている女性がいた。藤瀬圭子さん(81歳、2世、サンパウロ州マリリア出身)だ。第57回コロニア芸能祭の華やかなフィナーレの直後、大道具や音響設備の撤収が進んでいた時だった。
つい近づいて「どうして泣いているんですか?」と恐る恐る尋ねると、藤瀬さんは「花柳金龍さん、藤間芳之丞さん、京藤間流初代勘輝さん、丹下セツ子さん、京野マリさん、みんな亡くなっちゃって…、私と同世代の皆さんが――私はあの時代の人間なんです。そう思ったらなんだか感極まっちゃって、泣けちゃったの」としみじみ語った。
聞けば、今回第57回を迎えた芸能祭の、第1回から全ての司会を担当してきたというので驚いた。「1回も休んでいないんです」とも。しかもパンデミックで2年間やらなかったので、実際には今年59年目だ。芸事に厳しい師匠の皆さんとの交流には、思い出深いものがたくさんあるだろうと推測した。
第1回の時はまだ14歳だったという。「文協の芸能委員だった田中義数さん(シネニテロイ社長)に『圭子ちゃん、司会をやってみないか』と誘われて、何もわからないまま恐る恐る始めました」と振り返る。
中学進学のためにサンパウロ市に来たばかりで、ラジオ・クルトゥーラの日本語放送で子供向け番組のアナウンサーを始めており、それが目に留まって声がかかった。そのラジオ局で一緒に仕事をしていたべテラン・アナウンサー菊地啓(ひろし)さんと一緒に第1回の司会を務めた。「菊地さんとは第10回ぐらいまでご一緒させてもらいました」と懐かしそうに思い出す。
かつては〝コロニア芸能の殿堂〟文協大講堂の舞台に立ちたいと、南麻州やパラナ州などブラジル全土から芸能団体が駆けつけ、金、土、日の3日間ぶっ続けで行われた。毎回のように日本から特別出演があり、「定番ネタ」としては文協・援協・県連の御三家会長と時の総領事が「白波五人男」を演じ、観客席からやんや喝采を受けた。
これは、江戸時代の歌舞伎を題材とした大衆演劇で、大立ち回りと啖呵口上が見どころ。盗賊団である白浪五人男と、名奉行青砥藤綱の攻防を描き、白浪五人男の名乗りのシーンが見せ場で、特に「知らざあ言って聞かせやしょう」で始まる弁天小僧菊之助の啖呵は有名だ。
華やかなフィナーレの最終演目の様子
藤瀬さんにかつて3日間もあった芸能祭の時代のエピソードを聞くと、「出演するのを楽しみに練習を重ねている人がブラジル全土にたくさんいて、特に最終日は演目が詰め込まれ、夜中の2時までやり続けたことがありました。私は途中で疲れちゃって『もう帰る』って言ったら、カーザ水本の水下毅(つよし、元リベルダーデ商工会長)さんから『きちんと最後まで務めなさい』と怒られました」と笑う。深夜2時に閉幕して、それから舞台撤収をすると、文協を後にするころには夜が明けている、そんな時代でした」と腰を抜かすようなエピソードを語る。
今のように気軽に日本のテレビ番組が見られる時代ではなく、大好きな日本の芸能を見られる年に一度の機会だったから、出演する側だけでなく、見る側にも熱気がこもっていて最後まで見る人が多かった。娯楽と言えば、自分たちがやるコロニア芸能が最高のものだった。だから同胞社会においては芸能活動には熱が入っていた。
「私は踊りはやらないけど、芳之丞師匠には、舞台の上での手の所作、マイクの持ち方など厳しく指導されました。私は当時何も知らなかったので、本当に怖かったです。日本舞踊のお師匠さんたちは、とにかく本番前のリハーサルまでは徹底的に生徒に厳しく当たるのですが、当日失敗してもけっして怒りませんでした。なにか粗相があっても本番の後では『良かったよ。お疲れさん』と優しく声をかけるんです」とのこと。
藤瀬さんは「藤間流の最後のフィナーレ見てくれた? あれは何カ月も前から鍛錬してきたものなの。毎週練習を見に行っていたから良く知っているわ。皆さん本当にがんばったの。藤間さんは厳しいから、これだけの舞台をやってくれたの。こんなに立派なフィナーレにしてくれるなんて、思わなかった。きっと天国で芳之丞も喜んでいるわ」と少し視線を宙に浮かせた。
「芳之丞が亡くなってこの8月で10年になるんです。今回の芸能祭はその追悼の気持ちでやりました」と振り返りつつ、「なんとか60回まではやりたいわ」と表情を引き締めた。
楠本実行委員長から花束を受け取った藤間芳誠さんとその後ろの藤間芳琴さん
見事な一本歯下駄さばきを披露する二人のブラジル人青年
今回のフィナーレ「大江戸舞の吹き寄せ」は、江戸時代の歌舞伎古典舞踊から長唄、歌謡舞踊など現代の踊りに至るまで9種類の舞がメドレーで披露される豪華なものだった。例えばブラジル人青年の二人が一本歯下駄でピョンピョンと舞いながら、カチカチとタップダンスのように音をさせながら踊る伝統の技も披露され、明らかに趣味のレベルとは一線を画した〝芸〟を感じさせた。
藤間芳琴(よしこと)さんと共に指導に当たる藤間芳誠(よしせい)さん(88歳、大分県出身)に、今回のフィナーレについて尋ねると、「藤間勘右衛門(ふじま
かんえもん)からいただいた名前に恥じない踊りをお見せるために、厳しく練習を重ねてきました」と述べ、真っ先に藤間流宗家家元の名を挙げた。
左が鈴木マサ子さん
生徒はサンパウロ州地方部やパラナ州にも50人ほどおり、「日本で教わった舞踊の常識を、日本の本式をそのまま見せることを信条にしている」とのこだわりを語った。
来場者の声を聴くと、鈴木マサ子さん(80歳、宮崎県出身)は「毎年来ています。2日間とも朝から最後まで見ている。私が一番感動したのは、43番の剣舞『月夜荒城の曲を聴く』でした。素晴らしすぎて口で表現できません。もちろん、藤間のフィナーレも素晴らしかった。皆さんにお疲れさまと言いたい」とほほ笑んだ。
第32回から手伝っているという芸能祭実行委員長の楠本留巳さんにどうしてボランティアを長年続けているのかと尋ねると、「終わった後の達成感がハンパじゃないんですね。翌年6月の芸能祭のために前年9月から準備を始めるんです。資金集めやポスター用の写真選びから始まり、舞台スケジュールを組むのは気を遣うことがたくさん。途中ではいつも『来年は誰かにバトンタッチ』と思うんですけど、結局はやっちゃうんですね。芸能イベントには藤瀬さんは欠かせない。藤瀬さんと二人三脚で、できるところまでやります」と充実した表情で述べた。
たまたまスケジュールが合ったことから今回の芸能祭に出演した、人力世界一周中に岩崎圭一さん(51歳、群馬県出身)にも感想を求めると、「23年前に日本を出発して70カ国以上、世界を回ってきましたが、こんなにたくさんの日本人や日系人の前でショーをさせてもらったのはブラジルが初めて。ヨーロッパにもたくさん日本人はいましたが、ここのようなコミュニティはありませんでした。ここのコミュニティは本当に大きいし、2世、3世などが一緒になっている」と驚いた様子。
「芸能祭の他の演目とか見学させてもらいましたが、沖縄のエイサーとかヨサコイソーランとか、日本舞踊、和太鼓など、こんなに日本の文化芸能が引き継がれていることに感動しました。そして若い人がたくさん舞台に立っていて活気を感じました。こんなに活発にやっていることを、もっと日本の日本人に知ってもらいたいですね」と感心していた。
ちなみに藤瀬さんは、日本移民70周年、80周年、90周年でも場内アナウンスなどを担当した。式典自体には、ブラジル政府代表が出席する関係で公式司会者が付いたが、場内の日本語での仕切りを担当した。中でも思い出深かったのは、日系社会最大の式典といわれたパカエンブーサッカー場で開催された70周年だったという。
「当日は7万人、8万人が観客席に入ったんじゃないかと思います。式典自体は10時からなのに、地方から駆け付ける人などが朝5時から続々と駆け付けるんです。それを受け入れて会場の連絡事項を両語でアナウンスし、何時間も待っている間に飽きないように、日本からの民謡使節団に披露してもらうなど一人で切り盛りしたんです。大変だったけど、やりがいがありました」と日系社会の大きな節目を支えてきた内幕を述べた。
1967年5月には現在の上皇上皇后両陛下(当時、皇太子同妃両殿下)が初めてブラジルに足を踏み入れられた。
2度目は1978年6月に移民70周年で再訪された。その記念事業として日本移民史料館が、ガイゼル大統領と両陛下ご臨席のもと盛大に落成した。パカエンブー競技場を埋め尽くして挙行された移民70周年記念式典には、ガイゼル大統領も出席して過去最大級の記念イベントとなった。この時に、藤瀬さんが場内アナウンスを担当したわけだ。両陛下と大統領が出席する記念イベントだけに、その責任は重かった。
パカエンブーサッカー場で開催された日本移民70周年(『文協50年史』より)
両陛下は1997年5~6月に、天皇皇后両陛下として日伯友好100周年を記念してごブラジル訪問された。現上皇上皇后両陛下が3度もご来伯されたことは、比類のない日系社会の誇りといえる。
来年、日伯外交樹立130周年では、西森ルイス伯日議員連盟会長は、「もちろん、皇室のどなたが来られても同様に大歓迎する」と前置きした上で、天皇皇后両陛下に招待状をお渡ししていると明かしている。特に皇后陛下はまだ当地に足を踏み入れられたことがなく、「ぜひご夫妻で」との期待の声が日系社会からは出ている。
もしもそれが実現した暁には、ぜひ藤瀬さんにもう一肌脱いでもらいたいものだ。綺羅星のごとく輝いていたコロニア芸能界の〝スター〟や〝鬼〟が冥土の旅に出た今だからこそ、その時代の生き証人、語り部としての藤瀬さんの役割は重要だ。(深)