執筆者:田所清克(京都外国語大学名誉教授)
北はRio Grande do Norte 州と、南はPernambuco 州と、さらに西はCeará 州と接するParaíba 州。
次回説明するが、州都João Pessoa が人名であることは珍しい。この州についてあまりよく知らないが、私の研究面では看過し得ない、1930年代の重要な地方主義小説家José Lins do Legoの生誕の地である。
しかも、<サトウキビ叢書>(ciclo de cana de açúcar)の劈頭を飾る彼の代表作『砂糖園の子』を訳しているので、この州への思い入れも深いものがある。
州の面積は56.584平方キロメートルで、大西洋に面する海岸は147km。支配的な植生(vegetação)はカアチンガで、起伏は3mから州でもっとも高いCabedeloの1.197mといった具合に、高低差にばらつきがみられる。
南米で最初に日の出が見られるのは、州都からもあまり離れていないPonta do Sexasらしい。ブラジルの最東部に位置しているからであろう。
植民地時代にParaíba は、Pernambuco と名を変えたItamaracá のカピタニアの一部であったことから、サトウキビ栽培は重要な州の経済活動であり続けている。石灰岩の生産はそれに続く。
Paraíba なる州名は、”航行が難しい”という意味のインディオに由来する。当初は航行が困難なパライーバ川を名指して使われたようであるが、後には州名にまで及んだ。
ブラジルの州都の中で人名が付いているのが、不思議でならなかった。そこで調べてみると、それは当時、後の州都となる”Cidade da Parahyba “後の州知事João Pessoa Cavalcanti de Albuquerque [1878-1930]の名前からとられている。
Epitácio Pessoa ブラジル大統領の甥で、将来副大統領の可能性も秘めていたが、1930年9月4日、レシーフエにて敵対勢力によって暗殺されている。
この都は歴史的な家並みがよく保存されており、加えて、公園や大西洋林の保全がよくなされている。その点、街全体に森が多く、アメリカ大陸のなかでもっとも樹木の多い都市として国連にみなされている。それかあらぬか、環境保全に向けての市の取り組みも積極的で、州法による規制も厳しい。
16世紀以来、肥沃な土壌のお陰で、この地はサトウキビ栽培にとっては理想的とみなされていた。
北東部の最北に位置するマラニョン州は、333.365平方キロの面積を有し、北東部地域では二番目に大きい。
この州の文化は実に多様である。それもそのはず、先住民インディオ、アフリカ、ヨーロッパ起源の儀礼や舞踊などを内に蔵しているからだ。
例えば、ヨーロッパ起源の文化的伝統を肌でもって感じるのは、ポルトガル人以外に、かつて一時的ながらフランス人が「赤道フランス」(França Equinocial)建設を夢見て、またオランダ人も占拠•支配していた事実があるからである。
他方、サン•ルイースにはトウピナンバー族(tupinambá)が居住していたこともその一因であろう。アフリカ的な要素も、1755年に始まった私企業による奴隷を用いた綿花サイクルの盛況のなかで、加味されるに至る。
植民地ブラジルはある時期、独立した行政の国家とポルトガル王室に直接結び付いた国家の二つに分割されていた。すなわちEstado do Brasil と、現在のCeará、Piauí、Maranhão、Pará、Amazonas州の領土を含む、Estado do Grão Pará e Maranhão がそれである。
ちなみにこうした分割は、植民地の北部地域の発展を狙ってのことだったようだ。
奴隷制度が廃止された19世紀の末期のマラニョン州の経済は凋落の一途をたどった。それというのも、綿花栽培がひとえに黒人奴隷の労働力に頼っていたからである。
この景気後退(recessão)は20世紀の第一半期まで州の全域に多大な影響を及ぼし、1960年代まで尾を引いた。
現在の州の経済は、世界最大の埋蔵量を誇るカラジヤスから鉄道で運ばれ、Vale do Rio Doce会社を介してPorto de Itaquiから輸出される鉄鉱石やアルミニウムがベースになっている。
木材産業、州木にもなっているババス椰子(babaçu)の採集、大豆、米、トウモロコシ、マンデイオカの栽培も主要な産業と言ってよい。
私のようなブラジル文学をかじるものにとってマラニョン州のSão Luís は、黙過しえない。何故ならここは、優れた詩人や小説家を輩出し、「ブラジルのアテネ」(Atenas Brasileira)とも呼ばれているからだ。
南のバイーア州と北のアラゴーアス州とにはさまれた、北東部地域ではもっとも小さなのがセルジッペ州[22.050平方キロメートル]である。
州名はがトウピ語で”ワタリガニの川”(Rio dos siris)に由来しているように、30kmに拡がる州都AracajuのAtalaiaの海岸には、そこかしこに地域のシンボルになっているカニ料理店が軒を構えている。ちなみに、セルジッペ州のもっとも伝統的な郷土料理としてカニがみなされるのも、地域にマングローブ林が多いことに要因があるようだ。
歴史的にセルジッペ州を通観すると、São Cristóvãoが旧州都であったのであるが、とくにVale do Cotinguiba で生産される砂糖製品を国内外に搬出する条件が整っていないこともあって、後にAracaju [1855年]にその地位を譲ることになった。
この州においても、フランス人とオランダ人の存在が記録されている。前者はブラジル発見直後、pau-brasil 採集のために、後者のネーデルランド人は、1637年~1645年の間、São Cristóvão を支配•占拠していた。
ブラジルでは創建された4番目であったこともあって、17および18世紀の建造物がSão Cristóvão には垣間見られる。
サトウキビ栽培が発達したことから、今や他の北東部では忘れられている存在の文化的なものが残存している、と言われている。
州の北部にはAlagoas 州と境をなすように、重要な河川であるFrancisco 川が滔々と流れ、大西洋に注ぐ。
セルジッペ州が4番目に大きい産油州であるとは、意外である。maracujá[パッションフルーツ] を筆頭に、オレンジや椰子の実を多く産出する州であることも知っておきたい。
前回記したようにAracaju は1855年、州都になった。São Cristóvão に較べると、大西洋に面しセルジッペの川岸に位置していることから、内奥部で産出される砂糖製品を内外に積み出す意味において、戦略的にも叶っていたからである。
この州都を初めて訪ねた者にとっても、大通りがチェス盤状になっていて、場所の特定が分り易い。Aracajuから南へ指呼の距離にある、30kmに亘って伸長するAtalaia海岸。そこにはホテルはむろん、観光客には楽しみのバーやレストランが立ち並ぶ。ぜひとも地域のシンボルともなっているカニ料理店に足を運んでいただきたい。
José Lins do Regoの手になるサトウキビ叢書(ciclo de cana de açúcar)の舞台でもあり、ブラジル最大のFesta Junina 、わけてもSão João 祭りが催される本場のParaíba 州を離れて、北はCeará 州と隣接するRio Grande do Norte 州に話題を移そう。
この州と言えばやはり、ブラジル研究に携わる私などには、日本の柳田國男に当たる民俗学を主導してきた、この国を代表するCâmara Cascudoの生地であることがとっさに頭を過る。州都Natal 生まれの彼については、別のところで紙面を割く。
Rio Grande do Norte 州は最北東部に位置することもあって、ヨーロッパにもっとも近い。それ故か、第二次世界大戦の間、戦略的に重要な拠点であったらしい。
53.306平方キロメートルの面積を有するこの州は16世紀には、Paraíba 州およびCeará 州の世襲制のカピタニアの一部も包含していた。しかしながら、人口が希薄であったことから、ブラジルの木を狙ったオランダ人やフランス人の侵略のみならず、その地の先住民であるボチグアレ族(potiguarares)の抵抗にも遭った。
ポルトガル人がNatal に要塞(Forte dos Reis Magos)を1599年に建造してはじめて、そうした侵入者と抗戦し得るようになったと言われている。
Apodiには3千~1万年前の地質系統(formação geológica)の他、先史人の岩に描かれた絵などの遺跡がみられる。
この州の経済は石油採掘と塩の生産がメインである。石油は国内生産では2位、塩にいたっては国の消費量の実に95%を生産している。塩も石油な鉱床も沿岸部ではなく、内部のMossoró市界隈に集中しているのは驚きである。
観光も最近脚光を浴びるようになり、州の重要な収入源になっているようだ。
Fortaleza から530キロ、João Pessoa から180キロの位置にあるRio Grande do Norte の州都Natal 。その州都の名前は、ラテン語のnatalisに由来し、クリスマス、つまりキリストの生誕を意味する。
1599年に創建された州都になりその前年から要塞が作られ始め、フランス人の海賊などに対する防備を固めたのであるが、ポルトガル人は放擲したままであった。
そのために1633年から追放される1654年まで、オランダ人が侵略、支配して、Natal もニューアムステルダム(Nova Amsterdã)と一時期呼ばれていた。
当時、金持ち階級は現在の街の中心部の高台に、対する下層階級は沿岸部の港の周囲に家を構えていたようである。
海に近いRibeira地区の旧い建造物のいくつかはバーなどとして機能し、商業の中心地となっている。
空港のリホーム、沿岸部の再都市化、ホテルやレストランなどの建設によって、咋今の観光事業は目覚ましいものがある。
ブラジル研究に携わる者であれば、この国を代表する民俗学者のCâmara Cascudo を知らない者はいないであろう。
ジャーナリストでもあり作家でもあった Cascudo は、1898年の12月、Natal に生まれた。彼の民俗文化に対する情熱は並々ならぬものがあり、特に自国の食文化、舞踊、服飾、音楽、慣習などへのアフリカおよびヨーロッパの影響を理解するために、国内はもとより、海外にまで出向いたといられる。
もともと医学と法学を学んだCascudo ではあったものの、彼の著作は驚くべきで、およそ150冊を数える。
中でも、『ブラジル民俗辞典』(o Dicionário do Folclore Brasileiro)、『ブラジルの迷信、慣習および口承文芸』(Superstições é Costumes e Literatura Oral do Brasil)、『牧童と歌い手』(Vaqueiros e Cantadores)はつとに有名。私にとってその民俗辞典はいわば枕頭の書のごときものであり、常に参考書として愛用している。
1941年にCâmara Cascudo は「ブラジル民俗(学)協会」(Sociedade Brasileira de Folclore)を設立している。その彼は1986年に他界。
セアラー州とマラニョン州に挟まれたピアウイー州。州都Teresina は人名から来ており、北東部の諸州では唯一、沿岸部ではなく内陸部に位置している。
17世紀にバイーアやペルナンブーコから到来した最初の植民者たちは、Canindé川とPiauí 川の溪谷付近に最初の集落を構え、トレメンムベー(tremembé)族のごとき好戦的な先住民族と闘い、排除したのが、そもそもの州の成り立ちのようだ。
産業面でカシューナッツが一大生産州の一つとみなされているが、主要な農産物となればやはり、サトウキビとマンデイオカ、トウモロコシ、大豆だろう。
およそ270万人を抱える州には、4つの国立公園がある。そのなかでブラジル内外でも知られているのは、この後紙面を割いて取り上げることになる、São Raimundo NoratoのCapivara山地のそれで、540以上からなる遺跡、岩絵は、考古学および古生物学(paleontólogo)上からも注目されている。
研磨した石の工芸品、先史時代の[現在では消滅している]動物の化石、陶器などが見つかっていることから、1991年にはユネスコの「世界人類文化遺産」にも登録済みである。
ブラジル政府も重視する貴重な遺産であるからだろう、現地を訪ねる場合は、「ブラジル環境および再生可能な自然院」(Ibama=Instituto Brasileiro do Meio Ambiente e dos Recursos Naturais Renováveis →イバマ)の許可を取った上でガイドと同行せねばならない。
他方ピアウイー州内陸部は、mandacaruのようなサボテン科の有刺植物 に引例されるカアチンガの植物相やそこに棲息する典型的な動物相を目の当たりにできる絶好の環境でもある。
州都Teresina は計画都市としての発展を見据えた、行政機能の下に1852年に創建された。それまではTeresina よりはさらに西部の内陸部に位置するOeiras がピアウイー州の都であった。
マラニョン州との結び付きを強化するという経済的な側面から、多くの議論のあるなか、当時の州知事であったJosé Antônio Saraiva は遷都を決意したと言われている。
州都がTeresina という名前を冠しているのは、D. Pedro II世と結合した皇后Teresa Cristina Maria に対する敬意からのようだ。
人口86万8千人を擁する北東部第7の都市である。バンデイランテが創った街といわれるが、もともとはParnaíbaとPoti川沿いに形成された。
経済的な戦略の観点からTeresina がマラニョン州境に位置していることから、同州のTimon市とも関係が深く、双方はいわゆるコナベーシヨン(連接都市=conurbação)を成している。
第三次産業が主流であるが、木造の民芸品、陶器も有名である。
典型的な熱帯気候で、乾季と雨季とが截然としている。この州を象徴する木はcaneleiroということらしいが、日本には存在しないので、調べてみたが分からない。
ピアウイーの人の食生活にとつては、タピオカの粉で作ったお菓子(beiju)は欠かせないものらしい。であるから、一日たりともそれを食しない日はない、とまことしやかに言われている。
大学で研究生活を送っていた時代に私は、ポルトガル言語圏の飲酒文化を含めた食文化や料理法にも関心があったので、特にポルトガルおよびブラジルの津々浦々で調査したことがある。
しかしながら、現在言及しているピアウイー州の、食文化や食習慣などについては調べたことはなく、あまり良く知らない。
そこで、当のブラジル人に尋ねたり文献を頼りにしながら触れている次第である。
そのベイジユであるが、バイーアのタピオカと類似しているものの、違いが存在する。つまり、マンデイオカ粉をベースにしたタピオカで作られ、肉、卵、バターなどが添えられる。
さらに、典型的な郷土料理と言えば、 “マリア•イザベル “(Maria Isabel)だそうだ。この料理は、ライスと干し肉を混ぜて味付けしたものである。他に、杵で干し肉と粉を潰した、パソカ(paçoca=マンデイオカもしくはトウモロコシの粉を用いた肉料理)も有名である。
ピアウイー州の料理ではほとんど常に、(cheiro-verde)、コリアンダー (coentro)、小さい玉ねぎ(cebolinha)、ココナッツミルク(leite de coco)、匂いのある胡椒(pimenta-de-cheiro)、染色材のウルクン(urucum)などがベースになっている。
そして、こんな料理の際は、カシューから採った清涼飲料であるカジユイーナ(cajuína)やマンデイオカから造つたチキーラ(tiquira)が飲まれるとのこと。
リゾットに似たカポテ(capote)もあるようだ。その料理名は、アンゴラ鶏を去勢(capão)したものから来ており、その鶏とライスを味付けしたもの。
カピヴアラ山地(Serra da Capivara)およびコンフゾンイス山地(Serra da Confusões)の国立公園に見出だされる遺跡からSão Raimundo Norato 市は、”先史時代の首都 “とも” 先史時代の人類の揺りかご”とも呼ばれている。
首都のTeresina から西の方向の内陸部に位置する同市は、典型的な奥地住民(sertanejo)の村落社会である。
ピアウイーのシヤパーダ(chapada=台地+しくはキャニオン(土地の人たちはboqueirão と呼んでいる))に特徴的な植生や動物相が垣間見られるカアチンガ地帯で、暑熱乾燥の気候を呈している。10月から3月までが雨季で、殺風景な景観は緑に覆われ一変する。
São Raimundo Norato の経済は、カシューの生産以外は、生態観光(ecoturismo)である。それもそのはず、近くの考古学的に重要な遺跡が存在するからである。
1991年には世界文化遺産に登録されている。公園で注目すべきは、岩絵 (pinturas rupestres)だろう。これまですでに、540も確認されている。
その絵は、そこに暮らしていた住民の日常はむろん、人、類人猿(antropomórfico)、動物を描いたものである。
岩絵だけではない。先史時代の研磨した石の製品、陶器、さらには、現在はすでに消滅している、例えばアルマジロ、大型のナマケモノ、リャマなどの動物の化石が見つかっている。
これまでの一連の考古学的調査から、Niède Guidon女史は、6万年前に南米大陸のこの地に人類が住んでいた、と推測しているのである。が、その学説に異論をとなえる専門家もいないわけではない。
ちなみに、狩猟、採集、漁撈生活を生業にするこの地の先史人類は、白人の植民者によって絶滅されたそうである。
以 上