執筆者:田所清克(京都外国語大学名誉教授)
Maranhão の州都サン•ルイースは、フランス国王Luís XIII に敬意を表して、1612年に生まれた。それまでは、トウピナンバー族(tupinambá)が居住する大きな島Upaon Açuであった。
1535年、ポルトガルの国王D. João III世は海外領土を世襲制のカピタニアに分割、サン•ルイース島はマラニョンのカピタニアの一部に組み込まれていたのである。
しかしながら、その行政区の長官(capitão-mor)であったJoão de Barroも他のポルトガル人たちもそこに留まらず、ポルトガル領の証となる、例えば要塞などを築くことこともなく、ほぼ1世紀の間、前述の先住民が住みついていた。
そこにフランス人Daniel de lá Toucheが、現在の州都の中心地に巨大な木造の十字架を立てミサを執り行い、新しいフランスの領土「赤道フランス」(França Equinocial)として、国王の名にあやかってSaint Louis と命名したのである。そして、街の始まりともなるところに大きな城壁をも築いた。
フランス人を駆逐してポルトガル人がこの島を再征服したのは、3年後の1615年になってからである。それもつかの間、今度は1641年、オランダに再び占拠•支配されることとなる。
ポルトガルは1644年になってその地を奪還するに至る。が、São Luís は数世紀の間近代化されず、ほったらかしの荒廃したままであった。
1970年代になって復興計画(O Projeto Reviver)が実現の運びとなり、17および17世紀の邸宅や歴史的建造物はむろん、舗道、イルミネーションなども新たに修復されて、街は改造されよみがえった。
サン•ルイース滞在の折りに、時間をかけて歴史地区といわれる中心部の、邸宅のフアサード(fachada)の彩色タイル(azulejos)の美しさには言葉を失ったものである。
Maranhão の州都サン•ルイースは、フランス国王Luís XIII に敬意を表して、1612年に生まれた。それまでは、トウピナンバー族(tupinambá)が居住する大きな島Upaon Açuであった。
1535年、ポルトガルの国王D. João III世は海外領土を世襲制のカピタニアに分割、サン•ルイース島はマラニョンのカピタニアの一部に組み込まれていたのである。
しかしながら、その行政区の長官(capitão-mor)であったJoão de Barroも他のポルトガル人たちもそこに留まらず、ポルトガル領の証となる、例えば要塞などを築くことこともなく、ほぼ1世紀の間、前述の先住民が住みついていた。
そこにフランス人Daniel de lá Toucheが、現在の州都の中心地に巨大な木造の十字架を立てミサを執り行い、新しいフランスの領土「赤道フランス」(França Equinocial)として、国王の名にあやかってSaint Louis と命名したのである。そして、街の始まりともなるところに大きな城壁をも築いた。
フランス人を駆逐してポルトガル人がこの島を再征服したのは、3年後の1615年になってからである。それもつかの間、今度は1641年、オランダに再び占拠•支配されることとなる。
ポルトガルは1644年になってその地を奪還するに至る。が、São Luís は数世紀の間近代化されず、ほったらかしの荒廃したままであった。
1970年代になって復興計画(O Projeto Reviver)が実現の運びとなり、17および17世紀の邸宅や歴史的建造物はむろん、舗道、イルミネーションなども新たに修復されて、街は改造されよみがえった。
サン•ルイース滞在の折りに、時間をかけて歴史地区といわれる中心部の、邸宅のフアサード(fachada)の彩色タイル(azulejos)の美しさには言葉を失ったものである。
ブラジルを代表するロマン主義時代の詩人ゴンサルヴェス・ディアスの故里サン・ルイース。このマラニャン州の都は、他の北東部の諸州とは自然地理的にも、また歴史形成の上からもかなり異なる。
そこで差し当たり、市内を巡検・見物する前に、州を含めてその街の概要を押さえる意味で、持参した年鑑Almanaque Abril 2011 をひもときながら、とくに地理と歴史の部分を中心に目を通すことにした。2011年の年鑑を利用したのは、その時の旅でサンパウロに着いた直後に購入していたからである。
にわか勉強ではあるが、年鑑を介してサン・ルイースの歴史形成の有り様や社会・文化景観などがおぼろげながらも把握・理解できたのはよかった。
ペルナンブーコ州は他の地域から較べればヨーロッパ近いこともあって、植民地時代には土地の占有を巡ってフランスやオランダと争っていた。人種的にも多様で、植民者であったポルトガル人、インディオ、黒人、オランダ人等の混血社会が見られる。
気候はむろん熱帯、植生は、州の東部ヤシ林、沿岸部はマングローブ林、西部はアマゾン林、南部はセラードといった具合に、意外と多様性を呈している。しかしながら、アマゾン林が見られるのは、北東部では唯一この州のみである。
翻って、文化面で特筆すべきなのは、民衆の祭典ブンバ・メウ・ボイ(Bumba meu boi)かもしれない。これについては、最後に紹介したい。
最近観光面で注目されており、一部の人はご存知のところは、ラグーン、河川、湖沼、マングローブ林からなる、15万5千ヘクタールの拡がりを持つマラニャンのレンソイス( Lençóis)国立公園である。州の北南に位置するこのレンソイスは、環境保全地域になっている。
ホテルのレストランで新鮮な絞りたてのグラヴィオーラのジュースと、香り高い上質のコーヒーを飲み終わると、地図を片手にホテルを走り出た。
ブラジルの「アテネ」と称されるサン・ルイースはバイーア同様に、過去の歴史のなかに生きているような印象を強くする。マルコス湾のウパオンアスー島こそがまさしくサン・ルイース島であり、ここには ハンス・スターデン著「蛮界抑留記」でお馴染みの食人種トゥピナンバー族が居住していた。そこにリオのグワナバラ湾内に「南極フランス」(França Antártica)
の植民地建設を企てていたフランス人が、追放された後にリオと同じように植民地建設を夢見てマラニャンに到来したのである。
サン・ルイースなる地名は、到来して領主となったダニエル・デ・ラトウシェー( Daniel de La Touche)が要塞を築く一方で、1612年に創設したそのウパオンアスー島をルイ十三世に敬意を表して命名したことに由来する。これに異を唱える歴史家もいる。敬意の対象としたの
はルイIXであるという言説である。
ともあれ、この地に構えたフランス植民地は長くは続かず、3年後にはジェローニモ・デ・アルブケルケ司令官率いるブラジル軍によって撃退・放逐される。このように短期間のサン・ルイース占有ではあったものの、フランス人が創設した唯一の都市であったことは疑いない。 人種構成の中心はインディオと混血のカボクロである。フランス人の末裔がほとんどおらず、逆に少数ながらオランダ系ブラジル人が存在するのは、オランダが1641〜1644年の間、この地を管理下にしていたことからも説明される。このこともあって、街を歩けば、オランダ名を冠した大通りもある。
彩色陶板アズレージョ(azulejo)張りの豪華な邸宅であるソブラード、狭く曲がりくねった街路など、この都はたいそう魅力的だ。カリブからレゲエが入ったところでもある。アズレージョに関しては、ラテンアメリカ最大のコレクションを有している。文化的多様性に富み「愛の島」としても知られているこのサン・ルイースに一度は訪ねる価値はありますよ。ただ、不思議なことに番地名がないのにはいささか驚いた。
レンソイスの写真は内藤亮太氏提供
ギリシャ文明の発祥地もしくは揺りかごであるアテネ。この古代アテネは文人、哲学者などの多くの文化人、知識人が生まれ、あるいは集う場であった。
マラニョン州の都であるサン•ルイースも、ブラジルの文化史上、著名な詩人、小説家が輩出したところである。故に、古代アテネに準えて(comparar ou imitar)州都は “Atenas Brasileiras “ と呼ばれている。
ことほど左様に、ことに文学の世界で名を挙げた人たちが、São Luiz の文化風土なかで育つている。その代表的な人物といえば、詩人のGonçalves Dias[1823-1864]とJoaquim de Sousa Adrade(=Sousândrde)ともに小説家のAluísio Azevedo, Graça Aranhaたちであろう。
私はこれまで、Sousândrade を除く三人に関しては、文学研究面で大いに係わり主要な対象でもあった。その一人であるGonçalves Dias の場合は、ブラジル文学へ自身を導く契機になったといっても過言ではない。
インディオを主題とする、いわゆるインディアニスタである彼のとある詩の一節に、Viver é lutar[生きることは戦いである]という表現がある。これなどは自身の人生観に通じるものがあり、信念ともなっている。
私はGonçalves Dias の最高傑作ともいえるCanção do Exílio(流亡の曲[うた])に初めて出逢い、自国ブラジルを称えるその詩想はむろん、綴られる言葉の美しさに感銘し、さも杜甫や白楽天もしくはゲーテの珠玉の詩集でも読んでいるかのような印象を抱いたものであった。
病療養をかねたポルトガルのコインブラの地で詩人は、愛に満ちあふれヤシの木などの美しい自然に恵まれた自国を、高らかに吟う。
ちなみに、そうした自らの国を宣揚、絶賛する詩想をウフアニズモ(Ufanismo)と言う。国を高揚、誇示する一方で、詩の後半では、詩人の時世の歌ともとれる一節が、神への願いを込めながらも吐露されている。
事実、詩人は自分の生まれ育った、ヤシの木そよぐサン•ルイースを目前にして、フランス客船の難破で落命するのである。
作品と共にGonçalves Dias をこよなく愛する私は、大学の助手の頃であったが、詩人への思いが絶ちがたく、生誕の地サン•ルイースに三日間出向いたことがある。着いて初日の昼下がり、何気なしに公園を散策していると、偶然にもGonçalves Dias の銅像を発見するに至った。何という僥倖なんだろう。熱い思いが通じたのかもしれない。
事前に地図で調べておれば、Praça Gonçalves Dias [=Largo dos Remédios =Largo dos Amores]があることは分かっていたのだが。
銅像にしばし釘付けにされた後、フランス船ヴイユ•ド•ブーローニユ号で帰国寸前にして、マラニョン州のギマランエス沖の暴風雨のために老朽船が海に沈み命を落とした詩人の遺骨が眠る、海岸でかなりの時間佇み、無念にも夭逝した天稟溢れる彼について涙しながら思いに耽った次第。
祖国のふるさとにあいまみえるまでは、神よ、わ が魂を召したもうなかれ
異国の地コインブラの石畳の街で、名作Canção do Exílioはまさしく愛国心に満ちみちたもので、国民的詩人と言われる所以である。
この詩に惚れこんだ私は、NHKラジオ放送の取材を受け、学生さん詩を朗読した思い出がある。このことを当の学生さんたちは覚えておられることだろうか。
Gonçalves Dias は優れた詩人であっただけでなく、民族学者としても特筆すべきである。アマゾン河流域の調査に赴き、『トウピー語辞典』や『ブラジルにおけるイエズス会士の歴史』という二つの著書を刊行している。
私が民族学者の領域まで研究の対象を拡げたのも実は、Gonçalves Dias の影響があったのは否めないかも。
何もない阿蘇の自然のなかですが、この詩人の作品を時折読むことができるのは、何ものにも代えがたいものがあります。
詩の一節はブラジル国歌にもインスペレーシヨンを与え、その語句が採り入れられている。
※Canção de Exílioは、ゲーテの『ミニオンの歌』
[君よ知るや南の国]の影響があると観る学者もいる。
外交官の立場で文学的記録ともいうべき『日本』(O Japão)を書いた、ブラジル自然主義文学の先駆者にして中心的な小説家: アルイーズイオ•アゼヴエード
19世紀のブラジルの自然主義時代に目を投じれば、言うまでもなくその代表格はAluísio Azevedoだろう。 自然主義文学の最高作品『百軒長屋』(O Cortiço, 1890)を筆頭に、『ムラト』(O Mulato, 1881)、『下宿屋』(Casa de Pensão, 1884)といった評価の高いものを残しているからである。
ちなみに、O Mulatoは、人種偏見を告発しつつ、合わせて聖職者を批判した作品である。一方、Casa de Pensão は、下宿屋に住み込む若い学生や常民の日常を描いたもの。
フランスのÉmile Zolaの自然主義作品『居酒屋』(A Taverna)と、これまたポルトガルの自然主義作家Eça de Queirósに強い影響下で生まれたといわれるO Cotiçoは、19世紀末のリオのcortiçoなる貧民層の集合住宅の有り様を、写真で写しとるがごとくより科学的な視座[=Naturalismo]から点描したものである。それゆえに、赤裸々な現実に近い描写となっている。
リオに留学中に私は、何度かサンパウロを訪ねている。最初の訪問時に、きわめてラッキーというべきか、Liberdade 駅から指呼の距離にあった、今はない古本屋(sebo)で、邦訳されているとは知らないO Cortiçoの訳本[外波近知訳『百軒長屋』]を発見、手に入れることができたのである。
邦訳本とポルトガル語の原本を照らし合わせながら一気呵成に読んだものである。以来、リオの貧民街(estalagem)に対する興味はいっそう深まり、自身の研究の主たる対象の一つにもなった。であるから、その成果は論文になり、新聞でも紹介されもした。
ともあれ、リオの社会病理の典型たる貧困や不平等(desigualdade social)などを暴いたO Cortiçoは、文学作品といえどもブラジル問題の諸相を理解する一助となり、ドキュメンタリー性を有している。 転じて、存外知られていない著作がAluísio Azevedo にはある。彼は文筆を絶つて外交官の道に進む。そして、日本とブラジルとの間で友好通商条約が締結された1895年の2年後の1897年、横浜領事館に副領事として赴任している。日本滞在は翌年の1899年までであったが、その間に知り得た知見なりを記録のかたちで残している。徳川幕府末期や黒船来航に伴って揺れ動く日本の政治、経済状況を主に記したものである。
この記録書は刊行されず放擲されていたが、ジャパン•ファンデーションの助成で1984年、O Japão という書名で出版されるに至る。
“Atenas Brasileiras “の一翼を担うサン•ルイースの代表的な文人は他に、Graça Aranha とSousândrde が挙げられるだろう。
後者はロマン派詩人で、リオに留学していた時の指導教授で、同じく深窓の詩人であったEvelyn学部長の研究テーマであったが、私はあまり知らない。
Graça Aranha は、ブラジル文学のみならず、この国の人種問題を扱う上で、看過し得ない人物である。作家であり弁護士、外交官であった彼は、文学面では、Machado de Assis と並んでブラジル文学翰林院(Academia Brasileira de Letras)の創設者の一人であった。のみならず、この国の文化、文学の有り方を問うた、1922年に生起した「近代芸術週間」(Semana de Arte Moderna)の師表的な存在であったからである。
Aranha の代表作『カナアン』(Canaã, 1902)は前期近代主義(Pré-Modernismo)時代のもっとも重要な作品の一つであり、ドキュメンタリー的価値の高いものとみなされている。
何故ならそれが、人種混合や人種優越性(superioridade racial)の問題を提起し扱っているからてある。
Recife法科大学を卒えたサン•ルイース出身のGraça Aranha は、まずはリオで弁護士として働く。が、次にCanaã の作品舞台となるEspírito Santo 州のPorto do Cachoeiroのドイツ移民社会に転居する。
そこで構想して描いたのがCanaã である。Aranha は、友人でありながら、人種思想の異なる二人の人物、すなわちMilcauとLentzを登場させる。Milcauはブラジルは約束の大地(terra prometida)であると考え、人種混交を賛美する。
対するLentzの方は、人種混交がブラジル人はむろん、国民文化そのものを劣等化すると観る。こうした双方の考えは、19世紀に震撼させたヨーロッパ伝来の、進化論や環境決定論を反映した人種思想を映し出したものに他ならない。
その意味で、20世紀初頭まで出来したこの国の人種主義、人種差別や偏見の類いの問題を、文学作品であるとはいえ、理解する上で好個の文献であることを指摘しておきたい。