執筆者:桜井悌司(ラテンアメリカ協会顧問)
世の中には、偶然にまつわる話が結構たくさん存在する。幸運なこともあり、不運なこともある。タイミングが良いこともあれば、悪いこともある。海外に15年半も駐在していると様々なことに遭遇する。個人的に、メキシコ、チリ、ブラジルに10年、スペインとイタリアに5年半とラテン系の国ばかり駐在・滞在したが、それらの経験から偶然に繋がる話をまとめてみた。2回にわたり連載する。
1968年から69年まで1年間、ジェトロのスペイン研修生として、マドリード大学で勉強した。スペイン研修中の最大の思い出の一つとして、当時のフランシスコ・フランコ総統夫妻をごく近くで見る機会に恵まれたことがある。時期は定かでないが、たぶん、1969年5月のサンイ・シドロの闘牛シーズンの一環であったと記憶する。その時、マドリードのラス・ベンタス闘牛場で「フランコ総統杯」が出される闘牛が開催された。研修生の身分では、相当高額の入場料であったが、思い切って購入したところ、フランコ総統と夫人のドーニャ・カルメン・ポロ・デ・フランコが座る貴賓席から10メートルくらい真下に私の席があった。まさかフランコ総統夫妻が臨席するとは思っていなかったが、大変幸運なことであった。フランコ総統はさすがにオーラがあり、カリスマ的であった。フランコ総統は独裁者で市民戦争に勝利した後、対立者を厳しく弾圧した人物であるが、一方では、スペインを第2次世界大戦から守り、スペイン経済を立て直した功績もある、その時には、闘牛場に来ていた観客は大きな拍手で迎えていたことを思い出す。大枚はたいて闘牛見物をしたのは正解であった。
松下幸之助さんと言えば、松下電器産業(現パナソニック)の創始者で経営の神様と呼ばれた大経営者である。浅草寺の雷門の寄贈者としてもよく知られている。
1960年代には、ジェトロには業種別PR事業というプロジェクトが存在しており、その一環として、新潟県の燕市の金属洋食器の対米輸出を図る目的で、1969年に、米国の消費財の専門紙であるHome Furnishing Dailyの編集長であるEarl Lifshey氏(1992年~98年)を日本に招待した。同氏は、50年にわたり米国の有力な出版会社であるFairchild Publicationsに勤務し、米国の家庭用品の歴史を紹介する「The History of the Housewares」の著作でも有名なジャーナリストであった。2週間ばかり日本に滞在したのだが、私が随行を仰せつかり、楽しく一緒させていただいた。
その翌年の1970年には大阪万博が開催されたのだが、日本電子機械工業会の招へいで再度訪日された。その際、Lifshey氏から私を名指しで,大阪へ同行させて欲しいという依頼が、ジェトロの上司のS氏にあった。その結果、日本滞在中、幸運にも大阪万博を視察することになった。ジャーナリストの随行という特権のおかげで、人気パビリオンである月の石の米国パビリオンや宇宙技術満載のソ連館も並ばずに見学できた。
Lifshey氏は、松下幸之助さんがTime誌の表紙を飾った時のパーティで司会をされたこともあり、日本滞在中にK.Matsushitaに会いたいとしきりに言っておられたが、それが実現したのである。門真にある松下電器産業の本社を訪ねた。旧知とあって、お二人の会話は弾んだ。幸之助さんは、神様に似たオーラを感じさせる印象だったが、同時に謙虚な方だなと思った。終了時には、幸之助さんから、私にねぎらいの言葉があり、おみやげに電気シェーバーをいただいた。感激の一瞬だった。その後、松下幸之助さんの著作や関係本をしっかり読ませていただいた。
チリ駐在時代の大統領はアウグスト・ピノチェットであった。チリは選挙によって共産党政権を樹立させた世界史上初めての国である。1970年にサルバドール・アジェンデが社会主義政権を成立させた。しかし、経済政策等がうまくいかず、1973年には、アウグスト・ピノチェット陸軍大将の軍事クーデターにより、自殺に追い込まれた。その後、共産主義者やアジェンデ大統領の協力者への厳しい弾圧を行ったため、世界の世論の非難にさらされた。悪名高き大統領として評価される一方、経済分野においては、エルナン・ビッヒ蔵相などのテクノクラートに任せ、シカゴ派の自由主義的政策で見事な経済運営を行った。その結果、現在のチリは安定的経済成長を達成し、中南米の優等生と言われている。
駐在中(1984年~89年)に、ピノチェット大統領とは5回、会う機会があった。サンテイアゴ国際見本市の日本館の案内で、4回、サンテイアゴ在住の外国系企業の代表100名に選ばれ,モネダ宮殿で挨拶した時の1回である。それ以外に、ロータリークラブが毎年大統領を招待するので、彼のスピーチを数回聞くことができた。サンテイアゴ国際見本市の日本館訪問は毎年恒例の行事で、10分くらい日本大使ともども日本館を案内することになっていた。当然ながら、日本館の運営を担当している私が説明することになる。今から思いだすと大統領が関心を示したのはロボットのおもちゃ、一村一品の展示であった。チリの地域開発と関連して興味を示したものと思われる。ピノチェット大統領は軍服の時もあり背広の時もあったが、常にカリスマ的な雰囲気をただよわせていた。
ヨハネ・パウロ2世(1920年~2003年)と言えば、ポーランド出身で「空飛ぶ教皇」として有名であるが、3回ほど遠くから近くから見る機会があった。最初の2回は.1987年4月の法王のチリ訪問時である。ジェトロの事務所は、中央広場であるアルマス広場にあり、サンテイアゴ大聖堂に隣接したビル内にあった。友人の事務所も同ビルにあり、大聖堂をより見やすい位置にあるということで、そこからヨハネ・パウロ2世を上から見させていただいた。その後、法王がラテンアメリカ・カリブ経済委員会(ECLAC)も訪問するというので、追っかけで見に出かけた。
90年代には、イタリアのミラノに駐在していたが、日本から家族がやって来る機会に、ローマ旅行を企てた。例によって、ヴァチカン美術館、システィーナ礼拝堂を見て、サンピエトロ大聖堂にも参拝した。参拝を終え、帰ろうとすると多くの人が集まっていたので、その理由を尋ねたところ、教皇がミサを終え、みんなに祝福するためにやって来るという。せっかくの機会なので、家族と相談して、待つことにした。30分ほどして、本当に法王がやって来て、参集者に祝福してくれた。私たちも2~3メートルのところ法王様を拝見することができた。白い服装の法王は神々しい姿であった。このような偶然に感謝したものだった。
その後、2012年にJICAの短期専門家として、ドミニカ共和国のサント・ドミンゴに出かけた時には、コロンブスのお墓がある「コロンブス記念灯台」で、法王の乗られる防弾ガラスの車(Papa Movil)が展示されていたので幸運にも近くで見学することができた。
スペインの闘牛士である「エスパルタコ」(Juan Antonio Ruiz“Espartaco”、1962年~)と言えば、1980年代、90年代にかけて人気と実力で一世を風靡したベストの闘牛士と言っても過言ではないことは、闘牛のフアンであればだれでも知っている。セビリャ出身とあって、セビリャ万国博覧会中何回か興行した。
セビリャ万博の日本館には優秀な人材が多数いたが、その中でも通称「ミモザ」さんと呼ばれる高木さんという高齢の女性がいた。彼女はスペインの実業家と結婚し、アンダルシアのハエンに在住の未亡人だったが、万博期間中日本館で是非とも働きたいというので、日本館で働いていただくことになった。彼女は、非常に幅広い人脈をもっていた。ある日、マエストランサ闘牛場(1761年建設、スペインで一番美しい闘牛場とも言われている)で興行が行われることになったので一緒に見物に出かけた。その時、彼女は、私にエスパルタコを紹介してくれたのである。握手し、一言三言話しただけであるが、ハンサムで超かっこいいトレロであった。闘牛場でも見事なパーフォーマンスを見せてくれた。コロンビアの出身の人気闘牛士であるCesar Rincon(1965年~)、Curro Romero(1933年~)、Jose Ortega Cano(1953年~)も幸運にも、この美しい闘牛場で見ることができた。
また、彼女の知合いに「第18代アルバ女公爵」(Duquesa de Alba、Cayetana Fitz-James Stuart y Silva、1926年~2014年)がいた。ミモザさんはお友達であったこともあり、アルバ公爵は、何回も日本館を訪問してくれた。ある日、ミモザさんの働きかけもあって、日本館の館長以下6~7名、セビリャの広大な邸宅であるラス・ドゥエニャス宮殿(Palacio de las Duenas)に招かれた。最初に、公爵自らが踊るフラメンコを鑑賞し、お茶をご馳走になり、懇談することになった。アルバ公爵と言えば、15世紀以降スペインの歴史上たびたび出てくる貴族・政治家であるが、彼女は、第18代目のアルバ公爵であった。
握手と言えば、世界三大テノールのプラシド・ドミンゴさんにも会って握手することができた。ドミンゴさんはセビリャ万博の音楽デイレクターを務めている関係で、超一流のオペラ歌手やオーケストラを招待し、セビリャ万博の文化イベントの充実に多大なる貢献をした。万博の開会式に盛田昭雄日本政府代表(当時ソニー会長、1921年~1999年)や通商産業省代表の沓掛哲男通産政務次官(参議院議員、新潟選出、1929年~2024年)を案内し、式典会場に向かっていた時に、向こうからプラシド・ドミンゴ氏一行がやって来たのである。盛田代表とドミンゴさんは旧知の仲で、和気あいあいで会話を楽しんでおられた。私も、中に入って自己紹介をし、沓掛通商産業省代表を紹介、代表とドミンゴさん一緒の写真を撮らせていただいた。沓掛さんは当初、相手が誰だとご存じなかったが、三大テノールの一人だと説明すると、「これで次回選挙も安泰だ」と大変喜んでおられたことを思い出す。幸運なことに、セビリャではプラシド・ドミンゴが出演する3本のオペラ、「トスカ」。「仮面舞踏会」、「山猫)を鑑賞することができた。幸運と偶然の賜物である。
1992年にはスペインのセビリャで万国博覧会が開催された。同年にバルセロナ・オリンピックも開催された。当時、セビリャは世界でも注目されていたこともあり、1991年には、世界屋内陸上競技選手権大会も開催された。それとは、別に、万博の会場になったカルトゥーハ島にある小さなスタジアムで、陸上競技大会が開催され、陸上短距離のかの有名な米国のカール・ルイスやカナダのベン・ジョンソン、棒高跳びのウクライナのセルゲイ。ブブカなどが出場したのである。博覧会公社の友人がチケットの手配をしてくれたので日本館の仲間と出かけた。当時のカルトウーハ島のスタジアムはコンパクトで至近距離から見られた。100メートル走の後、アスリートがそろって戻ってくるのだが、20~30メートルの距離であったので、筋肉隆々の肉体美をしっかり見ることができた。棒高跳びのセルゲイ・ブブカも比較的近い距離で見た。棒高跳びを近くで見ると、迫力十分で、どうしてあんなに高く跳べるのかまさに神業の世界であった。
1973年にはサンパウロ日本産業見本市が組織され、出張で2月から5月まで3ヶ月滞在し、広報や併催事業を担当した。その期間中、休みを利用し、リオに出かけたが、偶然リオの郊外電車に乗ったところ、巨大な建築物が目に入ってきた。隣の乗客に、「あれは何か」と聞いたところ、マラカナン・スタジアムだという。幸運にもその時間帯にサッカーの試合があるとのことだったので急ぎ、飛び降り、球場に馳せ参じた。
20万人収容時代のマラカナン・スタジアムであり、あの有名な「マラカナンの悲劇」がおこった場所である。当時、スタジアムから最も近い席はすべて立見席で、観衆がピッチに出られないように相当深い掘割のようなものがあった。さすがサッカー熱狂国ブラジルだと思ったものだ。その後、80年代にはチリのサンテイアゴに駐在した時に、家族でブラジル旅行をした時にも、20万収容のマラカナンでサッカーを見ることができた。偶然から必然になった。
1992年は、セビリャで万国博覧会、バルセロナでオリンピック、マドリードで欧州文化都市という3つの大型イベントが重なった。セビリャ万国博覧会の日本館は、7月20日にジャパン・デーを行い、成功裡に終了した。バルセロナ・オリンピックの開会式は、7月25日であった。このオリンピックは、スペインのカタルーニャ州出身のフアン・アントニオ・サマランチIOC委員長の強い支持で実現したものである。
日本館のジャパン・デーには、ジェトロの増田実理事長夫妻がジェトロ代表として来訪されるので、ひょっとしてバルセロナ・オリンピックの開会式にも出席されたいと言われるかもしれないと考え、勝手に気を利かせて旅行代理店を通じて2枚のチケットを手配しておいた。ところが、ジェトロ・マドリード事務所の日頃の活動が評価され、カタルーニャ政府から招待チケットが理事長夫妻に届けられたのである。手配した2枚のチケットが必要なくなったことになる。そこで、同僚と一緒に開会式を見にバルセロナに出かけた。
この時のオリンピックは、3大テノールのホセ・カレーラスが音楽監督であったこともあり、プラシド・ドミンゴ、モンセラ・カバジェ、テレサ・ベルガンサ等錚々たるスペインのオペラ歌手が出演し、近年でもまれに見る芸術性の高い開会式であると絶賛された。坂本龍一も地中海の神話をモチーフにしたマスゲームの音楽「El Mar Mediterrani」を作曲、指揮した。聖火台への聖火の点火には弓矢が用いられたことも観客を驚かせた。日本からは、ジャパン・デーにご臨席された皇太子殿下(現天皇陛下)が列席された。また競技会場の一つであった屋内競技場Palau Sant Jordiは磯崎新の設計であった。
ミラノ駐在中には40回ほどサッカーを見学したが、一番印象に残る思い出は、サンシーロ・スタジアムで観戦中に猛烈な霧が発生し、試合が中断したことである。日本では見たことのないような濃霧で、観客席でも数メートル先が全く見えず、ボールの行方もわからないといった感じであった。それでも、30分くらい忍耐強く待っていると霧が晴れ、無事再開することができた。さすが「霧のミラノ」と実感した貴重な経験であった。
霧と言えば、駐在中にEUセンターに勤務する同僚のI氏をマントヴァに案内した。オペラのリゴレットやロミオとジュリエットでも有名な観光名所であるが、観光を終え、夜間ヴェローナに向かう途中で、猛烈な霧が発生し、1時間ばかり。湖に沿って死ぬ思いで必死に運転した。イタリア人ドライバーは濃霧に慣れているのか、スイスイと追い抜かして行った。
当時国内最大のサッカースタジアムであった埼玉スタジアムで、2001年1月にオープン記念試合として、日本代表とイタリア代表の親善試合が開催された。友人のICE(イタリア貿易振興会)のキアッピーニ東京事務所長に誘われ見学する機会があった。驚いたことに、ピッチの芝がうまく張り付いてないとみえて、前半が終了したところで、あちこちで剥がれ、見るも無残な状況になっていた。前半終了後、多数の整備要員が大童で修復していた。このような芝の状況でワールドカップは大丈夫かなと心配したが、さすが日本、本番時には何の問題もなかった。
日韓共催の2002ワールドカップでは、ベルギーに欧州本拠を置くチリの会社の友人にベルギー・チームの応援団に入れば、埼玉での日本―ベルギー戦を観戦できるというありがたい話があり、喜んでベルギー応援団に参加した。赤い帽子とユニフォームを着ての観戦で、周りは日本人ばかりで、少し恥ずかしい感じであったが、日本がワールドカップで初めて勝利した記念すべき試合であった。日本が勝利した時は、ベルギー・チームの応援団であることを忘れ小躍りしたものだった。中山雅史選手がワールドカップ史上、日本人として最初のゴールをあげた日本対ジャマイカ戦(1998年フランス大会、リヨン)も幸運にも次男、3男と一緒に見ることができた。
それとは別に、家族にも日韓ワールドカップを観戦させたいと考え、抽選で当たるはずが無いと思いながら、一族郎党で応募したところ、準々決勝戦のチケット4枚が奇跡的に当選した。3名の息子たちを引き連れて、勇躍、静岡のエコバ・スタジアムに出かけた。さらに幸運なことにブラジルとイングランドという組み合わせであった。ブラジルのロナウド、リバウド、ロナウジーニョの三羽烏や英国のベッカムも見ることができた。チケット代、新幹線代等で20万円を散財した。
次回に続く。