執筆者:桜井悌司(ラテンアメリカ協会顧問)
世の中には、偶然にまつわる話が結構たくさん存在する。幸運なこともあり、不運なこともある。タイミングが良いこともあれば、悪いこともある。海外に15年半も駐在していると様々なことに遭遇する。個人的に、メキシコ、チリ、ブラジルに10年、スペインとイタリアに5年半とラテン系の国ばかり駐在・滞在したが、それらの経験から偶然に繋がる話をまとめてみた。2回にわたり連載する。
今は、かなり変わっていると思うが、私のメキシコ駐在時代(1974年~77年)におけるメキシコの警察官は駐在員の日常の話題になる対象であった。mordidaと呼ばれる小額の賄賂金に関わるものである。信号無視、スピード違反、酔っぱらい運転等の取り締まりに従事する警察官の中には、真面目に業務を遂行するものも少なくないが、中には、鵜の目鷹の目で捕まえる対象を探し、小額のmordidaをせしめようとするものも多かった。当時の警察官は、最低賃金を少し上回るくらいの給与であり、子だくさんの家庭を維持するにはとても大変である。中には、マチスモの国によく見られるが、外に愛人や隠し子を持ったりする警察官もいたようだ。mordidaは、彼らの観点から見ると必要悪なのである。もちろん、受け取った金額は全額自分のポケットに入るわけではなく、上司に貢がなくてはならない。当時の現地の新聞によると、最初は、街角に立ち、交通違反を取り締まることになるが、そこで成績がいいと、バイクを与えられる。一度、バイクに乗れると収入が俄然増える。さらに上司の覚えがめでたいとパトカーによる取り締まりを任せられる。ここまで出世すると収入が飛躍的に伸び、少しは裕福になる。それでも真面目な警察官は、上納金のノルマが達成できず、バイクやパトカーを借り、休日出勤することもあると報道されていた。
私も、恥ずかしながら、メキシコでは、10回くらい警察官につかまった。最初の5回は、mordidaを払うことを余儀なくされた。
しかし、一度決定的に私が間違ったケースがあった。夕食に呼ばれ、帰宅途上の時で、スピード違反、飲酒運転、ナンバー・プレートの期限切れ(当時メキシコでは、正式のナンバー・プレートができるまで、仮りのナンバー・プレートをつける。期限が切れると再申請することになっていた。)という3つの罪でパトカーに捕まったことがあった。メキシコでは、当時、深夜に走行している車の運転手のかなりの部分が飲酒運転をしていたと言われていた。警察官は、「72時間の拘束及び1万円くらいの罰金です。どうしますか?」と言ってくる。私は、「どうすればいいでしょうか?」と小さくなって尋ねる。警察官は、何も言わず肩をすくめる。そこで、こちらは、罰金の半分くらい(当時の相場)の5千円相当のペソを渡すと、妥当な額(そうでないと、受け取らない)と見えて許してくれた。握手して別れたが、「十分に気をつけて帰宅するように」と丁寧な言葉をかけられた。捕まったその他4回の理由を分析してみると、ほとんどが黄色の信号の時に道路を渡り、渡り終えた時には赤信号になっていたことが最大の原因であった。
そこで、黄信号では決して渡らないようにした。残りの5回は、大いに注意していたが、mordidaを受け取る機会を常に探し求めている警察官は、いろいろイチャモンをつけてくる。一度、警察署(Delegación)に行かざるを得なくなった。こちらに落ち度は無かったので行くことにした。警察官は、内心しまったと思ったに違いない。変な外人に時間を取られると自分の収入が減るからである。警察署長には、青の時に渡り、黄色になり。渡り終えた時に、赤信号になったと主張し、これは、不当であると主張したところ、うるさい奴と思われたのか、無罪放免となった。残りの4回は、現場の警察官に対して、自分の正当性を説明し、許してもらった。これらの経験のおかげで、必要に応じ、自分の正当性を主張することの必要性を会得できた。
ミラノでは、事務所がドゥオーモ広場の近くにあったため頻繁に散歩した。このあたりはジプシーグループのすりが出没する場所である。ジプシーの家族4~5名で観光客等に接近し、新聞紙をかぶせたり、アイスクリームをかけたりし、観光客が慌てふためく間に、ポケットから財布やパスポートを盗むというやり方である。私も3~4回、ジプシーグループに襲われた経験がある。大声を出したので、幸いにも被害には会わなかった。何故自分が襲われるのかを冷静に考えたところ、何か考え事をしながら歩いていた、観光客のように地図を見たり、ぼんやりと景色を見ていた時に、やられることがわかった。要するに油断していた隙を狙われるのである。それ以降は、常にミラネーゼのように土地勘があるように見せかけ、180度四方を見渡し、ジプシーのグループがこちらに近付くとスタコラ逃げるという戦法をとった。当時、日本人のパスポートは、1000ドルから2000ドルで取引されると言われていた。私の知人、友人も結構、このジプシースリ団に被害を被っていた。
チリのサンテイアゴに着任したのは、1984年12月25日、クリスマスの当日であった。当時、ピノチェット政権によって緊急事態令(Estado de
Emergencia)の最中であった。到着時に何か問題があることも想定し、ジェトロ駐在員A氏の他に、旧知の日本大使館のM一等書記官が空港まで出迎えてくれることになった。空港は軍隊によって厳重に警戒されていた。自動車は内部の明かりをつ
け、車内が見えるようにし、時速も20キロと決められていた。それでも、ホテルまでに3度ばかり検問され、事情を説明することになった。軍隊は当然ながら自動小銃を抱えていたので、子供たちも大いに不安がったものだった。到着後も市内のあちこちに軍や警察が配備されていた。それでも一部の学生は、チリ大学のある市内の中心部でデモを行っていた。私も一度デモを見に出かけたが、軍は学生を追い払うために青い水を放水車が撒き散らしていた。私もあやうくかけられそうになった。軍は青色の水をかけられた学生や一般市民をデモに参加していたという容疑で逮捕するのである。
それとは別に、一度催涙ガスを経験したことがあった。公用車を運転し、市内に入ったところ、小さな硝煙が上がっていた。それが何であったかわからなかったので、そのまま通り過ぎたところ、急に大粒の涙が出てきた。催涙ガスだと分かったので、すぐに車を止め、涙が止まるまで、じっとしていた。意に反して、催涙ガスの威力を実感することができた。またデモ隊に取り巻かれ、生卵を公用車に投げつけられたこともあった。
1985年3月3日に、アルガロボを震源地とする大地震が発生した。マグニチュード8、死者178名、負傷者2,575人を出す大地震であった。(この地震の詳細は協会の「投稿欄」の連載エッセイ4を参照のこと)サンティアゴに駐在して2か月後におこった出来事であった。その日、家族そろって、サンティアゴ市のラス・コンデス地区にあるパルケ・アラウコ・ショッピングセンターのスーパーマーケットでほぼ買い物を終了し、レジに向かうところであった。「ドーン、ドーン」と2回大きな音とともに大きくグラグラと揺れだした。家族全員を1か所に集め、ゆっくり、スーパーの外に脱出した。スーパーの中では、水やワイン、ビール等のガラス瓶が陳列棚から落下し、あたりは水浸しの状況であった。
私の意識の中では、当時のチリは発展途上国で貧しい国であるので、このような時には、略奪行為が行われるに違いないと想像した。しかし、その想像は、全くの杞憂・間違いで、誰一人として略奪行為に走っている様子は見られなかった。次に私が考えたことは、このような場合、オイルショック時の日本のように水やトイレット・ペーパー等が一斉に店から消えるだろうということであった。あわててスーパーマーケットにそれら物資を買いに走ったが、店頭に所狭しと並べられていた。後でわかったことだが、政府が売り惜しみをしないようにしっかり指示していたとのことであった。翌日、サンティアゴ中心部の中央広場(Plaza
De Armas)にあるジェトロ事務所に行ってみると、カテドラルの上部にあった聖人の像とか、市庁舎や郵便局の壁等が落下していたのだが、瓦礫はすべて片づけられていた。
チリ人はボランテイア精神にあふれた国民である。地震、洪水等の災害が起こると、当然のように、「チリはチリを助ける」(Chile Ayuda a
Chile)という国民的キャンペーンが組織される。スーパーマーケットなどでは、買い物客が腐らない食品を購入し、所定の所に置いておくと、トラック輸送業者がボランテイア活動の一環として、被災地や必要とされる所に届けるようになっている。
最初の地震が発生したのは、3月3日の午後7時過ぎであったが、同じ日の午後11時頃に同規模の大地震が再び起こった。アパートの壁面が崩れ落ちた。地震の恐ろしさを実感した。その後、3か月くらい余震が続いた。
この地震を経験する以前は、日本は地震国であり、日本人は地震に慣れていると考えていたが、とんでもない誤りだと気がついた。日本人は、震度3~4程度の地震までは慣れているが、震度7や8の大地震は、全く別物である。サンティアゴ大地震は、自然災害の恐ろしさ、チリ人のボランテイア精神の旺盛さ等につき、様々なことを考えさせてくれた出来事であった。
ブラジルのサンパウロには、2003年12月から2006年3月まで2年5か月駐在した。せっかくの機会なので、ブラジルの大自然を見るべきと考え、かの有名な大湿原地帯のパンタナルに出かけることにした。パンタナルに入るルートは、マット・グロッソ・ド・スル州のカンポ・グランデから北上するルートとマット・グロッソ州のクイアバから南下するルートがある。
2004年9月4日から7日までの日程で家内と一緒に、カンポ・グランデからパンタナルに入った。パンタナル旅行は、通常3泊4日の日程で、荘園風の宿舎に泊ることが多い。3日間の日程には、馬2回、ジープ2回、ボート2回の観光が入っており、ピラニア釣りも楽しめる。現地に到着し、最初のワニやカピバラを見ると大いに感激するが、そのうち、ワニとカピバラはどこでも見られるので、感激度は激減したものだ。それでも嘴の黄色のトウカーノ(オニオオハシ)、スミレコンゴウインコ、トウユユ(スグレハゲコウ)等の鳥類、オオカワウソ等の動物が見られるので、ツアーは全てエクサイティングなものである。
さて、馬に乗って順調にツアーを楽しんでいたが、突然、私の馬が疾走し始めたのである。私は何が何だかわからず、恐れおののくばかりであった。このままでは確実に落馬することがわかっていたので、思い切って自分で飛び降りたのである。幸い、飛び降りたところが、浅い水面のところであったので、不思議にケガもなかった。後で冷静に事態を観察したところ、私の馬が、ハチの巣を踏んだので怒った(?)ハチの集団が馬に襲い掛かったのである。それで、馬は必死に逃げたようであった。ガイドの人によると、馬は疾走しても一段落すると止まるということであったが、そんなことは知らないのでこちらは必死で飛び降りるほかなかったのである。自然の環境にいると何が起こるかわからないことを実感した。
発展途上国に駐在すると必ずと言っていいほど為替の問題が発生する。したがって、駐在員にとって為替問題は、ビジネスでも私生活でも最重要事項の1つである。為替で得をする人もいれば、損をする人もいる。具体的に筆者の例を挙げて具体的に説明しよう。最初のメキシコ駐在時にペソの大幅切り下げに直面した。1976年に突然ペソが、切り下げられ、1ドル=12.5ペソで固定されていたのが、1ドル=20.50ペソになった。長年、固定相場に慣れていたため、メキシコ人もどうしていいのかわからない状況であった。切り下げ直後は、ショッピングセンターに出かけても、価格は、切り下げ前と同じ水準であった。内心、メキシコ人には申し訳ないと思いつつも、ドル保有者にとっては、絶好のチャンスであったため、私たち夫婦も毎週末、喜々として買い物に出かけ、ハンドバッグや靴等を購入した。メキシコでは、新婚でもこれあり、背伸びして良い住宅に住もうと考えた。その結果、私の住宅手当限度額を160ドル(当時のレートで56,000円)をオーバーするアパートに住んでいたが、ペソ切り下げのおかげで、幸運にも限度内に収まった。
その後、チリのサンテイアゴに1984年12月から1989年6月まで滞在した。チリ経済は安定成長を遂げていたが、それでも、ドルとチリ・ペソの間には、平行レート(闇ドル)が存在し、ドル・キャッシュをペソと換金すると、確か10%くらいのプラスとなったことを思い出す。当時、チリとアルゼンチンとブラジルは、どこかの国の経済がおかしくなると、比較的経済良好な国から観光客が殺到するという関係にあった。チリからブラジルに出張する機会が、年に1~2回あったが、当時ブラジル経済は不調で、平行レートが存在していた。ドル・キャッシュを持参すると、平行レートで相当有利に換金できた。その結果、当時、サンパウロの5つ星のシーザーズ・パーク・ホテルでも50ドル程度で宿泊できた。アルゼンチンの景気が悪かった時には、サンテイアゴからブエノスアイレスに出張や家族旅行をしたが、有名なフロリダ通りのレストランで、アルゼンチン牛肉のビフェ・チョリソも5ドルで食べられたことを思い出す。
ここまでは恵まれていたが、2003年12月から2006年3月まで、サンパウロに駐在した時代は、そうは行かなかった。ブラジル駐在時代は、反対にレアル切り上げの時期であった。メキシコのように急激な為替変動ではなく、徐々にレアルが対円、対ドルで切り上がっていったのである。ジェトロの場合、出張費は、円で決められており、円からドルに、ドルからレアルに替えることになる。当時、1レアルは40円程度であったが、駐在後半時には、1レアル50円まで切り上がった。その結果、給与は減額になるし、出張費などは、毎回レアルでの受取額が減少するのを苦々しく感じたものであった。日本レストラン・食堂の定食も800円程度であったのが、いつの間にか値上げと切り上げで、1250円から1500円に値上がりしたのである。しかし最後に逆転劇が発生した。帰国直前に自家用車を売りに出したが、ブラジルでは自動車はそれほど減価せず、購入価格の4万レアルと同じ、一方、レアル切り上げの結果、円換算で買った時の値段を40万円も上回ったのだ。中南米等発展途上国の駐在員は、常に為替変動に晒されており、それによって、駐在生活が快適になったり、厳しくなったりする。エクサイティングでもあり、恐ろしいことでもある。
1992年に開催されたセビリャ万国博覧会の建設準備期間中のスペイン経済は絶好調で、通貨ペセタがどんどん値上がりし、日本館の建設関係に伴う赤字が4~5億円にも達した。毎日、心配で関係者に相談したが、望ましい解決方法が見つからず、眠れない日が続いた。しかし、神様は決して我々を見捨てなかった。日本経済もバブル崩壊前で、日本円も徐々に強くなり、赤字が1億円程度に減少したのである。最終的に、通商産業省に1億円の補填を認めていただき、本件は無事決着した。
セビリャ万国博覧会のジャパン・デーは、1992年7月20日に無事終了した。日本館にも平穏な状況が続いたが、事務局員、アテンダントにも中だるみ現象が生まれてきた。そこで、事務局員に広く呼びかけ、何かイベントをやってみようと提案した。早速、チームを作り、事務局の4名が担当することになった。4名は色々なアイデアを出し合ったが、最終的にセビリャの施設の恵まれない子供たちと引率者を招待することにした。幸運にも、日本館に対しコカコーラ・ジャパンより多額の寄付の申し出があり、280枚の万博入場券と同じ数のギフト(時計、ラジオ、ノベルテイ等)をいただいた。セビリャには7つの孤児院等の施設があることがわかり、最終的に248名の子どもたちと引率者の合計280名を招待することにした。
招待日は、1992年8月24日とし、特に問題もなくスムースに迎えることができた。子供たちは、日本館からのギフトに大いに満足し、喜んでいた。準備をした日本館の事務局員、アテンダントも子供たちの笑顔を見て、幸福な思いをしたものだった。この日のプログラムは、セビリャの新聞にもリリースしたが、エル・コレオ・デ・アンダルシア紙に、「日本は子供たちを忘れていなかった」という見出しで大きく取り上げられた。
セビリャ万博も終了しようとしていた時、何かセビリャ市に社会貢献できないかと考えた結果、終了後、孤児院や子供病院に出かけ、慰問しようというアイデアが事務局員の中から出された。日本館内で売店を運営していた三越に相談したところ、ギフトの在庫があり、極めて安価な料金で、日本館に譲ってくれるという。そこで、子供たちが喜ぶようなおもちゃ等のギフトを手に入れ、孤児院や子供病院等に出かけることにした。11月以降に合計3回に渡って慰問することにした。子供たちは、日本館の種々のグッズを受け取り、喜色満面であった。
ミラノ駐在は、当初単身赴任を覚悟していた。2男が高校3年生で、3男が高校1年生であったため、受験の問題があり、家内の赴任は困難と考えたからである。しかし、仮に2男の受験がうまくいき、3男がミラノ行きを了承すれば、問題が解決できることになる。3男は、その当時、私立高校のブラスバンド・クラブ活動に嫌気がさしていたこともあり、ミラノに行ってもいいとのことであった。そこで早速、ミラノのアメリカン・スクールに出かけ、入学の可能性について相談した。当初、入学が可能な感じであったが、学業成績を提出すると、受け入れられないとのことであった。日本人は総じて英語がうまくなく、その上に学業成績が悪いと授業についていけないからという理由である。3男はがっかりしたが、高校の仲間にミラノ行きを公言していたこともあり、それは困ると言う。
そこで次に英国系のインターナショナル・スクールに出かけて交渉したが、ここでも同じ問題で難色を示された。校長先生であったヘイウード先生は、「ミスター桜井、あなたはリスクを冒そうとしています。私立高校だから日本の大学に入学できるでしょう」と言う。私は、とっさに「ヘイウード先生、3男の入学が許可されないと、我々夫婦は3年以上にわたり別々に暮らすことを余儀なくされるのです。そのような状況は良いと思われますか?」と懇願調で訴えたところ、「それは良くないですね」と苦笑され、入学を許可してもらった。学校側のフレキシビリティには大いに感謝・感激したものだった。
3男は、1996年10月半ばにミラノに到着した。翌日学校に出かけたところ、10の長文の読解の宿題が出され、その日は、午前1時頃まで、3男と一緒に宿題に取り組んだ。その後家内がミラノに来る97年5月まで、3男と一緒に住むことになった。3男は、当初ほとんど英語がわからなかったため、学校から推薦されたスコットランド人の家庭教師を1年以上にわたり雇用し、週に3回、2時間英語を教えてもらった。また96年10月の入学から4ヶ月間は、ほぼ毎日夜12時、1時まで子供の学校の宿題を手伝う羽目に陥った。また97年1月からは、3男は、以前から希望していたこともあり、クラシックギターを習い始めた。97年の夏休みには、一人で英国の南部のヘイステイング市の語学学校に5週間通わせた。この語学研修が功を奏し、見違えるように自信を持ち出した。98年、99年の夏休みにも英国で勉強させた。3男は、真面目に勉強した結果、99年5月には無事、インターナショナル・スクールを卒業し、IB(INTERNATIONAL
BACHALOREA)にも無事に合格することができた。
子供がミラノの高校に入学したおかげで、イタリアでの教育方針、生徒の個性を尊ぶ学校事情も理解することができたし、子供の宿題を手伝うことによって英語も少しうまくなった。
ミラノには、1994年から98年まで3年4か月駐在した。赴任直前に、ジェトロの関連会社であるJAVIS社がミラノ見本市(FIERA MILANO)の日本での代理店になり、記念のパーティを開催した。その際に、同社のMANFREDI社長と知り合いになることができた。赴任直後にミラノ見本市を訪問したところ、大いに歓迎され、TESSERA DI HONOREという名誉カードを贈呈してもらった。このカードは、ミラノ見本市会場で行われるあらゆる見本市・催しものに2人まで無料で入場できるというものであった。この特別カードのおかげで駐在中、種々の見本市を90回程度見学することができた。このカードを利用して、総領事館や日系企業の人々を見本市に招待し、イタリアの見本市産業に対する理解を深めてもらった。イタリアの見本市産業は、ドイツには及ばないが、その他のヨーロッパ諸国の中でもトップを行く見本市大国であった。ミラノ見本市会場の規模も大きく30万平米(現東京ビッグサイトの3倍弱)を超えていた。見本市を実地に視察すれば、景気動向、外国企業の進出ぶり、その年のデザイン、色、好みの動き等がわかり、仕事上も大いに役立った。
2003年から2006年まで2年5か月、サンパウロに駐在した。1973年にサンパウロで日本産業見本市が開催され、会場のアニェンビー展示会場を運営するAlcantara
Machado社には大いにお世話になった。ブラジルの見本市産業に関心があったことから、赴任早々にAlcantara
Machado社の社長のGualardi氏を訪ねたところ、ジェトロが1973年に組織した「サンパウロ日本産業見本市」のことをよく覚えており、当時の写真を見せてくれた。幸運にも、その際、同社が運営するアニェンビー展示場(7万平米)にいつでも入場でき、駐車場も確保できる特別のパスをもらった。その後、サンパウロの第2の展示会場であるセンター・ノルチ展示会場からも同様のパスを入手した。お陰で駐在期間中は、年間約50件の展示会を見ることができた。サンパウロの見本市業界は、日本より上を行っているように思えた。このようにして、偶然、ミラノとサンパウロでは、数々の見本市を視察することができた。
チリは、一度でも駐在するとほとんどの人が好きになって帰国するという不思議な国である。親切で、ホスピタリテイ精神やボランテイア精神にあふれた国民である。加えて、気候(Weather)、ワイン(Wine)、女性(Women)の3拍子そろった3Wの国である。
チリから帰国後、水野浩二氏(チリ三菱元社長、元日智商工会議所会頭)や何人かと相談して、「チリ・カマラOB会」という組織を立ち上げた。カマラは会議所と言う意味もある。会長は、水野氏で私は事務局長で雑務を引き受けた。年に2回程度、チリの日智商工会議所の会員企業の駐在員で帰国した人をメンバーが集まるというものである。
ユニークな点がいくつかあった。まず、男性だけではなく、夫人同伴もOKであり、毎回、夫人同伴組も多かった。2番目は、在京のチリ大使及び大使館員も参加することである。毎回,5~6名の大使館員が参加した。参加者は通常、4、000円の会費を支払うのだが、大使館員は会費無料の代わりに、チリワインを1.5ダースから2ダースを寄贈していただくことになっていた。毎回、多い時は、60名、少ない時でも40名が参加した。場所は、赤坂のジェトロ会館(現在は存在しない)の2階会議室を使用した。日本大使館関係者も小村大使始め、公使、書記官等も出席した。チリの思い出で毎回大いに盛り上がった。20年近く続いたが、水野会長が2005年にお亡くなりになったり、私が大阪に行くこと等が重なり自然消滅した。この種の会合は、ボランテイア精神に富む会長や幹事の存在、駐在関係者の連帯感、相手大使館の陣容・協力度合い、適当な会場、リーゾナブルな参加料金等々、様々な要因が偶然勝つタイミングよくかみ合うことが必須である。今は、80年代に駐在した大使館、商社、海運会社の6~7名が集まり、年2回、「チレ懇話会」と言う名で会合を持っている。
「青天の霹靂」という言葉があるが、それに似たようなことがおこった。1984年12月から1989年7月まで、チリのサンテイアゴ事務所に勤務後、帰国し、セビリャ万国博覧会チームリーダーとして活動を始めていた。90年3月に、在日チリ大使館のグスタボ・ポンセ大使から突然電話があり、チリ政府として、ベルナルド・オ・イギンス勲章コメンダドール賞を授与することになったとのことであった。同年10月15日に、チリ大使公邸で授与式とレセプションが新任のイタロ・スニーノ大使の下で行われた。席上、大使は、受賞の理由として、下記の4点を指摘された。①日智両国間の貿易促進、日本からの投資促進への努力と実績、②日本の企業に対して、チリの政治経済の真の姿についての知識を広めた。③チリ駐在中に70回以上の講演、日本やチリの媒体に500以上の記事を執筆、④4年半という長きにわたりチリに滞在等である。本件は、朝日新聞の「人・きのう・きょう」というコラムでも紹介された。
私個人として、サンテイアゴ駐在時代は、最も気力が充実していた時期で、赴任前に理想の駐在員像を設定し、実現するための最大の努力をするとともに、①チリ製品の日本及び他の国々への輸出振興に対する支援、②日本企業の対チリ投資協力の促進、③チリの中小企業に対する支援、④チリにおける品質管理の普及への協力という4つの具体的目標を掲げた。詳細は省略するが、それら4部門で当初の目的を達成したと考えている。
当時のチリ大使であったグスタボ・ポンセ大使(現YOGASHALA
CHILE創始者)とは、その前の商務参事官、プロチレ東京事務所長の時代から、「チリ物産展」(1979年1月~3月、サンシャインシテイ・ジェトロ展示場)等を通じて、緊密な連携を取っていたし、大使に就任されてからも、当時まだ珍しかったファクシミリで、ジェトロ・サンテイアゴ事務所の活動やチリ大使館の活動等について、お互いに連絡を取り合っていた。NHKが当時大型番組「地球大紀行」シリーズ第5作「資源を生んだマグマ」でチリの銅産業を取材する際にも、ポンセ大使よりNHKに協力して欲しいとの要請があり、空軍のヘリコプター借用等の面で積極的に協力した。NHKはその後も、教育テレビでチリを紹介する番組を制作したが、その時もクルーに随行するなど全面的に協力した。おそらく、そういった人間関係も受賞に作用したものと思う。
その他チリ中小企業連盟(CONUPIA)、チリ製品輸出業者協会(ASEXMA)、チリ品質管理協会(ASCAL)、金属関係中小企業協会(CORMETAL)からもそれぞれの分野で貢献ありと表彰され、記念縦・プレートを贈呈された。
以 上