執筆者:設楽知靖(元千代田化工建設、元ユニコインターナショナル)
私は1970年から1973年の三年間。入社した企業から離れて別の組織へ出向して人生の中で素敵な『出会い』を経験した。その記憶をたどって思い出を述べてみたい。最初はメキシコにおける駐在の中で出会った。1970年はメキシコでは6年に一度の大統領選挙の年で,ディアス・オルダス政権からルイス・エチェベリア政権へバトンタッチされた。
この勤務先、ジェトロ・メキシコ機械センターはイサベラカトリカからレフォルマ通りへ移り市内の中心部に位置していた。センターでは精密機械展示会が開催されたり、活発な活動がなされていた。その開催中に岡本太郎氏が訪ねてこられた。。あの小さな眼、無表情であまりしゃべらない方で、主に所長と会話をされていたが、メキシコを尋ねられた目的は三大壁画の巨匠、シケイロス氏とインスルヘンテス通りホテル・メヒコの一階の壁画を共同で製作するための打ち合わせであったと思われる。当時日本では大阪万博が開催されていて岡本氏が制作した『太陽の塔』は有名であった。メキシコには何回か尋ねてこられたが、これも偶然の出会いの一つであった。
後日、見た覚えのある顔がセンターを訪ねてきた。この人はあのマンボの王様で、日本でもセレソローサやマンボ・ナンバー・ファイブなどで“ウー”の掛声で有名なペレス・プラド氏であった。東京外大のスペイン語学科卒業の先輩スタッフが応対したが、訪ねてこられた目的は日本における著作権申請の手続きを知りたいとのことであった。たった一人で訪れたので誰もわからなかったはずであった。こんな出会いもあるのだ。
1971年2月にメキシコ機械センターが主催する南米ベネズエラの首都、カラカスで開催された産業見本市に現地事務局員で花火とコンサルタントコーナー担当として参加してメキシコへ戻り、同年3月末、ブラジルのサンパウロに『ジェトロ・サンパウロ・ジャパン・トレードセンター』を本部スタッフと設立するため日本産業機械市場調査業務とプラント市場調査業務とともに移転させた。トレードセンターはサンパウロの有名なパウリスタ通りに開設し、当時、まだこの通りには移る前の植民地時代の豪邸が多数みられる頃で、またブラジルは軍政のメジチ政権で、1972年9月7日は『独立150周年記念』を盛大に祝う計画がたてられていた。政権も安定し、経済も対米ドルに対して4パーセントの切り上げを行うなど、海外投資も活発な展開で日本からも注目されていた。したがって日本からの来訪者も多く、日本政府は1973年4月にサンパウロで『日本産業見本市』を開催する計画を企てた。
こんなある日、日本から連絡(当時はテレックスかレター)で日本で有名なSF作家(日本沈没で名前の知れた)小松左京氏が文芸春秋の“歴史と文明の旅”の取材で訪問されるとの連絡が入り、所長から“君、頼む”と言われて、ブラジリアからサンパウロ市内のコンゴニャス空港に着く小松氏を私のフォルクスワーゲンのカブトムシで迎えて、市内のホテルへ案内するとともに夕食を共にした。小松氏の希望は市内のバーに勤める人と普段の社会生活について話を聞きたいとのことでバーへ案内して私の粗末なポルトガル語の通訳で小松氏は小さな手帳を用意されていて熱心に勤める人の私生活などをメモされていた。帰られるときに、日本に帰られたら訪ねてきてくださいと言われたが1973年5月に帰国して日本でテレビをつけたら頻繁に登場する有名人で、ただ驚いて大阪の方におられたのでお会いすることはなかった。
また別の日に、日本で社会福祉の事業を行っている『あゆみの箱』のスターの一団がサンパウロを訪問しニテロイという映画館でチャリティー・ショーを行った。これは日本の移民社会に大きな人気を博した。メンバーは伴淳さん、京マチ子さん、勝新太郎さん、鶴田浩二さんなどの大スターであった。
この大スターが来られているときに私は別の訪問者のアテンドで日本人街ガルボンブエノの大阪橋のそばの小さなバー(今でいうならカラオケバー)で三人ほどの楽団が演奏してくれるところで飲んでいて、たまたまその三人のバンドで歌うことになり、『好きだった』を歌っていた時にバーの扉が開いて入ってこられたのが、なんと鶴田浩二さんだったのでした。正式な挨拶をしたのかどうか記憶にはないが、ただ驚きで、私の歌がどう映ったのかわからないが、ニヤッとされておられた。
その後トレードセンターへの訪問者は途切れることなく、その合間に本来の市場調査は行ったが、あるとき、これも大変な訪問者が来られた。後に外務大臣にもなられた方で、
大来佐武郎氏であった。所長からこのような方が来られるので、“君が“ブラジルの経済について説明してくれ”と言われたのであった。お名前は存じていたが、この方に私がブラジルの経済を説明するとは全く思いもよらなかった。そしてセンターの所長室で用意した資料に基づいてブラジル経済の現況について汗だくで説明をしたのでした。これは人生最大の汗かきの瞬間だったと思う。
最後に出張調査の途上『人生最大の出会い』が起こった。それまでは“メヒコ・セテンター(サッカー・ワールドカップ選手権メキシコ大会。1970年)“でブラジルが優勝した時のメキシコのテレビ、そしてブラジルのコーヒー宣伝のテレビでしか見たことのない『サッカーの王様』ペレー氏との出会いである。これも偶然で、私がたまたまニューヨークからカナダのトロントへブラジルから出張するときにリオ・デ・ジャネイロからニューヨークまで搭乗したバリグ・ブラジル航空にブラジルの有名なサントス・ティームが乗り合わせていたのであった。このティームは当時国交のない南アフリカで一試合だけ行うためにニューヨーク/ロンドン経由ヨハネスブルグへ行くためであった。
機内ではがやがや騒いでうるさい団体と思っていて、普段あまりサッカーの試合など見ないし、詳しくない私であったのでサントスティームとも知らず、ましてやサッカーの王様ぺレー氏が乗っているとは知らなかったのである。ニューヨークのJFKに到着してトランクを取るためにターンテーブルの前にいるとそこにテレビで見慣れた人物、王様ぺレー氏が現れたのでした。誰もアテンドする人はなく彼もトランクが出てくるのを待っていて、そのわずかな時の流れの中で、偶然出会いのあいさつとわずかな会話ができたのでした。握手をして二言三言かわしだけであったが、素晴らしい紳士であったことが印象に残っている。
彼はトランクを受け取って通関して、そのままロンドン行きのフライトへ乗り継いでいった。
このような三年間で”素敵な出会い“をした。その偶然に出会った人々は、この世の中に様々な影響を与えたスターであった。私はおのおの出会った人から”生き方“について少なからず『何か』を受けたと思う。人生では、いろいろな時、いろいろな場所、いろいろな人との出会いという偶然の瞬間があるが、その思い出とともに『記憶として記録する』ことはその人の宝物となる。
以 上