連載エッセイ400:深沢正雪「なぜ日本館は建てられたのか=日本文化の普遍性を建物に結晶化」 - 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

連載エッセイ400:深沢正雪「なぜ日本館は建てられたのか=日本文化の普遍性を建物に結晶化」


連載エッセイ400

なぜ日本館は建てられたのか=日本文化の普遍性を建物に結晶化

執筆者:深沢正雪(ブラジル日報編集長)

この記事は、ブラジル日報紙の9月16日付けのコラムを特別の許可を得て転載させていただいたものです。

サンパウロの日本館

京都の桂離宮

世界にも稀な建築物を実現した山本喜誉司とは

イビラプエラ公園にある「日本館」は8月28日に70周年式典を行った。この建物は、桂離宮を模して設計され、柱や瓦はもちろん玉砂利にいたるまで日本から持ってきた〝純和風〟建築として世界的にも珍しい。桂離宮は、17世紀に京都市西京区桂に建てられた歴史ある皇室関連施設。最古の回遊式庭園として知られ、池を囲んで庭園と建物が一体となって日本的な美を形成している。それを模してブラジルに建設した当時の日系社会の意気込みの凄まじさを感じさせる。というか、「なぜそこまでする必要があった?」と疑問に思うに違いない。

 これを実現したのは、サンパウロ州カンピーナス市に現存する「東山農場」支配人だった山本喜誉司(1892―1963、東京都出身)だ。山本は東大農学部を卒業後、三菱に入社し、小岩井農場で牧畜を学び、東山農事社が中国などで展開していた農場を経営するために、家族を北京において赴任。綿花改良や栽培に従事、計7年間も住んだ。4人の子供のうち長女瑶子のみ日本生まれで、次の息子2人(幹、坦)は北京生まれ、最後の三男準がブラジル生まれという現在からみても実に国際的な家族だ。1926年10月、山本は東山農場購入のために単身ブラジルに渡り、翌年には家族を呼び寄せた。岩崎家による東山農事株式会社(本社=東京)が東山農場の経営母体だ。岩崎久彌社長(創業者・岩崎弥太郎の長男)は、山本喜誉司に全幅の信頼を置いていた。

 そんな山本の二男カルロス坦さん(たん、88歳、北京生まれ)を2012年6月末、自宅に訪ね、岩崎家との関係などを聞いたことがある。坦さんは「岩崎久彌は日本移民のことをとても気にしていて、ブラジルの農業はサトウキビとコーヒーだけで、いずれ国際相場の暴落で痛い目を見る。だから父にお金儲けのためではない、作物の種類を増やすような実験農場をつくって農業技術を広めてくれ」と依頼したと聞いている。坦さんは「父は最初、農場経営のために一時滞在のつもりで来た」という。山本はブラジル人のポルトガル語教師をつけてすぐにペラペラになり、当地有数の研究機関だったカンピーナス農事研究所の学者や幹部と親交を深め、ここが気に入った。でも山本に永住を決意させる決定打となったのは、渡伯4年目の1930年3月に長女謡子が当地で腸チフスにより亡くなったことだった。

日本移民因縁のヴァルガス大統領

 そんな1930年、ゼッツリオ・ヴァルガスが革命を起こして政権を握り、共和国憲法を停止した。1937年からは独裁政権となり国粋政策を推し進め、1945年末まで権力の座にいた。大戦中に米国の強引な外交政策に巻き込まれ、欧州戦線にブラジル遠征軍を出兵させ、国内の枢軸国移民を迫害したことでも知られる。その一つが、戦中の1943年7月に起きたサントス強制立退き事件で、6500人の日本移民らが犠牲となった。日本人移民、ドイツ人移民、イタリア人移民への迫害や資産凍結などを正当化するために制定された「1942年3月11日の政令法第4166号」(https://www.planalto.gov.br/ccivil_03/decreto-lei/1937-1946/del4166.htm)は、驚くことに現在も有効だ。

 枢軸国民迫害の流れで東山農場をはじめとする大手日本企業や移民が経営する大農場は資産凍結された。そんなヴァルガスだが大戦終了後は軍部に退陣を迫られ、追い出された。だが彼が育んだDOPS(社会政治警察)はそのまま存続されて、日本移民迫害を続けたため、戦争を挟んだ期間の迫害が日本移民に強い精神的ストレスを与え、「日本が負けるはずがない」という強迫観念を植え付けた。

 終戦の時、敗戦を受け入れるかどうかという時、「負けるはずがない」と考えた移民の大半は「勝ち組」となり、受け入れた「負け組」と対立して殺し合いにまで発展し、ブラジル社会に最悪の印象を与えていた。双方が一緒に取り組める何かを見つけるしか、日系社会融和の道はないと山本は考えた。当初は祖国救援の「ララ物資」を送る運動がそうなるかと思われたが、勝ち組の反発を買って融和まで行かなかった。坦さんは「勝ち負け双方が手を組んで取り組める何かをと父は考え、聖市400年祭の準備を始めた」と振り返る。

訪日資金行脚で10万円から2億2500万円に

 山本は1954年、サンパウロ市主催のサンパウロ四百年祭の日本人協力委員会の会長に1952年に就任した。勝ち負け抗争によって地に落ちていたブラジル社会からの評価を良くするために何かできないかと奮闘を始めた。翌1953年1月に訪日して7カ月間も滞在し、予算折衝や寄付依頼、強力支援に専念した。訪日前に総領事を通して根回ししてあったはずの外務省に予算を確認にいくと「10万円」しかないことが分かった。それでめげる山本ではなく、ブラジル中央協会と一緒になって猛運動を展開し、吉田首相、岡崎外相らの激励と援助を受け、最終的には政府予算・国際見本市政府補助金・民間からの寄付を合計で「2億2500万円」も集めた。この一事で彼がどれだけの策士であったかが伺われる。

 『コロニア戦後十五年史』(サンパウロ新聞、1960年)によれば、山本は帰伯早々の1953年9月19日、第1回地方委員総会で《日本における困難な祭典参加推進工作がここまで順調な発展を見たことは移民通商問題を通じてブラジルが日本にとって如何に重要な国であるかということが、判ってきたからである。しかしその根本は現在在留民が多年いばらの途を切り開いて、今日の発展を見せていることによるもので、しかもその陰には数多くの犠牲者を出している。その犠牲者の霊魂が全日本の心を揺り動かしたのである》(26頁)と報告し、会場中からむせび泣く声が聞かれたという。

資材一切を日本から持ち込んで建設

 訪日中、山本は日本建築学会会長の堀口捨己に日本館設計を依頼し、資材一切を日本から輸入することにし、竹中工務店に建築を依頼した。《設計に基づいて基礎工事は鈴木威技師の手で開始され、一九五四年三月二四日には大江技師高瀬助手、竹中側山口技師、野田技師等の日本館建設技師団が着聖。つづいて四月三日には日本館資材を積んだ和光丸によって大工棟梁酒井喜太郎、左官横井進之亟氏が到着し、現地補佐の大工左官など四〇人が参加して四月二三日から八月一五日までの四カ月間文字通り突貫工事を行って完成に漕ぎつけた》(同26~27頁)

 山本は著書『移り来て五十年』(ラテンアメリカ中央会)で《そのサンパウロ市四百年祭の時、イビラプエラ公園の景勝の地点に建立した、桂離宮風の日本館の普請場を訪れて、母国直来の杉の正目を静かに撫でで見たり、くろずんだ日本瓦に頬ずりした、老人たちの姿を思い出す》(83頁)と記した。サンパウロ400年祭には10数カ国の民族コミュニティが参加したが、日本館のあまりの完成度の高さに驚かれ、最高の評価を得たという。

 坦さんも「イタリア移民やドイツ移民、英国や米国などがイビラプエラ公園にパビリオンを作ったが、常設館は日本だけ。父は『日系社会を統合するには時間がかかる。後世に残る立派なものを作らなければ、勝ち負け抗争で広がった悪いイメージを払拭することは出来ない』と考えました」と解説した。

 無事に完成した日本館の評判は広くブラジル中に知れ渡った。《この日本館は起工以来ブラジル全国の新聞、雑誌、ラジオに紹介され、その度数は千五百回に及んだ。日本人がブラジルに一番多く紹介されたのは一九三四年の移民二分制限法の排日記事と臣道聯盟事件であったが、それすらもこの回数にははるかに及ばず、この日本館とこれに伴う数々の催し物に於いて日系コロニアは一挙にブラジル側の悪感情を屠ったともいえるのである》(同27頁)と勝ち負け抗争による悪いイメージを塗り替える効果を発揮した。

「日本文化の普遍性」のシンボルとして

 日本館から日系団体の戦後の活動が始まったという意味でも、日本館建設は移民史において転機となった出来事だった。その日本人協力委員会を発展的に解消し、翌1955年12月に日系社会の中心機関・サンパウロ日本文化協会創立(現ブラジル日本文化福祉協会)を作った。それを母体にして3年後の1958年の日本移民50周年に至る過程で、終戦直後から「勝ち負け抗争」により二分していた日系社会の統合をなしとげた。

 日本館を設計した堀口捨己は山本と同じ東大。山本は1917年に農学部卒、堀口は1920年に工学部卒で学部違いの後輩だ。堀口は欧州の新建築様式に強い影響を受け、「日本人建築家」として、どうそれと相対していくかを模索する中で、数寄屋造りを〃日本建築の精華〃と考えるようになった。だから日本館は同様式の代表である桂離宮を模し、堀口の代表作の一つと言われる。彼は単に伝統回帰をしたのではなく、現代にも通用する「普遍性」を求めた。《ヨーロッパが20世紀にようやく気づいた非相称性重視の美学を、日本は何百年も前に数寄屋造りとして実現している、つまり先んじていると見た》(INAXレポート186号4頁)。今思えば、日系社会が戦後やってきた日本文化の中に普遍性を見つけ出し、ブラジル社会に植え付けようとする営為そのものが、ここにある。

 山本らを中心としたサンパウロ日本文化協会は1958年の移民50周年で、初の皇室である三笠宮殿下ご夫妻の来伯を実現して日系社会の統合に苦心した。皇室を迎えるのに勝ちも負けも関係ない、そんな移民心理を熟知した選択だった。さらに寿命を削るように、現在も使われる文協ビル建設に邁進した。不屈のヴァルガスは1950年の大統領選挙で民主的に再選された。日本館は1954年8月31日に竣工した。その竣工一週間前の8月24日、大戦中に日本移民を苦しめた因縁のヴァルガス大統領は政敵からの圧迫に耐えきれず自殺を遂げていた。

 一日4箱の愛煙家だった山本は肺ガンで1963年7月31日に亡くなった。山本は文協会長であると同時に、茶道裏千家のブラジル支部長でもあった。同年4月から病床に伏していた山本は、死の十日ほど前、副支部長の蜂谷専一を呼び出した。病床に伏しているはずの山本は、なぜか着物に着替えて正座をして待っており、《後を君が引きうけてくれれば安心して逝ける》(『山本喜誉司評伝』人文研、81年、62頁)と言ったという。死に際をわきまえた人物だった。今でも日本館はブラジルメディアで紹介されており、日本移民や日本のイメージを良くするためにどれだけ貢献しているか、その効果のほどは図りきれない。山本の読みがまさに当たったといえる。日本館がブラジル人から愛されている理由は、それ自体が「本物の普遍的な日本文化」ということもあるだろう。それゆえに維持するにも技術と費用がかかる。山本が実現に骨を折り、堀口が日本館に込めた「日本文化の普遍性」という志に共鳴した中島工務店(本社・岐阜)の中島紀于代表取締役は、日本移民80年祭(1988年)以来、90周年、105周年、外交120周年(2015年)等4回も自腹で宮大工を連れてきて補修を行ってくれている。

 そのような下地があったから日本政府広報施設「ジャパンハウス」が2017年にできたとき、ブラジル人はこぞって見に行った。ジャパンハウスは政府の予算次第でいつか無くなる可能性があるが、ブラジル人に愛される限り日本館は残るだろう。今もし山本同様の「先見の明」を持つ人がいたら、来年の日伯外交130周年で日系社会は何を後世のためにすべきというだろうか―。(一部敬称略)