執筆者:設楽知靖(元千代田化工建設、元ユニコインターナショナル)
この話はペルーの混乱する政治・経済情勢の中で化石燃料や電力エネルギーに悩む農業分野へのアイデアと日本の企業の一つのパンフレットの到達先の興味から生まれた。
そして、私の駐在していたところへの連絡により展開することとなった。その連絡とは『貴方の企業のパンフレットを入手した』。ペルーの大統領府からの連絡であった。私の企業の日本の本社のパンフレットがダイバーシフィケーション企画の中で、どのようなルートで大統領府へ届いたか,今もってわからない。
早速本社と連絡を取り、担当エンジニアとペルーの首都、リマでおちあい、1986年1月28日に大統領官邸を午前中に訪問した。大統領府左側の入り口から入門し、一番奥の大統領執務室へ通された。その執務室に入り椅子に腰かけていると五分くらいして現れたのが
時の大統領、アラン・ガルシア氏であった。身長190センチ以上写真で見る紺のスーツに紺のネクタイそのもので、私は緊張して直立不動で握手をして「大統領閣下:Excelentisimo Senor Presidennte」といった後は何を言ったか、あまり記憶にない。
そして、水撃ポンプの説明を担当エンジニアとペルーの友人とスペイン語で必死に続けた。約一時間以上の説明を行ったが、最後にデモンストレーションの設置の話になり、農業省のかんがい局を紹介してもらうこととなり、大統領のそばにおられた若い官房長官に命じて
農業次官へ電話をしてもらい、ただちに農業省へ行くこととなった。
大統領と握手をして別れて官邸の外へ出るとペルーの新聞記者が待ちかまへていて、『大統領と何を話したか』との質問と同時に、今、『米国でスペースシャトル・チャレンジャー号が打ち上げ直後に爆発事故を起こした』と聞かされたのでした。全く驚いた瞬間であった。
しかしながら、ただちに農業省へ急ぎ次官と面談するとともにかんがい局の長官を紹介してもらい局長との打ち合わせにはいった。かんがい局では『ペルーのかんがい計画の概要』を聴くとともに、その航空写真を入手したいと申し出て、今度は空軍省を紹介してもらってそこを訪問して事情を説明して資料を入手した。
このような状況からこの『水撃ポンプ・デモンストレーション・プラント設置}の話が展開されていったのである。関係機関から入手した資料を本社と現地で分析し,デモプラントをどこに設置すれば効果が上がるか、かんがい局の数十件の計画の中から、首都リマからほぼ1000キロメートルほどの距離内の候補地を絞り込む検討を目的としたスタヂィーを行った。その結果として、リマの北方ワラルの北と、アンデス山岳の有名な湯地場カハマルカの北から下った川沿いの二か所、そしてリマの南の日本人移民が1899年に佐倉丸で初めて入植したカニェテ川の近く、さらに都市全体が白く,シウダー・ブランカと言われるアレキパから太平洋に出る川沿いの四か所を候補とした。これらの候補地を本社のスタッフとともに現地調査を行うためチィームを組むとともに農業省かんがい局の協力を得るために打ち合わせを行った。
一方、我々は『ペルー農業』について素人であり、この水撃ポンプ設置にあたって効果を上げるためには農業知識を深める必要があり、そのため『モリーナ農科大学』に教えを乞う必要があった。そこで訪問のためにアポイントメントを取る努力をした結果、日系二世の学長であるフジモリ学長に申し入れをした。そして大学を訪問した。
フジモリ氏は熊本県飽託郡河内町出身の直一氏とムツエさん夫婦の長男としてリマに生まれ、ペルー国立農科大学へ首席で入学、首席で卒業した優等生であった。その後、フランスのストラスプール大学、米国ウイスコンシン大学と大学院で科学と数学を専攻して帰国して母校農科大学で1971年、教授・科学部長、そして1984年から89年まで学長、同時にペルー国立大学協会副会長を務め、1987年から89年まで会長の重責を果たした。
学長室の応接間で待っているとお一人でにこやかな表情でフジモリ学長が現れ、その穏やかな人柄が第一印象であった。早速に訪問の目的をスペイン語で話し、『水撃ポンプ』の根拠説明をしたところ、すでにその言葉も技術的内容もご存じであった。そこでただちにペルーの農作物、土壌、かんがいにつぃて質問を始めた。その後二度ほどお尋ねして教えを乞うたが、まさに学者、先生としての目の輝きに驚いたことを覚えている。
フジモリ学長は『海岸地域には水さえ引いてくれば農業はできるのです』と熱っぽく語られた。さらに土壌改良と作物についても『海岸線の土壌は塩分が多いのでかんがい水路を造った後,水洗による土壌の改良とともに作付け作物の選択が重要になる。豆類を選ぶか、イモ類を選ぶか、それともブドウ、果実類、綿花を作るかはそれぞれの条件と土壌改良を長期的に、計画的に実行することが大切で}}と強調された。
現在、世界で日常食卓に供される野菜のほとんどがペルーを中心とするアンデス山脈を原産地としている。ペルーは基本的に小麦以外の農作物はすべて自給でき輸出も可能である。地形は海抜0~5000メートルの高原、そして雨の豊富なアマゾン源流のジャングルと変化に富んでおり、太平洋岸の海岸線は年中雨が降らない砂漠の風景である。
このためペルーの農業地域は海抜2000~3500メートルの高原地帯に集中して いて太平洋岸はアンデス山脈から流れ出るわずかな河川の流域にあるだけである。フジモリ学長もリマの北に少しの土地をもって、わずかな水源で、いろいろな種類の果実を試験的に植えておられるとのこと。ペルーの国土、植物を愛し人の意見や質問にじっくり耳を傾け理路整然と答えられる学者としての人柄ゆえにペルー農業の発展にも心を寄せておられるのだとの印象を、その都度受けた。このときは、まったく政治に関心をもつエネルギーを感じなかったが心の中ではペルーの厳しい情勢を案じておられたのだと思う。
1990年7月、久々にお会いしたのが大統領選挙に当選されて就任前の多忙な時であったが農科大学の学長室と全く変わらず農業への情熱とこれからの政策実行への活力と自信を感じた瞬間であった。
フジモリ氏がさらに強調されたのは、ペルーは地上、地下、そして海に豊かな資源を持っている。食料品を輸入に頼るのではなく、農民の生産性を向上させることで、それにはかんがい計画の拡大が必要と語られた。このようなペルー農業に対するフジモリ氏のレクチャーを受けて『水撃ポンプ設置場所』のペルー国内現地調査を数人のチィームで実施、四か所の候補地,カハマルカの北とたまたま『ハレー彗星の地球接近}の世界的に最適な観測場所、アレキパの太平洋へ流れ出る河川は雨期に流量の増大で河岸段丘のあたりが流される危険性が大きいこと、ワラルの北の地区はすでにかんがい計画が進行中であり耕作地候補エリアが狭い難点が指摘されたために残りのりマ南方のカニェテ川の側溝(カナル・ラテラル)に適地があることと、日本人入植者が最初に入植した移住地に近く、首都リマからも近く『デモンストレーション効果』が期待できるとの結論で農業省かんがい局の了承を得て設置場所として決定した。
この場所は揚水かんがいエリア20ヘクタールも確保でき『農業省試験農場}として
スタート、フジモリ学長のアドバイスによって土壌洗浄、スプリンクラー設置によりアルファルファーの栽培から始められた。この試験場は、その後フジモリ氏が学長を務められたモリーナ農科大学の試験農場として移管されて、その他の作物を栽培している。
2024年9月11日、ペルーの元大統領、アルベルト・ケンヤ・フジモリ氏が86歳の生涯を閉じられ天国へ召された。1938年7月28日、首都リマで生まれ育ち、波乱万丈の人生を送られた。私がお会いしたのは50歳代の農科大学の先生であった。まさに先生そのもので政治家、大統領を目指すとは夢にも思わなかった。しかしながら、そのころのペルー国内経済は疲弊し、反政府テロリストの活動が活発化しアンデス山岳の各都市は荒れ放題で鉱業、農業の生産性は落ち込み生活の苦しい人々は海岸地方の大都市周辺に難民として住みつき集中する状況であった。
私も出張中にリマのレストランで一人夕食中に近くの官庁の建て物で夜間の大爆発が起こりテーブルの食器が落ちるほどの経験をした。また別の日にアンデス山岳の鉱山街を訪問した時に、この辺はテロは大丈夫かと質問したら、数日前に一番過激なテロ集団のセンデロ・ルミノソが近くを通ったという話を聞いた。ここで『9.11.』を話題にしたのは、私は2001年9月11日、あのニューヨークの同時多発テロの時にベネズエラ国開発調査のため、その中間の最終日で朝の一番で政府機関へ中間報告をするために首都のカラカスに滞在中で午前8時に会議室に到着してテレビを見ていて、まさにそのときCNNニュースで映し出されたのがニューヨークの貿易センタービルに二機目が激突する瞬間の中継でした。この9.11.のテロにより翌日カラカス発ニューヨーク経由東京行きの帰国ができなくなった。
この日にペルーのリマではOAS(米州機構)の総会が開催されており米国代表として出席していたパウエル国務長官は急遽専用機で帰国したという記憶がある。ペルーでは政権が1990年7月28日にフジモリ政権に代わり、テロ対策の強化、政治改革、経済対策の強化がなされ最大のテロリストグループ『センデロ・ルミノーソ』の首領、アビマエル・グスマン氏が逮捕された。このセンデロ・ルミノーソ(Sendero Luminoso:輝ける星)は1980年に設立され、1990年からグスマン氏が指導していた。彼はアレキパ出身、アレキパ大学でカント哲学の研究で学位を取得、アンデス山岳の鉱山都市アヤクーチョのワマンガ大学の教授であった。
フジモリ政権はこれらの政治問題を解決すべく努力し経済立て直しでは日本はじめ国際金融機関の支援を徐々に得ていたが、国内では国会において様々な重要法案を提出してもその都度反対派の抵抗にあって、またテロの容疑者を逮捕しても司法側の対応で釈放され進展せず、フジモリ大統領はついに堪忍袋の緒が切れて1992年4月5日緊急措置は発表して『アウトゴルぺ』(自主クーデター)を決行して議会を閉鎖した。
この対応は反民主主義との評価でOAS(米州機構)から非難され、民主選挙などの対応策を提示して努力して国政を軌道に乗せた。このようなフジモリ大統領の強硬姿勢は非難されたがテロ制圧の実績などで評価も分かれた。またもう一つのテロ組織、MRTA(テュパック・アマルー革命運動)は日本大使公邸人質事件を起こしたがフジモリ政権の強硬手段で解決したが、フジモリ大統領はAPEC会議出席の帰途、日本にて大統領を辞任し、その後チリーを経由して逮捕され、収監されて長い闘病生活を送られた。そして2024年9月11日に亡くなられたが、今も人気は高く、棺が安置されたリマの会堂には市民の哀悼の列ができている。
それは、歴代大統領は、ほとんどが国外に長く住んだりして国内を理解することが薄く、植民地時代と変わらない人生であったが、フジモリ氏はペルー生まれ、ペルー育ちでペルー山岳部の人々の生活を理解しペルーの教育に力を入れ、山岳部に多くの学校を建設し、農業などの生産性向上に努めて植民地時代からの長い歴史の中での格差のしがらみがなかったことが思い切ったことができた根拠であったと思われる。一方のテロの首領、グスマン氏は長い収監生活で釈放されることもなく、2023年9月11日にその生涯を閉じたのであった。
私は、フジモリ氏の死去、昨年のグスマン氏の死去、今年23年目を迎えた米国の同時多発テロに偶然に一致する『9.11.』という日にちを想起して、これは奇遇であったのかと思った。
フジモリ氏は1938年7月28日、ペルーの独立記念日に。征服者ピサロが建設した植民地時代最大の都市、リマで誕生した。以来ペルーで教育を受けフランスと米国へ留学した。添付『ペルー事件に見る中南米政治の複雑度分析』に見られるようにペルーの二重社会構造を理解し、日系人として社会格差の中でいろいろな困難を経験された。1990年の大統領選挙の『カンビオ90』のキャンペーンの最中もアンデス山間部を山高帽をかぶって自らトラクターを運転して、あの笑顔を絶やさず山岳の農民に接した。これはまさに植民地時代の中心であったペルーという歴史の中で古い政治体制を破る『植民地時代のしがらみ』に流されない、混乱されない姿であった。この姿勢は故人となられた 『アルベルト・ケンヤ・フジモリ}の本当の姿として国民の中に愛され、心に刻まれることと確信する。私もペルーでお会いし、日本では経団連の会合、米州開銀の名古屋総会、そしてメキシコに駐在していた折は直接面談はできなかったがホテルへお花を贈った折の礼状などは忘れられない。『水撃ポンプのご縁』として、謹んで哀悼の意を表し、天国から今日の混乱の世界に平和が来ることを祈っていただければと思う。
以 上
(資料):
1.『21世紀のパートナー・ラテンアメリカ』設楽知靖 著、JETRO Books,平成3年10月17日
2.講義『中南米地域研究』設楽知靖 著、DTP出版、2008年7月28日
3.朝日新聞・朝刊、2024年9月13日