執筆者:田所清克(京都外国語大学名誉教授)
(非宗教[世俗]的芸術とアフリカ•ブラジル習合[融合=sincretismo])
SalvadorやRio de Janeiroといった海岸に位置する都市では、17世紀と言えども住民は比較的にアメニティを享受することができた。しかしながら、他の都市ではそうとも言えず、一番収益があり裕福とみなされている北東部の砂糖生産地域においても、生活基盤は安定せず整っていなかった。
ペルナンブーコ州住民の関心事と言えば、砂糖プランテーション全般のこと、インディオや私略船によるフランス人の襲撃の脅威、宗教的な祭祀および
行事などであった。それぞれの農場には園主の大邸宅casa grande には防護壁が張り巡らされ、防衛の役割も果たす教会が建てられていた。宗教的意味合いのないものは、製粉に用いる石臼、インディオ式の槍や丸木舟などの実用的なものであった。
沿岸部や戦略的に重要なところには、教会とともに泥やわらでできた家からなる小さな集落があり、そこにはインディオがカヌーで、もしくは海賊船が到来するのを監視する要塞が築かれていることもあった。
農園の住民たちのインディオに対する脅威も次第に和らいだ。というのも、16世紀の末期ともなると、これまで奴隷にもしていた、定住性がなく非生産的で、しかも反抗的なインディオの確保が容易ではなく、それに代わる労働力をアフリカの黒人に求めたからである。
が、皮肉なことに今度は、その黒人奴隷への脅威が増すことになる。広大な国土のそこかしこに黒人奴隷が多数いる割には、ポルトガル軍の数が少ないこともその一因となっている。
従順な黒人は、日中は聖母マリアの前で十字を切り、夜になると、隠していたアゴゴー(agogô)、ビリンバウ(berimbau)、アフオシエ(afoxê)などを取り出して演奏していた。しかし、こうした奴隷の有り様も気がかりであったようだ。
キリストに信仰告白した彼らが、実際はどのような神を崇拝しているのか、内面で彼らは何を計画、企んでいるのか、奴隷使用者側には脅威に映っていた。
使用者側の最大の脅威は、決してまれではなかったが、襲われて殺されたり、暴動を起こされたりすることであった。中には、奥地に逃亡する者、抵抗の意味で自裁する者もあった。
事実、以前にも詳述しているように、黒人奴隷による暴乱はしばしば発生しており、ブラジルの歴史に刻まれている。人里離れた侵入が容易でない奥地に、逃亡奴隷集落であるキロンボ(Quilombo)を築き、自給自足のアフリカ王国を模した事例は、17世紀全般に亘って数多く確認されている。
かなり以前に、テレビ取材で訪ねたAlagoas 州の、最大の逃亡奴隷集落União dos Palmares とそこに立て込もこもった、奴隷抵抗の象徴的存在のリーダーZumbi についてはすでに言及している。
そのPalmares に至っては、1994年に掃討•破壊されるまで、2世代に亘って存在し続け、世襲制のアフリカの王国に近いものとなり、白人支配者のみならず軍隊の脅威となった。
黒人奴隷のそうした抵抗や反乱と同じく、支配者側の由々しき脅威となったのは、同化によってもたらされるものかも知れない。
彼らがもたらしたアフリカの文化は、表向きには排除、禁じられたものの、奴隷たちのタコ部屋(senzala)での音楽、原始的な呪術信仰、調味料を含めてた食文化および料理法は、蚕食さながらに次第に北東部全域に浸透し始めた。奴隷たちが密かに信奉し心の拠り所となっていた、アフリカの種々の宗教における神々は、想像以上に支配者側には恐れ脅かされるように映ったようだ。
従って、アフリカ的な精神性にあふれる奴隷たちの民俗音楽にしても、魔術的で異教めいた大西洋対岸の原始宗教は、統一に向けてカトリツクを信じる者にとってはきわめて危険なものであった。であるから、黒人宗教の増殖、拡大を警戒した敬虔なカトリックの聖職者のなかには毎年、ローマ教皇玉璽の前で信仰告白する者もいたらしい。
その一方大西洋の両岸では、マラー[marrano=秘密裏にユダヤ教を信仰する者に対する蔑称]やモウロ人[多くはイスラム教のアフリカ人]との戦いは白熱していた。

アフリカ文化とリズムは支配者側の抑圧の対象となり、決して歓迎されるものではなかった。であるから、前回触れたように、タコ部屋やキロンボにおいて、自らの奴隷の身を慰撫し祖国アフリカへの望郷の念を癒す、無くてはならない存在であった。
わけても宗教の場合はそうである。シヤンゴー(Xangô)[両刀の斧の神]、オシヨーシ(Oxôssi)[狩の神]、オグン(Ogum)[鍛冶の神]といった神々が、歌や彫刻、鋳造された魔除けによって崇拝されていた。
カンドンブレー(candomblé =黒魔術)の音楽、カポエイラ(capoeira =アンゴラ出自の一種の格闘技で、その持つ多義性から、身体芸術表現と捉えた方がよいかもしれない)、サンバ、ブラジルでもっとも特徴的なトーテムの祭であるブンバ•メウ•ボイ(bumba-meu-boi)、サルヴアドールの黒人金細工師が作ったペンカス(pencas)やバランガンダン(balan-
gandãs[いづれも銀製の果物の房や束]の作品などは、ブラジルとアフリカの文化が融合したものと言えないだろうか。
ポルトガルがブラジル植民地に課した文化的な抑圧は、一時的であれ、北東部での空白期間を生み出した。オランダがポルトガルを併合していたスペインと交戦状態にあるなか、オランダ船は1630年水平線上に現れてペルナンブーコを占領、1654年に最終的に駆逐されるまで北東部の大部分を占有続けていた。
オランダの北東部を支配による芸術家の到来は、作品を通して直接ブラジルの芸術に寄与した。例えば、画家であるFranz Post [1612-1680]は、非宗教的な作品を持ち込んだ。フラマンとイタリア様式の静物画家のAlbert EckoutやZacharias Wagenerも然り。
この三人の作品は17世紀のブラジルを忠実に描いていることから、私たちは多くの文献で目にすることができる。
他方、都市建設家のPieter Postは、ヨーロッパの最新技術に精通していたこともあって、運河を開通させたり、湿地を開拓したりしている。のみならず、レシーフエに政府の官邸が建設される際に、都市計画を担当もしている。
文化的にはオランダが果たした役割は過小評価され、フラマン式の家具や陶器などの生活習慣などに限定されがちである。しかしながら、宗教的に寛容で、ユダヤ人を宗教裁判から救済して受け入れた点は特筆すべきであろう。
そのオランダか敗北したのは、ユダヤ人にとっては死活の問題であった。ブラジルの地でも公に
ユダヤ教を信仰していた彼らも、追放される羽目になったからである。さすらいの民族であるユダヤ人の大半はオランダに戻ったが、一部の小集団が安住の地として選び逃げ込んだのは、米国、それもNew York であった。入植地となるその地を彼らはNew Amsterdam 呼ぶようになる。
こうして見るかぎり、New York はもともとブラジルから追放されたユダヤ人によって作られた都市であることが判る。
脇道に入って今回は、前回に触れた奴隷に抵抗した黒人指導者Zumbiと彼が立て籠った国内最大の逃亡奴隷集落キロンボ(quilombo)について話を進めたい。
ずいぶん前にすでに論じているが、改めて言及することにした。何故なら、ブラジル人とこの国の社会形成を識る上できわめて重要であると思われるからである。
Alogoas州のSerra da Barriga に位置するQuilombo dos Palmares は、16世紀末葉に発現し、オランダが北東部を侵略して白人支配者たちの奴隷のコントロールが効かなくなった1630年から1650年の間絶頂に達した。つまり、使用者や州の軍隊がオランダ軍に応戦し対応に当たる間、隙に乗じて奴隷たちは逃亡を図り、捕獲奴隷人たちが追跡するのには困難な奥地などに逃げ込んだのである。
Palmares と呼ばれるのには、その地に椰子の木が植生していたからだそうな。
およそ2万から5万人をかかえた、文字通りブラジル最大のキロンボがPalmares である。自給自足の経済で農業以外には、狩猟、魚撈、民芸品の製作などを営んでいた。
また一方で、Tabocas 、Macaco、Subupiraのごとき、農園から逃げた黒人によって作られた、近隣の集落とも接触•交流していたようだ。
ブラジルの地でのこの種のアフリカ王国の発現は、支配者側にとっては脅威そのものであり、およそ80年に亘って激しく抵抗するキロンボを破壊•消滅するために、度重なる討伐隊が送られた次第。
入手した1995年新聞記事(写真)でも述べている通り、驚くなかれ、Palmares での発掘調査の結果、その集落の住民は黒人奴隷だけではなく、インディオ、イスラム教徒、はたまたヨーロッパ人も共生していたとのこと。
(黒人奴隷に対する抵抗運動のリーダーで英雄: Zumbi
1678年、ペルナンブーコ州知事Aires Sousa e Castroは、当時のPalmares の指導者であったGan-ga Zumbaと平和協定を調印した。それについての結果は、研究者によって言説が異なる。
ある者は、事実上ポルトガル王室がキロンボの住民(quilombolas)を屈従させ、支配下におく内容のものであったので、住民の多くが不満を訴え自分たちの指導者であるGanga Zumbaを毒殺した、とみる説を主張している。
他方、Ganga Zumba は白人の政治的な罠にはまり、犠牲者であった、と捉える研究者もいる。
ともあれ、彼の死によってその地位は弟であるGanga Zona に一時的に移譲されたが、Ganga Zum- ba の甥に当たるZumbi がとつて代わる。
前の二人のリーダーと違ってZumbiは、敵対する白人支配者との交渉は無意味と捉え、これまでの消極的な防衛路線から一転して、積極的なアグレッシブな戦略に切り替えた。そして、農園を急襲する組織作りをして、農園の奴隷を解放するのみならず、武器、軍用品、食料などを強奪した。
Palmeiras を粉砕•破壊する幾度の試みが失敗に帰したこともあって、ペルナンブーコ州政府今度は、奥地のインディオ狩りで名を馳せた、残忍な奥地探検隊員(bandeirante) Domingo Jorge Velhoと契約することになった。
かくしてVelhoは、大々的な組織を編成してキロンボ一掃に臨んだ。1694年、Zumbi は敵の攻撃で負傷したものの、逃れることができた。しかしながら、キロンボの住民の一人であるAntônio Soaresが捕らえの身となり、拷問のあげくリーダーの隠れ場を白状するように強いられた。
結果として、1695年の11月20 日、Zumbi は待ち伏せに遭い殺される。のみならず、頭は切断されて広場でみせしめの意味で晒し首となった。そして、難攻不落のPalmeiras のアフリカ王国も1710年頃ついに陥落した。
Zumbi が落命した11月20日は従って今では、「黒人意識の日」(Dia da Consciência Negra) となっている。アフリカから労働力として強制離散された黒人たちは文字通り、千辛万苦の塗炭の苦しみを過去の歴史のなかで味わい、今もなお人種差別や偏見の対象になっているのは、否定できない。
その奴隷の先祖と末裔たちが、音楽、舞踊、宗教、言語、身体芸術などのあらゆる分野に亘って
ブラジルの文化を多様性あるものにして、この国の社会形成に向けて寄与してきたことを、私たちブラジルを愛する者は決して忘れてはならない。

[閑話休題] (Voltando agora ao nosso tema)
(16および17世紀の様式の問題)
ポルトガルの厳しい警戒の下で、最初のブラジル主義(brasileirismo)の兆候は民衆および民俗レベルに限定されていた。しかしながら、ポルトガルの影響が明白な宗教建築物においてさえも、避けがたい地元の特性を呈していた。
装飾を強調するバロッ様式もその例外ではない。イエズス会は土地(ブラジル)特有の様式を発展させる意味で寄与した。彼らにとって、ブラジル特有の傾向を排除する理由はなく、豊かで土地独特の過剰ともいえる装飾はむしろ称賛の対象ともなった。そして、こうした影響は絵画や彫刻にも及んだ。
概して、ブラジルの沿岸や裕福な北東部地域では、ポルトガルの原型をとどめる芸術作品が少なくない。が、違いに根本的な差異はないにしても、地域ごとにさまざまな形に派生していった。
サンパウロの奥地では例えば、母国との緊密な接触がなかったために、急速に変容した。僻地の建築である家の場合、建材に不可欠な粘土と石灰を用いるものとは大きな違いがあった。
石が不足するサンパウロの住民(paulista)は、日干しレンガや椰子の繊維、砕いた泥土を用いて家を建てた。こうした家はポルトガルのそれと違い炉床がなく、高低差のある傾斜面には建てられなかった。寄棟屋根の設置を容易にし、シナモンの木枠で支えるために長方形に建てられた。それは分厚い壁としっくい壁の広々とした部屋からなる家屋で、Mario de Andrade はカーザス•バンデイリスタス(casas bandeiristas)と呼んでいる。
落ち着いた平穏な雰囲気を醸し出す様式のそれは、ポルトガルというよりはむしろモーロの影響を受けているとみなされ、そうした家屋はコロンビアやエクアドルの家屋と類似しているとのこと。
他方、サント•アントーニオ農場やイナーシオ神父牧場は、奥地探検隊員がペルーやパラグアイから持ち込んだスペイン様式の影響を受けた建築物と言われている。
第一段階のブラジル植民地を通観すると、内装は教会のすべての角に金箔と彫り物で施されてはいるものの、バロック的でバロックよりむしろ前段階のマニエリスム(Maneirismo)様式が色濃い感じがする。
であるから、ブラジリアを建設した建築家であり都市計画者であったLúcio Costaは、この時代の芸術作品はプロト•バロック(proto- barroco)と見るべきであると提唱している。
他の芸術分野では、ポルトガル語で「いびつな形の真珠」で意味するbarrocoという単語が正しく使われることはなかった。例えば、演劇はヨーロッパとの関係で解釈され、教会音楽は主に単旋律であり、多旋律のバロック音楽と共通するところはほとんどなかった。
バロック様式が南米において頂点を迎えるのにはかなりの時を要した。何故なら、ポルトガル自体がその様式を受容し反映するのにひまどつたし、ブラジルに伝わるまでにさらに相当の時間を経なければならなかったからである。
その意味でブラジルにバロックが到達したのは、ヨーロッパではすでに終焉を迎え、ロココ(roco-có(rococóコ[バロック様式と新古典主義の間、フランスを中心にヨーロッパで流行した、絵画、彫刻、工芸、建築、室内装飾などに及ぶ美術上の様式を]
や新古典主義(neo-classicismo)様式にとってかわろうとしていた頃であった。
スペインの統治下(イベリア併合)[1580-1640]にあったポルトガルの植民地ブラジルのバロック芸術は、スペイン系アメリカ文学の世界に根を下ろしたそれとは似て非なるものであった。
ロココ様式に起源を持つバロック様式は、入念な形式の下に文飾に力点をおき、文学的感性の重要な特性の一つとなった。ブラジルのバロック文学についてはこの項目のところで触れるので、ここではこれ以上述べない。
※写真の一部→田所•伊藤共著『ブラジル文学事典』(彩流社)

1670年、アンテイル諸島のアングロ•ダツチ砂糖農場が、ヨーロッパ市場ではブラジルにとってかわった。結果として、これまで繁栄していた北東部の砂糖農場が、José Lins do Rego の<サトウキビ叢書>の作品の掉尾を飾る『消えた火』(Fogo Morto)が物語るように、斜陽化の道を歩む。
主要な収入源を失ったポルトガルは、奥地探検隊員(bandeirantes)に対して、内陸部に主として河川をつたって侵入しながら、金やダイヤモンド、その他の鉱脈を発見するように命じた。
それにより、Minas Gerais [ 多くの鉱山、の謂い ]州を中心にして相次いで発見され、経済の基軸はこれまでの北東部から、南東部、中でもミーナス地方に移った。,そして、” 金•ダイヤモンドサイクル” (ciclo de ouro e de diamante)の発現をみる。
当初は数百キロ、続いて数千キロの金がポルトガルにもたらされたと言われている。これは、当時の政治家Marques de Pombalによってリスボンを再建するだけでなく、貿易を通じて英国の産業革命を資金面で支援するのに十分な量であったそうな。
18世紀の当初の10年は文字通りゴールドラッシュで、金に犯された探鉱者は無論、冒険家、職人、軍隊から離脱した者、はては乞食や聖職者まで、鉱山に押し寄せた。
金鉱などの発見の立役者となっbandeirantesは、発見したものを力ずくで独占しようとしたが、1708~1709年にかけてのエンボアーダのらんで敗れた。しかしながら、金鉱の周辺で食料や工具類、奴隷を供給して生活は豊かであったようだ。
金•ダイヤモンドの発見は、産地のみならず、ブラジル全土に及んだ。リオデジャネイロやサルヴアドールは一大輸出港となり、北東部奥地と南部Rio Grande do Sul はMinas Gerais に牛馬、ラバなどを供して利益をあげた。
都市生活は繁栄に満ちて、Ouro Preto, Sabará , São João Del Rei , Diamantinaといった新たな都市が生まれていった。これらの都市はもはや、小さな村落ではなく、数階建てからなる豊かな家が連なるものへと変貌して、裕福な商人たちが住んでいた。
建築においては、都市交通の開発に伴い、これまでにない建造物、わけても宗教建築物が出現した。前の世紀の宗教建築物はもはや質素すぎるように思われ始め、改修される運びとなり、合わせて装飾が施された。内装には彫り物や彫刻、おびただしい数の金箔で覆いつくされた。
