執筆者:杉本清(コスタリカ国オロティナ市役所環境課、JICA海外協力隊)
コスタリカの首都サンホセから西方50㎞少しの人口1万弱のオロティナ市でボランティア活動を始めて、間もなく期限の2年となる。
本稿では、活動に関連した当地のごみ処理やプラスチックごみ問題、更に小学校のポスターセッションに参加して感じたコスタリカ人の表現力について紹介したい。
なお、これをまとめていた’24年11月の初中旬に、雨が毎日のように降り各地に大きな被害をもたらした。コスタリカでは、地理的な気象条件により半年間に渡って太平洋から流れ込む雨雲によって、毎年のように大雨の被害が生じている。この防災対策は最大の政策課題であり、ごみ対策の遅れにも影響していると考えられるので、そうした事情も交えて紹介したい。
九州と四国を合わせたほどの国土に500万人が住むコスタリカでは、2014年のごみ発生量は日量4000トンである。これの80%ほどは収集されて10か所ほどの埋立処分場に送られている。残りの処分先や方法は不明であるが、ごみの適正処理が始まって日が浅い時期であり、概ね従前から行われていた郊外の野積みなどで処分されたものと思われる。コスタリカでは人口が増加し続けており、これに伴ってごみ発生量も増えているので、中南米の多くの国々と同様に、処分場ひっ迫という問題に絶えず悩まされている。
コスタリカのリサイクルは、2010年に制定された法律8839に基づき、ごみの収集やリサイクル工場Acopioの設立が指示されて始まった。10年以上経過した最近のリサイクル率は、いまだ先進国には及ばないが10%近くとなっている。しかし、リサイクルが進んでいるのは主に首都圏の自治体である。多くの地方都市は、道路などのインフラ整備で財政に余裕がないなかで、選別した物を首都圏の処理工場に運ぶ費用がかかる悪条件もあって、リサイクルの増進が図れていない。更に埋立処分場を自前で持たない多くの自治体は、日々発生するごみの収集処分を民間業者に委託しなければならず、この絶対的経費も財政を圧迫している。
私の配属先のオロティナ市では、Acopioは設立時と変わらず5人ほどの職員で運営されており、リサイクル率は当初からほとんど増えていない。リサイクルできないごみは処分場に送らざるを得ず、その量はリサイクル率との差分、つまりほぼ全量が埋め立てされていることになる。こうした状況は多くの地域で同様であり、処分場がひっ迫するのは当然である。これの打開策として、市はごみ量の半分ほどを占める生物由来の有機ごみ、つまり生ごみのコンポスト化を目指しているが、なかなか進んでいない。
さて、5月から11月下旬までの半年余り続く雨期を2回経験した。その印象は、数日間隔で降雨があり、雨がちな日が多い期間といったものである。雨は急激に雲が垂れこめて一気に全開といった降り方をすることが多く、深い水路は瞬く間に激流になる。また、日本とは比べものにならないほどけたたましい雷を伴うことも多い。ただ、長く降り続くということはあまりなく、中心街では買い物を終えた人々が雨宿りをしているのをよく目にする。また、一種の気象周期であるのか、事務所から帰る時間帯になると決まって雨が降りだすことが多く雨具は必携であるが、少しの辛抱でやり過ごせるので、これくらいなら大丈夫かと思いながら生活できていた。ところが、今回の雨は全く違った。乾期がクリスマスの12月から始まるはずだが、太平洋の湿気をたっぷり含み長く連なった雨雲が地域を覆い、その期待も予想も打ち砕くほどに激しい雨が続いた。あまりなかった夜通しのトタン屋根を打ち続ける雨に、こちらに来てから解消されない雨漏りの不安も重なりほとほとうんざりした。本市では幸い災害は生じていないが、雨水処理に関係するインフラの水路や道路整備は市街地でさえ完全ではなく、一回の雨でプール化するところもある。農村部はなおさらで、整備工事がやっと完了し、待ち焦がれた地域住民が市長に感謝し、褒めたたえるニュースをよく見る。郊外では未整備の道路や水路が多いことを考えると、この喜びはよくわかる。安全安心のための環境整備が住民にとっての最大の関心事であり、市は一般予算の4分の1ほどをこうした整備事業に充てている。
この経費を確保するために、なんとかやり過ごせているごみ処理は現状のままでよいというのが市の基本的な考え方と思われるが、この状況ではその方針に納得せざるを得ない。しかし、そのしわ寄せは避けられない。多くの錆びて底が破損したままの鉄製のごみ箱もその一つで、完成時の立派な様子が想像できるだけにその無残さが際立つ。これが示す市の消極的な姿勢は住民の意識に影響しているようで、ポイ捨てや減量に配慮されないごみ出しといった悪しき習慣の兆しも感じる。また、担当職員の十分な配置が行えないために監視が行き届かず、人気のない場所での建設廃材などの不法投棄が見られる。失われた市民の意識を取り戻すためには多くの時間と手間が必要になるので、財政状況が悪くても細々でも市民に発信し続けることは必要である。その意味で、市の施設や商店に置かれた色分けされた分別ごみ箱は、中身は全て一緒にして処分場に運ばれる矛盾をはらんでいるが、今はこの分別を生かせないまでも、その大切さは伝えようとする市の意志のささやかな発現とも受け取れる。財政に余裕がなくても、ごみ袋の透明化など将来に繋がるごみ処理施策の検討はできる。こうした状況に埋没することのない職員の熱意と我々ボランティアの創意工夫がうまくマッチングすれば、歩みは遅くても前に進めることはできると考えたい。
コスタリカでは、世界のプラスチックごみ対策の趨勢に合わせ、2019年に法律9786が制定された。2021年までにストローやスプーンなどの使い捨てプラスチックの排除を目指すなど、思い切った多くの対策が示されている。勇ましい法律名「プラスチック汚染と戦い、環境を守るための法律」からは、政府の固い意志がうかがわれる。
しかしながら、この法律がどれ程に浸透しているのか? 少なくともわが町オロティナは、この法律に関しては無法地帯のように感じる。マーケットでは系列2店舗が買い物袋を有料化しているが、他の店は無料で、しかも店員は袋の必要を尋ね、袋を持たない客にはふんだんに提供している。一人暮らしの我が家でも買い物袋が溢れかえっている。世界環境デーでは、市主催のイベントがプラスチックごみを排除するをテーマに開催されているが、その趣旨の市民への浸透はもう一つだ。その証拠に、プラスチックごみのポイ捨てが非常に多い。あちこちの道端に捨てられたごみが気になって、活動の一つとしてごみ拾いをした。今は使われていない線路が中央を走る延長500mの目抜き通りで、毎回3㎏を超えるごみが集まった。値が張る紙類はあまり使用されていないので、ポイ捨てされたごみはほぼ全てプラスチックである。種類はペットボトルを筆頭に、買い物袋や菓子袋、ひいてはフォークやナイフといった食器類まで多種多様である。こちらの人は頻繁にスナック菓子などを食べるのでお菓子の袋は納得できるが、食器類が多いのは意外だ。市民の一人として、この結果が示す野放図さに恥ずかしさを感じる。
とはいえ、これらのごみは、洗濯ばさみを半年で折って使い物にならなくする強烈な太陽光で細分化され、水路を伝わってタルコレス川に流入する。最後は観光や漁業が盛んな二コヤ湾に放流され、絶え間なく環境を汚染している。こうした現状に身を置いて、名ばかりかと疑いたくなる法律の空疎さと市民生活に定着したかのような無頓着さに協力の気持ちは萎えがちとなる。2050年には世界の海でプラスチックごみ量が魚の量を上回るとの予測があるが、当市の現状を考えると、その時期はもっと早く訪れるのではないかと心配になる。屈指の汚染源国にはならないことを願うばかりである。
コロンビアの環境公社で活動しているとき、職員が庭先などでインタビュー撮影に応じているのをよく見かけた。HPでは、理事長や職員による多くの動画が公開されていた。マイクを向けられても、職員はみな即座に、臆することなく自然保護などの職務に関することやその社会的意義をとうとうと話せるのであろうかと感心した。来訪者の一般市民でも、性別や年齢に関係なく概ねよく話す。話の内容は感想など日常的なことであろうが、嫌がる素振りを見せず取材に応じている。日本ではそうはいかない。カメラやマイクを前にすると、若い人は動じないようだが、多くは構えたりしてうまく話せないものである。
中南米諸国のテレビ番組などで市民が話すシーンをよく目にし、表現したり主張する力はラテン系の人たちに共通していると思えた。日本人との違いの一つとして、この力、技能はどこから来ているのか、どのようにして備わっているのか興味深い。日常生活での情報化は、そうした力に磨きをかけてはいるが、その根源ではない。多分根っからの自己主張気質に由来しているように思う。「私の意見はこうだ」、「私はこれだけ学んだ」といった自己主張の一つの形として、表現する力が備わっているよう感じる。これのいき過ぎ型が道路をふさいで話し込んだり、マーケットのレジで客の行列を気にせず些細なことのやり取りに時間をかけている光景であろうか。日本の新たな学習指導要領では、プレゼン力は「生きる力」につながる能力として採用されている。そうであれば、厳しい環境の中南米社会ではこの能力はとりわけ重要で、生活のなかで自然に身につき発揮されているのであろうと頷ける。
先日、この力を養う現場に立ち会った。小幼併設校でのポスターセッションである。教室前の廊下に並べられた机に、幼稚園児と3,4年生がポスターや考案物などを置いて発表していた。唯一の園児は、A4一枚のポスターとペットボトルで作った花を置き、恥じらいながらも自己主張していた。テーマはプラスチックのほかには紙や廃油のリサイクルであり、いずれの内容も素晴らしかった。しかしプレゼン力では、女子生徒の物おじしない対応が際立っていた。ほとんどの子がスラスラと流れるように話し、質問にもよどみなく応じていた。学んだことを表し、伝えることを楽しむ余裕さえ感じさせる子もいた。一方男子生徒は、概ねおとなしめで心地よいという雰囲気はなく、発表の途中で緊張のあまり泣き出す子もいた。それでも理事長の励ましで気を取り直し、最後はちゃんと締めくくっていた。優秀作として紹介されたのも女生徒2人であり、常々感じていた女性の存在が大きい国との印象を再認識した。そういえばコスタリカでは、大学進学率は50%を超えており、女性は男性を上回って就学し国の大きな支えとなっている。高学歴で弁が立ち、表現力豊かな女性が力をふるうコスタリカ社会。周りを見れば、他の多くの自治体と同じく、今年女性副市長が市長に就任し、通信制大学の教授も、それに殆どの学校で校長や教師が女性であり、発信力が必要な職場での女性の活躍が目立つ。ところで、コロンビアの配属先でも重要な役職の多くを女性が担っていた。このことについて、同僚は男のように職を変えずに勤勉に長く務め、実績を上げている結果だと信頼を込めて評していた。彼女たちの穏やかで、動じない自信に満ちた発言の様子が思い出される。