連載エッセイ426:設楽知靖「カリブ海の小国『ハイチ』はどこへゆくのか」 | 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

連載エッセイ426:設楽知靖「カリブ海の小国『ハイチ』はどこへゆくのか」


連載エッセイ 426

カリブ海の小国『ハイチ』はどこへゆくのか
=ラテンアメリカ地域で最初に独立した国、その周辺の歴史と国民性を分析=

執筆者:設楽知靖(元千代田化工建設、元ユニコインターナショナル)

グアテマラの人口の4割は先住民であることから(外務省、2024)、先住民の村々においては未だ彼らの文化が出産ケアにも色濃く現れています。政府の働きかけによる影響もあり、最近は先住民の女性も病院で出産するケースが多くなってきたものの、それでもなおコマドローナと呼ばれる伝統的産婆が自宅分娩の介助をする習慣が現在も残っています。

ラテンアメリカ地域の中でアメリカ合衆国と南アメリカの間に位置するカリブ海に存在する様々な島国の歴史を考察してみると、その複雑さと人々の考え方の深さを追究すればするほど頭が痛くなる。しかしながら、そこを訪ねたものとしてはいろいろな記憶をよみがえらせて、さらに勉強してみたいと思うことも確かである。

私が最初に訪れたのは1972年ごろでサンパウロに駐在していた時、ブラジルのマナウスからDC-3機でボアビスタ経由ガイアナのジョージタウン入ったときである。その時乗客は私とドイツ人の二人だけで機内の座席には電気製品がシートベルトに括り付けられていて離着陸のときはギシギシと音を立てる隙間にドイツ人と座っていた。

ジョージタウンの空港に無事に到着して最初に驚いたのはイミグレーションの手前でなり親指にちくりと針を刺されてマラリアの検査をされたことであった。イミグレーションと税関ではわかりにくい英語で質問され聞き取りにくく苦労した。空港からタクシーで町のホテルへ行ったが、ホテルは木造二階建ての高床式で米国南部へ来たような印象であった。当時その街には日本人は漁網の商売をしている一人しかいなかった。次の国のトリニダード・トバゴへ行くため、休日であったので領事の自宅を訪ねたがやはり米国南部の家屋のような住まいでそこでビザを取得した。これがカリブ海訪問の第一歩であった。トリニダード・トバゴから西へプエルト・リコ、ドミニカ共和国、ハイチ、ジャマイカと訪問したが、今回は政治経済、治安の悪化の続くエスパニョーラ島のハイチ共和国に焦点を当てて考察することにしてみたい。

1.カリブ海の先住民タイノ人はどこから、いつ頃渡来したのだろうか=BD4000~1000年、南米のガイナあたりから=

タイノ人はバハマ諸島と大アンティレス諸島の全域に住んでいたといわれている。ただしキューバ島西部は例外で中米に近いこの地域にはグワナハタベイ人が住んでいた。民族歴史学者が同一の言語と文化を共有する地域の住民をひとまとめにして『善』ないしは
『高貴』を意味する単語『タイノ』と呼ばれる集団とした。記録によるとエスパニョーラ島には10万から100万人のクラシックタイノ人が住み、プエルト・リコ島とジャマイカ島に合わせて60万人以上が住んでいた。

スペイン人はバハマ諸島バージン諸島、小アンティーレス諸島には植民せず、ジャマイカ島キューバ島に定住するころは先住民文化はかなり崩壊しつつあったといわれている。しかしコロンブスはエスパニョーラ島とプエルト・リコ島でかなり大規模な永久多岐な村を見かけたとしており、それぞれの村をカシケCaciqueが治めていて、各村には1000~2000人の住民が住み、家屋は一軒のものから20軒、50軒のものまであったとされ、木造、茅葺の屋根で床は土間でハンモック(アマカ)をつって寝ていたと伝えられている。

2.コロンブス商会とスペイン王室のジョイントベンチャー事業による西への航海 =西回りアジア航路でグワファニー島でタイノ人と出会う=

1492年、イベリア半島において8世紀にわたるアラブの世界からキリスト教徒の再征服(Recnquista)がグラナダの陥落で完了し、多数の兵士が失業した。これに対してクリストバル・コロン(コロンブス)はスペインの両王、イサベル女王とフェルナンド王に『西周りのアジアへの計画』をプロポーズした。スペインの両王はこれを条件付きで承認し人員と3隻の帆船、サンタマリア、ピンタ、ニーニャを提供しコロンブス一行は1492年8月3日、スペイン南西部のバロス港を出港した。カナリア諸島から西に航路を取り大西洋を横断して10月12日にバハマ諸島のグアファニー島に到達したのであった。ここでコロンブスは領有宣言をしてグアファニーと呼んでいた島を『サン・サルバドル島』と改めた。

ここで『出会った先住民』が『タイノ人』であった。コロンブスはさらに西へ進みキューバ島の海岸からウインドワード海峡を横切ってエスパニョーラ島に船をつけてハイチの北岸、今日のカプ・ハイティアンで酋長グアカナガリに歓迎をされたといわれている。そこで旗艦サンタマリアがクリスマスイブに座礁沈没しニーニャ号で帰国することになり6人のタイノ人を乗せて、乗り切れない水夫を残し、その場所を『ラ・ナビダ』と名付けて一年間の滞在に見合った蓄えを置いた。

コロンブスの2回目の航海は1500人、17隻の艦船で1493年9月25日、カディスの港を出港、入植者を定住させタイノ人との交易を進展させて彼らをキリスト教に改宗させた。エスパニョール島のイサベラ砦には今も遺跡が残っている。これに対してコロンブスが3回目に入港したのはサント・ドミンゴで、弟のバルトロメがイサベラでは不便なのでここを開いたのであった。

3.カリブの人々はどのようにして滅亡したか =ヨーロッパ人の介入により、その政策に翻弄されて=

スペインは小アンティレスの島々には植民化せず主に大アンティレスのエスパニョーラ島、キューバ島、プエルト・リコ島、ジャマイカ島に植民を集中させた。そこでのスペインの植民地政策は『エンコミエンダ制』に組み込まれて先住民は主人の下で労働に従事、この制度に組み込まれなかった先住民は『奴隷』として使役された。

1509年ディエゴ・コロンが西インド諸島の総督に任命され、1524年までその地位にとどまりタイノ人滅亡の最終段階となった時期を支配した。この時にはアフリカの黒人奴隷がタイノ人を上回った。1520年代にはエスパニョーラ島の金鉱は掘りつくされ、その後の島の人口が減少したのはメキシコ、ペルーで銀鉱が発見され先住民文明を征服したために人口移動が起こったのであった。

4.カリブ海の島々のスペイン、イギリス、フランス、オランダの争奪戦=強制移送、同化、酷使と様々な政策=

スペインは先行して植民地政策に本国からのエンコミエンダ制を導入して対応、イギリスは抵抗する先住民の集団をセント・ビンセント島から中米への強制的に移送させアイランド・カリブの征服を完遂させた。追い出された先住民は『ブラック・カリブ(ガリフナGarifuna)}と呼ばれている。人口が減少したスペイン領では海賊の襲撃が相次ぎ1606年にはスペイン王フェリッペ三世は植民地住民にサント・ドミンゴに移るよう命じたのでエスパニョーラ島西部はイギリス、フランス、オランダが海賊に代わって拠点を築くようになった。

フランスは同化政策を行い1659年ルイ14世はトルテューガ島を正式に植民地化し1664年に西を領有宣言、1670年入植地カプ・フランセ:現在のカプ・ハイティンを築いた。こうして旧フランス領ハイチはイギリスと反対にウインドワード諸島に入植し三つの文化遺産、ヨーロッパ、アフリカ、先住民を引き継いだ。

5.エスパニョーラ島の『サン=ドマング』の生い立ち =サン=ドマングからハイチへ=

1697年『ライスワイク条約』によりエスパニョーラ島の西側三分の一がフランス領となった。フランスはこの植民地を『サン=ドマング』と名付けた。その首都は1770年カプ=フランセから島のゴナーブ湾に面したポルトープランスに移された。1625年ヨーロッパ諸国は西インド諸島に進出しスペインの派遣に挑戦。まず奴隷商人によって島民が連れ去られ人口が減った島々に移住した。イギリスはバハマ諸島を平定、フランスはバージン諸島を占領、そしてイギリス、フランス、オランダがリーワード諸島を分割、スペインは大アンティーレスのジャマイカとハイチをイギリスとフランスに奪われてしまった。

6.カリブ海の生態系の変化 =非原生種の移入によるプランテーション革命:砂糖とコーヒーの生産=

『グローバルな分業体制』として、ヨーロッパ、アフリカ、南北アメリカ、アジアの諸地域の関係。大西洋奴隷貿易による奴隷制度はヨーロッパを中核とする世界市場に砂糖,たばこ、コーヒーなどの換金作物を供給する最も適合した生産形態として採用された。つまり大西洋を挟むヨーロッパ、アフリカ、南北アメリカはヨーロッパの中核国によって市場経済が結ばれたが、世界史上最初に周辺化されたのはカリブ海地域であった。

それは世界市場向けの商品作物とその加工品を生産する役割を担ったのである。18世紀後半のサン=ドマングは当時世界で消費される砂糖の40パーセント、コーヒーの60パーセントが生産されていたといわれている。現在は自国消費をわずかに超える分だけといわれる。これらの植物は従来この地域にはなかったものである。

7.ハイチの独立と域内では冷たくされて =フランス革命,シモン・ボリーバル、フランシスコ・デ・ミランダにも冷たくされ=

1793年フランス憲法『人権宣言』は“すべての人はその身を売却することも、売却されることもしえない。人格は譲渡可能な所有物ではない”と規定したが、黒人奴隷制の廃止を明示することはなかった。ヨーロッパで革命戦争がはじまり1792年4月フランスがオーストリアへ宣戦布告、1793年2月イギリスはスペインと戦争状態に、これらは即座にカリブ海地域へ波及してスペイン軍がサン=ドマングの東隣のサント・ドミンゴから陸路進軍、イギリス軍は1793年5月マルティニクへ侵攻,この侵攻は敵国フランスの植民地の要衝を奪取する目的に加えてサン=ドマングの奴隷蜂起の影響が自国領の奴隷制植民地ジャマイカに波及するを防止する狙いもあった。

1801年10月31日フランスのナポレオンは黒人奴隷制、黒人奴隷貿易復活のため、サン=ドマングの反乱鎮圧遠征軍を派遣。1802年10月ムラ―トの指導者と黒人の指導者が大同団結を図りハイチ革命はフランス軍との交戦となって、1803年11月29日『サン=ドマング独立』を宣言した。そして1804年1月1日,デサリーヌ総司令官を筆頭にプチボアーダに集結してフランス世界から脱出することを全世界に向けて宣言した。このハイチ独立はアメリカ合衆国に次いで米州で二番目でラテンアメリカ地域で最初の独立となった。

このとき白人の居住者は3000人、1805年5月20日の憲法は{ハイチ国民は肌の色にかかわらず黒人と呼ばれる}と規定され残留していた白人も全て『黒人』と呼ばれることとなった。『ハイチ』という名前は『山の多い土地』という意味で先住民であるタイノ・アラワク族に由来する。

独立後のハイチは二つの社会、{クレオール社会}と『ボサール社会』が存在することとなった。前者は革命前の指導者の持ち物を獲得し、支配的地位を占め、後者はアフリカ生まれの奴隷で取り残された存在であった。そして独立を周辺地域に求めたが、ベネズエラの独立運動の指導者フランシスコ・デ・ミランダは青年時代に長くパリーに滞在しフランス革命に立ち会ったので奴隷とムラ―トの猛威に対して警戒心を持っていた。一方、もう一人のシモン・ボリーバルはラテンアメリカの独立運動の資金をイギリスに求めたが得られず、それをハイチに求めていた。ハイチの条件は『ボリバールが独立を果たした州の奴隷を解放する}ことであった。その結果、ハイチから資金、武器などの援助を受けたがボリバールは有色人支配を警戒していた。イギリス領ジャマイカ、スペイン領キューバもハイチ革命を危惧。こうしてハイチは周辺国から隔離されて独立に対してフランスに高額の賠償を払ったにもかかわらずラテンアメリカ・カリブから国際的孤立をしてしまった。

8.ハイチの独裁者の誕生:医師として大衆人気、また文化人として評価され =パパ・ドックの愛称とトントン・マクート=

フランシス・デュバリエ(Francis Duvalier)マルティニック出身の中産階級の家に生まれ、1934年ハイチ大学医学部を卒業して農村医療に従事したのち1938年ころからブーードウー教を研究して数多くの民俗学的著作を発表、アフリカ黒人の伝統を賛美する文化人として評価された。また、1946年~1950年は時の政権の厚生・労働大臣にハイチ政治は国民の多数派を占める黒人の庶民層と少数派で権力を独占するムラ―トのエリート層の対立で混乱し、クーデターで政権打倒が相次ぐ中、ヂュバリエは1957年民政移管の大統領選に出馬し,ムラ―トのエリート層に対抗して『ブラック・ナショナリズム』を標榜して黒人層の支持を得て当選した。

20世紀に入って選挙で大統領が選ばれるようになったが、辞任、クーデター、暗殺が:繰り返され政治不安の歴史が続いた。1940年代から1980年代まで続いたヂュバリエ親子二代の独裁政権下で腐敗が進み国を疲弊させてしまった。アフリカ系のヂュバリエはムラ―トへの対抗姿勢を明確にして支持されたが,私兵トントン・マクートを創設して気に入らない人たちを逮捕、処刑する恐怖政治を行った。

デュバリエは土着のブード―教の正当性を認めて国民福祉を進めて進歩的な政策をとりムラ―トのエリート層が独占していた公職や要職を黒人に解放した。このように従来できなかった政策を実施したが徐々に独裁色を強めて軍を分断、教会から外国人司祭を追放してローマ・カトリック教会から破門されもした。その後和解したが一方で私兵、トントン・マクートの存在は社会に不安を与え、反対派を含む非合法化に至って多くの知識人や技術者が国外へ亡命した。
(TonTon Macoute :ハイチ語で麻袋を担いだおじさん。ハイチの民間伝承で『クリスマスの誘拐魔』がよい子の家にはプレセントを持ってくるが、悪い子の家には麻袋を担いだおじさんがきて子供をさらっていくと伝えられている)

9.独裁者親子、追放後のハイチ =『解放の神学』を実践したベルトラン・アリスティッドであったが=

解放の神学を実践したのはジャン=ベルトラン・アリスティッドでハイチのカトリック教会の司祭で1953年7月15日ポール・サリューに生まれ、ノートルダム大学,ドミニカ共和国を経てハイチ国立大学で心理学、ノートルダム大学・大学院で哲学を学び、解放の神学ではハイチのカトリックのラヂィカル派の指導者的な人物となり、ラジオ放送を通して説教をした。ヂュバリエ政権は彼を黙らせようとした。しかし1986年4月の政権崩壊が彼を救った。しかしながら1988年年にはサレジオ会から『憎しみの暴力、階級闘争の高揚を煽っている』とされて追放される。その後政治活動に転じ、期待されて民主的な選挙で大統領に当選。貧困層を支持団体として教育の普及に努めた。しかし、一期目は1991年9月軍事クーデターで、二期目は2004年2月。元軍人の多数派の反乱で倒されて、米国の手配で中央アフリカへ亡命した。

10.各国のハイチ支援はどこへ消えたか  =元軍人、一部の富裕層に握られて=

1950年代後半からハイチが受けとった外国からの支援の多くは悪名高い独裁者、パパ・ドックの金庫に、また息子のベビー・ドックへ。1991年父の死後、その地位を継いだ息子は資金を外国の口座へ移したといわれているが、近年のギャングの活動とハイチの混迷への転落を歴史的に結びつけることで1995年にその端を発したという向きがある。当時、アリスティド大統領は国を追われたのち米軍の助けを借りて権力の座に返り咲いた。
この帰還にあたりヂュバリエの手法を参考にして軍を解体して『民間警察部隊』を創設して隊員はポルトープランスの荒れた地域から集められた。そのためハイチ支配層と衝突、再び国を追われた。その間にギャングたちは犯罪シンジケートを組織し進化させて、麻薬と武器の取引、食糧不足のさなか国内で最も弱い住民を対象に略奪を繰り返した。これが現在の危機の悲しい背景とされている。

2010年の地震により首都ポルトープランスは壊滅的状態となり死者は数十万人と言われハイチの状況を気にかけた全世界が復興支援に数十億ドルを出す外国政府や国際組織が約束をしたが、支援は一部のエリート層のポケットに消えたといわれている。数世紀にわたる政治家と支配層の汚職、たった6つの裕福な一族が主要産業を支配、そのため2010年の地震の復興支援は上層階級の利益に、国内の政界、産業界のエリートは麻薬売買に関与しているといわれている。

11.独立後の二重社会の構造の継続 =クリオール社会とボサール社会の中で=

サン=ドマングがハイチ革命の末に独立したので、フランス植民地帝国は崩壊し、かくして植民地の覇権抗争におけるイギリスの優位、フランスの劣位が確定した。1803年4月にはフランスはルイジアナをアメリカ合衆国に売却。ハイチでは『クレオール社会』という植民地生まれのムラ―トがかつて白人が持っていた生産道具をそのまま占有して優越的支配的地位を獲得した社会を形成し、一方でアフリカ生まれの奴隷は独立後に戦利品の分け前から排除されて取り残された社会的、文化的空間を占める存在として『ボサール社会』と言われる社会を形成した。この支配階級はポルトープランス共和国ともいわれ、その外側は農民となって200年続くこととなった。これが国民の統合の欠如、国家の自律性の欠如となって表れており脱植民化は『未完』の状態が続いている。

12.ラテンアメリカ社会の『クリオーリョ』の解釈 =独立後の国と地域による人種混血の違い=

クレオールの立場、『クレオリテ』Creolite:クレオール性)』、{クレオリザシオン;Creolisation‘クレオール化)』はいいずれもフランス語。クレオールは文化的には様々な異なる文化の融合・共生を社会的には多人種,多民族の混血性,共生・共存を意味する。
『クレオール』はフランス海外県(ギアナ、マルティニック)から生まれた言葉でクレオール人は単一の起源ではなく、複数の起源(根)を持つ存在である。クレオールの立場にこそ『人類共生』の可能性がある.今日では人間の移動が広範囲になり移民の存在が当たり前になった。

スペイン領ラテンアメリカで地域では、植民地生まれの白人を『クリオーリョ』(Criollo)
と呼んで、これらの人々が中心となって独立運動を指揮しスペイン王党軍と各地で戦って勝利して『独立』を成し遂げた。私はこの植民地生まれの白人をクリオーリョと習ったが
フランスの植民地生まれの言葉『クリオール』は人類共生との意味であることが分かった。
そこでカリブ海に面するベネズエラは有数の『混血社会』といわれ、この国に住む土地っ子は自らを『白人』とも『黒人』でもなく『混血』とみている。1878年の第一回国勢調査では『クリオーリョ集団』は混血:ヨーロッパ系、アフリカ系、先住民系の要素と『先住民集団』に分けられ、人種、民族の区別がない。これは征服、植民、奴隷貿易、独立闘争、
共和国成立という歴史を通して『受容』であることによって『混血』を形成し混血の国民像をつくり混血意識の共有で人種的排他性が存在しなくなったのだと思われる。しかし、スペイン本国人(ぺニンスラール)を追いだし植民地生まれの白人『クリオーリョ』が上層部に代わって支配して格差社会を形成したことは確かである。

13.ハイチの難民はどこへ行くのだろうか、カリブの統合性の困難さ=ギャングの横暴により無政府状態の中で、難民と不法移民なって=

ハイチは最初はスペインに、次いでフランスに統治されサトウキビ、コーヒー栽培のため西アフリカから労働力として黒人奴隷が移入された。そしてエリート層のムラ―トは高等教育をフランスで受けてフランス革命の中で学んだエリートはこの革命に触発されてアフリカ系の人々とともに蜂起した。ハイチはラテンアメリカ地域で一番初めに独立したが、周辺の国は、まだ奴隷制を敷いていた。そしてヨーロッパの諸国がカリブ海の大小の島々に植民していたので『カリブの統合の困難性』が指摘された。その原因を考察してみると、諸国間の経済格差、域内の貿易不均衡、多くの国や地域が熱帯産品の輸出と観光を主産業としているため相互補完性が弱い。

そしてスペイン、イギリス、フランス、オランダ、デンマーク、アメリカ合衆国などによって島ごとに別々に、しかも数世紀の長きにわたり植民地支配下に置かれたという歴史的多様性と孤立性、さらに独立国もあれば独立後イギリス連邦の一員、マルティニック、グアドループのような旧宗主国フランスの海外県となったり、政治的な多様性が存在している。
またアフリカから奴隷として連れてこられた黒人はじめ、インド、ジャワ、中国、中東、日本など多方面から移民によって形成される人種、民族的多様性、その結果として言語、宗教的多様性が生まれ分断された地域でもある。これらが対等、平等という協力関係、連帯を難しくして自ら『アイデンティティー』を求めることに苦悩している。

ハイチは政府が弱く、政治家は全員が一匹オオカミで足の引っ張り合い、警察組織は小さく、そして人口の10パーセントしかいないエリート層のムラ―トに利権や富が集中、80パーセントが貧民層である。このような状況でギャングは数少ない就職先とも伝えられている。

14.米国トランプ政権とメキシコのシエンバウム政権の影響は =不法移民対策と環境問題の両国のはざまで=

状況がますます悪化するハイチの首都、ポルトープランス(フランス語で王子の港)という素晴らしい名前を持つ。2021年7月ハイチのモイーズ大統領が私邸に押し入った武装集団に暗殺された。その後今日まで国土の90パーセントをギャングが支配する無政府状態で治安が極端に悪化している。ギャングは毎朝外出時間を指定し住民の代表者に連絡するといわれ、それ以外の時間に外出すると敵対するギャングとみなされて撃ってくるという。

2024年に入っても1500人が殺害されたいわれ、国際空港は閉鎖され4月には日本大使館も閉鎖されている。エスパニョーラ島の三分の二を占めるドミニカ共和国へ脱出する人が多く、そこで暮らしてもドミニカ政府の移民局員に脅されるケースが増えている。
これらのハイチ難民はさらに国外へ脱出してベネズエラ、コロンビアを経由してパナマのジャングル地峡を命がけで通って、さらに中米諸国をバス、トラック、貨物列車あるいは徒歩でアメリカ合衆国の国境を目指してメキシコからリオグランデ川を渡って不法入国をしようとしている。

2024年10月1日に就任したメキシコのクラウディア・シエンバウム大統領も、この不法移民対策では本国送還かメキシコ南部への送致で対処しているが2025年1月20日に就任するアメリカ合衆国ドナルド・トランプ大統領政権は強硬な不法移民方針を打ち出すと思われ米国・メキシコ間の対応がどうなるか注視される。この問題のみならずトランプ政権は化石燃料対策では開発促進を明言しており、一方のシエンバウム政権は環境問題を重視しておりUSMCA(旧NAFTA)の関税問題もありその対応の問題とともに山積していることの多い両国である。

おわりに:

ハイチ問題を多方面から、また歴史面から述べてきたが、カリブ海地域の多様性については簡単に語れるものではない。私のこの地域の訪問はハイチ、ジャマイカ、プエルト・リコ、トリニダード・トバゴ、バルバドス、あとは小国であるが、ハイチの印象とジャマイカ、トリニダード・トバゴについて少し述べてみたい。

トリ二ダード・トバゴは石油、天然ガスの産出国として業務上何度も訪問したが人種的にはアフリカ系とインド系が半々でインド・カレー料理やそれらの店で働くインド系の人々に察した印象と、ホテルで週に一度、月曜日の夜プールサイドで宿泊客を交えて民族楽器ドラム缶を改良したスチールバンドの演奏でリンボウダンスを踊る競技を観光客も交えてさせてバーの一番低いところを最後に通った勝者にはラム酒が一本贈られて、私も最後まで残ってカナダ人の女性とラム酒をもらい、プールサイドの観光客にそれを開けてふるまったことがあった。またスティールバンドの演奏カセットを買って、しばし家で聞いていた。また、木彫りで黒人を彫った人形も素朴で素晴らしい作品である。

その隣のバルバドスは米州開銀(IDB)の支部があったので二度ほど情報収集で訪問したが、ここは観光地としての魅力の島であった。さらにプエルト・リコではモロ城などの砦がるがやはり米国の影響が強い石油化学プラントなどの多いカリブとは違う雰囲気の場所である。

次にドミニカ共和国はスペインが最初に拠点としたところで、やはりスペインの街のたたずまいの印象であった。

ジャマイカはイギリスの影響が強く、訪れた当時は、まだイギリス軍の警備隊が駐屯していて休日にキングストンの裏のブルーマウンテンに行ったところ、そこには軍の将校クラブがあり休日を過ごす兵士の姿があって、日本人は珍しく話しかけてきて小さなバッジを記念にプレゼントされた。

そしてハイチの訪問では空港から首都、ポルトープランスの間のバラックの貧しい生活圏を見たりしたが、休日にタクシーで丘の上の昔、ラム酒の醸造所であったところで、当時の器具を見ていると観光用にラム酒の試飲サービスがあり、小さな盃にアルコールの度数別に数種類のラム酒がふるまわれて三種類くらい飲むと、かなり強いのでほろよい機嫌になるぐらいであった。外に出て丘の上からポルトープランスの街を眺めると、ひときわ美しい建物が大統領官邸であった。今は地震でかなり被害を受けて、多分復旧していないのでは。また港の近くでは観光客向けに素朴な民芸品を売っており木彫りの額を買って今も飾ってある。さらにタクシーの運ちゃんに、どこかビーチへと頼んだところ、案内してくれたのが『イボビーチ』というところで、郊外の駐車場からボートで渡るメンバー・クラブになっているところでメンバーと観光客以外は行けないところであった。外国人観光客として入ったが、沢山のバンガローがあってそれぞれに週末を過ごす上流階級のファミリーのようで本を読んでいる一人だけの姿もあった.バンガローの間にはレストランもあって食事もできた。まさに別世界で格差を感じた訪問であった。

以上が今回の混乱が続くハイチとラテンアメリカ地域のカリブ海の複雑分析である。さらに注視してみなければならない。何とか復興を願う。

以  上
                            
<参考資料>
1.『ハイチの栄光と苦難』=世界初の黒人共和国の行方= 浜 忠雄 著、刀水書房2007年12月10日
2.『ラテンアメリカ時報』、2024年春号、ラテンアメリカ協会
3.ラテンアメリカ協会、連載エッセイ・365『大西洋からカリブ海、さまざまな“出会い“に係る空間の考察
4.『太鼓歌に耳をかせ』石橋 純 著,松籟社、2006年1月31日
5.朝日新聞、2024年5月23日,朝刊『ハイチ危機』上下
6.朝日新聞、2024年5月27日、朝刊、アジア経済研究所・山岡主任研究員
7.ウイキぺディア