連載エッセイ431:田所清克「ブラジル雑感」その56 ブラジルの芸術② | 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

連載エッセイ431:田所清克「ブラジル雑感」その56 ブラジルの芸術②


連載エッセイ 432

田所清克「ブラジル雑感その59」
ブラジルの芸術 ③

執筆者:田所清克(京都外国語大学名誉教授)

ブラジルの芸術 Arte Brasileira
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 ブラジルにあって18世紀の壮重なバロック様式に統一されたものはなく、地域によってさまざまな様相を呈していた。
 例えばバイーアでは、多くの装飾が施され、そのなかでの最高傑作はサン•フランシスコ第三教団の建物で、南北アメリカでもっとも建築物の一つとみなされている。その製作者Gabriel Ribeiroは、前面に木彫装飾を施し、内分泌に日が入らないように工夫をこらした。そして、松明で内部を照らすことで、複雑な燭台や柱頭、彫刻、女人像柱、怪物、天使等で壁面を飾り、洞窟のように見せかけた。建物は19世紀に改修されたのであるが、その後元のデザインへと復元された。
 他方、サルヴアドールにはサンタ•クラーラ修道院(Santa Clara)とイエズス学院も建造されたが、これなどはリスボンにあるSão Vicente de Fora学院を忠実に模したものと言われている。ここでも輸入された彩飾タイルが用いられ、教会の身廊、修道院の回廊、私邸の壁を飾った。
 宗教とは関係のないものはまだ一般的ではなかったが、タイルを用いることで神聖な芸術品へと変容していった。例えば、サン•フランシスコ修道院はロココ調の渦巻き状の彫り物に特徴があるが、ここで使用されているタイルは1737年、Bartolomeu Antônio de Jesus が描いたものらしい。彼の作品はオランダのモデルを参考にし、ヴィーナスやキューピッド、四つの胸を持つ女性像を描く一方で、修道士の献身ぶりを物語っているかのよう。
 バイーアの様式を他の北東部地域も継承したが、より祝祭的な雰囲気を醸し出しているように思われる。レシーフエのサント•アントーニオのフアツサードやテルシアーリオ•フランシスカンス黄金礼拝堂はその一例。
 ヨーロッパではバロックに変わるロココ様式がまずオリンダに採り入れられた。17世紀の簡素ではあるものの美しい祭壇は、不幸にして度重なる改修のために一部は破壊されもした。その復元のための費用は、サトウキビの収益から賄われたようだ。
 北東部最北のマラニョンでは、多くの教会が災害に遭い、改修を余儀なくされた。サン•ルイース教会のフアツサードやフレスコ画は、19世紀に修復されている。

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 パラー州においては、Antônio Giuseppe Landiがリスボンから到来し、ベレンに居を構えた。そこで彼は、自らが埋葬されることになるサンターナ教会、聖母慈悲教会、聖母カルメル山教会、聖母黒人ロザーリオ教会、総督公邸、グラン•パラー会社(Companhia de Grão-Pará)の本社を設計した。
 ランディの作品はマニエリズを継承し、ロココ様式を控えめに採り入れたものであつた。新古典主義(Neo-classicismo)へと変貌する過程を象徴する建造物とみなされている。このランディが手掛けた様式はポルトガルては、ポンバリーノ(Pombalino)として知られている。
 北部および北東部の沿岸沿いの建築物を語るとなれば、軍事建築物は黙過出来ない。現在ではそのほとんどが博物館になっているが、200以上の要塞は18世紀に建造されている。それらはポルトガル王国の紋章や花をモチーフにした石彫り物で装飾されている。
 ミーナスの金によって急速に発展したRio de Janeiroは、1763年、バイーアに代わって植民地の首 当時のカリオカの芸術家のなかで光芒を放ったのは、Valentim da Fonseca e Silvaだろう。”マスター•ヴァレンティン” として知られ、リオの都市再開発を初めて立案した人物である。
 その一環として彼は、カーニバルでも名高き車中の地区であるMangueira の丘を一部取り崩して公共歩廊を作ったのみならず、数多くの礼拝堂や聖堂、通路、邸宅などを建設した。この建設では、ポルトガルのD. Manuel I世からイタリアのマネリストにいたるまで、さまざまな様式が採り入れられているのには驚きを禁じえない。
 サンパウロの僻地の建築物は例外的な特徴を保ち続けている。これらは現存する聖母受胎教会、修道院、修道士のAntônio de Sant’ Ana Galvãoが1774年に建設し今は宗教芸術博物館になっている聖母光救護所などの宗教建造物に例示されよう。

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[ミーナスはバロックおよびロココ様式の宗教的建造物の宝庫]

 ブラジルに出向いた折りに、2回、泊まりがけで、州都Belo Horizonte を含めて、金の採掘で栄華をきわめたOuro Preto などの都市を訪ねたことがある。そこはまさしく、バロック建築の宝庫で、ミケランジェロに匹敵するAleijadinho の手掛けた数々の作品を目の当たりにすることによって、この国の歴史を探り美しい伝統を学ぶことができた。
 バイーア州のSalvador 同様にOuro Preto を訪れてまず驚くのは、京都や奈良がそうであるように、教会関係の建造物の多さだろう。しかも、国宝級のものが少なくなく、内部の壁は概して、金産出地であったことから金箔で装飾されており、壮観そのものである。華麗無比のそうした金銀装飾を直に見て私は感動して、どれ程写真に収めたことだろうか。
 それにしても、余談ではあるが、かくも宗教関係の建造物が多いのはきっと、いかに植民地時代のこの地の住民が教会と密接に関わっていたことが想像される。
 Minas Gerais の村で見られるバロック様式は、北部のものほどポルトガル風ではなく、祭壇はパステルカラーの軽い木材で作られ、シンプルなパネルの中でひときわ際立ったものになっている。

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[ミーナスの旧都Vila Ricaのバロック芸術家:Antônio Francisco Lisboa]

 ” 豊かな町”という意味をもつOuro Preto の旧称Vila Rica。それはエスピニヤソ山脈南部の起伏の激しい山岳部に形成された町であるが、一帯は金、ダイヤモンドを探してバンデイランテが跋渉したところである。
 1720年にカピタニア•デ•ミーナスの首都となったVila Rica はそもそも、雄傑Antônio Dias Oliveira 率いるバンデイラが金鉱探索のためにもうけた村落がその発端のようだ。
 Vila Rica がOuro Preto[=黒い金]と呼び名が変わったのは、上述のAntônio Dias Oliveira の隊員の一人であった黒人が金を発見したことに由来する。
 Vila Rica は18世紀後半まで、いわゆる黄金期であったといわれるが、はや177 0年頃からは金の産出量は激減したらしい。にもかかわらず、ポルトガル政府は苛斂ちゆう求のごとく課税した。結果として、国の独立に向けて導火線となる「ミーナスの陰謀」(Inconfidência Mineira)は出来した。これについてはすでに詳述しているので、ここでは割愛する。
 前置きが長くなったけれども、Ouro Preto では見るべきものが目白押しである。
 中でも、Aleijadinho の作品をもっとも多く蔵しているSão Francisco de Assis 教会、Nossa Senhora da Conceição 教会、Senhor Bom Jesus 教会は必見である。
 Lisboa は混血の私生子で、長年に亘り進行性の病に苦しみ、手も足も自由に使えなかった。このことから「小さな不具者」を意味するAleijadinho と呼ばれていた。しかしながら、紛れもなく彼はアメリカの植民地芸術を具現した偉大な彫刻家であり建築家の一人であったことが容易に想像される。

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[“混血のEl Greco=Aleijadinho の最高傑作の一つ:São Francisco de Assis 教会]

 Minas Gerais にある教会の中で最高傑作はおそらく、São Francisco de Assis 教会であることは疑いない。この名の教会は、Ouro Preto 以外にSão João Del Rei にも建立されている。
 双方ともAntônio Francisco Lisboa の作品である。持病の頼病で手足が不自由のために、現地にとれる石鹸石を用いることで彫刻刀による作業の負担を軽減し、晩年にはさも切り株のようになった手に彫刻刀を巻きつけながら作品作りに励んだ不具者のプロ意識は、壮絶というしかない。
 音楽家でもあり『ブラジルの音楽』(Música do Brasil)の著書もあるMario de Andrade はこの偉大な芸術家を” 崇高な小さな男” と、また同じ近代主義者のOswald de Andrade は、聖書の預言者が拷問を受けてむごい状態にある彫刻群像を目にして”ミーナスの金で洗われた石鹸石の聖書”と形容している。
 他方、表現派(expressinista)にほぼ近いバロック芸術家であるAleijadinho の才能を強調せんがためにAndré Mauris は、彼を” El Greco ” と称している。

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 後でリスボアの人となりについては詳述するが、今では彼は伝説的な存在となっている。当時のこの偉大な芸術家は、多忙きわまる職人であったようだ。名匠とまでみなされていたことから、土地の権力者や有力者からも招かれ、好待遇を受けながら聖具室で作業をしていたという。
 Ouro Preto も含めてミーナスの旧い村であったCongonhas, Sabará, São João Del Rei, Morro Grande, Caeté, Nova Lima , Catas Altas, Pedro Leopoldoなどは、Aleijadinho の足跡を残した、ゆかりの地である。
 そうした場所で彼は、教会の壁面、聖堂、聖母、祭壇などに彫刻を施し、描くために、ラバの背に載せて運んで来た収納箱から道具を取り出すや否や、作業に取りかかるほどの仕事人間であったそうな。
  単独でなし得た偉業の他にAleijadinho は、ミーナスのロココ様式を開花させたJosé Coelho de Noronhaとも共同作業したのではないかとみられている。
 一方Francisco da Lima Cerqueira はSão João Del Rei にあるカルメリテス第三教団教会を建立した人物として知られているが、その彼はAleijadinho の見取り図を使用した可能性が高いと推察されている。Aleijadinho も同様に、他人の見取り図を利用していたらしい。
 新古典主義様式の影響下にあったフランスからの芸術使節団が来伯、ブラジルの” 風変わりなゴシック的な作品” を見て一行は何らの興味を示さず、無価値なものとまで断罪した。このリズボアたちの芸術と、” 不具者”の才能が正当に認められ評価されるのには、20世紀の近代主義運動(movimento modernista)の発現まで待たねばならなかった。

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[<黄金サイクル>の時代にバロック芸術の華を咲かせたAleijadinho (Aleijadinho que floresceu a flor da arte barroca no ]

 およそ150年に亘つて繁栄した北東部の砂糖産業もいくつかの事由で落魄し、奥地に分け入って金を探索に終始した冒険児bandeirante の活躍もあり、経済の基軸は南東部、それもVila Rica を中心としたミーナスに移った。
 そして80年あまりの間、この地域は全盛を誇った。ちなみに、18世紀中に、ブラジルが産出金の総額は、同じ期間の世界の全総額の85%を占めていたようである。ダイヤモンドの産出も世界最高であったとのこと。
 しかしながら、まさに金とダイヤモンドに満ち溢れたミーナスであったとはいえ、住民にとっては暗黒に近いものであったよう。何故なら、農業を営む住民からは10分の1の税を、金を採掘した者からは、キント税(quinto)、すなわち5分の1の税を、ポルトガル政府は取り立てていたからである。
 しかも、金を密売した者はアフリカへ流刑され、そうした税制にそむく者は絞首刑に処されていた。このためにブラジル独立の導火線となる「ミーナスの陰謀」(Inconfidência Mineira)も発生することになる。これについてはすでに詳述しているので、関心がおありの方はご覧になってください。
 そうした植民地宗主国による重税と圧制にもかかわらず、ミーナスのバロック芸術は華開いた。その立役者となったのが、ハンセン病を患って手足もろくに使えない不具者(Aleijadinho)という綽名を持つAntônio Francisco Lisboa [1730 or 1738-1814]である。

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[ブラジルでバロック芸術を創造した彫刻の名匠: Antônio Francisco Lisboa =Aleijadinho]

 およそミーナスは、最初のブラジルの首都であったバイーアと相ならんで昔から、多くの逸材を生んでいる。Carlos Drummond de Andrade しかり、である。その背景には、文化的風土の影響があるからなのだろうか。
 ハンセン病のために遂には足や指まで失って、膝頭で歩かねばならなかった不具者のAleijadinho 。にもかかわらず彼は、植民期ブラジルにおいて、もっとも傑出した彫刻芸術家でもあり建築設計家であった。
 彼の芸術家としての名声は今や、日本は例外ながら、ヨーロッパではつとに知られた存在である。これには、フランス人の植物学者のオーギュスト•サンチレールが1818年にミーナスを訪ね、Aleijadinho の芸術に感嘆したのを自らの旅行記に綴っていることや、以後の主としてポルトガル、フランスの美術批評家などが、Aleijadinho とブラジルのバロック芸術に注目した点が起因しているように思われる。
 ブラジルのバロック芸術は、ポルトガルおよびスペインの建築様式の影響をも受けながら、17世紀のイエズス会の教会建築で始まる。
 ヨーロッパではすでにバロック時代が過ぎて新古典主義(neo-classicismo)が一世を風靡し始めた、あたかもその時期にAleijadinho が登場、彼独特のバロック芸術を華咲かせ、ミーナスのそれを特有のものにした。
 Antônio Francisco Lisboa [1730- 1814]は、単身で1724年にポルトガルから移住してきた、彫刻家で大工の父親Manuel Francisco Lisboa と、自由を与えられた元奴隷の母親Isabel との間に生まれた。

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[ブラジル(ミーナス)のバロック芸術を華咲かせた Aleijadinho の傑作の数々]

 アレイジヤデイーニヨは、美術史家José Mariano Filhoの言では、植民期ブラジルのもっとも傑出した造形(彫刻)芸術家とみなされている。先述したように、ハンセン病におかされて手足を失いながらも、手首にノミとツチを結びつけながら仕事に打ち込んだ、類い稀な人であった。そのような不自由の身に鞭うって相次いで数々の名作を生み出したのには、一二に信仰心があったからとも言われている。
 事実、中年を迎えた以後の彼は聖書を熟読し、身体不具者になってからは、より一層信仰に燃えたとのこと。伝記でも伺い知れるが、晩年の作品にはそうした宗教心の一端を感得する気がする。生まれたOuro Preto をはじめ、Sabará , Congo- nhas, Mariana, São João Del Rei の宗教建築にAleijadinho が施した美装彫刻は、圧巻以外のなにものでもない。フアツサード、扉、祭壇はその典型的なもので、多くの場合、天使が配されている
 バンデイランテの一人の黒人が金を発見したことがOuro Preto の名称の由来であることは既に述べたが、その町の前身Vila Rica においてLisboaは、多くの仕事を手掛けた。
 代表作品として、São Francisco de Assis 教会[1766-1794]、Nossa Senhora da Conceição de Antônio Dias教会(中央教会)、Nossa Senhora do Rosário教会、São Miguel教会、São José 教会、Pilar 教会、Tiradentes 博物館があげられる。中でも筆頭の教会は、Congonhas do Campo市にある、預言者像と66名のキリスト受難像(Paixãode Cristo)からなるBom Jesus de Matozinhos教会堂[1796-1805]と合わせて、最高傑作と目されている。