連載エッセイ439:設楽知靖「インカ・無文字社会」=あれだけの石彫と土器の絵を残したのに『文字の創造』が、何故できなかったか= | 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

連載エッセイ439:設楽知靖「インカ・無文字社会」=あれだけの石彫と土器の絵を残したのに『文字の創造』が、何故できなかったか=


連載エッセイ 439

「インカ・無文字社会」
=あれだけの石彫と土器の絵を残したのに『文字の創造』が、何故できなかったか=

執筆者:設楽知靖(元千代田化工建設、元ユニコインターナショナル)

古代文明の中でエジプト、インダス、中国,マヤなどの文明は『文字』を残したが、『アンデス文明』は文字を残さなかった。

また、家畜はいたが乗り物としての馬はいなく、運搬に用いる車輪も創造されなかった。

このような環境の中で『アンデス文明』、その最後となった{インカ文明}(タワンティンスーユ文明)はどのような社会であったのだろうか。この無文字社会であの広大な地域を最後に統治した『民』はどのようなコミュニケーション手段とインフラストラクチャーを確立し、建設して統治したのだろうか、これを想像しながら考察してみたい。

1.『文字』とは:

文字の定義はいろいろ説明されるが、『言語』を点や線で組み合わせて単位ごとに記号化するもので『文字』の起源は事物を形どった『絵』にある。

また『言葉』を表記するために社会習慣として用いられる記号であり言葉は意味と音声を結び付けたもので、情報を伝達するために音声が使われる。『文字』は言葉を記録するための『記号』であり、古代『粘土板』や『紙』に書いて保存することができた。

このように定義されるが、アンデス文明では『土器の絵』や『織物』、{石彫}が発達していた。しかしながら、その克明さが表現され『記録』として残されていて『社会生活』が表現されているのに、なぜ『文字』が創造されなかったのだろうか。

2『アンデス文明』のなかで『インカ文明』は最後の古代文明:

今日のアンデス山岳地域に発達した『アンデス文明』はペルー、ボリビアを中心として北部はコロンビア南部、エクアドル、そしてペルー、ボリビア、アルゼンチン北部、チリー中部まで紀元前1500年頃から徐々に発祥し世界の文明の発祥に河川が不可欠であったのに対して山岳を中心として農業、牧畜は山岳の高度差により独特の発展を遂げ、最後に子のアンデス山岳部を北から南まで約6000キロメートルの国土を築いたのがインカ帝国(正式名タワンティンスーユ帝国)で、1532年にスペイン人征服者に征服、破壊されるまで続いた。この帝国はそれまでの各種文明を征服、統一したといわれており、その技術の中に金銀の錬金術、高低差を利用した『段々畑』(アンデーナス)の今日の原産農産物となっている農業技術,ラクダ科動物による牧畜、そして宗教が発達した。

この帝国は海抜3400メートルの『クスコ』(ケチュア語でへその意味)に首都を構えて『東西南北』の方角を統治するための名称をつけて、東を『アンティスーユ』、北を『チンチャイスーユ』、西を『クンティスーユ』、南を『コリャスーユ』と呼び、方位と道路(インカ道)により国土を治めた。この広大な国土は北はコロンビアのパスト、エクアドルのキトー、南はチリーのサンチャゴまでに至っていたといわれている。

3.『インカ道』(Qhapaq Nan:カパック・ニャン)の役割;東西南北の方位での国土意識

インカ道はインカの公用語であったケチュア語でカパックニャンと言われ『王の道』の意味で、整備された道路網であった。2014年に『文化の道』として6っか国共同で世界遺産に登録された。この山岳部はインカ帝国成立以前から歴代の文化で作られた道路が存在したが、インカ帝国はそれをさらに整備し、発展させた。

インカ道には二つの大きな幹線道路があり、アンデス山脈に沿った山岳道路と太平洋岸に沿った海岸道路がある。これを中心として交通整備を行い、行政、軍事、宗教などの目的のため人間の移動や物資の輸送が行われインカ帝国の支配を支えた。インカ道の中でも『王の道』を利用できるのは『公用』のみであり私用で通るのは禁止されていた。その総延長はインカ最盛期の15世紀には6万キロメートルに達したと言われている。

しかし、今日、開発や自然環境の影響で消失が続き正確な長さの把握は困難と言われている。インカ帝国はアンデス高地で発達した文化であり首都のクスコは標高3400メートル位置するインカ道は領土の拡張に伴って東方の熱帯や西方の海岸線に至るまで建設された。

道路の構造は路側帯にアドべと石を使って固めて平石で舗装し両側面には水路を設けていた。また、別途説明したいが、山岳の深い谷の河川には『吊り橋』がかけられている。道幅は2~3メートル、最大幅は16メートルに達していた。

4.インカの移動手段:チャスキ・ワシ(飛脚小屋)

インカ帝国には騎乗に適した動物は存在せず、車輪の発達もなく人間の移動は基本的には『徒歩』で高貴な人は『輿』に乗った。王様の輿は白木の丸太と金製の梁で作られ、王の行列は数キロに及んだ。『チャスキ・ワシ』は一定の距離ごとに設置され小屋には二名ずつ配置されて、さらに伝令が必要な時はその人間もチャスキの役割を果たした。

‘インカは文字を持たなかったので、伝令の内容は口頭であり、複雑な情報はキープで伝達された.(後の項目で詳細を述べる)

こうしてインカ道。カパック・ニャンど飛脚、チャスキの発達によりインカの長距離通信が可能になり、馬で三日かかる伝令を一日で達成させた。一日に行ける距離に設置された宿場はタンプ(タンボ:Tambo)と言われ、そこには武器、糧食、衣類などの必需品が貯蔵されて王族や兵士に利用された。

コルカ(倉庫)はタンプより大きな敷地であったとされ、兵士のための必要物資や工芸品,趣向品なども貯蔵され.糧食はトウモロコシ、チチャ、キヌア、干し肉、などがあり、またそこは通行人を監視するタンプでもあって、私用でカパック・ニャンを使う者を確認していた。また、女性の儀礼の専門家のための宗教施設(アクリヤワシ)がカパック・ニャンの近くに建設されていた。それらの『ワカ』(聖所)は小道でつながっていて、宗教儀式で犠牲となる動物や人間は、まずクスコに運ばれインカの王が聖なる勤めの後、儀式の場へ送られた。これらのインカの方角は目的を持っていて、東は聖なる谷と呼ばれるマチュピチュへ、インカの聖なる山として崇拝されるアウサンガテへ、西はアバンカイを経て海岸に近いナスカへ、南は神殿都市,ラクチ、チチカカ湖へ、そして北は地形変化の多い、山、高原、砂漠、海への目的をもっていた。

5.『口頭伝達』と『キープ(KIipu)伝達』:

インカ道の幹線道路と支線を合わせて総延長4万キロメートルと言われている。アンデス山岳地域の歴代各文化の統一を図ったインカ帝国は北部コロンビア南部から、南部チリー中部まで600キロメートルを統治するために、その通達伝達網として飛脚(チャスキ:Chaski)という現代版、『宅急便』を確立させ、一日280キロメートルを走破したといわれている。幹線道路には、ほぼ一定の距離で『宿場』」がおかれチャスキはそこで交代や伝達内容の確認も行われ、その伝達は主に『口頭』で実施されていた。

『文字』を持たないインカ帝国は口頭以外の、その方法として行政目的としてインカ国家の役人が使用した言語である『ケチュア語』でキープ‘Khipu)という方法を使用した。この言葉の意味は『結び目』を意味するもので、列状に結び目がまとまっているキープでは

ケチュア語の十進法システムに従い、列の位置によって数字のけたを示していた。

これらは主に小さな『共同体』の記録に用いられ、地方の会計センターに保管されていた。今日では850のキープが確認され、保存状態の良いキープはペルー、チリー北部の太平洋岸の乾燥した気候の地域の墓から出土している。山岳部のキープはチャチャボヤスの32点のみで、これらのキープの記録システムは『他の古代文明の書記システム』と異なっている。

その特徴としてキープは『糸』でできた三次元の物体であり、その素材は綿、あるいはリャマ、アルパカ、ビクーニャの毛が用いられている。紡がれた綿製、獣毛製の糸は縫い合わされ太さ三分の一センチほどの紐となっている。

そして特徴の『色』は綿製も獣性も色彩豊かで、古代ペルーでは様々な色、白,黄,茶の綿が栽培されていた。ラクダ科の動物も毛の色は黒,灰,茶、白で、また植物性染料で繊維を染めたために色はさらに多くなった。

キープは数値を記録するために用いられたが、計算するためには使われなかったといわれている。『計算』するときは地面の上で、あるいはユパナ(計測器)と呼ばれる碁盤の目の穴で,石、トウモロコシの種、あるいはほかのものが動かされた。1532年スペイン人征服者の記録によれば、数値情報は労働力、農産物、上質な織物、金属製品などの資源を示し、それらの収集、管理、分配は『キープカマユク(キープを結ぶ人、管理する人)』と呼ばれる国家行政監理官の責任であった。納税管理にも、インカが新しく征服した土地の管理記録などにも使われたと記録されている。

『紐』に結んだ『節』や『石玉』で記録されたのは牧草地、高い山、低い山、耕作地、農園、鉱山、泉、湖、川、綿畑、自生の果実、家畜などの記録である。記録管理者の訓練はクスコで行われ高貴な人の子息などが対象で、訓練終了後に地方へ移動した。

この学校は四年制で言語、キープ,ワカ崇拝などの順に教えられ最終学年では再びキープ、歴史、国家宗教の重要性などで『キープを発明した』が国家管理システムなどの詳細は分からない。

6.インカ帝国の『社会構成』と『貢納』:

インカ社会は『宗教的権威』に基礎を置いた国家であった。『階級社会』として親族的、血縁的集団(アイユ)を社会の基本単位とした。一つのアイユが村落を形成し、複数のアイユで『サーヤ』(郡)を形成、さらにサーヤが集まって『ワヌン』(県)、そして最大は『スーユ』(地方)を形成していた。

義務教育はケチュア語、宗教、キープの解読と分析、歴史などを四年間で学ぶもので、,さらに共同体の権利と義務は共同体の土地の耕作,家族の人数に応じて土地の用益権が与えられ、農民は『ミタ』と呼ばれる定期的個人奉仕、織物、衣服の献上義務があった。

結婚適齢期は男性24歳、女性は12~18歳と定められ、ほとんどの結婚はアイユ内で行われた。また例外として『ヤナコーナ』制度が設けられていて、インカの王や諸神殿、地方共同体の族長(クラカ)などに従属し奉仕する男性集団や太陽の処女『アクリア』と称され、インカ王の宗教的祭礼にかかわる事柄に携わる女子は10歳前後で地方巡察官により選ばれた。

農民には学校義務はなく、4~5歳になると家庭で農民としての生活術を学ぶ必要がった。さらに『移住者集団』(ミティマ)という制度は新たに併合された地域に派遣された集団で、その地域で独立した村落を構え、その多くは特殊技術集団だあったといわれている。

おそらく新たに併合された土地の中で金の錬金術や土器の製作技術を持った集団と思われる。

次に貢納制度であるが、『クンビ』という獣毛の織物を納める制度で、これは原料の獣毛はインカ王の側から供与されるもので、織るための労働力を提供して完成品を納める制度であった。その他としてはトウモロコシ、コカ、アヒー、オホタ(草履)、リャウトウ(頭飾り),壺、鍋、狩猟用の網、チュチュ(乾燥小魚)などが貢納された。

また、インカの館が建設されるときは『パチャカ』(100人組のアイユの共同体から)三人の石工を派遣、牧畜の見張り役として10人、要請に従って『ママコナ』(太陽神殿に奉仕する神聖な女性)を差し出す必要があった。

これらの租税は既婚の住民が分担義務を担い『老人や子供』はインカのチャカラ(畑)から例外なくトウモロコシの配給が行われた。これはインカの社会福祉であった。そして『納税高』はチャカラの収穫量を超えたことはなく、すべての生産物において、またその方法は全土で変わらなかった。

7.『土器の絵画』、『織物の図柄』、『土器の社会慣習表現』

トウモロコシ酒、チチャを運んだ土器のデザインはさまざまな魚類、昆虫、植物、鳥、動物など山岳、海岸、ジャングルに生息するものが、実にリアルに、克明に描かれている。これらは多彩な色彩で表されそれぞれの地方の特色が現れており多様で祭りごとなど空間を想像して当時を思い起こさせるものが多い。

双胴の壺には相当に凝ったものが多く、『半月型の頭飾り』をかぶった神官が踊りや祈りをささげているものや、その中央で女性がチチャを用意している土器もある。また『先祖崇拝儀礼』を表すような箱形の土器で、二重の塀に囲われた中で重要人物の遺体をミイラにして埋葬の準備をしている姿は、それを囲む参列者の姿がかたどられている。

また織物でも木綿とラクダ科動物の毛を使い、より糸を表に出す方法で正面を向いた人物が半月型の頭飾りつけ、大きな目を向いている姿に、その周りに多数の鳥が描かれている図柄もある。これらの土器や織物で『文字』がなくても古代人がどのような生活をしていたのか、その社会構成や儀式が」どのように行われていたかが現代人にも理解できる。

8.ネコ科動物の神聖化と『石彫』の記録

インカ帝国は『太陽神』を一番の信仰対象としていた。アンデス文明は多神教であったと思うが、中でも『ネコ科動物』、すなわちジャングルで一番強い『ジャガー』が崇拝の対象の上部を占めていた。北部ペルーでインカ以前の文明でチャビン文明があるが、チャビンデワンタル神殿遺跡のピラミッドは中に石作りの頑丈な通路があり、その中に『石彫』の塔があって」、その一つに『ライモンディの碑』があるが、そこにはジャガーと人間が合体したような図が彫られている。すなわち顔の口の部分にはジャガーの牙があり、手と足の先の爪は鋭いジャガーである。

ジャガーはメキシコを中心とする「メソアメリカ文明」でも崇拝の対象とされ、その石彫が多数見つかっている。その石彫は顔、手、足がジャガーと人間の合体としてその特徴が彫られ表現されている。アンデス文明、インカ文明でも共通に土器と織物に描かれている。

9.『吊り橋』架け替え時の村民の団結と古代からの儀礼:

スペイン人征服者たちはインカ帝国を征服した際、インカ道『カパック・ニャン』の深い谷に掛かる『吊り橋』に驚いたといわれている。当時のヨーロッパには石のアーチ型の橋は存在したが吊り橋はなかったのであった。

このインカ道の吊り橋の架け替えを行う様子が2024年11月30日のNHK-BS『世界のワザキング』で放映されたのを見た。この作業はユネスコの無形文化遺産に登録されているとのことであった。このインカの村に伝わる吊り橋の架け替え作業のことをケチュア語で『ケツアチャカ』と称し6本の太い縄を乾燥した時期の草をよって細い紐を何本も作り,それをよって徐々に太くしてゆき、それを数百年前からの同じ方法で人力で行うとのこと。これはまた儀式であり祈祷師が用意した場所に供物を備えて呪文を唱えコカの葉、チチャ、リャマの肉を備える儀式であった。細い縄を太くするのはすべて村の男衆で、女性が近寄るのは禁じられていた。作業では三本の縄を一本の綱にしたところで、最終のところで男衆が二手に分かれて『綱引』を日本の綱引きと同じように引いて、縄を谷へかける前に十分に絞めるのである。新しい縄ができると男衆にコカの葉を配りチチャをふるまい『作業の無事』を祈る儀式であった。

そして古い橋を利用して新しい縄を引ぱって、従来の石の橋脚に結び付けて,新しい二本の縄がわったところで、古い橋の綱を切り落とした。6本の太い縄が渡されると牛の皮を棒に巻き付けて川に掛かる900本の手すりと床の仕上げ作業に移り、古い縄は川に落ちて、やがてパチャママ(大地の神)に守られて消えてゆくとされている。

この作業は一日がかりで、昼食には女衆が鱒フライ、ゆでたジャガイモ、クイ(天竺ネズミ)の丸焼きをふるまい、この間、祈祷師の祈りが続けられる。縄がかけられる間も女衆は橋に近ずくことができない。

10.『無文字社会』が続いたが、何故『文字創造}に至らなかったのか:

2024年12月13日付け朝日新聞。朝刊で政策大学院大学の先生が『郵便が届く仕組みの再評価』の見解で述べておられたのはファックス、電子メール、SNS、AIなどの新しいコミュニケーションの登場で郵便は軽視さてきていると。しかし配達し手元に届くことの物理的側面を国家経営の観点から再評価すべしとし『手書き文化が見直されるべきと』と記している。

江戸幕府が街道を整備して参勤交代のほか、各地に文書を通達するため、すなわち統治の一環で『宿場』の周辺村落に人馬の調達を課す『助郷制度』を設けるなど維持管理にコストを費やした。明治政府はその遺産の上に、さらに密な戸口配達制度を整備した。

私がこの投稿の冒頭で『文字とは』とその定義を書いたが『文字の起源』は事物を形どった『絵』にある。また『文字』は言葉を記録するための『記号』であるとも書いた。

これをインカ文明の考察の中で精査してみると『何故、インカ文明に文字が創造されなかったのか』疑問に到達する。すなわち、あれだけの大国に至ったインカ帝国では『事物をかたどった絵』がインカ帝国の前のチャビン文化の石彫、ライモンディの石碑のジャガーと人間の合体図からも、またインカ帝国の様々な土器に描かれている明快な表現図からも、色彩カらも絵として完成されたものとみることができる。

そしてキープという数を表し、伝達し、記録する手段が存在していた。また言葉はインカ帝国の公用語のケチュア語が今日まで使用されている。

他方北のメキシコを中心とするメソアメリカ文明には、アステカ文明、マヤ文明などで『絵文字』、{石彫}が残されている。しかるに、このように文字が生まれる条件がそろっているにもかかわらず、『何故』というところへ戻ってしまう。

そこで世界のほかの文明と比較して洞察してみると『アンデス文明の発展の地形』があげられるのではないか。アンデス山岳という孤立した閉ざされた環境で、外部のア「文字を持つ」民族との接触が皆無であり、河川の物流,交易もなく、文字を創造する機会がなかったのではなかったか。

『絵』からも『キープ』からも、{石彫}からも、『言葉』からも、『記号』からも生まれななった不思議な文明で、コミュニケーションが現代文明で多様化する中で,逆に『文字』が使われなくなって退化してゆくのではないかと危惧される。

あるいは『モチェ文化』の土器のように社会生活をすべて土器で表現することで、それが『文字』であったのかもしれない。(終)

<資料>:

  1. マチュピチュ発見100年『インカ帝国展』 国立科学博物館、2012年3月10日~6月24日、解説書
  2. 講義『中南米地域研究』設楽知靖 著、DTP出版
  3. 2024年12月13日、朝日新聞、朝刊
  4. PERU、,Ancient Peoples and Places,G.H.S.Sushnell, Frederict A. Praegen,New York,Washington
  5. VIDA EN EL ANTIGUO PERU,Libreria A.B.C.,S.A.,Lima,Buenos Aires
  6. 2024年11月13日、NHK-BS、{世界のワザキング}
  7. ウイキペディア