執筆者:田所清克(京都外国語大学名誉教授)
[帝政とロマン主義運動] ①
D. João VI世によってもたらされた解決策は、宗主国ポルトガルとの即座の紛争を回避して、ブラジルが植民地から平和的に独立へと移行する意味で可能であったものの、その実現に向けては実際面での問題点も少なくなかった。
国王の頭痛の種は、1817年のペルナンブーコ革命(Revolução Pernambuccana)に象徴されるように、国民の解放が共和制を意味し、その種の反乱の思想が植民地に根付きはじめたことかもしれない。
たとえそうであっても、国王がリオに存在することにより、ブラジルとポルトガルとの関係は地位が逆転、つまりブラジルが主でポルトガルが従のかたちとなった。
1820年に勃発した、内面において自由主義を志向したポルトの反乱(Revolução Liberal do Porto)はまさしく、ブラジルの再植民地化を希求し、商業的特権を取り戻すことでもあった。
遠隔のポルトガルには宮廷の存在がもたらす恩恵があまりなく、王権の即時の帰還を要求することによって、歴史の針を巻き戻そうとする試みであったように考えられる。
一方ブラジルはブラジルで1822年、摂政は父の勧めに従って” 王冠を自身に戴冠” し、政治的独立を雄叫びをあげながらイピランガの丘で宣言することとなる。
しかしながら、多くの人民にとつては、この宣言だけでは十分ではなかった。彼らは共和制もしくは最低限の二国の完全分離を求めて立ち上がるようになる。
ともあれ、1831年、国王は退位を強いられ、息子であるD. PedroI世が10年間の摂政期間を経て君臨する。

[帝政とロマン主義運動] ②
D.PedroI世は、どちらかといえば、芸術嗜好よろは自由奔放な発想をする傾向があったと言われている。それでも、特にセレナーデやアフリカ出自の音楽ルンドウ(lundu[輪舞用のリズミカルなバトウキ)に特徴がある])強い関心を示していたそうだ。息子のPedroII世は生まれつ科学に興味を持ち、知識欲旺盛で絵画や文学にも一家言持っていたとのこと。
ところで、ナポレオン時代のneo-classicismo を造形芸術の分野において受け入れることは、一つには植民地の過去との決裂•断絶を意味していた。がしかし、音楽の世界においては、先人の伝統を継承していく雰囲気があった。
帝政の時代、neo-classicismo をこよなく愛したD. PedroI世の承認のもと、まさに正真正銘ブラジル生まれの大衆音楽であるモデイーニヤ(modinha [古いロマンテイシズムの流れをくむ、感傷的な甘い愛の歌に特徴がある最初の民衆的な形式(música popular) が誕生した 。
リズム•パターンにあまりとらわれないゆっくりしたテンポの哀愁を帯びたcançãoは、ポルトガルの国民歌謡フアドを彷彿とさせる。事実、modinha がfadoに影響を及ぼしたという言説もある。他方、古いヨーロッパの歌曲やオペラのアリアなどのクラシックがmodinha に陰を落としているともみなされている。]

[帝政とロマン主義運動] ③
大衆音楽を支持したもう一人の人物は、Antônio Carlos Gomes [1836-1896]であり、国際的名声を手にした初めてのブラジル人音楽家でもある。ヨーロッパで称賛されたオペラにより彼は、師匠的存在のVerdiに” 若者よ、君は私が辞めたところから始める” とまで賛辞を送られている。
ゴーメスの叙情的でオペラ調の音楽は近年になって、”イタリアの作曲家” としての肩書きさえ付与している。しかしながらこの賛辞は、彼が示した近代化を軽視して、合わせて、ブラジルを象徴する室内音楽や大衆音楽も考慮に入れてないように思われる。
文学はロマン主義のもとに全盛を迎え、以前の流派の形式ばった傾向への反動もしくは逆らう新しい潮流で、根底にNacionalismo の思想が横溢していた。
ウフアニズムに溢れるCanção do Exílio の詩人Gonçalves Dias は、インディオの強さと優しさを、同様に小説家のJosé de Alencar はその先住民を主題とする、いわゆるIndianismoの名作Iracema, O Guarani を残した。
そうしたブラジル性を希求した” 善良なる野蛮人”の作品をテーマにしたものに牽かれないわけはなく、ある時期の私は病的なほどにのめりこみ、結果として『イラセマ』を邦訳することにもなった。
ちなみに、前述のAntônio Carlos Gomes がオペラにしたのは、José de Alencar の傑作O Guarani であり、友人のFACEBOOK でもお馴染みの原田裕子さんは、Gomes賞を受けられている。

[帝政とロマン主義運動] ④
ブラジルのロマン主義については、文学の項目のところで詳述するが、Casimiro de Abreu, Fagundes Varela, Castro Alves など特筆すべきあまたの詩人がいる。
甘美な幼年時代を懐旧の情(saudade)を持って綴るCasimiro de Abreu, バイロンやシェリーの作品を好み、若くして他界したが自由を謳歌したCastro Alves 。その彼は、Gregório de Matosのごとく辛辣ではないものの、「アフリカの声」(Vozes d’ Áfri-
ica)、「うたたか」(Estuamas Flutuantes)などの奴隷廃止を求めた一連の作品を通じて、<社会(奴隷)派詩人となった。
私はそれらのロマン主義詩人に共鳴•感化されて、彼らの詩作をどれだけ訳したことだろう。そして同時に、そうした詩人たちの詩想が、自分の人生観や生き方にも反映しているような気がする。
ロマン主義思想のもとに自由を求めて死を選んだかのように思われるアルヴエスのものは、現代のモデルともなっており、今でも街頭の集会や家族の集まりで引用されている。
帝政の末期になるとロマン主義にも陰りが見え、新な文学思潮の写実主義(Realismo)が台頭する。現実に即した、この国の全時代を通じて最大の作家
Machado de Assis の手になるフィクション、牧歌的な小説を評論したAluísio de Azevedo 、またそれを唱導したSilvio Romeroが時の人となった。
[帝政とロマン主義運動] ⑤
演劇に目を転じると、1833年にJoão Caetanoによって劇団が旗揚げされた。そして5年後には、ブラジル演劇界の将来にとって重要な意味を持つ、二つの作品が上演された。
それは詩人Gonçalves de Magalhães の手になる「アントーニオ•ジヨゼーその詩人と宗教裁判」(Antônio José, O poeta e a Inquisição)と、もう一つは、劇作家Luís Carlos Martins Penaの先駆的な喜劇で、演劇界で伝統的となった作品「奥地での平和の正義」である。
ペーナの作品はポルトガルの喜劇の手法にのっとり、モリエール(Molière)の同化を採り入れたもの。今日に至っても話題として取り上げられ、上演されたりテレビでも放映されたりしている。
ペーナは夭逝したが、José de Alencar, Quintino
Bocaiúva, Pinheiro Guimarães によって演劇手法は継承された。しかしながら、ブラジル演劇の真骨頂とその偉大さは、短命に終わった感がする。
第二帝政においても、演劇評論家としての顔を持ったMachado de Assis は、その衰退を目の当たりにした一人であった。衰退事由を彼は、海外から移入されたオツフエンバツク(Offenback)流のオペラとの競合の結果であり、カフェ•コンサートの発現が音楽の娯楽化をもたらしたことなどを理由にあげている。がしかし、アシスのそうした悲観的な見方は正当化されたわけではない。
帝政末期、França Júniorはペーナのスタイルとカフェ•コンサートの技巧を融合させた「The Ministe- ry hás Follen!」を上演、その一方でArthur de Aze-
vedoも、ミュージカル喜劇「A Capital Federal 」と「O Mambembe」で好評を博し、両者の作品は今でもヒットしている。
[実証主義(positivism)と、コーヒー園主およびミーナス•ジエライスの牧畜業者による寡頭政治(oligarquiaの共和制) ①
D. ペドロII世は芸術と文化のいわばメセナであったかともあり、特にフランスから入ってきた審美的で知的なものを好んだ。
芸術への認識は地位を象徴するものとなり、1879年にはリオにおいては芸術博覧会が開催され、多くの人が足を運んだと言われている。これはどの関心と熱狂は、1950年に始まるビエンナーレまでなかったらしい。
当時、都市階級、なかんずく若き軍人たちに取り入れられたフランスの思潮や概念は、君主制の問題を考える上で争点となった。オウギユスト•コントの唱える実証主義は軍学校で広まり、その科学的で合理的な理論が、奴隷を使う農園主のみならず、奴隷制を容認する政権ともぶつかるものであったからである。
その一方で第二帝政は、直接権力を掌握するには力が今一つなかった農業団体に対して、妥協的な姿勢で臨むようになった。1850年以降、国際市場で重要な産品として脚光を浴びていたコーヒーは、ブラジル経済を支えるようになり、特にサンパウロではその経済的な主導権を発揮し、勢力を伸ばしてきたコーヒー園主たちは、政治的な野望を抱くようになった。
さしあたりは奴隷制を支持する帝政ではあったものの、その制度を廃棄することなしに存続するのは不可能な事態となった。結果として、1888年には奴隷解放の黄金法を、そして1889年には共和制の公布に至った。

[実証主義とコーヒー園主およびミーナス•ジエライスの牧畜業者による寡頭政治(oligarquia) ②
本論を先に進める前に、ブラジルの国旗の球体の白帯に記されているOrdem e Progresso(秩序と進歩)について言及したい。言うまでもなくこの言葉は、19世紀のはじめフランスのAuguste Comtoが唱えた哲学思想[科学認識が真に知る唯一の方法。換言すれば、経験的事実こそが認識の対象であり、超経験な実在を退け近代自然科学の方法に基づく考え]である。
こうした思想にかぶれた若い軍人たちが、当初は政権交代のイニシアチブを取ったが、都市大衆の力はまだ小さかったもあって、どこからもあまり支持を受けることはなかった。
そしていつの間にか、コーヒー園主にその力を渡すこととなった。後に、ミーナス•ジエライスの牧畜業者と共に、” コーヒーとミルク” [café com leite)として知られる同盟を結び、寡頭政治というかたちで実権を握り、共和制をしいて1930年まで続いた。
政治的には敗北したものの、実証主義は国家の象徴のなかに深く根付いた。先述のように、ブラジル国家のモットーとなり、オーギュスト•コントが描く
秩序と進歩に向けて国民を鼓舞する目標となった。
文学の世界でもコント哲学の影響は少くなく、現実的で自然主義(Naturalismo)な傾向のものが発現した。
[実証主義とコーヒー園主およびミーナス•ジエライスの牧畜業者による寡頭政治(oligarquia) ③
リアリズムを帯びた都市文学が、Joaquim Manuel de Macedoの手になる『金髪の青年(O Moçi Loi-ro)や、Machado de Assis 同様に混血で比類なき作品『書記官、イザイア•カミーニヤの追憶』(Recor-dações do Escrivã Isaías Caminha)を書いたLima Barreto 等によって華開いた。
実証主義の影響は、高踏主義(Parnasianismo)の時代に光芒を放ったOlavo Bilacや、従軍記者Euclides da Cunhaの作品にもあらわれている。後者のクーにヤは周知の通り、Antônio Conselheiro の狂信的な神秘主義に導かれた、カヌードスの住民の、政府および州派遣の軍隊と度重なる戦争を扱ったもの。三部作からなるその作品『奥地』(Os Ser-
tões)は、今やこの国の古典文学の一つとしてみなされており、その悲劇的な叙事詩には心打たれる。