執筆者:田所清克(京都外国語大学名誉教授)
この時代のもう一つの傾向は、José Pereira de Graça Aranha の小説の一部に垣間見られるように、象徴主義的、コスモポリタンで東洋的、メランコリックなものなどであった。
絵画はアカデミックでめあたらしさはあまりなかった。そのなかで先駆的な変化をもたらした画家としては二人がいる。その一人は、印象主義(impressionismo)を後世に伝えたBelmiro de Al-medida。他の一人は、国の絵画に与えた影響はさほどなかったが、アールヌーボーの影響もあるEliseuViscontiだろう。素描や風刺画に特色をのこしている。
遊び心に溢れた風刺画家として、後にブラジルを代表する人物の一人となったのはEmiliano Di Cavalcanti かもしれない。
アールヌーボーがふたたび活気を呈すると、それは近代主義の牽引者となる、著名な画家Anita Mal-fatti, Victor Brecheret, Flávio de Carvalho などに想を与えた。
その影響は建築の部門では、斬新なものを生み出した。その代表例は、サンパウロにある大学の建築群。しかしながら、形式ばった折衷主義や過度に空想的なものにとってかわられ、一般大衆受けするものになっていった。リオのDente Cariadoや、サンパウロの出版社O Pensamento などがそうである。
コーヒー産業の支配者たちは、富をひけらかすために、今も一部ながら目にできる、パウリスタ街りに偽フィレンツェ、偽モスレム後に大邸宅を建てたりした。
[ブラジル性の拠り所となった「近代芸術週間」(Se-mana de Arte Modena)」
A Semana de Arte Moderna que foi o fundamentoda brasilidade
ブラジルの国と国民、さらには彼らの文化全般を真に理解しようとなれば、ナショナリズムと緊密に結びついた、1830年代に継起したロマン主義運動と、政治的独立から100年目にサンパウロの市立劇場で開催された「近代芸術週間」の意義を知る必要があろう。
私自身もその必要性を痛感し、その根底にあるナショナリズムの観点から、ブラジルロマン主義および近代主義に光を当てて考察したし、論文や著書のなかでもかなりの紙幅を割いてとりあげている。
ブラジルのクラシック音楽にしても大衆音楽を例にとっても、とりわけ「近代芸術週間」に込められた近代主義者たちの思想が色濃く反映されている。
この点については、以降、随所で述べることになるので、ひとまず、Semana de Arte Moderna 前後の社会と国民、とくに文人や軍人たちの、国への希求、国の有り様(志向)について論を進めたい。
[ブラジル性の拠り所となった「近代芸術週間」(Semana de Arte Moderna)」
Semana de Arte Moderna que foi o fundamento da Brasilidade ②
ブラジルの民衆は、パリから帰ってきたAnita Malfattiが、穏やかな表現主義(Expressionismo)の作品を出品した展示会で、現代芸術と対峙することとなった。彼女の作品は、イタリアのマルネエテイが唱える未来主義やダダイズムと比較して”優しさ”に溢れていたが、伝統を重んじる人々にとっては明らかに “狂気” の作品に思われた。
Monteiro Lobatoは、この日本でも翻訳•紹介されているが、子供向けのフィクション、いわゆる児童文学をあまた出版し、この国を代表する児童文学者として知られている。その彼には大人向けの多くの現実的な散文もある。
芸術に対して保守的な信念の持ち主であったロバトは、「妄想それとも神秘化」(Paranoia ou Mistificação)なる論文を通じて、破壊的なほどに痛烈な批判を展開した。
マルフアテイは彼の考え真っ向から否定した。近代主義運動はロバトの言説によって一時的に後退したものの、1922年に新たなエネルギーを得ることになる。
近代主義者たちは、伝統を尊重する人たちに打撃を加えることに心血を注いだ。Di Cavalcantiの言葉を借りればそれは、” サンパウロのブルジョア階級のどてっ腹に刺激を与える” ものであったような。
この近代主義芸術を支持したのは錚々たるメンバーであった。Paulo Prado, ブラジル文学院の不道徳者Graça Aranha, 先述のDi Cavalcanti, Oswald de Andrade, Ronaldo de Carvalho, Victor Breche-ret, Tarsila do Amaral, Oswaldo, Villa-Lobos, Ani-ta Malfattiなど多彩なアーチストが、1922年の2月、「近代芸術週間」に参画•結集した。
ブラジル性の拠り所となった「近代芸術週間」③
一週間に亘って開催されたSemana de Arte Moderna は多くの混乱や誤解を招き、中には滑稽と思われるものもあった。
例えば、Villa-Lobos は足を怪我をしていることもあってサンダルばきでミーティングに臨んだが、このことが “未来的”であると解されもした。
その一方でGraça Aranha は “やり過ぎ” と感じたものには抗議し、またYan de Almeida Pradoは反発を買うだけのコラージュを発表したりした。
ともあれ、伝統主義者に衝撃を与えたSemana de Arte はそれなりの目的を果たしたという意味では成功を収めることができた。この芸術家たちの新たな文化創生の活動を通じて民衆までもが、建築や彫刻、デザイン等の世界で、何が起こっているかを肌身で感じることができたのである。
かくして、彼らが捉える自らのブラジル文化に対する有り様も変質した。9年後にはアメリカではアマリー•シヨウー(Amory Show)が起きるが、「近代芸術週間」は同等の出来事であったように思われる。
近代主義主潮下の1922年、『音楽小史』も書いているMario de Andradeは詩集「錯乱したサンパウロ)(Paulicéia Desvairada)を発表、高踏主義(Parnasianismo)に終焉をもたらした。この時、重要な意味を持っ雑誌「クラクソン」
(Klaxon)も創刊されている。
ブラジル性の拠り所となった「近代芸術週間」④
近代文学運動(movimento modernista)は、Nacionalismo とModernismoに対する見解の相違から、二つのグループに大別される。
Tarsila do Amaraは1924年、ミーナス•ジエライス州のバロック様式がそこいらに点在する町を訪ね、その原始的で純粋な色使いを観て、そこにブラジル発見となるものを見いだした。と同時に、ブラジルの都市の持つ悲しみを知った。それから想を得てからか、1926年にはAmaral の代表作の一つとなる「プロレタリア」(Proletários)において、”社会問題”を描いた。
他方Oswaldo de Andradeは、「ブラジルのセコイア詩の宣言」を1924年に書き、この作品の中で、現代人が真のブラジルのナショナリズムの根源であると力説している。
4年後に彼はアマラルとの共著のかたちで、「人喰宣言」(Manifesto Antropofágico)を出した。これによって国民文化のナショナリズムは確たるものになった。アマラルやアンドウラーデと同じ考えを持っ他の芸術家たちにとって近代主義とは、土地から生まれる色やかたちを求め、社会的なテーマを主題に据えて、核となるナショナリズムを生み出すことに主眼が置かれた。そのために、スタイルや技巧を海外から採り入れながらも、人喰人種さながらに、一端飲み込み十分に咀嚼して、真の国民文化を創出することにあったような。その一方で
[近代主義以後のモダンタイム] ① Tempo moderno depois do Modernismo
安泰であった1920年代の後、暗い陰鬱な30年代に突入した。世界的な景気後退の流れのなかで、ブラジルもその影響をもろに受け、国際政治の状況の有り様は1930年の革命にも有利に働き、Getúlio Var-
gasが政権の座についた。
知識階層は、カトリック、フアシスト、社会主義者に分断され、不思議なことに、そのいずれもが19
37年のクーデターを支持した。ヴアルガスはこのクーデターにより、1945年まで独裁政治(política ou governo ditatorial)を維持することになる。
近代主義運動は崩壊して、批判的または非批判的なナショナリストへと分裂していった。批判的な立場のTarsila do Amaralは、従来の田舎の風景を派手な色合いで描くのとは一変して、「労働者たち」(Operários)で見せたような、艶のない色合いへと趣向を変えた。
私の主たる研究の対象でもある、独特の文芸風土を反映した北東部の小説が1930年代に生まれた。一例をあげれば、José Lins do Regoの手になる一連の絶望的な匪賊(cangaceiro)、Jorge Amado による反抗的なバイーアをロマンチックな詩情のもの、Graciliano Ramosの、旱魃と農園主による搾取に苦しむ農民の生活を描いたものなどがそうである。
しかしながら、ナショナリストの中には独裁政権の美辞麗句に傾倒する者もいなくはなかった。例えば、Villa-Lobos はVargas 政権を支持し、彼が政権を退いた後でも続いたことが知られている。ともあれ、彼が作曲した「アマゾンの密林(アマゾン•シンフォニー)」(Floresta do Amazonas)は、想像通り、雄大な自然が表現されており、聴く度に私はあの長大なアマゾン河と、海さながらに拡がる神秘的な緑の樹海を思い出さずにはおれない。
[近代主義以後のモダンタイム] ② Tempo moderno depois do Modernismo
現代詩の世界でブラジルを代表する、谷川俊太郎の詩想を想起させる、従って私自身も彼の詩作に感銘して邦訳も試みたこともある、その詩人と言えば、Carlos Drummond de Andrade をおいてない。
コパカバーナの南端に鎮座する銅像見たさに、リオでは私は必ずといってよい程訪ねることにしている。
そのアンウラーデと、同じく詩人のMurilo Mendes
などは、Villa-Lobos とは違って、Vargas が正真正銘のフアシストであることを認識していたので、独裁者とは一線を画して、自分たちの作品作りに専念していた。
Vargas が政権の座についた後に、おそらく近代化が加速したことも要因であろうが、建築のジャンルだけが、政治とは無関係のように思われる。1929年には、Le Corbusier が機能主義の考えをブラジルに持ち込んだ。一方の1931年に国立美術学校の校長に指名されたLúcio Costaは、流行に乗りながらも自分の考えを実践し、ブラジル建築界では革命的な建造物とみなされている教育省を1939年に建設している。
Lúcio Costa と並びブラジル建築界を代表するOs-
car Niemeyerは、そのコスタと協力して、ニューヨークで開催された世界博覧会に向けてブラジル館の建設にあたっている。彼らは数十年後の1960年、ブラジリアの都市計画に着手、あらゆるアイデアを駆使して未来的な構造の新首都を築造したのは、周知の通りである。
画家Cândido Portinariがタイルを用いて旧植民地時代の民衆の生活を描いた、ミーナス•ジエライス州のPampulha教会やカジノも、強化コンクリートの柔軟性を活かしたニーマイヤーが試みたものの再現である。
[近代主義以後のモダンタイム] ③
第二次世界大戦の連合国の勝利は、Vargas の独裁政治を打倒し、1945年には政権の座から引きずり下ろした。
独裁者の失墜は結果として、文明開化をもたらす意味で寄与した。1947年から1948年にかけては、三つの美術館、すなわちサンパウロ美術館、サンパウロ近代美術館およびリオ近代美術館が落成した。そして、1951年には造形芸術のビエンナーレも開催され、国際的な耳目を引くことにもなった。こうした環境の中でパウリスタたちは、世界で最流行の芸術を堪能しそのトレンドを評価する機会に浴することとなる。
戦後の数年間の芸術家たちの関心といえば、”比喩的なもの(figurativo)×抽象的なもの(abstativo)” の表現にあったようだ。当然ながらナショナリストたちは比喩的表現に傾倒し、抽象画家たちを「根なしの都会人」とか「私室の芸術家」と称して非難した。
50年代の初期には、Alfredo Volpiらが半ば抽象的な芸術を目論み、ナショナリストではないArthurLuis PizaやMarcelo Grassmannなどに継承された。
この時期にPortonari は暴力的でドラマチックな表現主義を援用して、貧農の抱える問題を提起したCataguasesの壁画「チラデンテス」(Tiradentes)を残している。
造形芸術における抽象表現はいわば、Kellreutterがブラジルに持ち込み、Camargo Guarnieriが首導するナショナリストによって議論の対象にした、音楽でいう十ニ音楽(dodecafonica)に匹敵するものであった。考えの異なる芸術家の間では激烈な論争が交わされたものの、勝者は生まれなかった。
[近代主義以後のモダンタイム] ④
音楽革命はリオ南部の高級住宅地のアパートで発現した。Antônio Carlos JobimやEdu Loboはそこで、クール•ジャズやサンバを演奏していたが、それがついにはbossa-nova となって現れたのである。
「新しい傾向」という意味のボサノバは、20~30年代の偉大な作曲家、例えばNoel Rosa, Donga, Sinhô, Ismael Silva, Editora dos Prazeresの手になる楽曲とは一線を画していたので、受け入れられるまでには批判がなくはなかった。
転じて、文学の世界では30年代から光芒を放った地方主義(Regionalismo) が新たな局面を迎え、ミーナス出身のGuimarães Rosaの場合がその典型で、畢生の大作『大いなる奥地 小径』(Grande Sertão Veredas)において、言語の壁への挑戦を試みた。筑摩書房から翻訳されているそれを読んで私は、まさしく第一級の愛国的な散文の口語体の寓話による、写実的に奥地住民像を描いた作品であることを痛感した。
荒涼たるセルトンはそれ自体が世界であり、紛争が人間の条件であることも思い知った。ともあれ、この作品を通じて地方主義は、普遍的な芸術の域に達した。
一方、最南部のRio Grande do Sul を舞台にしてÉrico Veríssimo は、一連のガウーシヨ文学、なかでも『時と風』(Tempo e Vento)によって、ブラジル文学としては数少ない真の壮大な大河小説をものにした。
文芸批評の分野では、Antônio de Melo SouzaとOtto Maria Carpeauxが優れた業績を残した。双方の文学批評は広範におよび、学識ぶりが光っている。ちなみに後者はオーストリアからの亡命者であり、後に教育者としても活躍している。
[近代主義以後のモダンタイム] ⑤
ブラジルへの亡命者の流入とともに、Pole Ziembinskiも出現した。彼は「花嫁のガウン」を演出•監督した。この作品はNelson Rodrigues の手になるもので、演劇界に大衆受けを狙う意味でそれなりのインパクトを与えた。
ほかにも多くの演劇監督が到来して、役者や演劇に関わる人たちのための学校であるブラジル喜劇劇場(TBC=Teatro Brasileiro de Comédia)を開校したりもした。
60年代になると、どちらかといえば、学究的で穏健な上述のTBCに対抗するかたちで、二つの新たな組織Teatro de ArenaとTeatro Oficinaが始動するようになった。
Vargas政権下の映画は、陳腐な手法でブラジルを表現したアトランチダ(Atrântida)のミュージカルぐらいしか存在しなかったが、ここに来て、息吹を取り戻した。
1950年代になると、Nelson Pereira dos Santosが彗星のように現れ、現実の社会問題を題材にした作品「リオ、40℃」(Rio, 40 Graus)を製作して「新映画」(cinema novo)の先駆をなした。
社会的傾向の映画は、カンヌ祭で受賞したLima Barretoの「匪賊」(Cangaceiro)の作品で強まり、さらにGlauber Rochaの卓越した作品「太陽の地の神と悪魔」(Deus e o Diabo naTerra de Sol)よって洗練されたものに引き継がれることになる。