執筆者:田所清克(京都外国語大学名誉教授)
[近代主義以後のモダン] ⑥
建築も栄光の時代を迎え、壮大な宗教的なコンセプトな沿って、新首都Brasília が建設されるに至る。実際の建設作業は、パラシュート部隊が国土の心臓部に降下して、土地を開墾することから始まったそうだ。このことは、未開の原野を開発すること自体、国家にとって伝説的な大事業を象徴するものであった。Lúcio Costa が都市計画の責任者となり、Oscar Niemeiyerは機能性と美観を併せ持つ建築の重責を担った。そして、「三権広場」(Praça dos Três Poderes)には、堂々とした建物が聳え立った。地平線を遮らないように、彫像は建築群とグリーンベルトの間に設置され、機能性と装飾性が最大に引き出されたものになった。
政治状況はついに、国家統一の計画が行き詰まった、大衆迎合的な政府によるインフレの苦悩を断ち切るべり終らせるべく、1964年には軍部が政権を掌握した。
この時、注目すべき社会的地域的演劇作品「セヴエリーナの生と死」(Morte e Vida Severina)がJoão Cabral de Meloによって1966年に上演され、なんとChico Buarque de Holandaが音楽を担当しているのである。
周知のように、Chico BuarqueはCaetano Velo-soやGilberto Gil のごとく、古典的なサンバとボサノバの作品を手掛けている音楽家である。しかしながら後者の二人は、後にポップの影響を受けて新しい試みをするようになる。
1960年代後半に発現した文化運動であるトロピカリズモ(Tropicalismo=Tropicália=movimento tropicalista)は、たとえ音楽が主たる表現ではあったものの、映画や詩、演劇などの他の表現形態に訴えるものでもあった。これについては大衆音楽の項目で詳述するので、これ以上の言及は避ける。
ともあれ、VelosoとGilが音楽界で始めたTropi-calismoは絵画の分野では、原始芸術家の純粋な作品と、洗練された最先端の作品双方に現れた。
[近代主義以後のモダンタイム] ⑦
最先端の作品の典型は、Antônio Henrique Amaral の皮肉交じりのキャンバスや、José Ro-Berto Aguiarの攻撃的な、色合いの表現に観ることができる。
このトロピカリズモ運動は演劇界にも拡がり、Oswald de Andrade の手になる「蝋燭の王」(O Rei da Vela)は、原作に忠実なかたちでトロピカリア版ステージが上演され、この演出•監督にはJosé Celso Martinezが当たった。
また映画界でもTropicalismoは開花の時を迎えた。Arnaldo Jabol の「ピンドラーマ」(Pindorama)などはその代表作かもしれない。
明確な限界のある運動というよりはむしろ、マスコミユニケーシヨンという閉塞的なトレンドのなかで、トロピカリズモは精神状態をあらわすものであり、批判的、ユーモラスなものになっていった。
その対極にあるのが、まるで兄弟であるかのよう詩人August de CamposとHaroldo de Camposや、40年代の抽象芸術の継承者Lígia Clarkたちの実利主義者の手法である。
60年代の特筆すべき団体としてはほかに、出発点の異なる他の流派を結びつけ、批判的な観点、新たなフォーカスを求めた新客観主義(Nova Objetividade)のグループがあげられよう。この多くはアメリカのポップ•アーティストの影響を受けていることも忘れてはならない。
今や国際的なトレンドが昔以上に流入、吸収され、ブラジル文化のかたちをとりながら、再現されている。がしかし、それは輸入にのみ依拠したものではなく、この国の民族融合の歴史的、地方的産物である。
ブラジルの芸術は新しいものと古いものが混在したかたちで形成されている、と言えなくもない。
◎以後、各論に言及することになるが、ブラジルの芸術を鳥瞰的に歴史的に展望したこれまでのを執筆するに当たっては、とりわけArte no Brasil [Civita, Victor, 2 vols. Livros Abril, São Paulo, 1982]に依拠した。
大衆音楽(Música popular) ①
はじめに
音楽の知識がまったくない程の私には、ブラジル音楽を語る資格は毛頭ないが、この国の文化について研究してきた立場から、少なかりとも触れないわけにはゆかない。
ところで、ブラジル音楽との接点は、この国、それも本場であるリオの大学に2ヵ年留学してからのことになる。ほぼ毎日、街頭で流れるリズム感あふれる楽曲を耳にしながら、すっかり虜になってしまった。私の場合は、耳で聞くというよりは、心で聞いていたというのが正確かもしれない。
と言うのも、多様な民族文化を反映した音楽と私は、文化地理学、民族学、民俗学、人類学の視座から向き合っていたからだ。
ともあれ、これまてまでにも言及したが、日本には数多のブラジル音楽家とファンがいるのには驚かされる。そうした彼ら、特に音楽家の皆さんが、彼の国の芸術音楽の普及拡大に日々尽力されておられることを思うと、頭が下がるし尊敬の念を抱かざるを得ない。
さて、これまでブラジル芸術全般について歴史に沿いながら俯瞰してきた。これ以降は、音楽、文学、絵画、造形芸術、映画、建築等のそれぞれのジャンルを、歴史的に鳥瞰、展望するつもりである。先ずは、次回から大衆音楽から始めたい。
大衆音楽(música popular) ②
19世紀のブラジルの中流社会では、明らかにヨーロッパの影響を受けた音楽が、パーティーや民衆の寄り合いの場で演奏されていた。しかしながら、アフリカに起源を発するリズムやメロディーがその存在感を示していた。
そのことを証左するかのごとく、黄金法の発布によって奴隷解放がなされた翌年の1889年には、アフリカ音楽の影響を強く受けたChiquinha Gonzaga が、カーニバルのために初めて作曲した「オープン•ウイングズ•マーチ」(Ó Abre Alas!)を発表している。
当時、音楽はオペラ劇場や屋外でなされることが多かったが、それ故に歌手にはオーケストラやバンドにかき消されないだけの声量を求められていた。
その一方、シンプルな歌詞と自由なリズムで歌うことができ、結果として急速な人気を獲得していった。
がしかし、第一次世界大戦の勃発当初のカーニバルには、特別の共通したリズムがあるわけではなかった。
Ernesto dos Santos Dongaが真のサンバとも言うべき「電話にて」(Pelo telefone)を1917年に発表、この曲は新しく、いかにもブラジル的なビートであったので、急速に広まっていった。
ブラジルの大衆音楽はクラシック音楽と併行して進展したが、双方とも違った影響を受けている。ヨーロッパ音楽から受け継がれたギターやピアノ、フルートという伝統的な楽器を、フライパンやグランター(cuica)、タンバリンが奏でるリズムと掛け合わせることで、大衆音楽は豊かなものになったのは言をまたない。
そして1930年代には、”黄金の時代” を迎えるのである。これには、マスメディアの中心であったラジオの存在も否定できない。
通称ピシギーニヤ(Pixiguinha)すなわちAlfredo Vi-
ana Filhoは、この時代に活躍した作曲家であり演奏家であった。まず彼は、無声映画の伴奏をする小さなオーケストラのメンバーからスタートし、その後エイト•バトンズ(Oito Batutas=8人の識者)を結成しながら、リオ市内のパライス•シネマ(Palais Cinema)の待合室で演奏していたそうである。
Pixiguinha は技術の知識も確かで才能あふれるフルート奏者であったことから、オーケストラ向けに
シヨーロ(choro)を作曲しているのである。当時のオーケストラのスタイルを独自のテクニックを駆使して、ブラジルの器楽音楽の特徴的な基礎を作り上げた。フルート独奏者として、芸術の域まで高めたと評論家に評されるまでに彼は、調べを数多くかなでた。
彼の代表作と言えば、「愛情深く」(Carinhoso)、「嘆き」(Lamento)、「心から生まれしサンバ」(O Samba Nasce do Coração)となろうか。
大衆音楽(música popular)③
リオ生まれのAlfredo da Rocha Viana Filho (=Pixiguinhaは、幼少の頃から優れた音楽的な天稟を発揮して、はや12才にはすでに一冊の音楽教本をマスターしていたと言われている。それ故に、父親譲りの音楽に対する好尚と、その父親からフルーlを厳しく叩き込まれたこともあって、シヨーロの先駆者となり数々の名作を残している。
ちなみに、Noel Rosa は同時代の人物である。情緒的なテーマの「最後の願い」(Último Desejo)、社会情勢を投影した「露は落ちてる」(O Orvalho Vem Caindo)、一般向けの「酒場のおしゃべり」(Conversa de Botequim)などの傑作で、大衆音楽のテーマを広げた点で注目される。Chico Buarque de Holanda、Maria Bethânia、Martinho da VillaなどはNoel Rosa の影響を受けたアーティストとして知られている。
幼少の頃の彼が、母親からマンドリンを習い、中学時代にはリオの飲食店などですでに演奏していたというのは驚きだ。
1930年発表の[カーニバルには]「どの服装で?」(Com Que Roupa?)で一躍脚光を浴び、その曲調の持つ洗練された都会的な雰囲気と歌詞は、samba cançãoの代表的なものとなった。
saudadeを込めた人間の喜びや悲しみ、楽しみや哀愁を全面に打ち出した楽曲は独特なもので、サンバの歴史に深い足跡を残している。
大衆音楽(música popular) ④
Ary Barrosoは、Noel RosaやPixiguinha 、Ismael Silva、Lamartinと同時代に生きた人物である。
ブラジルの第二の国歌とも目される「ブラジルの水彩画」(Aquarela do Brasil)や「バイアーナの盆の中」(No Tabuleiro da Baiana)の作品でも明らかのように、ブラジル高揚を強く意識させるリズムとメロディーの緻密さにAryの音楽の特徴があるように思う。
ミーナス出身であるにもかかわらず、彼の行進曲の作品を含めて、すこぶる洗練された都会的な雰囲気を感じさせる。それかあらぬか、海外でもひろく受け入れられ、人気を博した。
傲慢な作曲姿勢やアメリカの映画会社と契約を結ぶなどして、ナショナリストの一部のグループから批判を浴びた。にもかかわらず、ブラジル性を強力に打ち出した音楽を通じて海外で宣伝した彼の功績は否定できない。
Ary Barrosoにとってこの海外での宣伝は、ハリウッド映画に出演し国際的にも名を馳せたCarmen Miranda に負うところが大きいと言われる。
大衆音楽 ⑤
1950年代に、異なった流れのモダンジャズである”ビーボツプ(be-bop) ” と “クール•ジヤズ(cool jazz)”がブラジルの大衆音楽に持ち込まれた。新たなスタイルの解釈とジャズの持つ即興性から、Dick Farney、Leny Andrade、Lúcio Alves などの主だった支持者によってブラジル大衆音楽の技術的可能性は広げられた。
ナショナリストに激しく非難されたにもかかわらず、上述の歌手の努力もあってか、ボサノバの基礎が構築された。
もっとも、ボサノバをめぐる運動は、Antônio Carlos Jobim 、João Gilberto 、Nara Leão、Vi-nicius de Moraes 、Carlos Lyra、Roberto Menes-cal、Johnny Alf などの歌手が1958年、ブラジル音楽を再評価することに関心を持ち始めてから出来したと言われている。
当時の大衆音楽にドラスティックな変化をもたらしたものではなかったものの、包括的な特徴を持つボサノバは、より精巧なメロディーやあまり伝統的ではないハーモニー、より親密で砕けた解釈、そしてブラジルの特徴を持つリズムによって革新をもたらした。
クラシック音楽やジャズの要素を持つにもかかわらずボサノバは、Noel Rosa やPixiguinha 、Ary Barroso などの大衆音楽の作曲家たちの影響を大きく受けた。
ボサノバは大衆音楽とクラシックとの間のギャップをなくしていきながら、海外においてブラジル音楽の魅力をおもう存分に見せつけることとなった。リズムが伝統的なサンバに較べてやさしくなったのに加えて、メロディーとハーモニーがきれいでモダンな印象を覚えるのも、ボサノバが国際的に評価された要因だろう。
海外から流入した音楽との融合であったものの、ボサノバはブラジルのかたちとリズムをそのなかに採り入れた点で、音楽評論家の坂尾英矩氏が言うように、完全にブラジル産の新しいサンバのスタイルなのである。
大衆音楽(música popular) ⑥
ボサノバの登場とともに、大衆音楽は創造性の時代に入り、数多くの作曲家や歌手が輩出した。そんな中で、サンパウロのParamount Theatreにおけるシヨウーなどは、批評家のみならず大衆にも好評であった。
これが功を奏して、レコードの売り上げはうなぎ登りになり、テレでもブラジル音楽を紹介する番組が生まれた。例えば、サンパウロのTV Recordの「The Best of Bossa」や、同じサンパウロのテレビ局Excelsiorの「General Rehearsal」などがそうである。
そして1965年になると、「ブラジルポップの最初のフェスティバル」(First Festival of Brazilian PopMusic)をTV Excelsiorが企画•放送、人気を博した。後になつて、Record 局も放送するに至る。
ボサノバは先にも触れたように、リオの個人のアパートで生まれた。テーマや形式の変化があり、テレビを通じて大衆に受け入れられた。
こうした祭典でChico Buarque da Holanda 、EduLobo、Geral Vandré、Caetano Veloso 、Gilberto Gilなど才能ある歌手が紹介され、活躍の場となった。
Chico Buarque は周知のごとく、シンプルで叙情的な詩才を駆使して曲を書き上げた、偉大な作曲家の一人である。初期の作品を特徴づける形式を捨象したわけではないが、後世は社会問題に焦点を当てた作品が少なくない。
Geraldo Vandréは北東部をメインテーマにしており、この地方の特色であるモード•ハーモニーを民俗音楽研究の拠り所として、曲を製作していることで定評がある。
Sérgio Ricardoは、Glauber Rocha 監督の映画「太陽の地の神と悪魔」(Deus e o Diabo na Terra do Sol )のサウンドトラックで知られているが、彼がプロデュース、監督した作品には、「スケアクロウの夜」(A Noite do Espantalho)や「悲恋のジユリアーナ」(Juliana do Amor Perdido)などもある。民俗音楽の研究に打ち込み、社会問題に深い関心を持っていたことが作品からもうかがえる。
Edu Lobo はTv Excelsior局の「ブラジルポップの最初のフェスティバル」において「地引き網」(Ar-rastão)で優勝し、また1967年には、「連絡船」(Pontino)で三位に入賞している。
大衆音楽(música popular) ⑦
1960年頃からsamba-cançãoとBossa novaの影られるTv Recordの” Jovem Guarda” (若年世代)という番組でデビューした。その意味でRoberto Carlos は、rockの礎を築いた人物とみなされる。
1965、彼の指導の下、国際的ヤア、ヤア、ヤア(yeh, yeh, yeh=Iê, iê, iê)の影響を強く受けた若い世代の動きも始まる。
音楽のリズムの質と主要な演奏者のカリスマ性、新たなスタイルを紹介するテレビ番組の登場、それにRoberto Carlos の国家的な名声が、この運動が広く受容されたのではないか。
るてしかしながら、フォークの作曲家からは痛烈な非難を浴びた。にもかかわらず、”若い世代” はyeh, yeh, yehを真似るだけにとどまらなかった。彼らは、とりわけその解釈において、ブラジル的な要素を採り入れ、あたかもそれは、自然でくだけたスタイルのbossa nova の偉人João Gilberto を思い起こさせるものであった。
yeh, yeh, yeh の歌手としてのレッテル呼ばりされたこともあったものの、Roberto Carlos はその後一段とファンの心をつかむこととなる。
大衆音楽(música popular) ⑧
1967年はブラジルの大衆音楽にとって記念すべきイベントがあった年である。最初に成功を収めたのは、ダンス音楽のリズムの行進曲とでもいうべきmarcha-ranchoで、カーニバル曲「黒いマスク」(Máscara Negra)によってZé KetiとHidebrando Pereira Matosが優勝している。しかも、2月末にアメリカで一枚のレコードが発売され、ボサノバのジャンルのみならずブラジル音楽界で重要な人物の一人Tom Jobim の曲を10曲歌っているのだ。
5月には国際歌謡祭がリオで開催され、若き二人、つまり現在ではブラジル音楽界をリードしているMil Nascimento とGutemberg Guarabiraが紹介されている。
特に多才な作曲家であるミルトン•ナシメントは、直接的でありのままのスタイルでずば抜けた存在だ。高い声を活かした彼の歌は、ただ歌唱力をひけらかしているだけではなく、表現力の源ともなっているのは言を待たない。