連載エッセイ453:田所清克「ブラジル雑感」その61 ブラジルの芸術⑧ | 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

連載エッセイ453:田所清克「ブラジル雑感」その61 ブラジルの芸術⑧


連載エッセイ453

ブラジル雑感 その64
ブラジルの芸術 ⑧

執筆者:田所清克(京都外国語大学名誉教授)

ブラジルの芸術 Arte Brasileira
ブラジル人のエスプリ: ブラジル音楽

大衆音楽(música popular) ⑨

 Caetano Veloso による「Joy•Joy」とGilberto Gil による「公園の日曜日」(O Parque no Domingo)は ブラジル音楽の新たな潮流であるトロピカリズモ(
tropicalismo)を生み出した。この動きは、先にも触れたが、当時支配的であったナショナリズムを帯びた音楽に対する反動的な試みでもあり、多くの作曲家に影響を及ぼした。
 トロピカリズモは他方において、大衆音楽と” 若年世代” (jovem guarda)、大衆音楽とアヴアンギヤルドなクラシック音楽との垣根を取り払い、全ての審美的に影響あるものを積極的に受け入れていこうという提案でもあった。
 北東部にも端を発する音楽は、コルデル文学(Literatura de Cordel)に基づくものが少なくなく、今日ではQuinteto VioladoやBanda de Pau e Cor-dasらが、伝統的なその地の楽器を用いて現代的にアレンジしながらハーモニーの技巧で演奏している。
 こうした進歩に加えて、伝統的なサンバもElton
Medeiros 、Martinho da Vila、Paulinho da Vio-laといった作曲家から評価されているのは注目される。
 その一人で、作曲の才能が豊かで構成技巧の知識に秀でるViolaは、ミュージカル「黄金のバラ」(Rosa de Ouro)と、1965年に録音したレコードRoda de Sambaで知られる存在となった。そして1969年には、Tv Record主催の音楽祭で、Spot Lightという楽曲で入賞している。
 昨今、新しいスタイルに挑戦しつつ、価値ある楽曲で目覚ましい活躍している作曲家には、Paulo Cézar Pinheiro 、Belcior、Dominguinhos、Fagner などが挙げられよう。

ブラジルの芸術
ブラジル人のエスプリ: ブラジル音楽
大衆音楽(música popular) 10

終わりに
 大衆音楽は、サンバからボサノバ、ブラジリアン•ロックに至るまで、多様性に富んでいる。のみならずその独創性はおそらく、多くの民族集団がもたらしたのが融合して出来上がったものであろう。多様なリズムとハーモニーなどはその典型かもしれない。
 その意味において、大衆音楽ほどに国の本質的なトレードマークとなっているものはなく、ブラジルを表徴するものといっても過言ではない。
 大衆音楽史を駆け足で俯瞰すると、オーセンティックと考えられるこの国の大衆音楽は帝政時代に発祥している。
 共和制になると、ブラジル流ともいえるスタイルやジャンルが確立。「近代芸術週間」を迎え1920年半ば以降は、マスメディアが大衆音楽の支えとなり、大きな発展を遂げた。その内、外国の大衆音楽、わけてもアメリカのそれの影響を受けながら、新たな大衆音楽の誕生をみるに至った。
 60年代~70年代にかけては、政治参加(アンガージユマン)のアーティストたちが一世を風靡するようになる。
 そして80年代以降に登場した新世代のアーティストたちは、古い世代の音楽を継承しつつ、更新しているような気がする。
 次回からクラシック音楽について言及する予定。
◎一般には「エメ•ペ•べ」と呼ばれる大衆音楽(Música Popular Brasileira) 。この呼称はbossa-nova 以降に使われた言葉であるが、現在ではポップスの意味で使われている。

ブラジルの芸術  Arte Brasileira
ブラジル人のエスプリ: ブラジル音楽[ Espírito do povo brasileiro: música brasileira]

クラシック音楽(música erudita) ①

 ブラジル音楽とはまるっきり縁のなかった私ではあったが、留学前に京都女子大学附属の京都女子高校の高校生向けに、Villa-Lobos の楽曲の発音指導したことがある。
 それにしても、自身がブラジルの芸術、文化に強く惹かれて将来、民族文化を中心に研究をするなど、夢にも思わなかった。
 前置きはこの程度におさめ、大衆音楽に次いで、あまり語られることのないこの国のクラシック音楽について素描したい。
 ブラジルが発見されてしばらくすると、イエズス会の神父たちが布教目的で到来する。そこで彼らは、原始的な管楽器や打楽器の伴奏で歌ったり踊ったりしている先住民インディオを目にすることとなる。
 単調な歌は神父たちにはグレゴリオ聖歌に類似しているように映ったそうだ。そこでそのグレゴリオ聖歌のみならず、フルートや弦楽器、ピアノの前身であるクラヴイコードを教えたらしい。
 あくまで宗教目的ではあったが、布教村や教会広場では、神父と先住民との合同による神聖な儀式において音楽が演奏されたそうだ。
 しかも、イエズス会の神父たちはしばしば、優れた歌い手であるインディオとも聖歌隊を編成、交唱歌を生み出しては、時には二音、三音、四音のミサ曲も作り出したそうな。

ブラジルの芸術  Arte Brasileira
ブラジル人のエスプリ: ブラジル音楽[Espírito do povo brasileiro: música brasileira]

クラシック音楽(música erudita) ②

 植民地化の初めての世紀に、暗黒の大陸から強制離散させられた黒人奴隷によって、アフリカ音楽も持ち込まれた。
 イベリア音楽以外にアフリカのそれとも接触、交流することで、ブラジルの音楽は豊かなものになっていった。
 かくして、今日の大衆音楽ばかりかクラシック音楽への、特にリズム感を育む意味で影響を与えたのは事実であろう。
 黒人奴隷がこよなく愛好した、踊りを交えた音楽のタイプと言えば、リンドウ(lundu=)である。この音楽は19世紀のポルトガルでも歌われ、長年に亘ってブラジルの大衆音楽となった点で、特筆すべきかもしれない。
 18世紀には、ギター奏者のムラトJoão Furtadoがバイーアに現れ、奇抜なメロディーを導入していった。 
 またこの時代には、宗教音楽を作曲する一方で、独自の詩に基づいた世俗的(非宗教的)な歌を生み出したEusédio de Matos Guerra も活躍した。その兄弟でバロック主義詩人のGregório de Matos e Guerra は、ギター伴奏で自作の歌を唄い乙女たちを虜にしたという。
 彼らの歌謡曲はモデイーニヤ(modinha= 白人社会で生まれたロマンチックな愛の歌。リズムパターンにとらわれない、いわゆるテンポがスローなのに特徴のあるcançãoとも言えるもので、一説ではポルトガルの国民的歌謡フアド[fado]に影響を与えたと見なされている。)と呼ばれ、それは単調な教会音楽とは対極にあった。モデイーニヤは不敬で、時には悪漢的なものを題材にしていることもあってか、サロンで受け入れられるのには時を要したようだ。

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ブラジル人のエスプリ: ブラジル音楽[Espírito do povo brasileiro: música brasileira]

クラシック音楽(música erudita) ③

 18世紀後半になると、音楽界に大きな動きがあったが、これは宗教的なテーマと作曲における対位旋律の技法に特徴がみられる。ヨーロッパから楽譜を持ち込んだ貿易商ととの接触が増えたことや、ミーナス•ジエライスで都市階層が形成されたことが要因になっているようだ。
 ミーナス州の作曲家や音楽家のほとんどが混血のムラトであり、彼らは芸術音楽を通して社会的上昇を目指す輩であった。この時代の数千に及ぶ楽曲は”ミーナス•バロック “(barroco mineiro)として知られている。その多くが音楽的な知識と感性にあふれ、注目に値する。
 中でも、André da Silva Gomes 、José Emérico Lobo de Mesquita、Francisco Gomes Rochaのそれは抜きん出ている。
 当時ミーナスでの音楽活動は非常に盛んであったことから、未発見の楽譜も存在しているのではないかと考えられている。
 特筆すべきは、例えばSanta Cruz Plantation のごとき大規模な農園では、奴隷編成の楽団をかかえ、イエズス会も一方において、奴隷たちに音楽を教え音楽家集団を形成することにも尽力していた点であろう。

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ブラジル人のエスプリ: ブラジル音楽

クラシック音楽(música erdita) ④

 <金•ダイヤモンド サイクル>(ciclo de ouro •dia-mante)の経済基軸となったミーナスも18世紀末にもなると金の産出量は少なくなり、多くの音楽家は当時文化活動が拡大、盛んになっていたリオに流出することになる。
 そうした中、Santa Cruz Plantationの伝統を受け継いだ教育を受けたJosé Maurício Nunes Garcia は、ポルトガル王室のブラジル移転とそれに続くヨーロッパ文化の影響が拡散する過渡期の音楽家であった。
 その彼はオルガンとクラヴイコードを即興演奏する名士であったことから、D.ペドロ六世の目に留まり、王立聖堂(Capela Real)の音楽監督にも命ぜられている。
 ちなみに、この聖堂は100人以上の歌手や演奏家をかかえ、その多くが外国人であったらしい。
 もっとも有名なJosé Maurício は、「鎮魂歌のミサ」(Requiem)や「死せる者のためのミサ」(Missa for the Dead)だろう。彼がカトリックの神父であったことも題材にも歴然とした宗教性が反映されている気がする。
 その一方で、「双子の姉妹」(The Twin Sisters)、「アメリカの大勝利」(The Triumph of America)、「ウリシー」(Ulisses)などのオペラ作品もある。

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ブラジル人のエスプリ: ブラジル音楽

クラシック音楽(música erdita) ⑤

 先述のように、17世紀に生まれた最初の民衆的な歌謡ともいえる、あまりリズムパターンにとらわれないスローテンポのロマンチック溢れる愛の歌mo-dinha。そのcançãoは18世紀の終わりにもなると、貴族たちのサロンではもてはやされ、幅を利かせるようになる。
 そのブラジル生まれの歌謡曲が、ギター奏者のDomingos Cardas Barbosa によってポルトガルに持ち込まれ、同国の作曲家が興味を示したのみならず、民衆の間でも人気を博するようになる。そして、modinhaはクラシック音楽とも融合しながら、その評価を高め貴族の集まりでは常に歌われる対象となった。特筆すべきなのは、演歌を彷彿させるポルトガルの国民的歌謡fadoに影響を与えたともいわれている言説もあること。

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ブラジル人のエスプリ: ブラジル音楽

クラシック音楽(música erdita) ⑥

 ブラジルの政治的独立(1822年)に加えて、ナショナリズムも一つの核をなすロマン主義の思潮がヨーロッパから流入(1836年)すると、文人のみならず作曲家たちは大いに愛国心に目覚め、国家宣揚•誇示を狙った思想で、最初に文芸、わけても詩作されたUfanismo が再び沸き上がった。
 そして、詩人や小説家と同じように作曲家たちも、自国の壮大にして美しい自然、大地、住民などに歓喜して、讃美歌やモジーニヤ、オペラを書き上げた。
 ヨーロッパの影響は以前ほどではなかったが、依然として存在していた。ヨーロッパでも数多く上演された代表作「オ•グワラニー」(O Guarani)は、インデイアニスタ小説家José de Alencarの同名の作品を台本にした、Antônio Carlos Gomesの話題作で1870年、ミラノのスカラ座において大成功を収めている。
 彼の手になる作品には他に、「コンドル」(Condor)、「薔薇色のサルヴアトール」(Salvator Rosa)などがある。後世Carlos Gomes は、アマゾンのパラー州ベレンの音楽学校(Conservatório)の校長の職にもあった。
 Carlos Gomes といえば、あのすごい「カルロス•ゴーメス賞」を日本人として初めにお取りになった原田裕子さまがおられる。彼女を称える意味で、改めてここで紹介する。

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ブラジルのクラシック音楽(música erdita) ⑦

 ナショナリズムが音楽に発現したのはやはり、文学と同じく19世紀になってからのことである。
 Brasília Itiberê da Cunhaは1869年、ピアノ曲として「セルタネージヤ」(Sertaneja)を書き下ろし、これは民俗的要素を採り入れた最初のクラシック音楽とみなされよう。
 彼以外に、Alexandre LevyとAlberto Nepomuce-noもこの時代を代表する作曲家である。二人ともヨーロッパで音楽教育を受けたものの、主たる関心は民俗音楽の要素の吸収にあったことは、今日海外においてもっとも知られている、次に論じるHeitor
Villa-Lobos と同様であった。セアラー州出身の後者のネポムセーノの場合は、ポルトガル語で歌を唄うことに心血を注いだようだ。

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ブラジル人のエスプリ: ブラジル音楽

クラシック音楽(música erdita) ⑧

 これからブラジルのクラシック音楽の巨匠Heitor
Villa-Lobos について触れることになるが、その前に、彼の人となり音楽活動に関して、私が文献を介して知り得たかぎりのものをまとめたのがある。
 既に吐露しているように私には、ブラジルの音楽についての識見はさらさらない。が、ピアニストの畑由美子さん企画の度重なる演奏会の場において、ブラジル文化全般に関する講話を行っている。
 その演奏会がきっかけで、自分なりに偉大な音楽家への興味がふつふつとわき、Villa-Lobos 関連の文献を収集することにもなった。
 専門領域でもないにもかかわらず、Villa-Lobos についてまとめたのもあくまで、芸術文化の一環として常識程度に認識したいという、私なりの願望があったからかも知れません。
 ともあれ、このブラジルを代表する音楽家についてご存知のない方も、駄文を通じて知って頂ければ、嬉しく存じます。
◎両論文ともに拙著『ブラジル雑学事典』(春風社)に収載。

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ブラジル人のエスプリ: ブラジル音楽

クラシック音楽(música erdita) ⑨

 José Maurício Nunes Garcia 。白人の父親と黒人の母親との間に生まれたムラトであったが故に、人種差別の甚だしい当時の18世紀半ばのこと、その種の偏見と差別に当然なことながら塗炭の苦しみを味わってある。
 その彼は幼少の頃から、音楽に異常なほどに愛着を持ち、少年時代にはすでに、ヴィオラやマシエテなどを巧みに弾いたり、美しい声で歌っていたりしていたそうな。
 後世Maurício は、ベートーベン、モーツァルト、バッハ、ハイドン、ヘンデルを愛好してやまない作曲家となるばかりか、音楽教授として声楽や楽器も教え、文字通りヨーロッパの名だたる天才たちの影響がみられるのは否めない。
 珠玉の名曲と目される宗教楽「ミサ•エン•シ•ベモール」(Missa em si Bemol)および「ミサ•デ•レキエン」(Requiem)を含め、44才までに約200の作曲をしている、ブラジル最初のクラシック音楽家と呼ぶにふさわしい。
 だとすれば、Heitor Villa-Lobos の場合は、ブラジル音楽を統一した、今日まで海外でもっとも知られている、クラシック音楽の筆頭にある人物と言えよう。
 紹介した拙論でも言及しているが、自国の各地を旅して、その地特有の民俗的要素に深い関心を示し、収集したものをミュージカルなものを含めてあまたの作品のかたちで残している。
 「シヨーロス」(Choros)、「バツキアーナス•ブラジレイラス」(Bachianas Brasileiras )、「セレナーデ」(Serestas)、「シランダス(Cirandas=子守唄)
などは、ブラジルの典型的なテーマを扱い、技巧と作曲形式においても独創性が遺憾なく発揮されている。