執筆者:設楽知靖(元千代田化工建設、元ユニコインターナショナル)
今般2025年1月20日に二度目の合衆国大統領に就任したドナルド・トランプ氏は就任早々数々の大統領令に署名し、その中に『メキシコ湾』(Gulf of Mexico )を『アメリカ湾』(Gulf of America)とすることを主張した。
このカリブ海諸国をつつむ海域は1492年のクリストバル・コロン(コロンブス)の航海により到達、発見されて以来スペイン領として統治されて、スペイン人エルナン・コルテスがアステカ王国を征服し、その領土をヌエバ・エスパニャ(新スペイン)と命名し、その後アステカ王国の民族メシ―カ族から『メキシコ』という名称がつけられた。
『メキシコ湾』という名称はカリブ海諸島を統治したスペインにより名づけられたもので、その後ヨーロッパからスペイン以外の国々が海賊行為を含めてスペインから奪って植民地化したものである。
1492年1月2日、イベリア半島における8世紀に及ぶイスラム勢力の支配が終焉しレコンキスタ(Reconquista:国土回復運動)が成功しキリスト教支配となった。
この時、クリストバル・コロンはイサベルとフェルナンド、カトリック両王に対して『西回りアジアへの航海』をプロポーズし、両者のジョイント・ベンチャー事業(Empresa de Las Indias)計画が実行された。その結果、コロンブスは三隻の船舶、サンタ・マリア、ニーニャ、ピンタによりスペインのカディスを出港した。
そして今日のバハマ諸島のグアファニー島に到達、これが10月12日で、さらに西へ進みエスパニョーラ島まで進み、第一回目の航海を終えるがコロンブスは、あくまでも到達したところが『新大陸』とは思わず、インドの一部と思い込んだ。その後,三回の航海を行い,今日のユカタン半島、中米地域まで到達し海上でマヤ族と遭遇したといわれているが依然としてインドの一部分との考えを変えなかった。アメリゴは航海民営化の許可第一号の探検であった。
イタリアのフィレンツエの名家に1454年3月18日に生まれ、1478年アメリゴ34歳の時、伯父のフランスへの大使赴任にあたって秘書として同行したといわれている。その後アメリゴがセビーリャに行き驚いたのは、イタリアのフィレンツエでは東洋のイメージはビザンチンの輝かしい魅力を通したもので、スペインのそれはモーロ人の文化であった。セビーリャでは大航海時代の活気にあふれていて、これに触れて航海への関心が芽生えたと思われる。そして、高価な地図を購入したといわれそれが『天文学者』として船団に加わることになり,のちに『新世界』を提案したことになった。
第一回:1497~98;スペイン王フェルナンドの委託事業として参加し中米、メキシコ湾、北米東岸を天文学者として探検した。
第二回;1499~1500,これもフェルナンド王の企画で、指揮官はアロンソ・デ・オヘーダ、ブラジル北東部、ベネズエラ・バリア湾、カリブ海まで到達した。
第三回;1501~02,これはポルトガルの王室の事業として、マヌエル王の招へいで参加、1501年5月10日リスボンを出港、この時は南米大陸東岸、南緯50度まで達し、たまたまアフリカのダカールでポルトガル船団のペドロ・アルバレス・カブラルと巡り合ったとされる。この時、南米の東岸をさらに南下しようとするが,トルデシーリャス条約に逸脱するため、ウルグアイ,アルゼンチンの沿岸民族との接触を避けて1502年9月7日リスボンに帰港した。
第四回;1503~04:フェルナンド・デ・ノローニャが委託を受けた船団の一隻の指揮をアメリゴが委ねられた。アフリカ沖で嵐に会い旗艦が沈没、大西洋を横断して投錨地を見つけて、単独でブラジルのバイーアヘ.ここで2か月ほど滞在してさらに南下して今日のサントスあたりまで行くが,その先は断念して1504年6月18日リスボンに帰港した。
一方、ポルトガル人のカブラルは1500年13隻の船団を率いてリスボンを出港、アフリカ大陸沿岸を南下予定であったが、進路を西へ取り過ぎて偶然にブラジルを発見することになる。
1491年末,フィレンツエから再びセビーリャに赴いたとき、アメリゴは39歳、レコンキスタの最終段階でグラナダ陥落の直前であった。その後、生涯フィレンツエには帰らず,メディチ家の事業のスペインの代理権委託をされているジャネット・ベルディ商会へ入った。このベルディ商会はコロンブスの事業の理解者でロジックスの事業の担当はアメリゴに任された。ここでアメリゴは『航海』に関心を持つようになり、このころにコロンブスとの交友関係が生まれたとされる。
そしてアメリゴは43歳で航海者に近代的、合理的な世界観をもち、『天文地理学』の素養をスペインの国王に認められて参加するようになり、その後、『航海術を習得』し次のポルトガル王から招聘され『航海士』として評価された。
1507年春、ライン川ロレーヌ地方,ブオ―ジュの森のサン・ディエ修道院から一冊の『世界地理』の本が出版された。『コスモグラフィエ・イントロデュクティオ』(世界地理入門)で、その中で新たに発見された世界第四の大陸を『アメリカ』と命名し付属の世界地図には南米大陸の部分が『アメリカ』と記入されてある。『アメリカ』はアメリゴ・ベスプッチにあやかる名称で、この本はベストセラーとなったといわれている。これによりこの称号が広く世界に定着した。
アメリゴの証言に最初に疑義を投げかけたのは、ほぼ同時代の歴史家、バルトロメ・デ・ラス・カサス神父であった。それもコロンブスならびにアメリゴの死後に行った批判であった。サン・ディエ修道院の執筆者たちは1493年のコロンブスの第一回航海の報告の書簡を承知していた。しかしアメリゴの第六書簡ほどの衝撃を感じなかった。
第一コロンブス自身がアジアの近辺に到着したものと信じていた。コロンブスの発見したのはカリブ海の島々という限られた地域であった。これに対しアメリゴは南北両半球にまたがる厖大な大陸の存在に初めてきずき、それを全く未知の別の世界という明確な認識に達していた。サン・ディエ修道院の人々がアメリゴを新世界の発見者とみなしたのもあながち無理のないことである。
アメリゴは『新世界』とコロンブスは『インディアス』と称した。(アメリカの呼称は後世でコロンブスにあやかって修道院の流儀で命名したならば“コロンビア”となったはずである。
1451年8月ジェノバの織職人の息子として誕生したといわれ、1492年8月13日スペインのカトリック両王との協約によりアンダルシアのバロス港を出港、9月6日ゴメス島から一路西へ、10月12日グアファニー島に到達、その後さらに西へ航行しクリスマスの夜サンタ・マリア号がエスパニョーラ島で座礁、そこに39名を残留させて帰路へ。アメリカ先住民を“インディアン“と呼ぶ由来はコロンブスがカリブ諸島に到達したときインド周辺と認識し、そこの先住民をインド人(インディオス)と呼称したことによる。
コロンブスはあくまでも「インディアス事業」を遂行していたので4回の航海で中米地域にも到達していたがその先にさらに大洋があることは認識せず、太平洋の発見はのちの1513年スペイン人、バスコ・ヌニェス・デ・バルボアがパナマ地峡を横断して発見することになる。
またアメリゴ・ベスプッチはコロンブスとは対照的に探検のイニシアチブは取らず{天文地理学者}として参加し、スペイン王やポルトガル王に対して何等の報酬や権利を要求していない。
一方、スペイン王室の独占事業であったインディアス事業もコロンブスの航海実績が上がらず、王室は“民営化”の方向に傾く。1495年4月10日付け,一旦は自由化令を撤回するが、王室は査察官ボバディージョをエスパニョーラ島へ派遣。インディアス事業の見直しの方向へ舵を切った。この背景にはポルトガルやイギリスの航海は目覚ましい進展を遂げていることがあげられる。
ポルトガル王マヌエル一世が『バスコダ・ガマ』の航海でカトリック両王に親書を届け、これは香料取引の協定を締結する意図であった。これはコロンブスのインディアス事業と競合する計画であった。1497年7月8日ガマは四隻、170名の船団でリスボンを出港、ガマはインド到達で香料買付には失敗するが、『インド航路開拓}で国王に認められコロンブスのインディアス事業に勝る実績を上げた。そしてガマの弟のインド航海の実績報告では『香料取引』が実績として、すでにアラビア商人により行われていることがポルトガル王に報告されていることでカトリック両王は驚いた。
他方、イギリスは1497年べネチア人に『西航行き』許可を与えたので、このような状況の中でカトリック両王はコロンブスの権威、権限を制限しインド香料諸島への航路を探し求めるため民間人のインディアス通路を許可することに踏み切った。
こうして1495年4月10日、と5月30日付け発見・交易航海自由化令が発布され、その許可第一号はアロンソ・デ・オヘーダ,ホアン・デ・ラ・コサ、そしてアメリゴ・ベスプッチの航海であった。これにもとずき8隊が出港したが,香料島への通路の発見はできず、このような中エスパニョーラ島への復帰を望むコロンブスに引導が渡された。1501年9月3日付け、ニコラス・デ・オバンドがコロンブスに代わって新しいエスパニョーラ島総督に任命された。その3か月後、コロンブスは1502年5月9日四隻。140名を率いてカディスを出港し、四回目の航海に出た。
1504年11月26日,イサベラ女王崩御、フェルナンド王もベスプッチの航海知識に関心を示していた。コロンブスはベスプッチが王室へ向かうことを知って、1505年2月5日付け手紙を託したとされる。
ベスプッチは1505年4月24日付けカスティーリャ王国への帰化を許可され、1508年3月『インディアス通商院』付き初代航海士総監に就任しインディアスへの航海事業を指導し1512年2月22日セビリアで他界した。
一方,コロンブスはフェルナンド王、それに続いてフアナ女王、その夫のフェリッペ大公にも『サンタフェ協約』の再確認と自分の復権を願い出たが、返書はバヤドリーに届かないまま、1506年5月20日静かに息を引き取った.享年54歳であった。
ドイツの地図制作者、マルティーン・バルトゼミュラー1506年が『アメリカ大陸』と命名したのが始まりとされる。その名前は探検家、アメリゴ・ベスプッチのラテン語にもとずくとされる。サン・ディエ修道院の地理学者たちがアメリゴを新世界発見者と認めたのは『発見』の日付を根拠とするものではなかった。アメリゴがその第三回航海の結果、従来全く未知であった新しい巨大な大陸の存在には、初めて気づくことである。そしてこれを世界の第四の部分と認識し『新世界』と呼称を打ち出した事実である。
コロンブスは自分が発見した陸地は最後までアジア付近と認識していた。アメリゴは第三回航海では、アメリカ大陸の南岸、南緯50度まで達している。もう一つ、『アメリカ合衆国』は1776年4月6日、バージニア州ウイリアムズバーグの『ザ・バージニア・ガゼッタ』紙面に匿名で書かれたエッセイである。
1776年、トーマス・ジェファーソンは独立宣言『原草稿』の見出しにすべて大文字で 書かれた『UNITED STATES OF AMERICA』という言葉を加えた。独立宣言の7月4日の最終版においては表題の該当する部分は『アメリカ合衆国13州一致の宣言』に変更された。1777年に連合規約が発布され、連合の名称を『The United States ofAmerica}と定めると規定した。
また、1787年の憲法には『ユナイテッド・ステイツ』と書いた。この時、これではどう見ても固有名詞らしくないとの意見で、結論は後日となっていた。しかしながら、誰が考えたか知るすべもないが、いつの間にかアメリカという呼称が入り、慣習として 定着してしまった。アメリカはサン・ディエ修道院の命名者の意図によれば『南米大陸』に与えられた地理的名称であったはずである。
1776年にイギリスとの独立戦争に勝利したあと東部13州はThe United Colonies を形成して。なかなかアパラチア山脈を越えなかった。その間、西の方はスペイン、フランスなどの統治が進んでいた。
その後ルイジアナは1801年ナポレオンがフランスに返還したが、1803年には合衆国に売却された。また、フロリダは1810年10月27日併合され、1819年フロリダを買収した。そして1898年2月5日キューバにおける合衆国戦艦のメイン号の謎の爆発事件を機にスペインと合衆国の戦争となり合衆国が勝利してスペイン領カリブ海、太平洋のフィリピン、グアムを占領しキューバの独立を支援した。
さらに1845年テキサス共和国の独立、合衆国のテキサス併合、ルイジアナを領有した後の合衆国の西への進出で、ついにメキシコとの戦いとなり、これに勝利して1848年2月2日、『グアダルーペ条約』によりメキシコ国土の約半分にあたるカリフォルニア、ネバダ、ユタ、アリゾナ、ニューメキシコ、コロラド、テキサスを領有することとなった。今日のリオグランデ川以北で国境の距離は3,300キロメートルになる。
メキシコはスペイン人エルナン・コルテスにより1513年にアステカ王国が征服され、『ヌエバ・エスパーニャ』(新スペイン)と称されスペインから副王(Virrey)が派遣されて植民地化された。
その後、スペインからの独立闘争が起こり、その独立闘争のさなかの1821年にアステカのナワトル語で『メヒクトリの地』を意味する『Mexihco』からメキシコと決定された。またこの意味はアステカ族の守護神“ウイツイロポチトリの別名である『神に選ばれた者』との解釈もある。
また、『メキシコ湾』の命名は二世紀には『7つの海』として地中海、大西洋、黒海、カスピ海、紅海、ペルシャ湾、インド洋で当時はメキシコ湾を含む、これ以外の海洋は未到達であった。そして北アメリカ南東部とメキシコ北東部に挟まれた“湾”である広くは大西洋アメリカ地中海の一部と分類されると言われていた。
さらに明白な説明としてメキシコ湾の周辺の海岸線の半分以上がメキシコ国境に接している。しかしながら、ほとんどの水域は単一の国として所有されているものではない。メキシコ湾を最も支配している国はメキシコ、合衆国、キューバでありこれらの国とは長い間『メキシコ湾』として水路を所有してきたのである。
このような史実に対して2025年1月20日に就任したトランプ合衆国大統領は『アメリカ湾:Gulf of America』に変更する主張をしてきた。これに対して報道によればメキシコのシエンバウム大統領は北アメリカ大陸に『アメリカ・メヒカーナ』と書かれた地図を示して別の提案をしたとされる。
2025年2月25日の朝日新聞・天声人語に1985年の東西統一ドイツの初代大統領となったワイツゼッカー氏が『過去に目を閉ざす者は,結局のところ現在にも盲目となる』という西ドイツの連邦議会での言葉が記載されていた。今日の世界では各大陸で問題が山積している。それは侵略、移民、難民、など解決の方向は見えない。そして大国の資源を求める闘争の方向性もまったく『過去の反省』からは程遠いものである。領土問題などは、侵略したものの勝利的な考えで国連などの場での議論も前向きな変化も見られない。
今回は合衆国が主張する『アメリカ』という呼称について、その歴史観から考察を試みた。
駐在していた経験から『アメリカ』はラテンアメリカ側の認識で{われわれ側}であり、北のアメリカは、あくまでも『合衆国:ESTADOS UNIDOS』なのである。
合衆国のトランプ大統領が述べている『make America great again 』はどのように解釈されるのか? さらにGulf of Americaはペルシャ湾やアラビア湾の如くでよいのでは。国連の名札を見ても『United States』と示されている。
以上
<資料>
『アメリゴ・ベスプッチ』色摩力夫 著、中公新書、1993.4.25.
[コロンブス] 青木康征 著、中公新書、1989.8.25.
『ラス・カサス伝』 染田秀藤 著、岩波書店、1990.9.6.
{アンダルシアの都市と田園}陣内秀信 著、鹿島出版会、2013.2.10.朝日新聞。記事;トランプ大統領のGulf of America 主張
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