執筆者:田所清克(京都外国語大学名誉教授)
1933年になると、リオでは活発に映画制作が行われるようになり、この国の映画界を長年にわたって牛耳る存在となった。
傑出した制作者のHumberto Mauro は依然として健在であり、30年代初頭に女優で座元であったCár-men Santosが設立したBrazil Vita Filmで活躍の場を見出だしていた。
この会社が制作した大作といえば、リオのスラム街であるfavela を感傷的に写し出した「私の心のスラム」(Favela do Meus Amores )だろう。がしかし、当時の映画制作はCinédia の意向により決定された感がしないでもない。そのCinédiaは、アメリカ人Wallace Downeyによるミュージカル「私たちのもの」(Coisas Nossas)を、最初のトーキー(talkie)としてヒットさせた。
当時、以後長年に亘って支配することになるシヤンシャーダ(chanchada=1940年から60年にかけての大衆娯楽映画。小説、コミカルな音楽などがない交ぜになったもの。burlescoとしても知られている。)がすでに現れていた。
1945年にCinédia は、Gilda de Abreu監督、バリトン歌手Vicente Celestine 主演の映画「飲んだくれ」(O Ébrio)を作って大成功を収めている。数多くの模倣映画もこの時代であった。が、同時にCiné-diaは、レベルの高い映画作りにも取り組んでいる。
北東部を代表する地方主義作家で、<サトウキビ連作>でつとに知られ、拙訳もある傑作『砂糖園の子』でお馴染みのJosé Lins do Regoの手になる『純潔』(Pureza)を映画化しているのも、その好例かもしれない。

1941年にはAtlântidaという映画会社が設立された。そして、40年代初期に何本かの映画が製作された。
その最初の映画「チアン少年」(Moleque Tião)は有名な劇役者Grande Oteloの生涯を描いたもので、役柄はOtelo自身が演じている。この作品からは、Atlântida がブラジルを主題としたものを製作しようとする意向が強く感じられる。しかしながら、製作会社はほどなくして、大衆受けする軽いタッチのchanchadaの作品作りに主流をおく。多くは音楽に満ち溢れ、その楽曲が販売され、後にカーニバルでヒットすることも少なくなかった。
ちなみに、当時chanchaで知られた俳優にあって傑出していたのはOtelo以外に、Oscarito、Eliana、Macedo、Anselmo Duarteなどが挙げられる。
ブラジル文学を学ぶ者にとって見逃せない映画がある。Visconde de Taunayの手になるマット•グロッソ州奥地を舞台とする悲劇的小説『イノセンシア』(Inocência)、『日本』(O Japão)という作品もある自然主義作家のAluisio de Azevedo の小説『 下宿屋』(Pensão)、文豪Jorge Amadoの『明の明星』(Estrela da Manhã)、『果てしなき大地』(Terras Sem-fim)などが映画化されているからだ。
この時代に傑出している監督には、José Carlos Burle、Lulu de Barros、Carlos Mangaがいる。また、当時もっとも人気のあった劇作家Joracy Ca- margoとドルシナ劇団は協同して、「24時間の夢」(24 Horas de Sonho)を制作している。
他方、当時上り調子であった脚本家にして役者のSilveira Sampaioは、「40歳のロマンス」(Uma Aventura aos 40)を作り、洗練されたコメディの制作が可能なことを自ら示した。がしかし、大衆は20年以上ブラジル映画界を席巻、支配していたchanchadaを好んでいたようだ。

1950年代初頭になると、ブラジル映画界に再生•復興の動きが起きる。この動きの導火線となりあるべき方向性を示したのがVera Cruz映画会社の設立であることは疑いもない。MaristelaやMultifilmesといった小規模の会社も現れた。
Vera Cruz は、国際的にも通用するクオリティーの高い映画を制作したいという願望から、外国の技術者と接触したのみならず、すでに海外で名を馳せたブラジル人Alberto Cavalcanti に対して、会社を引き継ぐために帰国を要請するに至る。
完全な設備をそなえたスタジオと、独自の俳優をかかえたVera Cruz は、全ての作品が芸術的価値があることには疑問が残るが、4年間で18もの映画を製作している。
1948年に設立されたTeatro Brasileiro de Comé-dia の監督を使って、今でも名作の誉の高いものを世に問うた。
「漁師」[Adolfo Celi監督]、1954年のベルリン映画祭で特別賞を取った「(Sinhá Moça)[TompayneおよびOswald Sampaio監督]、「禁じられたキッス」(É Proibido Beijar)[Ugo Lombardi監督]、「犯罪の過程(小径)」(Na Senda do Crime)[Flaminio Bollini監督]、軽妙なコメディで人気を博した「カンデイーニヨ」(Candinho)[Amácio Mazzaropi 監督]、「天秤の蚤」(Um Pulga na Balança)[Luciano Salce監督]などがそうである。
特筆すべきは、Lima Barreto監督が製作したブラジルの英雄伝「カンガセイロ」(O Cangaceiro)だろう。この作品は1957年、カンヌ映画祭の冒険映画賞と、ヴェニスの芸術映画評論家会[Critic’s Session of ART Films]で一位を獲得している。
Cangaceiro=Lampião は、19世紀~1930年代まで、北東部に跳梁跋扈した匪賊で、略奪、悪事を働く無法者で恐れられていた。しかしながら、貧しい民衆は襲わないことでも知られていた。
José Lins do Rego には文字通り、Cangaceiros[1953年]なる作品がある。同様に、女流作家Rachel de Queiroz は劇作家のデビューとなる作品の中で、伝説的なランピアンであったVirgílio Ferreiraと連れ、すなわち妻であるMaria Bonitaとの物語を戯曲化している。

主に配給上の問題で1954年代に廃業を余儀なくされた映画会社Vera Cruz。この事件は、サンパウロの映画産業にも危機を招いた。がしかさし、その一方で、ミュージカルやシヤンシヤーダのみならず、多様なコメディなどが生まれるきっかけともなった。
リオのいわゆるカリオカ•シヤンシヤーダは、技術的、美的質にこだわっている映画に道を明け渡した。
ブラジル映画の新たな方向を指し示した先駆的な作品となれば、Alex Vianyが制作した「わらぶき小屋の中の針」(Agulha no Palheiro)を挙げねばならない。
1955年にNelson Pereira dos Santos の「リオ40℃」(Rio, 40 Graus)が発表されると、映画が目指す方向性はより明らかになった。イタリアの新写実主義(Neorrealismo)の手法を用いたこの映画は、制作技術の面で飛躍的進歩をみせた。低予算で作られたこともあって街頭での撮影は一般人が使われ、そのことがかえって映画言語を通じてリオの実態を描いたことで注目されるようになる。
Rio 40 ℃の映画によってNelson Pereira dos Santos は周知の通り、ブラジル映画界の重鎮となりシネマ•ノーヴ(cinema novo)の基礎を築いた。

Cinema Novo のもう一人の先駆者と言えば、Ro-berto Santos を挙げねばならない。彼は、Rio 40 Grausのごとき作品をサンパウロで手掛けた。それは1958年に耳目を引く「偉大な時」(O Grande Mo-mento)であり、パウリスタの産業労働者たちの多様な側面を活写した。
新たな分野での経験が徐々に積み重ねかれて、1960年には30本もの長編映画が製作されもする。この時代は “バイーア•サイクル”(ciclo da Baía)と呼ばれるほどに、バイーアを拠点にした映画が一世を風靡した。
Glauber Rocha 監督による、チェコスロバキアのKarlov Vary映画祭で最優秀賞作品として選ばれた「バラヴエント」(Barravento)、Roberto Piresの「アスファルトの上での待ち伏せ」(Tocaia noAsfalto)および「大きな青空市場」(A Grande Fei-ra)などがそうである。
さらに看過できない作品をあげるとすれば、An-selmo Duarte監督の「サンタ•バーバラの誓い」(O Pagador de Promessa)だろう。この作品の原作はDias Gomes で、1962年にカンヌ映画祭においてグランプリを勝ち取っている。
これらの名作もあって、ブラジル映画は海外進出する基盤が整った。そして、国がかかえる問題をテーマにした映画も裾野を広げ、ブラジル文学の文豪たちの手になる作品を大衆映画に作り上げるようになった。
Nelson Pereira dos Santos 、Glauber Rocha、 Paulo César Sarraceni、Luís Sergio Person、Le-on Hirszmanらが、この国の映画の真骨頂ともいえる、リオで始まるCinema Novoに参画した主要なメンバーであった。
彼らは、高い技術で芸術性の優れた長編映画やドキュメンタリーの作品を生み出した。このCinema Novoの目指す方向と運動によって、ブラジルの映画界は、世界の注目を浴びるようになった。
独創性とブラジル性(brasilidade)に富んだもの、それは村落社会がかかえる問題から都会に生きる人間の葛藤や社会病理的側面に至るまで、幅広いテーマを扱った。
例えば、地方、すなわち北東部の旱魃地帯の困窮した農民家族の懊悩と農村貴族階級からの搾取、収奪を主題としたGraciliano Ramos の『干からびた生活』(Vidas Secas)は、1930年代を代表する地方主義小説である。それを映画化したのがNelson Pereira dos Santos である。

Nelson Pereira dos Santos 監督がGraciliano Ramos の最高傑作『干からびた生活』(Vidas Secas)を映画化することによって、国内でももっとも貧しい北東部は、国内外で改めて注目される対象となった。
今までに拙訳しているCacau 、Iracema, Menino de Engenho 同様に、北東部奥地の赤裸々な現実(realidade nua e crua)とそこに生きる旱魃被災者の困窮ぶりを扱ったVidas Secas の作品に私はすでに助手の頃から着目し、幾度となく読んで心を揺すぶられたことか。それ故に、論文のかたちでまとめたものもある。
作品を通して北東部の奥地の実態を理解する上で、Vidas Secas ほどに好著はなく、日本の読者にも紹介したいおもいで、小説の前半の部分ではあるが、訳出を試みたりもしている。次回は、映画史についての記述を脇において、その訳を紹介することにしたい。
ところで、Graciliano Ramos が最高傑作に仕上げた小説Vidas Secas と同じく、Nelson Pereira dos Santos が映画化したそれは、ブラジル映画界にとっては記念すべき、輝かしい作品となった。Nelson Pereira dos Santos の名を内外に轟かせたのも、この作品からであろう。これによって彼は1964年、カンヌ映画祭で “青少年向映画賞” [Best Film forYouth
(OCIC)]を受けている。
まさにブラジル映画史を高く照らす二本の炬火の存在と言えば、Nelson Pereira dos Santos と並んでGlauber Rocha になるだろう。Pereira dos Santos と同じく北東部の社会問題に寓話的な手法で肉薄した作品「太陽の大地の神と悪魔[=黒い神と白い悪魔](Deus e o Diabo na Terra do Sol)を製作している。
この二人の上記作品は、Cinema Novoの成立を考える上でもっとも重要であり、後世の映画製作者に対して直接、間接的に甚大な影響を与えた点からも特筆すべきである。

Graciliano Ramos 著 Vidas Secas:
田所清克 試 訳 ②
—- 歩かんかい、こんがきヤあ、と父親が怒鳴った。
それでも聞かないので、さや付ナイフのさやで男の子をなぐった。が、男の子は足をばたつかせて駄々をこねた、やがておとなしくなり、横になって両眼(め)を閉じた。それでもフアビアーノは幾つか平手打ちをくわせ、男の子が起ち上がるのを待った。しかしながら、男の子はそのままなので、フアビアー
ノはあたりを見まわし、怒って低い声でののしった。
叢林はどこまでも拡がり、その薄ぼんやりした赤い色には、白骨の白い斑点が混っていた。死にかかった獣たちのまわりを、ウルブ[腐肉を好む、ハゲ鷹の一種]の群れが、高く黒い輪を描いて翔んでいた。
—– 歩けったら、この罰あたりめ。
男の子は身動きしなかった。殺してやりたい、とフアビアーノは思った。気が荒(す)さんで、自分の不運を誰かのせいにしたかった。旱魃は当然の出来事のように思えた—それで男の子が強情をはるのをフアビアーノを腹立たせた。このちつぽけな妨げ、つまり男の子のせいではなかったことは確かであるが、前進の邪魔になった。それにフアビアーノは、何処からは分からないが、行かねばならなかった。
刺のある低い木と小石だらけの道を通り抜け、何時間も、干割(ひわ)れた泥が足に焼きつく川床を歩き続けた。
Graciliano Ramos 著 Vidas Secas
田所清克 試訳 ③
荒野に男の子を置き去りにする、そんな考えが、奥地の苦しみ悩む胸をよぎった。ウルブのこと、白骨ことを考えて決しかね、赤茶けて汚れたひげをこすりながらあたりを確かめた。ヴイトリアは、はっきりとはしないが、ある方向に唇を伸ばし、もう近くに自分たちはいるのだということを、いくらかのど音で断言した。フアビアーノはナイフをさやに納めてベルトをさし、しヤがんで男の子の手首をつかんだ。
男の子は両膝を腹にくっつけてちぢこまり、死体のように冷え切っていた。さっきまでの狂暴な怒りは消え、フアビアーノは可哀そうになった。この幼いわが子を野獣たちにくれてやれるものか。銃をヴイトリアに渡し、男の子を背負って立ち上がり、胸をだらりと垂れた、豚の脚のようにやわらかく、ほっそりとした男の子の両腕をつかんだ。それを見てヴイトリアはうなづき、また、のどから出る間投詞を発して、目に見えぬナツメの木々の方を指すのであった。
そして、深い静寂の中で、さらにのろのろとした、さらにみじめなその旅は続いた。
Graciliano Ramos 著 Vidas Secas
田所清克 試訳 ④
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連れがいないので、犬のバレイアが皆の先頭を立った。体を曲げ、あばら骨を目立たせ舌をだらりと垂れて、あえぎながら走った。そして、時どき立ち止まって、おくれて来る皆を待った。
昨日まではまだ、インコを入れて六つの生命(いのち)があった。かわいそうに、インコは、泥沼のそばで皆が休んだ川の砂の中で死んだ。この流民たちは、ひどい餓えに苦しめられ、そこいらに口に入れるものなど、かけらもなかった。バレイラは友だちのインコの脚を、頭を、骨を晩食に平らげ、そのことさえ、覚えていなかった。いま、皆が立ち止まっている間、家族の持ち物に目を光らせて、あのインコが体をよろめかせながら止まっていた小さな鳥かごが、ブリキの大トランクの上に見えないのを変に思っていた。フアビアーノも、インコがいなくなったのをさびしく思ったが、すぐに忘れた。木の根をさがし廻ったが、見つからなかった。マンデイオカ粉の残りもなくなり、叢林(カアチンガ)には、はぐれ家畜のなき声ひとつしなかった。ヴイトリアは熱い地面に腰をおろし、骨ばった両膝をかかえ込んで、今とはかかわりのない遠い日のことを思い浮かべていた。婚礼のこと、牛たちの駆り集めのこと、九日間の祈り(novena=ノヴエーナ)のことなど、みんな、ごちゃ混ぜ。ヴイトリアは、耳ざわりな叫び声で我(われ)にかえってあたりを見ると、一羽のインコが、脚をひろげ、こっけいな仕草で怒りたけって歩いていた。