執筆者:設楽知靖(元千代田化工建設、元ユニコインターナショナル)
今日の環境問題が真剣に議論されている世の中で崩壊されたアンデス山岳の農業、林業、あるいはアマゾンの森林地帯では古代の伝統的農業や、アマゾン地域のアグロフォレストリーによる再生復興のプロジェクトが実施され有機農業やSDG‘sへ結びつける動きがみられる。
で開催される予定である。今回はアンデス文明の中で発展したインカ帝国の山岳地域の農業と1532年以降にそれが何故崩壊したか、について考察してみることとしたい。
『持続可能な世界』(SDG‘s)の中でインカ時代の『アンデーネス』(段々畑)や、灌漑技術,高地における農牧の伝統を見直してみて、アンデス文明とヨーロッパ文明の出会いを考え、今も環境保全のために努力する『アンデーネス農業(テラス)の復興』と、アマゾンの『アグロフォレストリー』を見る。
この構築は600年頃,ワリ時代とされるが、洗練されたのはインカ時代とされる。
その原因は『温暖化』と言われており何千年も続いてきた冷涼な気候下で行われてきた高地での作物栽培が発展したのは氷河の融水で灌漑用水が確保できるようになったことである。こうしてアンデスでは高地のジャガイモ,下方地域でのトウモロコシ栽培が可能となった。
このジャガイモやトウモロコシの食糧増産によりインカ帝国は広大な土地のインフラ整備ができ余剰食糧は軍の整備も可能にして、インカのライバルであったワリやティワナク文化も征服されたとされている。
本来なら耕作不適地のアンデスの急傾斜地にアンデーネス(段々畑)を構築した。
これには伝統的な資材として粘土、石、砂、サボテンが使われ石組みのインカ人の石工技術は高度なもので、農作物への昼夜の温度差の霜害を防いだりできる技術であった。また農作物の肥料として北部海岸沖の島に堆積していた海鳥の糞を利用し、この地域別配布や管理はインカ皇帝による厳しいものであった。この海鳥の糞はファヌ『グアノ』と言われていた。
また、灌漑用水も何キロも先の河川や湖から勾配を整備して建設された運河によって誘導されて何十万人もの住民を養った。
<ミタ(MITA )とミトマク(MITMAQ)>
インカ皇帝は臣民にミタという租税として労働義務を課し、労働をさまざまな生産目的に振り分けた。もう一つはミトマクという制度で国家が指揮する人口移動で技術や知識を持つ人々の集団を国家の経済、軍事などの特定の目的のために故郷から離れた土地に移動させた。これはインカ以前からの垂直統御という習慣であった。この制度は環境の異なる遠隔地に自分の配下の者を入植させて地元では採れない作物を栽培させたり、天然資源を採取させたりした。インカ人として各地で必要とされる農作物、工芸品、土器、織物を作った。
インカの考え方の伝達『incanizacion』として腕の良い土器職人たちをバラバラに配置し、ほかの地域から来た民族とコミュニティーを形成させてリャマやアルパカの飼育、トウモロコシ栽培、アンデーネスの建設などインカにとって重要な作業に詳しく、ケチュア語を話せるミトマクが各地へ送られ共通言語の普及にも役立てた。
インカは『木』を大切にした。各地の街道(インカ道)の物流倉庫『コルカ』には燃料用の薪が10年分ストックされていた。燃料や木材需要を満たすため『アグロフォレストリー』が行われていたと思われ、土壌侵食された土地でよく育ち窒素を固定する『アリソ』という
ハンノ木の在来種を山腹に植えていた。肥料と同様,インカ皇帝による森林保全管理も厳しかった。これは天然を意味する『サチャ』という言葉とは別に栽培された木を意味する『マジュキ』というケチュア語があり、スペイン人の記録からも森林保全や植林の伝統があったことがわかる。スペイン人のエネルギー使用量は1639年の記録ではインカ人たちの一か月分の燃料を一日で消費したといわれている。
日本学生海外移住連盟OB会で活躍し、三重大学農学部を卒業後ブラジルのパラー州ベレンへ移住し、東京農業大学OBとともにアマゾンの日系移住地トメアスーで活躍する方々はアグロフォレストリーで実績を上げ熱帯林の中で種子の採取,育苗、混成林開発努力を重ねており、現地の小学生、中学生、一般農家の人々を指導して森林開発プロジェクトの普及に努力されている。
それは、あの広大なアマゾンの乾期と雨期の水位の差を含む土壌調査、研究から始めて『テラフィメ』(かたい安定した姿を変えない土地)や『バルゼア』(水が引いて乾いた土地で時間によって、あるいは季節によって変貌する土地)を調査し、アマゾン川の川岸に暮らす住民とコンタクトしてSAF(Sistema de Agrifolesta)という持続可能な生産システマとして農作物と樹木を組み合わせる活動を続けている。このSAFの目的は焼き畑によるモノカルチャー的耕作ではなく、同じ土地にバナナ、キャッサバなどの短中期作物、カカオやアサイなどの永年果樹作物、それに多種類の用材用樹木が植えられ、それらの間にはクロタラリア、豚豆、グアドリー豆といったマメ科の草やキク科のメキシコ向日葵など非常に多種類の機能作物が植えられている。混栽による経済的にも効率的な耕作システムである。
ペルーのクスコ北方12キロメートル、ウルバンバ川上流海抜3300メートルのパタカンチャ渓谷でこの復興プロジェクトが実施された。農民たちは地元の教師兼石工の指揮のもと6.4キロメートルのプママルカ水路を復活させ、160ヘクタールのアンデーネスに水をひきジャガイモ、トウモロコシ、小麦を栽培し、乾期でも350家族2000人以上のジャガイモを生産でき化学肥料も不要で、本来の有機農業が実施されている。
1532年スペイン人征服者によりインカ帝国は征服された。その結果,ヨーロッパから持ち込まれた天然痘の蔓延によりアンデス地域の人口が激減、その労働不足も一因であるがインカの人々とスペイン人の間の関心の違いが一番大きいとされる要因がある。
そのいくつかは、スペイン人は『輪作や休閑』が無意味との認識、燃料のために森林を破壊、不十分な水の管理と土壌管理の欠落、先住民への移住の強要によるやせた高地への追いやり、肥沃な土地は自分たちが取得,占拠。また、スペイン人が持ち込んだ家畜(馬、牛、羊、豚、鶏)の放牧により、いままでの放牧の主要な家畜であるラクダ科の動物の場所の土壌侵食や住民とのトラブルが生じた。スペイン人たちは農業より鉱業の方に関心を持っていた。
アンデス山岳の南部には、今も『相互互恵関係』と『高度差活用農業』が生かされている。高地でラクダ科の放牧をする『牧民』とトウモロコシ、ジャガイモを栽培する『農民』はお互いに『ケチュア語』を共有している。両者は季節の農作物の収穫時期と関連して。4月のジャガイモ類の収穫期、5~6月のトウモロコシ,ソラマメの収穫期には牧民は親しい農民の家に二か月ほど滞在して農作物の運搬に従事する。運搬手段はリャマで畑から収穫物を農民の家まで運び、その運搬賃として収穫物の一部をもらう。
スペイン人征服者の植民化後、このアンデス山岳地域では家畜、農業形態、社会慣習で複雑な緊張感が増加している。その環境の中で『SDG’Sのための努力』としてインカ時代の古代伝統型農林業の復興は実績を上げられるのか。
以上
<参考資料>
『文明は農業で動く』、吉田太郎 著、築地書館、2011.4.15.
『アマゾンのアグロフォレストリー』、高松寿彦 著、学移連OB会・九州交流セミナー2025.2.4.
『リャマとアルパカ』、稲村哲也 著、花伝社、1995.6.10.
『アンデス高地』山本紀夫 著、京都大学学術出版会、2007.3.30.
『21世紀のパートナー・ラテンアメリカ』 設楽知靖 著、ジェトロ出版、1991。10.17.
『ASEFLOR』ブラジル・ベレン,植林用育苗生育普及・教育センター、佐藤卓司氏