執筆者:設楽知靖(元千代田化工建設、元ユニコインターナショナル)
地政学的見地から日本とインカ帝国の『飛脚』について、国土の地形的違いと歴史的期間と統合の違いを含めて、どのように活躍したか、また当時の『インフラ整備』の中で難所をどのような制度と技術を確立させて克服したかなどについて考察してみたい。
今日のペルーの地形と気候は世界で最も変化に富んでいるところといわれる。
アンデス文明は今日のアンデス山脈のエクアドルから南はアルゼンチンの北部、チリーの中央部まで約8000キロから10000キロに及び、その中心は今日のペルー、ボリビアで海抜0から6000メートルに様々な文化が発展した。後期・中期と言われる
900~1476年はチムー,シカン,パチャカマック、イカ、ワリ、ティワナクの各文化が各地域で隆盛を極めていた。
そして、南部のインカ族が徐々に領土拡大を図り、第九代インカ皇帝パチャクティ・インカ・ユパンキが北部海岸1200キロを支配していたチムー王国を征服、アンデス山岳南部のワリ文化並びにティワナク文化も平定して、1400年代には南北8000キロにわたるインカ帝国(正式名タワンティンスーユ帝国)を統治した。
日本は東西に細長い島国で、その長さは約3000キロでその中心部の東京(江戸)から大阪(大坂)、京都を中心として様々な地域文化がほぼ平坦な地形に領主が{城}を築き、各々狭い地域を統治する形態がとられた。
1185から1333年が鎌倉時代、1330から1573年が室町時代、この間、各地域の城主『大名』は領地拡大のための争いを繰り返し、局地的戦いの『戦国時代』(1467~1590)と言われた。
インカの国土は山々、世界一の深い谷、アマゾンのジャングル、そして砂漠、火山、地震と世界でもあらゆる地形が複雑に存在する地域で、国を意味するタワンティインスーユは『四方向を表す』ごとく、それは首都クスコを中心に東西南北の方向に発展させたもので北はチンチャイスーユ、現在のエクアドルのキトー、コロンビアのパスト地方に至り、南のコリャスーユの道はチチカカ湖を経てチリーにまで至った。東はアンティスーユでジャングルの方角で、平定にはいくつもの民族の抵抗にあった。西はクンティスーユで海岸地方をさしていた。
帝国の権力は四方八方の街道を整備し通信制度を整え、命令を伝達し領土を維持した。
インカ道は総延長40000キロでプレインカ時代の地方文化の道路網を統合、整備したもので帝国の戦略的に配置された各地の行政センターでの政策や制度を実施した。
アンデス山岳の北のエクアドルから南のチリーまで山岳と海岸の二本の主要道路インカ道『カパック・ニャン』(Qhapaq Nan):王道を建設し、各々の道路は用途に応じて、カパック・ニャン(王の道),ハッツン・ニャン(広い道)。プチュイ・ニャン(狭い道)、ルナ・ニャン(庶民の道)、の四つに区分されていた。
利用上の意味は狭義のカパック・ニャンは統治や軍事など公用で、一般に広く用いられる道路ではなかった。また、インカ帝国は首都クスコ(へそ、の意味)のハウカイパタ広場から四方向(タワンティンスーユ)への道によって区分されていた。インカ帝国は1532年のスペイン人の征服まで、約90年間にこのアンデス山岳の高低差の大きい道路で深い谷には吊り橋を掛け、幅の広い石畳の排水溝を完備した道を造り勾配の少ない技術を凝らし、険しい谷の崖には石工の技術により石材を使った石組みの道路を建設し、難所を克服した。
日本では各地域、特に東西に細長い国土において『城』を中心として領土紛争が絶えない時代で、1185~1333年の148年間の鎌倉時代は東の地域が中心であったが鎌倉と京都を結ぶ『東海道』の整備ができた。しかし、箱根峠と鈴鹿峠は難所で、また多くの河川を渡るところは川船や人足による歩行渡しの難所が多くあった。
4. 飛脚の登場と、その機能:
インカ帝国は、わずか90年のアンデス山岳統治国家であった。その1447~1532年は丁度ほぼ日本の戦国時代、1407~1603年と同時代である。インカ帝国においてはこの時期に『チャスキ』(Chasqui :飛脚)が登場する。この用語、チャスキはインカ帝国の公用語のケチュア語で『与え、そして受け取る』という意味である。この制度はミトマク(ほかの地域へ政策的に移住した人々)によってパチャクティ皇帝の時に制度化された。
この役割はインカ時代に重要な情報をさまざまな町や要塞に伝える帝国の使者に対して使われた。チャスキは公的な飛躍で情報を迅速にクスコへ届ける目的で5キロの間隔で道沿いに『駅』(タンボ:Tambo)が設けられ、そこには常時2名のチャスキが常駐していた。
情報伝達には『キープ』(Quip)、印をつけた縄、インカは文字を持たなかったのでこの独特の方法で、この解読は専門の訓練された担当者があたった。こうして次から次へと伝達された。
その速度は駅間を15分、時速20キロに達した。またタンボは30キロごとに設置され、その土地で収穫されたジャガイモを貯蔵するコルカ(Colca)という倉庫が備えられ、旅人や兵士に物資が提供されていた。チャスキはクスコとキトー間2800キロを10日間で走ったといわれている。また、クスコには膨大な量の食糧、衣類、武器などの貯蔵、蓄積があった。
日本では平安時代末期『治承・寿永の乱』(源平合戦)に始まり平家滅亡、の文治元年(1185),奥州藤原氏滅亡の文治5年(1189)にかけての一連の合戦は局地戦と違い、西国あるいは奥州へと戦線が拡大した列島規模で展開された合戦で、遠隔地を結ぶ通信手段として『飛脚』が生まれ、その利用価値がクローズアップされた。史料上で治承・寿永の乱以降に『飛脚』の文字が登場する。
また日本の『飛脚』にはさまざまな種類が存在した。『継飛脚』は幕府が設けた飛脚で、各宿駅で人馬をつなぎ変えて信書や貨物を運んだ。歴史的には、もっぱら公用であった。次に『大名飛脚』は江戸と国府を結んだ『飛脚』で、尾張藩と紀州藩が整備した。『町飛脚』は1663年(寛文3年)、当初、東海道の三都(江戸、京都,大坂)で行われ,享保年間(1716~1736)には上州、陸奥で営業、{通飛脚}は出発点から目的地まで一人で運ぶ飛脚であった。
『飛脚』の移動距離は、一日最長160キロ、通常128キロぐらいで『伝馬(各宿場)に一定の人馬を常駐』が郡衛(官衛施設)に設置され,官民の移動者に供した。戦国時代に最も活用された飛脚の件数は資料によれば、永禄期34件、天正期50軒、慶長期36件などが多い。その間、“関ヶ原の合戦”(1600)、“大阪の陣”(1614)が起きている。また戦国大名の領土の境界が地図上で変化した時期にあたる。
また東海道の[早飛脚]の難所,継所とし江戸を出て六郷川(船渡)、馬入川(船渡)、酒匂川(歩行)、箱根峠、富士川(船渡)、興津川(歩行)、阿部川(歩行)、大井川(歩行)、天竜川(船渡)、舞阪(渡海)、宮(渡海)、佐屋(里渡)、桑名。横田川(船渡)で継所は江戸と京都の間で20カ所,継所と継所の間は平均20キロほどであった。
インカの『チャスキ』は8000キロの山岳地帯では高低差の深い谷における吊り橋、切り立った崖路の走破が危険個所であった。
インカ帝国がアンデス山岳地域を統合して『タワンティンスーユ帝国』を統治して90年間、スペイン人征服者に征服されて崩壊した時期と、日本の戦国時代がほぼ一致すると述べたが、その国土は大きく異なり地形と気候も違う、それを比較してみるとインカ帝国には文字がなく『チャスキ』がキープという手段と口頭で情報を伝達した。そしてインフラ整備はインカ道(カパック・ニャン)で高低差の谷、長距離を整備して、首都クスコを中心として東西南北のインフラ通信制度、人員労働管理により短期間で急速に発展させた。そして最後に1532年スペイン人の侵入により征服された。馬も文字も、鉄器も車輪もなく、人の知恵のみで統治したのでした。
一方、時代がほぼ一致する日本の『飛脚』は戦国時代の地方間局地領土争いの中で戦線の情報をいち早く人馬を使って信書と物資を運んだ。時代は徐々に東西地域を中心にして平定され江戸時代へと統合の時代へと移行してゆくのである。265年の平穏な江戸時代を経て、1871年(明治4年)郵便制度の成立により『飛脚』は廃止された。
インカ帝国は、ヨーロッパ人との出会いにより1532年にアタワルパ皇帝が殺されスペイン人によりアンデス地域は人、言語、宗教が征服されて、すべてが変化してヨーロッパによる植民地政策が実施された。やがて『チャスキ』は馬に代わり、車による運搬へと変わるのである。
インカ人には三項目の『黄金律』がある。『アマ・スア、アマ・リュラ、アマ・チュクル』
(盗むな,噓をつくな、怠けるな)が存在した。このようにアンデスと日本のチャスキと飛脚の発達と展開を考察してきたが、その信書と物資を運搬したことは共通するが、その手段としてインカは『脚力のみ』に対し、日本は『人馬一体』であった。そして地形の大きな違いの中で『インフラ整備技術、石工と吊り橋』『無文字時代のキープの手法』による情報伝達に興味をひかれた比較分析であった。
最後に、5月8日バチカンでは新しいカトリックの『教皇』が選出された。『レオ14世}はぺルー北西部チクラヨで20年間、司教として勤められ、ペルーの格差を馬で訪ねて見て、山岳民のことを熟知した人でもあり、故・前フランシスコ教皇の『壁よりも橋を築く』精神を受け継ぎ世界平和に貢献していただきたい。テレビでコンクラーベの結果を知らせる煙突が映し出され、ようやく白い煙が出た時の、これを見ていたと思われる二羽のカモメの姿が印象的でした。
(以上)
<資料>:
*『アンデス高地』山本紀夫著、京都大学・学術出版会、2007.3.30.
*『飛脚は何を運んだか』巻島 隆 著、ちくま新書、2025.2.10.
*『マチュピチュ発見100年。インカ帝国展、国立科学博物館、2012.3.10.
*『大陸別世界歴史地図・南アメリカ歴史地図』(株)東洋書林
*『マチュピチュ探検記』マーク・アダムス著、森 夏樹訳、青土社、」2015.6.25.PC、ウイキペディア,朝日新聞、2025.5.10.~11.