執筆者:冨田 健太郎(信州大学 工学部内 アクアイノベーション機構)
本稿は、農学者としてラテンアメリカ諸国における技術協力活動に従事してきた筆者が、メキシコ、グアテマラおよびペルーの代表的な古代遺跡を訪問した経験をもとに、トウモロコシという作物の文化的・農学的意義を再考した紀行報告である。トウモロコシという作物は、中南米[1]を起源として、世界各国に伝播され、コメとコムギに続いて、世界三大作物の中に組み込まれている。
筆者は、JICAの任国外旅行制度を活用して、複数の古代文明遺跡を実地に訪問する機会を得た。本稿では、前記三ヶ国の代表的な遺跡におけるトウモロコシ文化とその文明的意義を農学的視点から振り返る。
これらの遺跡は、いずれも農耕文明に基盤を持ち、なかでもトウモロコシは主食作物として中心的な役割を果たしていた(メキシコ料理の代表格であるタコスは有名)。マヤ神話では、神がトウモロコシから人間を創造したとされ、この作物は宗教的象徴として崇拝されていた。一方で、文明繁栄・人口増大による農耕地の拡大に伴う森林伐採、土壌劣化、降水量の減少等の環境的な要因が、これらの文明の衰退に大きく関与したとして、近年の環境考古学研究が示している。
筆者はこれらの遺跡を農学的視点から観察することで、トウモロコシという作物が持つ文化的・環境的適応力の大きさと同時に、資源管理を誤った際の脆弱性にも着目するようになった。本稿では、過去の文明が、同作物とどのように共生してきたかを見つめ直すとともに、土壌や植物遺伝資源の保全と活用が、現代農業においてもいかに重要であるかを考察したものである。
筆者は農学者として、長年ラテンアメリカ諸国における土壌肥料学を基盤とした国際技術協力に携わってきた。そうした活動の中で、現地の作物多様性や農耕文化への理解を深める一環として、筆者は、パナマ(1992~95年)やエクアドル(2014~16年)における国際協力事業への参加中に、JICAの任国外旅行制度を活用し、1993年12月にメキシコではテオティワカン文明(BC800-AD750)のテオティワカン遺跡、サポテカ文明(AD200-同900)のモンテ・アルバン遺跡とミトラ遺跡、トルテカ文明(AD900-同1300)のトゥーラ遺跡を訪問した。
また、グアテマラでは古典期マヤ文明(250年頃 – 900年頃)のティカル(1993年12月、メキシコの後に訪問)およびキリグア遺跡(1992年7月、パナマ赴任前のグアテマラでのスペイン語現地訓練期間中)も訪問した。
さらに、ペルーでは、2014年11月、ラテンアメリカ国際土壌学会がクスコで開催されることを知り、同学会参加・その研修旅行の一環として、インカ帝国期(AD1400頃)のモライ遺跡およびマラス塩田を訪問した。その翌日、個人的にツァーに参加する形で、マチュ・ピチュ遺跡も訪問した。なお、本稿ではこれら訪問遺跡の歴史・考古学的解説は割愛する。
さて、トウモロコシという作物は、中南米を起源として、世界各国に伝播され、コメとコムギに続いて、世界三大作物の中に組み込まれている。また、メキシコやグアテマラ等では、この作物を粉にしてパン化したものがトルティージャであり、メキシコ料理の代表格としてはタコスが挙げられる(写真1)。

複数文明が交差したトウモロコシの中心地であり、まず最初に訪れたのは、テオティワカン文明の壮大な都市遺跡テオティワカンである(写真2)。ここは、都市計画における農業支援構造や水路跡が見られ、トウモロコシを基盤とした食糧体系の存在が推察される。さらにサポテカ文明のモンテ・アルバン(写真3および写真4)、ミトラ(写真5)、トルテカのトゥーラ(写真6)を訪問し、各文明(本稿では、ユカタン半島も含めたメキシコ東部や中米のマヤ文明と区別するため、メキシコ文明と総称しておく)における農耕技術とトウモロコシの象徴的意味に注目した。
グアテマラでは古典期マヤ文明の主要都市ティカル(写真7および写真8)、さらにキリグア遺跡(写真9)を訪ねた。マヤ神話において、神が人間をトウモロコシから創造したという『ポポル・ヴフ』の記述に代表されるように、作物は単なる食糧ではなく、宗教的・文化的象徴として重要視されていた。都市中心に設けられた石碑群の彫刻からも、儀礼と農耕の密接な関係が伺える。なお、メキシコとマヤ両文明の違いであるが、ここではトウモロコシ栽培地から考察すると、前者は短期雨季乾燥地帯[2]、後者は湿潤地帯であるといえよう。[3]


踊る人々の神殿」の外壁にある「ダンサンテ(踊る人)」の石彫群遺跡内部へ






アンデス文明圏(主にインカ帝国の時代)では、ペルーのオリャイタイタンボ地区にあるモライ遺跡(写真10)とマラス塩田(写真11)、その翌日にはアグアス・カリエンテス地区にあるマチュ・ピチュ遺跡(写真12)を巡った。アンデス高地の農業遺構と作物の工夫ということに関心があり、特にモライの同心円状の段々畑は、微気候を活用した実験的な農業試験場説が有力であり、トウモロコシも含めた作物の環境適応性を高める工夫が見られる。マチュ・ピチュ遺跡内にもアンデネス[4](写真13)が存在するが、標高や温度差を活かした遺伝資源育成の視点は、現代農業にも示唆的である。

ペルーを除いて[5]、訪問地の多くに共通して見られたのは、古代文明の繁栄と崩壊の背景に、食糧増産のための農耕地拡大による森林伐採、それに伴う土壌資源の劣化や降水量の変動等の環境要因が関与していたという点である。とりわけ、焼畑農業の反復や人口集中による、集約的な農耕利用による土地への負荷の増加は、地力の低下を招き、トウモロコシ等の作物栽培の持続性を脅かした。
補足すると、テオティアカン文明の崩壊の要因の一つとして、人口増加による大量の汚物処理難となり、疫病の増大も含めた環境悪化が挙げられている。

ラテンアメリカにおいて、トウモロコシは単なる食糧だけではなく、神話・儀礼・社会制度と深く結びついた文明資源であった。
メキシコ文明やマヤ文明では、トウモロコシは主食として扱われた。例えば、テオティアカンの太陽のピラミッドの配置位置、AD900年頃 – 同1500年頃に栄えた後古典期マヤ文明の代表的な遺跡であるチチェン・イツァー(写真14)[6]のククルカンは、春分ならびに秋分の日に光のヘビが出現し、雨季の到来を予測・同作物播種という日時計としての役割があった。
また、サポテカ文明においては、ミルパが有名であり、一つの畑(平坦地が多い)で複数の作物(トウモロコシ、インゲンマメ等のマメ類、カボチャ)を同時に栽培していた[7]。

アンデス文明圏では、主食はジャガイモであったが、トウモロコシも儀式や祝祭において重要な役割を担っていた。例えば、太陽神インティへの捧げ物として用いられたり、重要な儀式の際に特別なチチャ(トウモロコシを発酵させた酒)が作られたりしていた。また、神話や伝説にもトウモロコシが登場し、神聖な作物として扱われていた。

写真15 多様なトウモロコシの品種, 2014
最後に、写真15にはアンデス地域で見られるトウモロコシの多様な品種が写っており、遺伝資源の豊かさが視覚的にも示されている。これはマラス塩田訪問時に、売店にあったものを撮影したものである。メキシコや中米領域の他、ここアンデス地域においてもトウモロコシに多様性が見られることが理解できよう。
本稿で提示した写真群、特にティカル遺跡の密林環境や、マチュ・ピチュ遺跡とモライ遺跡に見られるアンデネス、マラス塩田での在来トウモロコシは、文明と農の接点、そして作物多様性の源泉としてのラテンアメリカを象徴するものである。そこで、土壌肥料学に根ざした農学的関心を持つ筆者が、文化遺産と作物の交差点を探る試みでもあった。世界三大作物の中の一つであるトウモロコシが持つ文化的・遺伝的価値を、過去と現在の視点から統合的に見つめ直すこと、さらには文明崩壊の一因として土壌資源の劣化が大きな影響を及ぼしたことを示すことは、現代の作物多様性保全や持続可能な農業教育(特に小中高校での食育教材としての活用)ならびに国際協力においても重要な意義を持つ。
筆者は、農学者としてこの作物の価値を再認識し、それを生かす知見が、これらの歴史遺産の中に確かに存在することを強く感じている。