執筆者:冨田 健太郎(信州大学工学部内アクア・リジェネレーション機構)
筆者はパラグアイにおいても、農業技術協力の経験を有しており、二度の入国を果たしている。初回は2004年10月の短期出張であり、二回目は2年8ヶ月におよぶ国立大学での学生卒論指導等である。本稿では、技術活動については、注釈1および2による簡易説明のみとし、二つの重要な遺跡訪問についてまとめた。
一つが初回時に訪問したのが、イエズス会(Jesuitas)が17世紀から18世紀にかけて築いたトリニーダ(La Santísima Trinidad de Paraná)遺跡、二回目がウマイタ(Humaitá)遺跡である。この中で、二回目入国・任期満了間近訪問のウマイタ遺跡は、南米史上最大の『パラグアイ大戦争:以下、パラグアイ戦争と記す』と大きく関係するものであり、アルゼンチン・ブラジル・ウルグアイの三国同盟軍(Triple Alianza)との戦いである。しかし、このウマイタ遺跡は、パラグアイ南西部のニェンブク(Ñeembucú)県に位置しており、同県配属以外の青年海外協力隊員でさえ、なかなか日本人が訪問しない場所であると推察している。ここは、パラグアイ戦争の砦(とりで)あり、ここが陥落されたことによって、次第にパラグアイ軍が敗北していくことになっていく。実際、この戦争によって、パラグアイの壊滅的敗北となり、総人口の50〜70%を喪失(特に男性人口の死亡率は非常に高かった)し、領土の一部をブラジルとアルゼンチンに割譲され、数十年にわたり外国の軍事占領と経済支配を受けることとなった。この戦争の当事者は、パラグアイの独裁的指導者であったフランシスコ・ソラーノ・ロペス(Francisco Solano López)であったが、現代パラグアイでは、「大戦争(La Gran Guerra)」として記憶され、戦死したロペス大統領は「民族的殉教者」として英雄視される一方、その独裁的性格についての議論もあるとのことで、一つの国家的トラウマとなっている。
2003年-2005年のJATAK(全柘連)嘱託研究員時代、ブラジル、サンパウロ(São Paulo)州グァタパラ(Guatapará)日系移住地から出張ベースで、2004年10月頃、パラグアイのアルト・パラナ(Alto Paraná)県のイグアス(Iguazú)ならびにイタプア(Itapúa)県のピラポ(Pirapó)日系移住地を訪問した[1]。イタプア移住地での土壌調査の合間を見て、ピラポ農協職員は、トリニーダ遺跡を紹介してくれた。
他方、2010年-2012年、シニア海外協力隊として、ニェンブク県ピラール(Pilar)市の国立ピラール大学(Universidad Nacional de Pilar: UNP)で活動中[2]、任期満了に伴い、同県ピラール市近郊にあるウマイタ遺跡を訪問した。この遺跡は、パラグアイ戦争にとって重要な砦であり、同大学農牧地域開発学部の学生(注釈2で示したように、2010年度の筆者の学生卒論指導の一人となった)より、その歴史について教えてくれた。本稿後半で、このパラグアイ戦争についても簡易的な形で取り上げる。
トリニーダ遺跡は、パラグアイ南部のイタプア県に位置し、かつてイエズス会が17世紀から18世紀にかけて築いたグアラニー先住民のための伝道所の一つであった(写真1)。
設立年は1706年で、設立者はスペイン出身のイエズス会宣教師であり、その目的は、現地グアラニー族をキリスト教に改宗させ、スペイン植民地の枠内で教育・農業・工芸等を教える「自給自足の共同体」を作ることであった。


写真1 トリニーダ遺跡, 2004
2).特 徴
トリニーダは、イエズス会伝道所の中でも最大規模で、建築的にも最も完成度が高いとされている。壮麗なバロック様式の教会堂跡や回廊、住居跡、工房、広場等が整然と配置されており、石造建築の技術と宗教美術の融合が見られる。グアラニーの先住民たちは、宣教師の指導のもとで建築や彫刻、音楽等の技術を身につけ、伝道所の生活を支えてきた。
3).歴史的背景と終焉
1767年、スペイン王カルロス3世(1716年-1788年)の命令により、イエズス会がスペイン領から追放され、伝道所は急速に衰退してしまった。居住者たちは離散し、建物は廃墟化したのである。そして、現在では、パラグアイで最も保存状態の良いイエズス会遺跡の一つとして、観光や歴史教育の場として活用されている(1993年にユネスコ世界遺産(文化遺産)に登録)。

写真2 ウマイタ遺跡とパラグアイ河, 2012
1).歴史的背景
ウマイタ遺跡は、パラグアイ南部のニェンブク県に位置する歴史的遺跡で、19世紀のパラグアイ戦争において重要な軍事拠点であった(写真2)。建設年代は1860年代で、建設者は、当時のパラグアイ大統領 フランシスコ・ソラーノ・ロペスであった。
2).目 的
アルゼンチン・ブラジル・ウルグアイの三国同盟軍に対抗するための要塞都市・戦略拠点として建設された。
3).要塞としてのウマイタ
ウマイタは、パラグアイ河沿いに位置し、天然の防衛線としての地形を活かした要塞であった。そこには、巨大な砲台、塹壕、地下通路等が築かれ、当時は「アメリカ大陸最強の要塞」とも称されていた。そこには、イギリス人技師やヨーロッパ製の武器・建築技術も導入され、最新の軍事施設が整備されていた。
4).パラグアイ戦争との関係
1865年–1870年のパラグアイ戦争において、ウマイタは三国同盟軍の侵攻を長期間にわたり食い止めた戦略要衝であった。しかしながら、1868年7月25日に三国軍の攻撃によってついに陥落してしまった。これによって、パラグアイ戦争において、以後パラグアイは敗勢へと向かっていった。
5).現 在
ウマイタ遺跡には、当時の要塞跡や砲台跡、破壊された教会(サン・カルロス・ボロメオ教会)の残骸が保存されており、戦争の悲劇と歴史を物語る場となっている。ここは、国家の重要文化財に指定されており、パラグアイの愛国教育や観光資源として活用されている(ちなみに、世界遺産には登録されていない)。
1).歴史的背景
期間は1864年-1870年と約7年にわたる南米史上最大の戦争であり、その当事者は、前記したパラグアイの独裁的指導者フランシスコ・ソラーノ・ロペス氏であった。これに対して、パラグアイと戦った国々が、ブラジル帝国、アルゼンチン共和国およびウルグアイ(コロラド党政権)であり、これらは三国同盟軍となった。
2).地域の覇権争いとパラグアイの孤立
19世紀半ば、南米のリオ・デ・ラ・プラタ(Río de La Plata)盆地(パラグアイ河、ウルグアイ河流域)は、水運交通・交易路の支配権をめぐって、諸国が緊張状態にあった。パラグアイは海を持たない内陸国であるため、河川航行の自由を生命線としていたが、ブラジルとアルゼンチンはそれを抑えようとしていた。
3).フランシスコ・ソラーノ・ロペス氏の野心
パラグアイ大統領ロペス氏は、父カルロス・ロペス氏の政策を継承しつつも、より積極的な外交・軍事政策を追求しており、「地域の軍事的均衡を守るため」をスローガンとして他国への軍事介入を開始した。
4).ウルグアイ内戦への介入
この当時、ウルグアイでは、親ブラジル派のコロラド党と、親パラグアイのブランコ党が内戦中であったが、ブラジルがコロラド党を支援して軍事介入していった。それに対して、ロペス氏は「地域秩序の破壊」としてこれに反発した。
5).アルゼンチンとの通行権対立
そこで、パラグアイ軍がブラジル領マト・グロッソ(Mato Gross)州を攻撃した後、アルゼンチンに軍通過を要請したが、これを拒否されたため、アルゼンチンに対しても開戦することとなった。
1).はじめに
前記したように、このパラグアイ戦争は長期にわたるものであり、南米の歴史の中でも非常に大きな出来事であったといえる。これをもう少し、簡単にまとめておく必要があろう(表1)。
2).開戦と初期の勝利(1864年–1865年)
パラグアイ軍は開戦当初、ブラジル領マト・グロッソ州やウルグアイへ侵攻したが、アルゼンチンとの関係も悪化させてしまった。その結果、ブラジル、ウルグアイを含めた、三国同盟が結成される(1865年)。
3).同盟軍の反撃と要塞戦(1866年–1868年)
パラグアイは、要塞ウマイタを中心に徹底抗戦した。ロペス氏は国民総動員体制をとるが、ブラジルやアルゼンチンらに比べて、物資・兵力で圧倒的に劣っていた。結局、ウマイタ陥落(1868年)は戦局の転換点となった。
4).ゲリラ戦と終焉(1869年–1870年)
ブラジル軍らは、首都アスンシオン(Asunción)を占領した(1869年)。ロペス氏は逃亡し、抗戦を続けるも、1870年3月1日に戦死した(セロ・コラ戦)。
表1 パラグアイ戦争の簡易年表(1864年-1870年)
(ChatGPTの見解より、筆者がまとめた)
5).戦争の結果と影響
この戦争の結果、パラグアイの壊滅的敗北となり、総人口の50-70%を喪失(特に、男性人口の死亡率は非常に高かった)し、国家機能が麻痺してしまった。最悪なことに、領土の一部をブラジルとアルゼンチンに割譲され、数十年にわたり外国の軍事占領と経済支配を受けることとなった。
他方、三国同盟側の代償も大きく、特に、ブラジルは戦費負担で経済悪化となってしまった。とにかく、この戦争においても、現代パラグアイでは、「大戦争」として記憶され、戦死したロペス大統領は「民族的殉教者」として英雄視される一方、その独裁的性格についての議論もあるとのことで、一つの国家的トラウマとなっている。
1).はじめに
筆者は同国赴任を通じて、日系パラグアイ人との交流もあり、前記したように、アルト・パラナ県やイタプア県での調査・教育・研究にも従事してきた。その中で、当時の日系財団会長らとも親睦を図ることができた。そして、筆者の知る日系人との会話の中で、前記したパラグアイ戦争についての話も出た。実際、男性の死亡率が高く、総人口の50-70%であったと記したが、日系関係者によると、この戦争に徴兵された男性は、パラグアイの中でも優秀な人材であり、その彼らが戦死したのである。反対に、非優秀者らは徴兵されることがなかった。その結果、「現在のパラグアイ人は、その戦争生存者の他、主に戦争を免れることができた非優秀者の遺伝子を引き継いだ」というのである。いろいろ話を聞く中で、当初、パラグアイ人を小バカにしているような感じにも思えたが、この戦争の勝者であるブラジルやアルゼンチンと比較すると、パラグアイが発展途上の状態にあるのでは?と感じた部分も幾つか気付いたので、以下、4つほど取り上げたい。
2).アルゼンチン人から見たパラグアイ人
勝者であるブラジル人やアルゼンチン人は、パラグアイ人を田舎者扱いする傾向がある(日系人談)。筆者が2004年にトリニーダ遺跡を訪問した際、エンカルナシオン(Encarnación)市から、エンカルナシオン—ポサーダス間の国際ケーブル橋[3](サン・ロケ・ゴンサレス・デ・サンタ・クルス橋)の見えるパラナ(Paraná)河沿いへ案内された(写真3)。この河に架かる橋を渡れば、対岸はアルゼンチンのポサーダス(Posadas)市である。長さ約2550mに及ぶ道路・鉄道併用のケーブル橋で、1990年4月2日に開通した。日系関係者によれば、ポサーダズ市や近郊のアルゼンチン人は、電気製品等を安く買うため、この国境を越えてエンカルナシオン市に来ることが多いという。こうした交流の中で、アルゼンチンは、パラグアイを「自国よりも発展途上」と見なす視線を感じることがあった。

写真3 パラグアイのエンカルナシオン市とアルゼンチンのポサーダス市の国境となるパラナ河, 2004
3).ブラジル人による水田稲作
他方、二回目のパラグアイ赴任時、パラグアイJICA事務所において耳にしたことであったが、ブラジル人の大農場主は、本国で広大な農地を購入・レンタルするよりも、隣国のパラグアイ(南東部地域)の未開な大地の方が地価またはレンタル料が安価ということに目を付け、進出しているようである。これに対して、パラグアイ関係者は猛反発しているということで、ブラジル人もパラグアイを発展途上の状態として見ているものと感じた。ここでは、詳細な事項は記さないが、2010年12月、ニェンブク県の隣県であるミシオネス(Misiones)県のサン・イグナシオ(San Ignacio)市近郊では、パラナ河の水源を活用して、ブラジル人による広大な稲作生産現場も視察した。この当時、ニェンブク県の湿原地帯においては、水田稲作は存在しておらず、UNPの同僚によると、「パラグアイ人には、水田稲作の経験を有していない」ということで、湿原地帯が維持されているということであった(写真4)。このことは、野鳥等の野生動物の保護という面では良策であろう。

写真4 ニェンブク県の湿原地帯(上)とミシオネス県の水田稲作(下), 2010
4).国際イネシンポジウムに参加して
さらに、筆者の知人からの情報の他、2010年7月29および30日に、イタプア県のコロネル・ボガード(Coronel Bogado)市で開催された国際イネシンポジウムに参加した[4]。この学会参加を通じて、ニェンブク県と国境を通じているアルゼンチンのコリエンテ(Corriente)州やチャコ(Chaco)州等では、大規模な水田稲作を実施しており、パラグアイではそれができないことに、アルゼンチンとの農業技術面での差を感じた。
5).農業関係の物資はブラジル依存
前記したピラポ農協において保管されていた化学肥料や農薬類等の農業資材も、そのすべてがブラジル産であった(2004年当時)。また、CETAPARに対する緊急協力においても、土壌分析関係の書籍も、筆者がJATAK嘱託研究員時代に購入したポルトガル語版書籍と同じものを参考にしており、パラグアイ自国の専門書も存在していなかった(2011年当時)。このことを知って、筆者の活動の話の一つで恐縮するが、初のスペイン語版の土壌・植物体分析マニュアルを作成し、UNPの学長直属室のスタッフの協力の下、出版が叶い、それをパラグアイ全国の大学や研究機関への配布も行った(写真5)。

写真5 筆者出版による初のスペイン語版土壌・植物体分析マニュアル書, 2012
パラグアイ戦争に話を戻すと、海に面したブラジル、アルゼンチン、ウルグアイは港湾を有し、イギリスやフランスといったヨーロッパ列強から最新の兵器・弾薬・軍需物資を直接輸入できるという大きな利点を持っていた。当時の南米における主な武器供給国はイギリスであり、ライフル銃、後装式砲、蒸気船、装甲艦などが供給されていた[5]。
これに対して、パラグアイは海港を持たない内陸国であり、外国との交易はパラグアイ河やパラナ河経由に限られていた。これらの水路は、戦時には敵国(特にアルゼンチン)の支配下に置かれやすく、開戦後はほぼ完全な海上封鎖により、弾薬や鉄材、医療品、さらには火薬原料である硝石までもが不足する事態に陥ってしまった。この補給面での劣勢が、最終的にパラグアイの敗北に直結したといえる。
日系人からの聞き取りを含め、現代においてもこの戦争の影響は尾を引いていると感じる場面は少なくない。赴任当初から、ブラジル人やアルゼンチン人がパラグアイを「いまだ発展途上の状態にある」とみなしているという印象を筆者なりに持っていたが、その背景には、150年以上前の戦争による人口・人材・経済基盤の損失という、歴史的要因が今なお色濃く残っているのかもしれない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%A9%E3%82%B0%E3%82%A2%E3%82%A4%E6%88%A6%E4%BA%89
https://www.youtube.com/watch?v=4Ty6CRAKcxg
[1] イグアス移住地では、JICA所管のパラグアイ農牧研究所(Centro Tecnológico Agropecuario del Paraguay: CETAPAR)を訪問し、その後、ピラポ日系移住地では、ダイズ(主作)-コムギ(裏作)およびダイズ(主作)-エンバク(緑肥)単位での連作年数が、土壌の有機物の含有率に及ぼす影響、不耕起連作栽培が、土壌の物理性に及ぼす影響、圃場別でのコムギ収量間の違い等の調査を実施した(本稿では、詳細事項は割愛する)。
[2] 国立ピラール大学学長直属室配属であり、ここではパラグアイ東部原産の天然甘味成分を有するステビアを南部同緯度地域のピラール市への移転の可能性基礎研究の他、農牧地域開発学部では、9名の学生卒論指導(同学部客員教授就任)を完結させた。さらに、2010年4月より、CETAPARがJICAから日系財団所管へ移行した時期に、職員間でトラブルがあり、実験室稼働難事態となってしまった。そこで、日系財団所管後、当時のCETAPAR所長らの意向により、一時期、緊急特別協力に出向き、若手スタッフに対する分析化学計算や統計学教育の他、同圃場での石こうによる土壌改良試験等にも従事した(詳細は割愛)。
[3] 正式名称は San Roque González de Santa Cruz Bridge(スペイン語では Puente Internacional San Roque González de Santa Cruz)である。
[4] 筆者もパナマシニア海外協力隊時代(2007年-2009年)、配属先の農牧研究所の成果の一つ(広大な草原地帯の排水不良土壌と良好土壌条件別での窒素施用水準が陸稲の生産性に及ぼす影響)を発表できる機会にも恵まれた(詳細は割愛)。
[5] 海に面する三国は農産物や鉱産物を輸出して外貨を得られ、それを軍需品輸入に充てられた。