連載エッセイ529:安達元夫「貿易組合中央会及びアルゼンチン・ブエノスアイ レス貿易斡旋所時代の思い出」 | 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

連載エッセイ529:安達元夫「貿易組合中央会及びアルゼンチン・ブエノスアイ レス貿易斡旋所時代の思い出」


連載エッセイ529

貿易組合中央会及びブエノスアイレス貿易斡旋所時代の思い出

執筆者:安達本夫(元ジェトロOB)

「この原稿を掲載する理由」  渡邉裕司(元ジェトロ・サンパウロ所長)

この記事は、ジェトロOBの安達本夫氏が、昭和15年から23年までの間、アルゼンチンのブエノスアイレス駐在中の話である。戦前の輸出振興の状況、ブエノスアイレスまでの赴任の様子、アルゼンチンでの仕事の内容等、戦前、戦中、戦後の現地の様子や活動状況を知ることができる貴重な資料と考え、掲載することにした。以下渡邉のコメントである。

<ブエノスアイレス赴任回想記~昭和15年>
東京日本橋を地球の中心方向に真っすぐ進むと最後は遥か大西洋ウルグァイ沖に出ると言う。日本から見てちょうど地球の反対側、南半球はブエノスアイレスにほぼ近い位置。規模は僅かだが戦前も日本はその遠いアルゼンチンへ織物、生糸、綿糸、陶磁器等軽工業品を輸出し、羊毛、牛皮、肉加工品等一次産品を買う補完的貿易関係を維持した。欧米とは違って日本の対ア直接投資などなかった時代、貿易額は往復でせいぜい1,000万ドル前後、大きく伸びることはない。
時に時代は満州事変から日中戦争が泥沼化し日本が対米開戦へと傾き始めた昭和15年暮れ、横浜港をロサンゼルス経由パナマに向け一隻の貨物船が出港した。日本郵船粟田丸、積荷の他は乗客2名、一人は大卒間もない貿易組合中央会の若き安達本夫氏(1996年没)、市場開拓最前線ブエノスアイレスに赴く航海だった。

船旅は米西海岸からパナマまで、パナマから今度は小型プロペラ機で給油しながらアンデス上空を一路南下し、横浜から3週間を経て漸く目的地に着任したのは年の明けた    
昭和16年1月。しかしこの年暮れの日米開戦とその後のアルゼンチンの対日断交で貿易はできなくなって斡旋所業務も停止された。安達氏が戦後、アメリカ経由で漸く帰国できたのは昭和23年1月。日本を離れ実に7年の歳月が流れたが、この間の体験を短いが貴重な回想記に遺している。安達氏は戦後、海外市場調査、貿易斡旋、見本市、輸出農水産物の貿易関連団体が統合し(財)海外市場調査会として再編された現ジェトロで展示部長、サンパウロ・センター所長等を歴任した。
(注)貿易組合中央会:戦前国家統制下で輸出入を統括・調整した中央組織。戦後はGHQの指導で統制色の強い組織として解体、再編され最終的に現ジェトロに改組された。

「本文」

小生が大学を卒業した昭和14年頃は満州事変に引続き、上海事変勃発後で、戦時色がいよいよ濃厚となり、それに応じて日本の産業構造も刻々変貌を遂げつつありました。そんな時世に学校で「取引所論」などという学科を専攻し、卒業後もその方面に進みたいと思っていましたが、準戦時統制経済の強化は、自由主義経済の象徴的な存在である取引所やその他関連企業の機能減少を余儀なくさせ、同方面への就職も厳しい状況にありました。そんな時学校から貿易組合中央会を受けてみないかという話がありました。当時就職先と言えば、もっぱら会社という名前の付いたものであり、現在のように特殊法人や団体が多い時世と違い、中央会という名称は、小生の耳にはなじみの薄いものでした。しかし商社みたいに海外に貿易斡旋所という出先を持って仕事をしているとのことで、外国語に興味を持っていたこともあり、応募することにしました。

採用試験の語学の方では、英語のほかにドイツ語もあり、ドイツ語の方は、試験官が最初から最後までドイツ語でペラペラ質問してきて、一つ一つそれに回答しなければならず閉口しました。ともあれ幸いにも採用していただき、4月から丸の内の事務所に通うことになりました。

中央会では、商科出身で会計のことも分かっているはずだからということで会計課に配属されました。海外施設からの会計報告に不備なものが多くて本部を困らせているので、お前も今のうちによく勉強しておけということで、斡旋所の何カ所かを受け持って、課の先輩に教えてもらいながら、会計報告、伝票、証憑書類などのチェックや記帳を行いました。中にはカルカッタ斡旋所のように伝票からして英文のため苦心して翻訳、記帳をしたものもありました。半年ほどしてどうやら仕事の方も呑み込めてきた頃、斡旋所の方に回されました。ここにはほとんどの同期生がおり、小生は北米班で主任の相良さんから、貿易斡旋業務の手ほどきを受けました。同氏は頭も性格もシャープな人で、良く適切なアドバイスをしてくれましたが、惜しいことに、戦時中に他界されたそうです。

斡旋課を中心に中央会には同年輩の人が多く、よく一緒に野球や釣りをしたり、時に山登りをしたのは、戦時色が強く生活物資が刻々窮迫を告げる時代においての楽しい思い出となっています。

入会した年の暮れ頃、来年度の斡旋所の増設地の予定に、アフリカのチュニジアの首都チュニスが入っており、そちらに行く命令を受けました。それ以前にも別の斡旋所に行く予定がありましたが、この方はヨーロッパの戦火に巻き込まれ自然消滅になっていました。

チュニスの方は辞令まで頂戴し、所長に任命された山田広さんと共に大手町の中央会の新事務所内に設立準備の部屋を貰って専ら準備に取り掛かりました。 ところが当時仏領であったチュニジアに対しイタリア空軍の爆撃がはじまったため、斡旋所開設の見透しは混沌として来ました。その後も現地での事態は増々険悪となり、会の首脳部は設立を当分見合わせる意向で、山田さんをシカゴの方の所長に新たに任命し、小生の方はシンガポール勤務の辞令を貰いました。シンガポールはチュニスと違って現存する斡旋所なので、今度こそは本物だと云う気持で入国査証の申請を始めました。ところがシンガポール政府の方からお前は “Persona Non Grata”つまり「好ましからざる人物」なので査証を拒否するとの事でした。 小生はシンガポールに一回も行った事もなく先方の回答は正に晴天の霹靂でした。その少し以前に同斡旋所がスパイの嫌疑で官憲の手入れを受けており、どうやらそれが尾を引いたらしいというのが関係者の見解でした。これで第二の任地も夢と消えてしまった訳です。

会の方も小生を何時までも宙ぶらりんの儘にしておく訳にも行かず、近々欠員が生じることになっているプエノス・アイレス斡旋所所員の発令がありました。今度こそは三度目の正直かなと思いましたが、何分にも日本から一番遠い処の国であるし、スペイン語と云う全く縁のない言葉を相手にしなければならない事などを思うと一抹の不安なきを得ませんでした。何はともあれ早々に出発せよとのことなので、船便の方を当って見ましたところ、険悪な日米関係の影響もあり、目下南米航路への配船は予定していないとのこと、これでは何とも仕様がなく、今度は船の方で駄目になるのかなと思いました。然し会の方から何はともあれ船で行ける処まで行ってあとは飛行機を使えとの話がありました。幸いバナマ運河経由でニューヨークまで行く船が今だあったので、それでバナマまで行きそこからプエノス・アイレスに飛ぶことにしました。紆余曲折した小生の赴任物語もどうやら終りを告げることになり、昭和15年12月に横浜の埠頭から日本郵船の貨物船粟田丸で出発しました。
乗客は小生と愛知県津島と云う所の毛織商とのたった二人の気楽な旅でした。単調な船の生活でしたが、毎日船長や機関長と一緒にする食事が当時東京での戦時体制下の代用食中心の食べ物と違って大変な御馳走なのには驚かされました。 北太平洋の冬は毎日悪天候続きで、小山の様な波をかい潜り乍らの航海でした。横浜を出て2週間足らずでロス・アンゼルスに到着し、生まれて初めて外国の土を踏んだ時は一寸した感激を催しました。ロスから南下するにつれて暖かくなり、メキシコ沖での物凄い魚の群などを見乍ら一週間程でバナマ運河の入口にさしかかりました。寄港先は大西洋側のコロンなので運河を通ってそこまで行ってしまっては空港のある太平洋側のパナマ・シテイまで又引返さなければならなく、運河の入口までランチで迎えに来てくれたバナマ斡旋所の中塚さんが船の方に掛合ってくれて運河を徐行している船から平行して走るランチの上に荷物をもって飛び下りると云うスリルを味わい乍ら上陸しました。同地の畑所長、小官、中塚所員から大変お世話になり、又現地の斡旋所とはどんなものかこの目で見ることができ大いに勉強になりました。
バナマからは愈々目的のプエノス・アイレス目指しての独り旅です。飛行機は、PANAGRAと云う現存していませんが米国の航空会社のダグラス何号とかの二十数人乗りのプロペラ機でした。当時は現在と違って民間機は夜間は飛ばなかった様で、第一日目の夕方コロンビアの地方都市カリに着きましたが、飛行場が盆地にあったためか猛烈な急降下で着陸したので頭から血の気がなくなり、正に気絶寸前と云うところ。先々もこんな調子ではブエノス・アイレスまでとてももちそうもなく心配になりましたが、その後はどうやら無事に済ますことができました。カリに一泊し、翌日は元旦で早朝ペルーのリマに向けて出発しました。米人の乗務員 が前夜のニューイヤー・イブで大いにメートルをあげたらしく一杯機嫌の鼻唄まじりで乗り込んで来たのには呆れました。
リマに一泊し、次はサンチャゴの予定で、そこの斡旋所で旧知の唐木さんにお目にかかるのを楽しみにしていたところ、どういう理由か航路変更で次の寄航地はボリビアのラパスになるというアナウンスがありました。

唐木さんにお目にかかれないのは残念でしたが、当時としては滅多に行けない世界最高地の都市に行けるのも悪くないという気もしました。ラパスに向かってのアンデス山脈越えは超高で飛ぶ現在の大型ジェット機と違って当時の飛行機にとっては仲々の難行で、連なる山頂の間を木の葉の様に揺れ乍ら通り抜ける正に肝を潰す一刻でした。翌1月4日はブエノス向けラパスを出発し、数時間後アルゼンチンの国境都市サルタに着陸の為、高度を下げ始めた時、ムンとする草の匂いが機内にまで立ち込めて来たのを感じると遂にパンパの国アルゼンチンに着いたのだと云う感慨が込み上げて来ました。その日の夕刻ブエノス・アイレス着、調和のとれた高層ビルの群れに碁盤の目のように整然とした町並みを目の当たりにして、よくもこんな立派な大都市が地の果てに出来たものだと云うのが第一印象でした。

貿易斡旋所の事務所は市の中心のコリエンテスと云う繁華街にあるビルの5階の日本大使館の一隅にありました。所長は音藤直路さんでしたが、半年ほどして黒瀬さんと交替して日本に帰られました。次席は興村さんと云って滞亜歴が長くスペイン語で小説を書いたりする程の人でした。その後日本人会長をやったりし、戦後同地に暫らく出張した時は公私に亘りお世話になりました。ほかには小生と同年輩の日系二世の事務員の川端ホルヘ君が昼は当事務所で働き夜は大学の法科に通っていました。同君は卒業後は弁護士となって活躍していましたが、その後駐日アルゼンチン大使となり十年程前、東京で30年振りかで再会の喜びを分かち合いました。

  アルゼンチンでは英語は当時は殆ど通じないため、先ず何よりもスペイン語ができなければ仕事にならず、下宿のおばさんか同宿人相手にプラクティスに努めたり夜間に語学専門の学校に通ったりして勉強しました。

ブエノス・アイレスに着いて一年近く経ち仕事や生活にも慣れて来た頃、突如日米開戦となり我々を驚愕させました。尤もこの1~2年英米による対日経済封鎖や日本の在米資産の凍結等国際関係は益々険悪さを加え、一触即発の状態にはありましたが、こんなに早く我国が戦争に突入するとは思っていませんでした。然し米国や英国に駐在していた新聞社の駐在員や商社の駐在員の多くは日本が戦争に入った場合、アルゼンチンこそ中立を守る数少ない国の一つと判断し、ブエノス・アイレスに移って来ました。なかには現在も政治評論家として活躍中の細川隆元氏も朝日新聞社ワシントン支局から当地にやって来ていました。ともあれ開戦により故国を結ぶ糸がプッツリと切れた感じで、手紙などもやがては全く来なくなり、電話だけが唯一の通信手段となりました。

 斡旋所は日本との貿易が物理的に不可能となったため、機能停止の止むなきに至りました。商社の若い社員達は大使館に徴用と云う様なかたちで、戦争に伴う館の仕事を手伝うことになりました。小生も商務官室でニューヨーク・タイムスその他米国の有力紙に掲載されている記事から石油や合成ゴム等の戦略物資の需給事情を読みとって本省の方に電報で送ると云う仕事をやりました。この間他の中南米諸国は日米開戦後対日宣戦布告をしたり、外交関係を断絶したりし、アルゼンチンだけが何れの交戦国に組しない唯一の中立国としての地位を守っていました。開戦後は米国は勿論他の中南米諸国から日独伊の所謂枢軸国への宣戦布告を絶えず強要されて来ましたが、これに反対する軍部がクーデターを行なったりして中立を堅持しました。中堅将校の中には親独、親伊のものが多く又有力なドイツ系住民の根強いサポートが政府にかかる態度をとらせたものと思われます。何れにしてもこのアルゼンチンの中立は最後には崩壊の己むなきにいたりましたものの、その間の頑張り振りは我々枢軸側のものにとっては頼もしい限りでした。然し開戦後2年程してどうにもならず、遂に枢軸国に対し外交関係断絶の余儀なきに至りました。

 斡旋所は既に本部よりの送金が途絶えて、残りの資金で細々と食い継ぐ状況で、これから何年続くかわからぬ戦争を考え、斡旋所を閉鎖すると共に各自が夫々の道を選ぶことになりました。これは商社の人々も同様で、自分のノウハウを活かして商売をしたり、取引先に勤めたりして自活の道を講じ始めたりしました。小生も黒瀬さんが現地の日本人と始めた商売を手伝ったり、外交断絶と共にア政府により閉鎖された日本人学校の為に日系人の家庭にできた寺小屋で、御法度でしたが日系の二世に日本語の教授をしたり、田舎の方で施設園芸の見習いをやったりしました。

 そのうちに外交関係断絶は宣戦布告と我々にとり最悪の事態となりました。日本大使館の方は全員が奥地のホテルに収容されるし、我々民間人の方は身分証明書(同国では身元証明のため常に携行しなければならない)は敵国人用というのに書き替えさせられたり、月に一回所轄の警察署への出頭、住所変更の際の同署への届出、市外へ移転の際の事前許可申請などの規制を受けました。その他、商社、通信社、日本人会等の何人かはスパイ嫌疑で逮捕されました。小生等若い者でも大使館の仕事を手伝っていた者は引っぱられるのではないかと一時はびくびくしたものです。

 宣戦布告後在留邦人は前述の様な制限を受けましたが、他の中南米諸国の日本人が受けた諸々の圧迫に比べれば誠に微々たるものであったと思います。
 
 昭和20年8月には戦争も終わりましたが、船の来る見通しも立たず何時になったら帰国出来るものやらと思っていました。漸く22年10月米国経由で帰れることになりました。10月のある日突然帰国の便があるというので一夜造りで慌てて荷造りをしアルゼンチンの貨物船で長年住み慣れたブエノス・アイレスをあとにしました。

 黒瀬さんに商社、新聞社と家族持ちをあわせ9人の小人数でした。貨物船なので米国の南岸の港に2~3日毎寄港して行くので目的のニュー・オーリンズに着くのに1ヶ月余りかかりました。同地から大陸横断鉄道でサンフランシスコに行き、船待ちや何かで1ケ月余り同国に滞在しました。米国上陸前は我々敗戦国民がどんな扱いをされるか不安でしたが、方々で案外に親切にしてくれてほっとしたものです。かくて23年1月、7年振りで故国の土を踏むことになった訳です。

 アルゼンチン時代には敗戦というものが身近に感じられなかったせいか、小生にとっての戦後は横浜上陸から始まったのです。今までは世界に残された数少ない平和な国で大した苦労もなく南米式に過した小生にとり戦後の日本の生活には随分とまどいました。

  半年程経ち日本での生活にどうやらついて行けるようになった頃、日本貿易館に就職しました。その後同館は解散し、新たに海外市場調査会が創設されたのでその方に移りました。これが現在ジェトロと呼ばれる正式には日本貿易振興会で、嘗ての貿易組合中央会の斡旋事業の他、関連する多くの事業を行う特殊法人です。

 大学を出てから定年まで貿易振興畑一筋に働くことができ日本の貿易振興に微力を盡すことが出来たことは誠に幸せなことと思っています。またその間、中南米ではアルゼンチン、ブラジルでの通算12年、中近東ではエジプト、イランでの5年余りと夫々の土地での仕事、生活には想い出深いものがあります。                   以 上