連載エッセイ580:田所清克「ブラジル雑感」その84 ポルトガル語の諺その3 | 一般社団法人 ラテンアメリカ協会

連載エッセイ580:田所清克「ブラジル雑感」その84 ポルトガル語の諺その3


連載エッセイ 580

「ブラジル雑感」その84
ポルトガル語の諺 その3

執筆者:田所清克(京都外国語大学名誉教授)

ポルトガル語の諺 ㉗ Provérbios portugueses

聡明な人は「一を聞いて十を知る」感じがする。それほどまでに、一端を聞いただけで、全体を理解・把握する能力がある。
 逆に、あまり才知がない人は、「一を知りて十を知らず」[一つのことだけを知って、他のことは知らない]とも言われる。
 ともあれ、頭を働かせよという意味で、「一と言うたら、二と悟れ」とも言われる。
 “ A bom entendedor, meia palavra basta”[理解の良い人には、言葉半ばで十分]はまさしく、才知に長け先まで見通しがきく人に対するポルトガル語の諺だ。

日米関税交渉に臨むに当たって、赤沢大臣が念頭においた言葉「ゆっくり、はやく」を思い起こしている。諺に置き換えれば、「急がば回れ」や「急いては事を仕損ずる」、「焦る乞食は貰いが少ない」に当たるだろう。
性急に行動すれば失敗を招き、かえって遠回りになる可能性があることを教えている。
時間をかけて慎重に行動することの教訓だ。慌てものの私はこれまで、このことで幾度となく失敗している。わけても遠大な目的を達成しょうものなら、じっくり落ち着いて事に当たるのが肝要だ。
 ところで、こうした日本語の諺に相当するのが “Devagar se vai ao longe” (もし遠くに行くのなら)だろう。
 この種の諺は世界のどの言語にもあり、例えば英語では“ More haste, less speed [Mais depressa, menos velocidade=急ぎすぎると、かえって遅くなる]、“ Make haste
te slowly” [Vá depressa vagarosamente]などが。

ポルトガル語の諺 ㉘

あるフランスの美食家が、食べる料理で食う人が判る、というようなことを言っていたような記憶がある。してみると、この例に準ずれば、わが家の書籍、わけても小説や詩の類いをご覧いただければ、私の人となり性向が察せられるかも。
ともあれ、ポルトガル語の諺に“ Dize-me com quem andas, dir-te-ei quem és ”がある。文字通り訳せば、「君は誰と歩いているか言い給え、(そうすれば)君が誰であるか、君に言うよ」、となる。この諺は、その人の社会関係、交際相手などで、当の人物が判ることを言わんとしている。
 フランス語の“ Dis-moi qui tu fréquentes, je te dirai qui tu es”や英語の“ A
man is known by his friends[Conhece-se um homem pelos seus amigos = (付き合う)友だちによって人は判る]” 、“ Birds of a feather flock together [=Pássaros da mesma plumagem voam juntos=同じ羽毛の鳥は一緒に翔ぶ、同じ羽毛の鳥はおのずから一所に集まる、類は友を呼ぶ→同類の人、同じ穴の狢]”も同じ意味の諺だろう。

日本の諺に「朱に交われば赤くなる」(Quem se encosta ao ferro, enferruja-se, Quem com cãesse deita, com pulgas se levanta)がある。これとても、意味は少々異なるが、同じ類いのものと解釈しても可能であろう。
 なお、ポルトガル語の諺にその変種として、“ Dize-me com quem lidas, dir-te-ei as manhas que tens”もある。

ポルトガル語の諺 ㉙

 日本には「火事の後の火の用心」(Tomar precauções contra o fogo depois do incêndio)とか「証文の出し遅れ」(Esqueceu-se de entregar docu- mento notarial)など、つまり手遅れになって後の祭りなどを表現する諺がある。事が一旦起きてから、そうならないように心がけても、もはや覆水に盆というところ。
 こうした日本の諺に当たるポルトガル語の諺が、“ Casa arrombada, tranca na porta”かもしれない。訳すれば、[泥棒に入られ]こじ開けられた家に、鍵をかける、といったところ。

ポルトガル語の諺 ㉚

“ Santo de casa não faz milagre”
直訳すれば、「家の聖者は奇跡を起こさない」となるが、文脈をみるかぎりでは意味するところがさっぱり分からない。
あれこれ時間をかけて調べてみると、“ Santo de casa não obra milagre”(家の聖者は奇跡を行なわない)という諺を探し出した。
説明するところでは要は、良く知っている身近な存在であっても、その人物の値打ちや立派さがあまり感じられないものである。
そんな状況を指して使われる諺のようだ。これと似た英語の諺として、
“ Familiarity breeds con- tempt (A familiaridade gera o desprezo)を挙げている。
 私の間違いでなければ、「所の神様ありがたからず」という諺が日本にもある。

ポルトガル語の諺 ㉛

政治家ならぬとも、とかく私たちは、いらぬことを言ったり失言[lapso da língua]しがちである。まさに口は災いのもと、と言うべきか。
この日本語の諺に当たるポルトガル語は、“ Pela boca morre o peixe”が頭に浮かぶ。直訳すれば、「魚は口から死ぬ」と言ったところだろう。つまり、魚は釣り針によって捕らえられることを暗示しているようだ。
他に、“ Da boca vem o mal” [口から災いは生じる]もある。こちらが日本の諺に相応している。

ポルトガル語の諺 ㉜

無知であってもくだらなくとも、有能な優れた者がいないところでは、大きな顔ができる。この種の意味を持った諺が日本にはある。私が知っているかぎりでは、「鳥なき里のこうもり」(O morcego sem pássaro)や「鶏群の一鶴」(Um grou na banda dos galhos)がそれに当たる。
それに相当するポルトガル語の諺としては、“ [Em] Terra de cegos, quem tem um olho é rei(盲目の人たちの土地では、片目を持つ人が王様)”が真っ先に思い浮かぶ。
フランス語にも類似の諺がある。“ Au royaume des aveugles les borgnes sont rois [No reino dos cegos os caolhos são reis(盲目の人たちの王国では、片目の人たちが王様)]がそれ。
 以前に紹介したが、「鶏口となるも、牛後となるなかれ」[Antes ser cabeça de sardinha do que rabo de baleia(鯨の尾よりも鰯の頭)]もニユワンスは違うが、関連する諺かもしれない。

ポルトガル語の諺 ㉝

—波乱万丈のわが人生—
— Minha vida cheia de aventuras[altos e baixos]
 一昨日、地震のあった南阿蘇で呱呱の声をあげた私。少年の頃の夢はパイロットになることであった。当時、あまり勉強した記憶はなく、どちらかと言えば、運動神経に優れていた私はひたすら野球に打ち込んでいたように思う。
 ろくに大学受験のための勉強もしていなかったので、親の大学進学への希望も断ち切った。そして、パイロットになるべく当時の防衛庁の受験のため、試験会場の福岡の修猷館高校に出向いたことが、今も鮮明に脳裏に刻まれている。
 運良く合格したものの、運命のいたずらか、他に受かっていた警視庁に就職することに相成った。
そこから、私の波乱万丈の人生は始まったような気がする。中野にあった警視庁警察学校では、がむしゃらに勉学に励み、卒業時には学校長から優等賞をもらったのが、今では一つの誇りになっている。警察のような階級社会では、学歴が重要であることを痛感して、教官の勧告にも耳を傾けず、退職することを決意した。

このことを一番喜んでくれたのは実は、母であった。大阪に帰るとはや、天王寺にある予備校まで用意してくれていた。

京都外国語大学ではブラジル文学を学び、研究員として京都大学野外歴史研究所[FHG 主幹:藤岡謙二郎先生]では、社会地理学と民族地理学への知識をかじり学問的方法論を身につけることができた。

大学院に進むや、運良くブラジル連邦フルミセンセ大学への国費留学生に選ばれ、待望の南米の雄邦Pindorama の大地を踏むこととなった。二年間のブラジル留学は、以後の私の人生を決定づけるものとなった。

私のごとき能力が欠けた者さえも、研究者になり得たからである。大好きなブラジルを研究の対象に据えて、機会あるごとにこの国の津々浦々を訪ねて、地域の認識を深め国のかたちを自分なりに知り得たのは、私にとってこれほど幸せなことはない。教員生活39年の間には、刻印すべきさまざまな出来事があった。それらの事については、おいおい論じようと思う。

ともあれ、警察を退職して大学進学を決断するには、大いなる不安があった。これは私にとって一か八(Oito ou oitenta, ou vai ou racha)かの賭けでもあった。

ポルトガル語の諺に“Quem não arrisca não petisca”[危険を冒さない者は食べ物を得られない]がある。これは日本の「虎穴に入らずんば虎子を得ず」(Se não entra na toca , não pode obter o filhote de tigre)に相当する。

その諺は、たとえ危険や不安があっても、勇断することを諭している。

私の場合も、退職してからの大学進学はかなりの不安を伴い躊躇したが、思い切って学問の道を選ぶことになった。今思うと、諺に通じる決断だったかもしれない。

ナイーブであったが、大学は私には楽園のようであったし、「水を得た魚」(Como peixe na água)のごとき存在になり得た。私からブラジルを取ったら、ただの塵屑。

ポルトガル語の諺 ㉞

危険な集団に属する者には、たとえその子供であれ、警戒、用心することが肝要であることを説いた諺がある。
それはサンパウロの農村部で収録されたものだそうだ。“ A filha da onça traz pintas que nem a mãe”
(アメリカヒヨウの子供には母のような斑点がある)。
この諺は、前述のように、子供であっても警戒を怠らないことが必要であると教えているのだ。何故なら、血筋は争えない、ということらしい。
この諺にぴったりの日本のそれがないかを探しているが、見当たらない。ご存知の方がおられたら、ご教示願いたい。
「鳶の子は鷹にならず(O filho de capa não vai ser falcão)」、「瓜の蔓に茄子はならぬ(O ramo ou a vergôntea não nasce beringela)」、といった似たような諺が日本にはある。が、どう見ても、ポルトガル語のに通有のものとは思えない。
 カボクロの間での、“Filho do burro pode ser lindo, mas um dia dá coice (ロバの子は可愛いかもしれないが、いつの日か、足蹴りする)”諺はまさしく、「アメリカヒヨウ、、、」と同じ意味を持つものであると言えよう。

注記:
que nem=〜のように
Ex. O menino cantou muito bem que nem sabiá ou rouxinol.
男の子は舞台でサビアーあるいはウグイスのようにとても上手に歌った。

ポルトガル語の諺 ㉟

「覆水、盆に返らず」(A água derramada não volta à bandeja)という諺は、いつたん仕出かしたことは、もう諦めるしかなく、二度と取り返しがつかない、ことを表現する。
英語の諺、“ It is no use crying over spilt milk”も修得の過程で知り得た。これも、こぼれた牛乳を嘆いても仕方がないことを言っている。
この種のポルトガル語の諺となると、“ Águas passadas não movem moinhosが直ぐに頭に浮かぶ。訳すれば、流れ去った、過ぎ去った水は水車を動かさない、となる。
こうした経験を私はこれまでの人生において、どれほどしたことであろう。
明眸皓歯のCAに思い切って求婚していれば、、、。こうした不作為も含めて、ミスや失敗は数限りあった。これら全て嘆く以外の何物でまなく、まさしく過ぎ去った水、に他ならなかった。

ポルトガル語の諺 ㊱

世の中はうまくできている、と私などは常々思う。
一概には言えないが、例えば、病人であれ、貧乏な人であれ、身体の不具合な人であれ、不細工な醜い人であれ、誰でもその人にぴったりの、相応しい相手がいるからだ。
日本の諺に「破れ鍋に綴じ蓋」(A tampa tampada para a panela quebrada)があるが、まさしく上述のことを物語っているように思われる。
この諺に該当するポルトガル語のそれは、“ Há sempre um chinela velho para um pé doen- te”(病んでいる片足には古いスリッパがいつもある)かもしれない。

ポルトガル語の諺 ㊲

これまで私は、手に入れるか、達成できるか分からないのに、あれこれ計画したり思案したものである。
こうした計画や夢、憧れを抱く志向なり姿勢は、姓に凝りず今も続いている。大金を当てにして、高額に及ぶ宝くじを買うことなどはその典型。
「取らぬ狸の皮算用」なる日本の諺は、ポルトガル語で言えば “Contar com a pele do texugo que ainda não apanhou”[まだ捕らえていない狸の皮を当てにする]や“ Contar com o ovo no cu da galinha” [雌鶏の穴にある玉子を当てにする]の諺だろう。
自らの経験上大体言えることは、欲張って期待し過ぎているほど期待外れ(deixar a de-sejar)になるケースが少なくない。
欲に目がくらむと(ficar cego de cobiça [ambição])やはり、ダメのようだ。